其ノ一 辛精之章
「あのさぁ、これ前にも言ったよね?どうしてこうなっちゃうかなぁ?」
「……はい、すみません」
ねちっこく話す小太りの中年である課長に頭を下げる中年のような青年がいた。僕である
その目は隈に侵されていて、頬は痩せこけている
魂の抜けたような顔をしてただ謝るだけの人物、そう自分の事を評している。この自分は
「返事だけはいいよ? 返事だけは、ね?」
「はい」
またも僕は頭を下げる
殊勝なものである、とは誰も思わなかった
辺りには僕以外にも同じような環境に身を置く者、健康的な形相の者
誰も何も物を言う者はいない、まるで当たり前かのように振る舞っている
「辞めないでよぉ~? 三年は三年は続けないと人生詰みだから詰み」
「……はい」
入社当初からずっと言われ続けていることだ
この言葉の重圧に幾度となく押し潰されそうになったことか、分かったものではない
あと一年、一年耐えればこの会社から抜けれるのだとずっと、ずっと考えてきた
「もういいよ、帰った帰った」
そう言って払うように手を振る中年、この男はここの会社の課長であり、僕の上司である
なので逆らえない、三年以内にクビになれば次の機会など巡ってこないのだから
そのまま僕は狭くもなく広くもないオフィスを一望し、自身の席を探す
席はすぐに見つかった
周りと比べて机の上に積まれた書類の数が違う
少ないのではなく多いのだ
周りを見渡しても僕の机に積まれた書類が一番量が多いように思える
考えても仕方ないので歩みを進める
そしてそのまま書類の山を片付けようとしたその時
「あー、ごっめん。お前、これもお願いね。昼休み終わるまでで」
そう言ってただでさえ大きく積み重なっていた書類の山に新たに書類を積むのはチャラそうな茶髪に着崩したスーツ、僕より数年早くにこの仕事に就いた先輩である
先輩ということは上司でもあり、逆らえない人である
だがこれはいくら何でも無理がある
昼休みまではあと二時間、昼休みが終わるまでも視野に入れても二時間四十分
今渡された書類だけならなんともなるが他にも膨大な書類がある
先程叱られていた理由も期限に間に合わなかったのが理由である
「すみません、それは流石に……」
「あ? 何、俺に逆らうの?」
「い、いえ。ですがこれは」
話を聞かない上司には逆らえない
だからと言ってこの書類を請け負えばまた叱られ、続けばクビにさせられるかも知れない
「やはり無理です、僕にはこんな量はすぐに捌き切れません」
「チッ、ねぇねぇねぇねぇ!お前は何!? お前はここの社員なの、社員は上司の指示にハイハイ言って従ってればいいの! 分かった?」
「ですが……ッ」
理不尽な上司の言葉に言葉を詰ませる
そこに上司の手が僕の顎に触れる、僕よりも何センチも高い上司の顔の近くに頭を引き寄せられる
そして上司は腐った目で言う、
「お前は俺に従えばいいの」
そう言い捨てて上司は僕の頭を弾くように放す
その勢いで蹈鞴を踏みそうになるが堪える
その間に上司は後ろを向いて歩き出してしまう
(クソが)
ボソッとした声で鬱憤を吐くのは僕
当たり前だ、僕だって人間なんだ、こんな畜生みたいな扱いを耐えられる筈が無い
あと一年、一年でこの地獄から
でもそんな事は考えても仕方がない、この積りに積もった書類の山を片付けなければならない
僕は微かに溜息を吐きつつも期限の一番近い先程渡された書類に手をつける
◇◆◇◆◇
「終わった……」
そう呟くのは僕である
周りには誰も居らず、だらんと椅子の背凭れに背もたれ、座板と後脚の間に手を通す
疲れた、明日もこれか……
もう十二時は越したか、早く帰って癒やされたい
もう少し休んだら行くか
なんだって僕ばっかり仕事しなきゃいけないんだよ。あいつらも先に帰りやがって
……今日も、断れなかった。でも一回は言えた「これは流石に」って言えた
それだけで上々だよ、このまま頑張ればいつかは断れる
無理かな。いやできるだろう
いつかあいつらを見返してやる
そしてあいつらは言うんだ。ごめんなさいって。ハハハハハハハハ
そのまま時計の長い針が四分の一程進む
「そろそろ行こう」
そうして僕は帰路に着く
◇◆◇◆◇
徒歩5分で駅に着き、二十分揺られて東京を少し抜ける、そうしたら千葉に着く
その時に仮眠をする、これは毎日の事である
駅を降りたら自転車で一時間半、立地はいい
バックの中には鍵はなく、いつもポストの中に置いてある。
今日も鬱憤を押さえ込み、中央に備え付けられたエレベーターに乗り込むと二階に着く
僕はそそくさと玄関を跨ぎ、物のあまりない自室へと入り込む
自室にはベッドとテレビと雑多に置かれた色々な物、そこに不自然なまでに大きなパソコンの画面が光る。パソコンは一人暮らしをする時に学生時代から貯めたお金を使って買った結構高いパソコンだ
右手にはキッチッン、元から置かれた器具に冷蔵庫、電子レンジと食器棚、その他諸々の必要最低限の用具のみが置かれた空間である
その空間の中で唯一趣味趣向のために置かれたパソコンの画面には【バトルアース】と書かれたゲームのタイトルが爛々と輝いている
【バトルアース】とは僕がハマっているFPSゲームである
僕は足早にスーツを脱ぎ、後始末も早々にパソコンに食らいつく、がその時に腹の虫が鳴る
冷蔵庫の中にコンビニ弁当があった筈だ、それを食べよう
冷蔵庫の中には案の定、コンビニ弁当があった
それを電子レンジで温めてパソコンの前に箸と共に持ってくる
僕はコンビニ弁当を食べながら【バトルアース】を起動する
「ああ、もう皆んな集まってるね」
皆んなとは【バトルアース】内でのフレンドのことで、僕の心の拠り所である友達だ
ぶつくさと独り言を言ってから、皆のいるパーテに入る
「すみません、遅れてしまいました」
――あっ、来ましたね
ボイスチャット、そう呼ばれる機能を使い会話をする
口に付いて出たのは謝罪だった、とはいえこちらは会社での謝罪とは違い、正当な謝罪であり、気負うことは無い
十一時半から集まろう、という約束を違えてしまったためだ。仕事が重なって遅れたのだが、皆んなは快く許してくれると思う
――いえいえ、大丈夫ですよ。何かあったんですか?
案の定、大丈夫と言ってくれたのは女性の声だった
いつもならここでこちらも少し用事が重なって、と言う所だけど、今日は少し疲れた。というかストレスが溜まり過ぎた
僕は、話を聞いて貰おうと思った
「聞いてくれますか? Nさん」
Nさんとは【バトルアース】の中のフレンドの名前で僕とは一番古く知り合った友人であり、バトルロワイアルでは珍しい女性だ。名前の由来は苗字の頭文字をとって【N】
安直だ
「実はまた上司に仕事を押し付けられましてね、ずっと残業でしたよ」
――それは、災難でしたね。大丈夫ですか? 無理強いされたらちゃんと断らないといけませんよ? ……もし、脅されてるんだとしたら苛めじゃないんですか……?
少しだけ早とちりが混じっていたが、真剣に考えてくれた証拠だろう
僕は、少し気弱くそんなことはないと否定をしていた
昼休みの後もずっと机に向かってた、何度も嘲られていた
少し、考えたことがある。これは本当に必要なのか?
答えは分からない、分からないのだ
人生には仕事がいる、それは金が必要だから。それしか理由はないと思う
でもそれは凄く重要なことだ、だから辞められない、でもバイトする方が楽なんじゃ
そんなことをずっと、ずっと考えていた
――大丈夫ですか?
その声はNさんの女性の声とは違う少し低いけど大人のそれとは違う
【加瀬1106】という一応年齢不詳の少年――声から察して――
【バトルアース】には子供のプレイヤーが多いが、加瀬さんは昼間からプレイしている所を見るに不登校らしい
勿論、声が子供っぽいというだけかもしれないが
「はい、あと一年で退社しますから。……大丈夫です」
少しだけ愚痴っただけだけど、それだけでこんなに真摯になって向き合ってくれる
期待し過ぎなのかも知れないけど、家族にもこんな様にして欲しかった
――あまり無理はしないで下さいね? あなたいないと俺たちも困るんですから!
加瀬さんの言葉がヘットホンから響いた
――そうですよ! 加瀬さんの言う通りです!三年も頑張って何になるんですか!
「三年頑張らないとこの世界では生き残れないって言ってまして………」
――そんなもの嘘ですよ! それはブラック企業の常套句ですって!
――そういう企業は大抵苛烈なノルマ着せて社員をこき使うんです! 鬼畜の言うことなんて聞かなくていいですよ! ……あなたは最高の人間なのですからね
Nさんの言葉には確かな重みがあった
最高の人間、か
本当に、噓なのか? …………もし噓だったろ僕は今まで何のために働いてたんだ?
こんなのって……
それでもNさんと加瀬さんの言葉を疑うことはなかった
その後のゲームプレイには身が入らなかった、原因は分かっているでも分かっているからと言って何とか出来るものじゃない
落ち着かない体を湯船に浸からせてから自室で寝た