其ノ十二 昔々之章
六年前
あるマンションにて――
「ふざっけんなよあのハゲが!」
「痛っ」
おとおさんがおかあさんを殴る音が聞こえる
いつから、いつからだろう
おとおさんがおかあさんに暴力をするのが当たり前になったのは……
「ぐすっ」
「お前れんてめえ何泣いてんだよ!」
おとうさんが手を上げてボクに近づいてくる
なんだかよく分かんない感情が押しよせてきて、怖くて、ぎゅっと目をつむる
◇◆◇◆◇
「麗子、昨日はすまなかった」
次の日、おとおさんがおかあさんに謝ってる
ペコペコ頭を下げてる
「だ、大丈夫よ。ちょっと痛かったけどね。もう、お酒はやめて頂戴よ」
「ああ、絶対に」
何回目にもなることば
お酒って、そんなにいいものなのかな
おかあさんよりも、ボクよりも
◇◆◇◆◇
「あーあー負けた! 負けたよあのクソ馬がよ!」
「ま、待って!」
今日も、おとおさんがおかあさんを殴る音が聞こえる
いつも通り、いつも通りのふうけい
◇◆◇◆◇
「すまなかった」
「いいのよ。しょうがないわね」
次の日、おとおさんがおかあさんに謝る
いつも通り、いつも通りの光景
◇◆◇◆◇
「れん! なんだこの80点って!」
「ご、ごめんな、さい」
「おどおどすんじゃねぇ!」
おとおさんに叩かれる
痛い。怖い。頭のなかがまっしろだ
◇◆◇◆◇
「篠崎裕太さん、篠崎麗子さん。あなた方に虐待の容疑がかかっています。お話を聞かせてもらえますか」
ある日、黒いふくを着た男のひとが家にやってきて、おとおさんとおかあさんに何かを聞いていた
そしたらおとおさんは顔をくしゃくしゃにして泣いて、黒いふくの人に謝っていた
「わざとじゃぁ、ないんですぅ。ぐずっ、酒を飲んだら、感情がたがっぶっでぇ……。何にも覚えでないんでずうぅ」
「あなた、大丈夫よ。れんくんも分かってくれるわ」
「れいこおぉ」
「虐待していた事実を認めるということでいいんですね」
「はい、申じわげ、ありませんでしだぁ、ずびっ」
「今回は警告で終わりますが、次はありませんよ」
「はいぃ」
◇◆◇◆◇
「おいれん! 目ぇ合わせろや!」
「ごめんなさい」
「泣いてんじゃねぇよ!」
また、殴られた
あざができたらまた先生に心配されちゃう
◇◆◇◆◇
「ねぇ、おかあさんは何でおとおさんと結婚したの?」
「それは、好きだからじゃないかしら。ワタクシは裕太さんのことが、好き、なのよ」
おかあさんは歯切れ悪くしていった
微妙なかお。本当とも、噓ともわからない
「でも、そうね。今は少し、少しだけ、怖い……かしらね」
「おとおさんが?」
「ううん。なんでもないわ」
◇◆◇◆◇
「柴崎裕太、お前を暴行の容疑で拘束する」
また黒い服の人が来た
今度はおとおさんにてじょうをかけて連れて行ってしまう
そうしたらおとおさんは泣き出して、ごめんなさい、ごめんなさいと謝る
「前回は警告でしたが、今回は留置をさせてもらいます。あなたの罪が晴れるか、確定するまで解放はされないつもりでいてください」
「はい、ずびばぜんでじだ」
「ちょっと待ってください! あの子の、れんの気持ちはどうなるんですか!?」
黒い服の人はこっちをむいて、手招きをする
こっちに来な、少しいいかいと手招きをする
「なぁに?」
「れんくん、れんくんはお父さんとずっと一緒にいたいかい? 何か、ひどいことをされてはいないかい?」
「れん! 済まなかった! 父さんが悪かったから、許してくれ……」
「れん! おとおさんがいなくなってもいいの? 貴方はおとおさんが好きじゃないの!?」
皆顔をボクに近づけてくる
そんなことをされたら、ボクは困ってしまう。困って、何もわからなくなって
あたまのなかが真っ白になって……
「う、うぁ、ああぁぁぁぁぁ! うあああぁぁぁぁぁぁ」
◇◆◇◆◇
「れんあんた! あんたのせいよ! あんたのせいで、裕太さんが……」
「ごめんなさい」
おとおさんが倒れたとでんわが入ったのはそのすぐ後だった
ボクのせいだ。ボクのせいでおとおさんが倒れたんだ
どうしよう、おとおさんが死んじゃう
死んじゃったら、死んじゃうから、どうしよう
「大丈夫だよ麗子。俺が酒飲みすぎたせいだし」
「あなた……でも駄目よ。あなたがいなかったら私」
おとおさんは強がってるけど、きっともう駄目なんだ
だってあんなにやさしいおとおさん見たことないもん
最後にボク達を心配させないように優しくしてるんだ
「おとおさん。死んじゃ、やあぁ」
「れんまで、こんなんじゃ死なないって。ごめん麗子、少し出ててくれるか?」
「ええ、もちろんよ。すぐに行くわ」
「……さて、麗子も行ったし、お前には色々と悪いことしちまったな」
「ううん。ボクは全然気にしてないよ」
「俺も酷いことするつもりはなかったんだよ。でもな、酒飲んだら本当に何にも分からなくなってな、いつの間にか手が出てたんだ。本当、ごめんな。許してくれなんて厚かましいことは言わないただ、もし許してくれるなら」
「ゆるしてくれるなら?」
「少し、少しだけでいい。酒を、飲ませてくれ」
ボクはすぐにお店に行った
◇◆◇◆◇
「おとおさん! お酒買ってきたよ!」
「おお、よく買ってこれたな!」
「おとおさんが飲むためって言ったらかわせてくれたよ!」
「そうかそうか」
おとおさんが満面の笑みで笑う
今ボクすごく幸せだ
おとおさんとこんな風に喋れて、幸せだ
こんなこと初めてだ
こんなにおとおさんと話せて、笑いあえたの初めてだ
まだちょっと怖いけど、それでもこれからおとおさんと幸せになるんだ
でも、おとおさんは死んじゃうんだ
ボクのせいで死んじゃうんだ
いやだ。せっかく仲良くなれたのに、おとおさんは死んじゃうんだ
「ぷっはー! これこれ、この味だよ! れん、よくやった!」
「うん……」
「どうした、そんなにしょぼくれて……ちょっとこっち来い」
これが最後の会話かもしれない
もう会えないんだ
さよならなんだ
「れん、お前」
—―パシツッッ
「なにしょぼくれてんだ! 俺が楽しく飲んでんだろ!」
おとおさんに胸倉をつかまれて殴られる
何度も、何度も
「なんだよ! 言いたいことあんならさっさと言えよ!」
ああ、いつものおとおさんだ
「お前ふざけんなよ! せっかくの楽しいムードをぶち壊しやがって!」
そうだ、げんそうだったんだ
「あぁあぁ苛ついてきたなァ! てめぇのせいだぞてめぇの!」
おとおさんがあんなに優しいはずがないんだ
「前から色々うざかったんだよてめぇ! なにボクなんてぶりっ子してんだ!」
これが現実なんだ
「お前本当に俺の息子かぁ!? もっとしっかりしろよこの愚図が!」
こんなの、もう
「くそ野郎が! 返事しろよ! なんのためにいんだよお前! 無価値じゃねぇかお前なんか!」
もう、いやだ
「うぐつっっ」
—―ピッ、ピッ、ピッ、ピッ
「裕太さん!?」
「君、どいてなさい!」
白い服の人たちがおとおさんに駆け寄っていく
おとおさんは口から何かを出していて、ふつうじゃないことは分かる
もう、このまま死んじゃうのかな
「お酒!? なんでこんなものが!」
――ピッ
「呼吸停止! 人工呼吸器を取り付けます!」
――ピッ
「まだアルコールは回りきっていないはずだ! 血管を切るぞ!」
――ピッ
「先生! 夫は、夫は大丈夫なんですか!?」
――ピッ
「ナースコール! 輸血だ! 急げ!」
――ピッ
「もういい、血管切断!」
――ピッ
「血が足りません!」
――ピッ
「先生! 夫に何を!!」
――ピッ
――ピイイィィィィィィィィィィィ
白い服の人がおとおさんの目を開く
「15時23分、ご臨終です」
◇◆◇◆◇
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
ボクのせいだボクのせいでおとおさんが死んじゃったんだ
「れん、あんたのせいよ」
ボクのせいだ
「あんたのせいで裕太さんが死んだのよ……。どうしてくれるのよ、どうすんのよこれ! あんたが酒を買ってきたせいで裕太さん死んじゃったのよ! あの人、きっとワタクシを恨んでるわ。ほら、聞こえる? あの人、ワタクシの耳元で許さない、許さないって叫んでるわ」
ボクにも聞こえる
まるで今もそこにいるかのように鮮明に聞こえる
すさまじい怨嗟のこえ
死人だけが出せる、この世ならざる者の声
「ごめんなさい、ごめんなさい、許して、おとおさん……」
「あんたなんか、あんたなんか、死んでしまえばいいのよ……。ごめんなさいね。少し取り乱していたわ。ごめんなさい、愛しているわ、れんちゃん」
◇◆◇◆◇
「れんちゃん! すごいわよ! あの人、十四億円もお金をもってたのよ!」
「お金……?」
おとおさんのお金
ある会社の社長だったおとおさんのお金
おとおさんの、お金
「おかあさん、勝手におとおさんのをとっちゃっていいの? おとおさん、俺のだって、使うなって、言ってるよ?」
「なぁに言ってるの? そんなわけ……、ええ、そうね、そうよ。あの人のものを勝手に使うなんて、あってはダメなことなんだわ」
◇◆◇◆◇
「れぇんちゃん! どう? これ、いけてるかしら!?」
「おかあさん! またおとおさんのお金勝手に使ったの!? ダメだよ、怒られるよ、殺されちゃうよ」
「大丈夫よ、あの人も、許してくれるわ、きっとね」
うそだ
今もおとおさんは許さないって言ってる
こっちにこいって言ってる
お前も死ねって言ってる
「ああ、あぁ、ごめんなさい、ごめんなさいあなた! つい、つい手を出しちゃったの! わざとじゃないのよ! 本当よ! 許して、許して……」
◇◆◇◆◇
「これ、ホントにおいしいわね!」
「ダメだよおかあさん! おとおさん殺してやるって言ってるよ!」
「なんでよ。そんなのワタクシの勝手でしょ? ワタクシのお金をどう使おうが、ワタクシの勝手ざます! お金だけが、ワタクシのモノなんざます!」
と、突然おかあさんが頭を抱えて泣き出す
ぶるぶる震えて、おびえて、泣く
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。許して、もう、ワタクシに付きまとわないで……」
◇◆◇◆◇
「れんちゃん、れんちゃんが欲しいって言ってたお絵描きセット、買ってきたざます」
「ボクそんなの欲しいなんて言ってないよ!」
おかあさんはすごい笑って、ボクに絵の具をおしつけてくる
おかあさんはおかしくなっちゃったんだ
おかあさんはおとおさんのことを忘れてるんだ
「あなたが、あなたがあの人の残してくれたモノなのよ。あなたに幸せになってくれれば、あの人はワタクシを許してくれるのよ!」
◇◆◇◆◇
今日は小学校の入学式だ
皆笑って、楽しそうにしてる
「れんちゃん! 楽しそうにするザマス!」
「わ、わーい、小学校だぁ……うれしいなぁ……」
楽しくない
怖い
おかあさんが怖い
ボクを愛してないんだ
ただ、おとおさんに許して貰うだけのどうぐなんだ
おとおさんが怖い
ずっとずっと恨んでくる
もう、ボクはこれからおとおさんから逃げられないんだ
「キャー! 猫、猫が死んでる!」
だれかの悲鳴がしたかと思えば、人だかりができていた
みんなその中心にあるものを見て怯えてる
子供はとくに怯えていて、泣いてる子もいる
その中心にいたのは猫だった
ただの猫じゃない
猫の死体だった
まだ原型がのこっていて、お腹がぺしゃんこになって中からほとんど黒に近い、けれども赤の混じった何かが出てきていた
その何かはミミズみたいに飛び出していて、なんだか腐った食べ物も出ていた
めは開いていて、焦点はボクの方を向いているように感じられた
黒目の中のもっと黒いところをいっぱいに開いて、まるで吸い込まれるような感じになった
白かった白目はだんだん濁って黄色になっていって、しわしわになっていって、死が進んでいた
でも、ボクにはそれが怖くない
皆が怖がっているそれが、まったく怖くない
むしろ、安心すらする
……そうか、そうだったんだ
ボクはあの時死んでたんだ
あの時、おとおさんが死んだ時、おとおさんに殺されたんだ
だからおとおさんに声が聞こえるんだ
だから猫の死体に安心するんだ
ああ、やっと分かった
ボクは死んでるんだ
……じゃあ、なんでボクはこの世にいるんだろう
何か、そこに意味はあるんだろうか
何か、ボクにしかできないことが
「おかあさん、ボク、人を助けるよ。ボク、死んじゃってるから、でもあの世に行けないから、そんなボクだから、人を助けられるんだ。ボクがこの世にいる理由はそれなんだ」
「れんちゃん……突然どうしちゃったザマス?」
◇◆◇◆◇
『ギャー! ゾンビ、ゾンビがでたぞー!』
『くそ、この拠点もだめかッ!』
「れんちゃんは本当にゾンビ映画が好きザマスねぇ」
「これを見てると、落ち着くんだ」
◇◆◇◆◇
学校の帰り、お墓に来ていた
「今日も学校つかれたよ。でも、これからまた習い事あるんだよね。でも、それもすぐに辞めちゃうんだろうけど。お母さんも悪気があるわけじゃないと思うんだけどね。でも、すぐ辞めなきゃいけないのは嫌だなぁ」
こうして皆とお話しをするのが最近の日課だ
皆の声はあんまり聞こえないけど、それでもそこにいるって分かってる
お父さんは相変わらず、ずっといる
これから、ボクがあっちに行くまで、いや、言ってもずっと付いてくるだろう
でも、今は、皆がいるから平気だ
でも、ちょっとだけ怖いや




