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其ノ六 喧哄之章

 賭け事、それは僕が特に嫌いなことの一つ

 一番嫌いなのはパワハラだけど、多分その次くらいには嫌いだと思う

 その理由は何だったか、今じゃもう思い出せない。そんなに大事なことでもないだろ


 とはいえ、嫌いなことには変わりない

 そんな僕が今、命運を賭けている。これからの人生を左右する賭けだろう

 男の警官から逃げる為には邪魔をしなくちゃいけない。不可抗力だ

 そう考えてる内に脆そうな囲いを掴んだ


 思いっ切り引っ張ってみる。取れない

 ならば今度はと捻ってみる。少し軋む音がして捻れたけど、取れるまでは行かない

 このままじゃ、捕まると、即座に焦りが心を満たしてくる

 これだから賭けは嫌だったんだ!


「冗談かよ、そんなん取れるわけないだろ」


 男の警官がケタケタと笑う。少しだけイラッとするけど、課長の下卑た笑いよりかはマシだ

 とはいえ、男の警官の言ってることは的を得ているかも知れない

 違ったとしても、今は気にする余裕はない


 右手は上手に握り、左手は下に握る

 それを逆の方向に捻り、引っ張り、更には齧ったりもする

 あと一息で取れそうだが、それ以前に追いつかれる

 男の警官との距離は100メートルにも縮まった


 続けていると、囲いが少し動いた。取れそうな予感がする

 しかし、男の警官は50メートルにも届きそうだ

 今の内に逃げた方が良いかも知れないけど、止めておく。これ以外に何も策なんてないから


「詰みィィィィいいいい!!!!」


 どこかタガが外れてる奇声を上げて男の警官が近づいてくる

 この人は大丈夫な警官だと思ってたけど……駄目な部類だったか

 呆れ半分だけど、結構ヤバい状況だ。足を掴まれるまで、数秒と言った所……


「クッソ!あとちょっとで!」


 あと少し、少しで取れるんだけど……あいつが……!

 残り10メートル。心拍が信じられない程早く感じる

 囲いがギシギシと金切り音を立てて鉄粉が落ちる


「ジ!エーンドッッッッツツツツ!!!!」


 警官の手が足を掴む寸前の時、大きく囲いが動いた

 しかしそれは、取れるまでは行かずに終わる

 バキッと音がした時、同時に男の警官の手が僕の足を掴む


 終わった

 もう、逃げられない。ここまで行くともう、駄目だ

 僕の力は弱い。特に運動をすることもなかったし、する時間もなかったから

 そんな僕では、毎日肉体労働をして、技術もある警官に勝てる訳がない

 勝てないんだ……


「………う…に……?」

「アァ、なんっつた?」

「本……うに……。本当に……そうか……?」


 見るからに不健康そうな体躯

 僕と同じ位ではないか

 そしてこの高低差、結構有利な筈……

 喉を鳴らして、可能性を考えてみる


「いける……」


 思わず声が漏れた。そしてその時には体が動いていた

 足を振ってまずは掴まれている所を振り払おうとする

 が、努力も虚しくそれが叶う前に男の警官が僕を引き寄せる

 すると、僕はバランスを崩してもう片方の足も梯子から落としてしまいそうになる


「落ちろぉぉぉぉおおおお!!!!ううぅぅラァァァァアアアア」


 本格的に不味い

 男の警官はタガが外れた、血走った眼でギリギリと僕の足を握りしめ、更に登ってくる

 それに伴って僕にも力が入る。握っている囲いからも軋んだような音が聞こえる

 このままでは捕まってしまう、

 そう考えるが、何も出来ない。精々掴まれている足を振り回すだけ


 男の警官は僕を完全に間合に入れて、引きずり降ろそうとしている

 もはや抵抗など虚しい

 ついこの間までこき使われていた僕の体は想像以上にひ弱で、男の警官の細い体にも負けるような力しか出なかった


 悔しいとは思わなかった

 男の警官に感心して、それ以上にその身体がとても美味しそうに見えた

 その身体を抉って、血を啜りたい

 齧りついて、ニクを引き裂きたい

 あの時、課長のニクを前にした時と同じ感じだ


 気付けば口の端から唾が垂れていた

 顔を歪ませ、恍惚とした表情になる

 その時に引っ掻き傷が開き、痛みが走るが、全くもって気にならない

 ポタポタと紅い血が垂れる


 男の警官はそれを見て悦ぶような、しかし忌み嫌うような、矛盾した顔になる


「お前もやっぱり“悪”なのか……!

 だったら滅そう、お前はいちゃいけない。法の名の下ッ!俺が消し飛ばす……!」


 男の警官はもう食材にしか見えない

 早く喰べたい

 理性もなくなりそうな喰欲

 気付いたら僕は男の警官に襲いかかっていた

 その時の勢いで囲いも取れて、良い凶器が手に入った……喜ばしい


「自分から来るとは、殊勝なこったなぁぁアア!!」


 男の警官が叫び、酷く歪んだ嗤いを見せる

 次の瞬間には鮮血が宙を舞っていた

 落ちる時の勢いを使って囲いを男の警官の左肩に刺した


「いい匂いだなぁ……」

「気ッッ色わりいなァ、オイ!」


 芳醇な香りだ……

 色も僕好みの色……


 その内に男の警官が耐えきれず落下する

 ドガドガと轟音を立てながら男の警官が落ちて行く

 囲いで体を支えながら落ちていたので、それ程速さは出なかった


 その時に男の警官の血が僕の頬に付着する

 頬に付いたことで香りが鼻の奥まで届いた

 その血は僕の引っ掻き傷の血と混じり合い、少し香りはなくなるが、それでも香ばしい香り。欲望を爆発させるには充分すぎた


 視界には男の警官しか見えない

 目を離せなかった


 その時に、男の警官の落下が止まった

 一番下まで落ち切ったのだ

 速度はそれ程なかったので、怪我などはない筈だが、衝撃は相当だった

 僕に伝わってきたぶんだけで、だ

 直接それを受けている男の警官は相当な苦痛だろう


「痛ッツ!!」


 やかましい、うるさい

 この声は男の警官の声だろうか……大人しくして欲しいものだ

 少し嫌な気分になったが、それも直に欲望に呑み込まれていく

 あの課長を喰った時と同じ、だった。我慢は出来ない

 目の先にあるのは血の滴った肩ニク

 一思いに、喰べてやろう……


「寄るな!害虫がァァァァツツツツ!!!!」


 男の警官が叫びながら殴りかかる

 見事に僕の顔面を捉えたそのパンチは、男の警官の体の上から僕をどかすだけの威力があった

 ものの数瞬で差を開かれて、更に僕はよろめく


 流石だ。いい

 これでこそ食事のしがいがあるというもの……

 更に男の警官が欲しくなって来た


 奪う

 奪おう

 全身からニクを引き千切って頬張るんだ

 いいな、そのためには――攻める


 我武者羅に突っ込む

 もう作戦なんてない。ただの力任せの突進だ

 それはやはり脆くて、弱い

 足をかけられて顔から転けた


「ふざけてんのか……?アァ!?」


 転けたさきで頭を足蹴にされる

 何度も、何度も、鼻血で小さな水溜りが出来てもやめない

 地面と顔面がぶつかり、頭がチカチカする……

 痛い。痛いけど、そんなものは気にならない


 訂正しておくが、痛いのがいいのではない。男の警官の手腕に感心しているのだ

 感心して、それを征服したいと、喰らいたいと、

 そう思うだけで何も気にならないのだ


 ただ、気にならないのは体の強さに直結しない

 このまま気絶する……

 そうしたら僕は男の警官を喰べられない


 嫌だ

 嫌だ!

 あのニクを喰べるのは僕だ

 絶対に逃がさない。絶対に喰われない

 喰べるのは、 “僕” だ


 足蹴にしていた男の警官の足を掴む


「めんどくせーな、雑魚が」


 男の警官の舌打ちとともに足が再び振り上げられる

 僕の掴んでいた足が、だ

 簡単に振り払われた。しかし諦めない


 再度、足を掴む

 即座に振り払われる

 そのとき、指の骨が折れたような気配がしたが


 再度、足を掴む

 振り払われる

 掴む

 振り払われる

 掴む

 振り払われる

 掴む

 振り払われ——……






 何度か同じことをしていた

 体は満身創痍で、意地だけで掴んでいるようなもの


 対して男の警官は左肩に重症を負っているものの、全然動ける範囲内だ

 顔を顰めて、僕を蹴りつけてくる


「うぜぇ。いい加減抵抗すんな」

「低、坑……?」


 僕は抵抗しているのか……


「抵抗じゃない。僕は貴方が欲しいから必死に……」

「何言ってやがんだ!?」


 また蹴られる


「僕は、貴方を喰べたい。勿論貴方は嫌がる。だから僕は貴方を捕まえておかないといけない」

「コレが『捕まえる』とでも?」


 男の警官の足を掴もうもした手をグリグリと地面に押し付けられる


「そのつもり、なんだ

 でも僕じゃ貴方を捕まえれない……

 でも喰べたい!喰べたいんだよ、どうしようもないぐらい、抑えきれないんだ

 捕まえれない。僕じゃ、捕まえれない

 ねえ、お願いしますから、一口、一口だけでも……喰べさせてくださいよ……!」


「ハッ、思った通り。お前も“悪”だ……

 なんでこんなにも世の中には“悪”が蔓延ってるんだろうな

 いくら粛清しても、粛清しても、その数は減らない。寧ろ増えてる

 お前も“悪”なんだろ!じゃあお前の望みは叶えられねえなッ!」


 男の警官が僕の手を強く蹴りつける

 バキバキと音を立てても、気にせずに


「残念です……」


 1つ、引っかかったことがある


「貴方は悪とやらを嫌っているのなら、どうしてそんなにも……。嬉しそうなんですか?笑っているのですか?」

「は……?笑っている……。俺がか?」


 男の警官は自分の顔をペタペタと触っていた

 その間にも、口角はどんどん上がっていく


 ああ、そうか

 この男も僕と同じだ

 その目的が『人喰』と『粛清』で違うというだけで


 男の警官は取り乱していた

 でも、これは慣れているとまでは言えないけど、前にも同じようなことを言われたのかもしれないな


「笑ってる、笑ってんのか?楽しんでる……?有り得ねー

 楽しんでなんかいない、だがな、喜んではいるよ。手前みたいな “悪”を滅ぼせるからな!!

 手前の言う通り俺は“悪”が嫌いだ!この世で一番な!!だから“悪”を滅ぼす時にニヤつくのはしょうがねぇ事なんだよ!!」

「僕には、今の貴方のことが、悪にしか見えな——」


「殺すぞ……」


 冷酷な声だった

 地獄の窯が開くのを幻視するような声。残念ながら僕は幻視しなかったけど


 果たして、その怒りは隙であった

 怒りは人を弱くする。喧嘩はあまりやった事がないが、何となく分かった

 隙だらけだ 


 まず足。引っかけるだけで直ぐに体勢を崩す

 更には横腹。いくらでも殴れそうだし、噛みつけれる

 まだある。首筋。頭部。金的。手首。鳩尾

 そして左肩


 僕は迷わず左肩を狙って噛み付いた

 左肩はさっき鉄棒を刺したことで、血がダバダバと漏れている

 有効だからそこを攻撃するのか?

 違う

 他の所を狙った方が圧倒的に確実だ


 じゃあ何故

 決まっている

 僕が喰べたいからだ

 今からニクを引き裂くよりも、傷口を啜る方が早い


 噛みつくこうとすると、いとも簡単に噛みつけた

 反応はするが、遅すぎる

 そして足取りもちぐはぐだ

 怒りだけでここまでなるものなのか……。気にする所ではないか


 口に含んだ血液が僕の脳内を刺激する

 幸せだ

 芳醇な風味。滑らかな舌触り。鉄の味

 そしてこの征服感……

 たまらないっ


 頭がチカチカする

 時間も、ゆっくりに感じる

 もっと、欲しい

 そう思ったのも束の間


「“悪”がッ!ウゼェ!!」


 殴られた

 しかし飛ばされない

 男の警官は怒りに支配されているが、かといって殴る力が弱くなる訳じゃ無い

 僕が耐えたのだ

 右肩と左脇をガッチリと掴み、離さない


「離せッ!!」

「離さないし、まだ……足りない」


 口にすると同時、強く噛む

 血が、ニクが、香りが、僕の中に入り込む

 至福

 筆舌に尽くしがたいこの感覚……!

 イイ……。もっと、もっと欲しい


「離れろッ!!」


 殴られる

 痛くはない。この感覚に全てを集中させる

 もう何も考えれない……ボーっとして、視界が霞む

 意識が離れていく……


 まだ、消えれない

 もっと、もっと欲しい

 もっと、もっと、もっと、もっと、もっと!!


 強く、強く噛みしめる

 バキバキと音がして、また1段と味に深みが増す


「死ね!離れろ!クソがッ!!死ね!死ね!死ね!死ね!!」


 殴られる。どつかれる。蹴られる

 力が抜けてくる

 しかし捕まえる手は離さない。逃してなるものか


「てめぇは何だ!?ガキを甚振る“悪”か!人から物を奪う“悪”か!?理不尽を振り回す“悪”かッッ!?

 答えろッ!!クズは地べた這いつくばって生きることすら出来ねーのかよ!?アァ!?

 恭順し、勤勉に働き、社会の枠組みに収まる!簡単だろうが!それで手前等はなんだ!?歯車の一つか!?それとも落ちこぼれるか!?どれでもない、手前等らは“悪”だ!この世の害虫だ。他人を陥れることでしか生きられない……いいや、陥れることが好きな連中だ。そうすることで快樂をえるんだ!他人の苦痛を見てな!!

 てめぇもそうだろ!!そんな“悪”の一人だ!答えろッ!!」


 霞がかかったように辺りが見えない

 ただ、この快樂に身を任せる

 このままずっと、ずっと……


 声が響いた

 悲痛な声。欲している声

 悪に染まりきれない声……


 声は、僕に問いていた

 お前は悪か、悪ならどんな悪だ?

 悪は歯車になれないのか

 悪はいちゃいけないのか……


「貴方は……歪だ、口では悪を忌み嫌っているが、その実悪自体は嫌ってない。貴方が本当に嫌っているのは、貴方自身だ」

「だとしたら……」

「僕が救ってあげよう」


 肩の傷口から口を離す

 解った

 この男は騙されやす過ぎる


 馬鹿だ

 救う、という一言にここまで揺れ動いている


「この世界から悪を滅してから、貴方の悪も滅ぼしてやる」

「んなこと言う奴ら、何人もいた」

「そう……目を見て」


 男の警官の言葉を無視し、顔を掴み、僕の顔に至近距離で近づける


「僕は嘘をつかない。僕は嘘と、賭けと、理不尽が嫌いだ」


 嘘が嫌いなのは嘘だ

 しかし、この男はこの手の誘いに弱い……

 きっと、手を取ってくれる


 辺りが真っ白になる


「信じて……良いのか……?」

「ああ、僕は貴方が欲しいか、ら」


 男の警官の騙されやすい顔を見ながら、僕は倒れた――

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