其ノ四 爪痕之章
時刻は夕方過ぎ。東京の郊外までは行かないものの、都市部の隅ら辺の4階建のタワーの前に立っている
僕は、退職届を出すために務めていた会社の前に立っている
もう帰ろうか、という考えはない
これはケジメなのだ
課長と、この会社と、僕の、繋がりを断つ最後のケジメ
罪悪感が湧く
課長を殺した時は何も感じなかったのに。あの時は気分が高揚していたというのもあるだろうが、他の要因が強い
僕のトラウマはこの会社にあるんだ。この会社にいる限り、僕は……
少し憂鬱になったが、大丈夫、もう辞めるんだ。もう課長は居ない。居ない
僕が課長を殺した。もう何も怖がる必要は無いんだ
理不尽な先輩も、よく訳も分からず絡んでくる奴らも、未だこの地獄から解放されてない社畜も。全部関係ない
これから、僕が関係を断つ
「帰ろう……」
これは僕の声じゃ無い
少し前の僕と似たような声……疲れ切った声
でも、活き活きとしている。単純に疲労で疲れたってだけだろう
僕もこの会社に入って数日はまだそんなだった気がする
少し気になって目を向けると、そこには見知らぬ人
まだ若い。就活に来てブラックを目の当たりにしたんだろう
僕もあれくらい思い切りが良かったらな……
すると、青年がこちらにも気付き、目が合う
青年は今までの疲労を吹き飛ばすように顔が驚きで満ちる
ワイシャツを崩して駆け寄ってくる。距離は十何メートル程なのですぐにこちらに着く
「……大丈夫ですか?」
青年が話かけてきた
気付けば、僕は会社のあるタワーの入口で蹲っていた
そんなに心が弱いつもりは……なかったのだが。無意識で蹲るとか、相当おかしい
「大、丈夫です。すみません」
「……? それなら良かったです。そうだ、ここに中年位のおじさん来ませんでした? 見てたんだったらどこに行ったか分かりますか?」
青年は僕が顔を上げると一瞬驚いたような、不思議がるような顔をする。多分あの引っ掻き傷のせいだろう
でも、倫理観があまりないのだろうか……すぐにカラッとした表情に戻る。僕だったら言い訳をして逃げるだろう、もしくは怯えるか……
まあ、それはいい。この青年は人探しに来たのだろうか?
そうだとしたらこんな所に来るのは誰が来るのだろう。まだ仕事から帰る時間じゃない筈。仕事じゃない可能性も全然あるけど
そういえばこのタワーの僕のいた会社以外の階って何があったか?
確か1階には何かの事務所があった気がする。2階は僕の会社だし、3〜4階は何があったかすら覚えてない
「そうですか。お時間取りました。それではまたどこかで」
「はい、また……」
青年は立ち行こうとしてからふと、足を止める
そして振り返り、また寄り添うように話し始める
「何かありましたか?どうせなら家まで送って行きましょうか?」
会社の前で蹲っていたからだろう
青年は心配の面持ちで語り掛けてきた
「大丈夫です。まだここに用事があるので」
見かたによってはこの人はお節介なのかもしれない。でも少なくとも僕は良い人だ。と感じた
本当に良い人だ、喰べてしまいたいくらい
「本当に大丈夫ですか?顔色悪いですよ。ここの課長に親しい人ですか?」
課長!!
何で今そいつが出てくる!?
親しい人?そんな訳無いだろ。何で突然……?
「ああ、すみません。デリカシーなさ過ぎでしたね。ほんと、すみません」
無意識に酷い顔になってしまっていた
これは課長への怒りから来るもので、決してこの人が悪い訳じゃない
悪いのは課長で、僕だ……………少し落ち着いた。謝ろう
「いえ、こちらこそすみません。親切にしてくれたのに……僕は大丈夫ですので、それでは」
「はい……あの、辛かったらここに連絡くださいね」
青年はそう言って徐に名刺を取り出した
【警視庁、機動捜査隊、第四機動隊、那倉平羅】そう、書かれていた
「那倉……さん」
「はい、もう、大丈夫そうですね。私の先輩の言葉ですが、面倒ならば後回しでいい、って言葉がありますから、何か今からやろうとしているのなら、また今度でもいいんじゃないですか?」
なんというか、伯父さんのようなことを言う人だ
そういえば伯父さんも機動捜査隊だったか
もしかしたらこの人は叔父さんの後輩かしれない。だとしたらどうということは無いけど
「それは、駄目な人ですね」
「……そう、ですね」
「それじゃあ、今度こそ」
「ええ、また」
今度こそ、本当に那倉さんと別れた
いつの間にかあの気持ちは薄れていた。とはいえ、完全に消えた訳ではないけど
那倉さんには沢山感謝をしないといけない
もう、大丈夫だ。行こう
僕は、課長がいて、厄介な上司がいて、まだ社畜だった僕がいて……
そう、Nさんの言う通りだ僕は苛められて、会社の為に死ぬまで働く。自主的にとは行かなくとも僕は、社畜だった
上司の言いなりになって、課長の言いなりになって。死ぬまで働かなきゃってなってた
寝る間も惜しんで仕事して、仕事して、たまに【バトルアース】して
多分【バトルアース】が無かったら今頃生きてないと思う
今はもう自殺してたと思う
そんな過去を与えたこの場所に、足を踏み入れる。生半可な事じゃない
でも、今僕には皆んながいてくれたから。入れる
Nさんに加瀬さん、それに今会ったばっかりだけど那倉さんも
それに、トラウマの根本である課長を喰ったから。征服したから。それが大きいだろう
あの経験は僕の糧になったと断言出来る。あの出来事があったからこそ、僕はここに立っていられる
ああ、感慨深いな、まだ課長を喰ってから一週間位しか経ってない筈なのにな
薄汚れたドアを開けて入口に入った
二年間、慣れ、忌み嫌ったタワーの入口
でも、違うところがあった
しかし、人通りが少ない。この時間は社畜とされた人間意外、帰る間際の時間だ
何故、そんな時間に来たのか? 理由は一つ、嫌がらせだ。しょうもない、子供のやるような嫌がらせ
しかし、それよりも気になることがあった
そこは、僕の勤めていた会社の仕事場のあった場所だった
そこには警察がいた。警察がいて、何かを調べていた
何故だろうと思ったのも束の間。警察に捉まった……捉まったと言っても物騒な意味ではなく、会話に捉まったというか、何というか……なんかちょっと前のデジャブな気がする
「君、こんな所に何をしに来たのかな?」
突然話しかけられて体をビクつかせてしまった。声のした方向を見るとまず爛々とした目が目立った
女性の警察官。25歳かそこら辺だろう
童顔……では無く。ではないが童顔よりの、活発系な顔にポニーテール
若干髪を染めてて少しだけ茶色い
それにこの人、凄く子供に話しかけるような喋り方な気がするけど、警察は大体こんなような喋り方な気がするから、良しとしよう
「ここに退職届を出しに来たのですが……何かあったのですか?」
「退職届……ね。ここでなんか襲撃事件? みたいなのがあったんんだけど、それとここにいた課長の行方不明の時期が重なってね。それでなんか問題がおっきくなって、今に至る」
課長が行方不明……ああ、そうか。そうだ、何故僕は気付かなかったのだろう?完全に抜けていた
当たり前の事だった。那倉さんが課長の事を話題に出したのもこれが原因だろう
だが、ここで正直に話すことはないだろう。とぼけておこう
「知りませんでした。そうですか、課長が……」
「でも、ここの会社の人達はこき使われてたらしいからね。いい思い出無いんじゃない?」
「ええ、まあ」
傍から見ればそうだったのだ
なんで、気付かなかったのだろう。
渦中の中にいる人は気付きにくいとか言うけど……正にその通りだ
「じゃあ、退職届って、どこに出せば良いんですか?」
「そうだね、うーん……ごめん、覚えてないや」
なんだ?この人……いい加減すぎるって
こんなに適当でいいのかな?職務怠慢じゃ……
考えても仕方ないかな。でも、こんな事してて叱られないのかな?
今考えれば叔父さんは110番するなって言ってたし……警察って結構不真面目な人ばっかりなのか
国家を守る公務員がこんなのでいいのか
「どうしたの?」
「いえ、なんでも。それじゃあ、貴方の上司に取り次いでくれませんか?そしたら分かると思うのですが……?」
少し苛ついた。帰ったら景気づけに飲むかな
【バトルアース】をやりながら飲もうか。あー、でも加瀬さんに悪影響出るかな? 普通にやけ喰いだけにしておこう
そんなことを考えながら、ジト目で見返す
見返すとこの人は背を向けてニヤついた。何をしているのだろうか
もしかしたら、この人以外も駄目人間かもしれない
那倉さんはまだ良かったけど、あれも化けの皮な気がして来た
人間不信に陥りそう……
すると突然、女が勢いよく振り返り輝かんばかりの瞳で敬礼をする
その時に驚いてしまった僕は肩をビクつかせたけど……気にしないでください
「わっかりました! この私が責任を持ってお送りするから、心配しないでね」
何故か不安な感じしかしない
まあ、頑張ってくれるならいい事だ。素直に付き従おう
付き合うといっても、少しここで待ってるだけだろうが
◇◆◇◆◇
なぜ僕はここにいるのだろうか
さっきの警官に、もう少しこっちに来てやら、後ちょっとでつくから、などと言われて来てしまった
まあ、途中で何も言わなかった僕も悪いのだろう
「星宮さあ、なんでここに一般人を連れ込むかな?」
「ふっふふ、私をなめちゃだめだよ。この人はなんと、ここの社員さんなのだ!」
「社員でも駄目だわ! ここ事件現場だぞ! 舌出すな! 舌を!」
どうやらさっきの女の警官は星宮というらしい
というか、やはり来ては行けない場所だったのか
何やら申し訳ないことをしてしまった
「あの、外で待ってますね。できれば退職届の出し方を教えてほしいのですが……」
「あーはい、待っててください」
ということで僕は部屋を出て行った
◇◆◇◆◇
「で、あいつはどうなんだ」
「知らない」
「成程。いかれててると」
「知らないって言ってるじゃん知らないって!」
「お前の行動は不自然すぎるんだよ。いきなり連れてくるとか普通はあり得ない。普通は」
牧瀬堂満
それが私の前に立ってる男の名前
そして今は探ぐりを入れられている所
いや~、それにしてもさっきの人は良かった
ヤバイ匂いがプンプンする。刑務所でこんな人に出会えるなんて、感謝感激感涙感覚……感覚?
で、今の状況なんだけど
「一応職質してみるか。それで怪しい所があったら即留置所に送り込もう」
「や、私はやめといた方が良いと思うな~。うん。なんかね、悪い予感がするんだよ。そう、それはもうすっごい、すっごく悪い予感だよ!」
「成程、すごく狂ってると」
「ちっがうわい!」
「なぁ、このままあいつ庇ってたらお前、これから先警官として活動できなくて狂人とも会えなくなるぞ。そこまでする価値があいつにはあんのか?」
「うぅむ……いやぁまあ」
あると言えばあるけど
でもこれから先、この感覚が得られなくなるんだとしたら
「うぅ……」
「じゃあ俺は行くぞ。怪しとこが無かったら大丈夫だからさ」
そう言った彼は右手に手錠を持っていた