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空の青さを感じるまでに

作者: かかと

 目を開ける。視界は良好でよく見えている。その視界というのはわずかな間で変わってしまった。自分の中の何かが変わったことで何もかもが一変する。かなり重たい体を無理やり起こし、窓から外を見てみる。…、外の景色が凄く綺麗だ。本当に眩しいくらい。人が行きかう姿を確認しながら、服に手を伸ばす。手がかすかに振動している。震え。何に対する震えだろうか。自分、未来、過去、それとも他人…?本当に怖いのは病気だ。心療内科での診断は簡単だった。うつ病。その文字は見たことある、そしてよく話題になる病気。まさか、自分がかかるとは思わなかった。かかると元には戻らないという話を読んだことがある。まさにその通りだ。


 私は一カ月前という過去に何かを置いてきてしまった。おそらく、このうつ病は私に何かを警告してきた。まだ頑張れる、まだ頑張れると無理した結果である。すでにスマホの着信は百件を超えている。…、電話をくれる人がいるだけまだマシかもしれない。ただ、そのスマホを持つ力も開く力も、そして、その勇気さえ、すべて置いてきた。医者は言った。


「徐々に治していきましょう。」


 医者が言うほど世の中はそんなに甘くない。すべてにおいて減点主義の日本で病気を罹患しているだけで後ろ指をさされるような世界だ。そのような世界で病気と向き合いながら生きるのは初心者がアルプスを登るようなものだ。登ったことはないのだけど…。それだけ、自分の中で経験がなく、治すということ以外にわかっていることがないのだから。今は手の震えで収まっているが、過呼吸などの発作が起きることもある。気が抜けない。気が抜けないとうまく寝ることができない。寝ることができないと体調が悪くなる。悪循環だ。腕を通すことはできる。ボタンをかけることが難しい。手が震えて。一カ月前には簡単にできたことなのに。やっとボタンを占め終えたころには疲労が溜まっている。少しベッドへ横になった。


「守、体は大丈夫?」


 ドア越しに親の声が聞こえる。すでに体がおかしくなって一カ月。会社での処置もそろそろ限界だろう。そう簡単に一カ月も休むことを容認してくれるとは思えない。何とか、階段を下りてリビングへ向かう。机の上には七錠もの薬の束がある。これを見るたびにげんなりする。効能や副作用に関しては十分に説明を受けている。自分に必要な薬だというのも理解している。この薬を飲んでいること自体が恥ずかしく思えてくる。だって、私が普通じゃないということを薬が示しているのだから。


「会社は行けそう?」

「明日は無理しても行かないと。」


 明日で今まで溜まっていた有給がすべて消化される。普通は一カ月休むというのは異常だが、病気や手術で休む人は多くいる。そこまでおかしいことではない。錠剤を出すのも一苦労だ。


「そんな状態で会社に行ける?」

「そういう問題じゃないんだ。行けない状態であることを伝えるために行くんだ。」

「それは産業医の仕事じゃないの?」


 確かにそうだが、産業医の先生はあてにしていない。私の産業医の先生は会社から雇われ。委託ではない。だから、会社に有利なことを言うことも考えられる。だから、行って報告する必要がある。


「あんまり無理してもいいことにはならないよ。」

「でも、ここにいても何もよくならないでしょ。」

「そうだけど。」


 少し冷たくなったご飯を食べる。正直、あまり味がしない。それでも無理やり体の中に押し込める。徐々に体が重くなっていくが、気にせずに入れていく。吐くことはないのだから、体は欲している。ただ、気分が追い付いていない。それだけ。最後の一口を食べたときにこういわれる。


「食欲はあるのよね。」


 わかっていないなと思う。



 起きると朝から体が重い。…、起きてみると頭も痛い。ふらふらとしながら熱を測ってみる。平熱か。最近はそんなもの。体調が悪いのは確かだが、数値で出るような体調の悪さではない。今日は体調がよくない。カッターシャツに腕を通す。ボタンを少しずつはめていく。胃から何かが襲ってくるような気がしてトイレに駆け込む。昨日、食べたものを吐く。少し生き吸い込んでまた吐いた。そうすると少し落ち着いた。もう吐くものがないからだろう。少し手を洗い洗面台でうがいをした。大丈夫、もう全部吐いたから。

 パンツをはきながらベルトをとる。長く会社に行っていないから感覚が麻痺しているのだろうか。すると、また気分が悪くなる。トイレに駆け込んでまた吐いた。全部吐いたから大丈夫と思ったのだが、胃液まで吐いてしまった。胃液を吐くとその胃液でまた気分が悪くなる。再度、トイレに吐いた。それを二・三回繰り返すとようやく落ち着く。おなかをさする。何も音がしない。これで大丈夫か。すでに時間はそれなりに少ない。早く起きたけど、体調が悪すぎて時間が経ったようだ。ネクタイは…、またあとでいい。でも、これが冬じゃなくてよかった。冬だったら着ているもの多いため吐瀉物が服につくことも考えられる。朝ごはんは食べない。


 一カ月ぶりの外だ。太陽がまぶしい。そして、地面があったかい。外ってこんな感じだったか。何か遠い世界にでも来た気分だ。わずかに足が地面に着いていない気がする。おそらく平衡感覚がおかしいということなのだろう。どこに行っても原因はどうせわからない。駅までの徒歩十分の距離がやけに長く感じる。これでは毎日会社に通うのは難しい。駅に着いた時にはすでに汗だくになっている。ハンカチで拭きながら改札を通る。いろんな人がいる中で人混みがいるのが難しい。少し後ろに下がる。


 電車が来ると突然、心臓が苦しくなる。発作だ。駅の椅子に腰かける。目をつぶって呼吸を整える。過呼吸ではない。息が乱れただけ。そして、精神的なものだ。どうしてこんなになってしまったかな。電車は五分後にまた来る。次は乗ることができるか。…、ここまで会社に行くだけで辛いと思うとは。自販機で水を買う。水を飲むが慌てたせいか、首筋を通り、インナーに入っていく。水が少し入って気持ち悪い。呼吸が整った頃にまた、電車が来る。気が付けば人もたくさんいた。心臓が跳ね上がるように甲高い音を上げる。少し後ろに下がった。


 やっぱり乗れなかった。少し落ち込むと同時に胃の痛みが治まる。…、泣きそうだ。情けなくて。少し列車のホームへ近づく。今は別に何もなっていないし、調子も悪くない。今は黄色線の内側を歩く。ここから飛び降りることができれば楽なんだろうな。何も考えなくてすむ。死後の世界がどんな感じかわからないけど、今よりは苦労が少ないのではないかと思う。いきなり力強く後ろに引っ張られた。


「足利守さんですね。」


 男は黒い眼鏡をかけている中年の男性だ。顔のわりに体は絞られている。


「舞いつき製薬の産業医、吉田です。」


 産業医の先生とは思わなかった。


「あなたから今日、出勤するという話は聞いておりませんでしたが、どうしたのですか?」

「いえ、昨日で有給休暇が終わったので。」

「それで会社に行こうとしたわけですか。」


 彼は駅員を止めた。


「彼は私が預かります。たまたまですが、彼の産業医なので。」

「その、本当に大丈夫ですか?」

「医者がいて大丈夫でなければ彼は死にます。」


 その通りだと思う。


「では、会社に行きましょう。」

「え、でも私は電車に乗れませんでした。」

「タクシーで行きます。」

「いや、さすがに。」

「早くいきますよ。」


 彼は袋を手渡した。


「念のため持っておきなさい。」


 彼は改札を出て外でタクシーを止める。


「浅草までお願いします。」

「お客さん、道が混んでいるけど大丈夫かい?」

「大丈夫です。」


 少し心臓がドキドキしている。


「足利君、心配いりません。私がいますから。」

「…はい。」


 そういったものの心配はかなりある。体調がよくない以上は…。彼は全く何もしゃべらなかった。ただ、黙々と仕事をしているようだ。少し緊張しながらSNSを開ける。今日もみんな頑張っているみたいだ。このSNSには心を悪くした多くの人が投稿を寄せている。この投稿を見ていつも一人じゃないと思わせてくれる。同時に自分の投稿にもフォローをしてくれている。


「よい表情をしていますね。」

「え?」

「今、体の調子はどうですか?」


 確かにどこも痛くない。


「すぐには良くなりません。当たり前です。今までの疲れが出ているのですから。心療内科との先生とやり取りもしています。だから、安心してください。」

「はい。」

「あなたは今日、会社に行くことができている。そして、スマホで相談できる人たちを見つけた。それでいいんです。何もかも一気にできません。」


 彼の言葉はなぜか腹に落ちていく。


 会社に着くと彼はすぐに内線で電話を掛けた。小声で何をしゃべっているか全くわからない。電話を置くとそのまま彼は私のほうへ向いた。


「少し待っててもらえますか?」

「はい。」


 彼は階段を使ってどこかに行く。彼はすぐに戻ってきた。


「じゃあ、行きましょうか。」


 彼についていき部屋に入った。


「ここで待っていてください。」


 少しして彼は戻ってきた。


「では始めましょうか。」

「え?」

「カウンセリングですよ。あなたは重度の精神疾患ではありません。」


 あまりの展開に頭がついていかない。


「これから一年間私が担当します。もちろん、心療内科にも通ってもらいますけど、カウンセリングは私が担当します。足利くんは今、手が震えていますか?」


 震えていない。


「いえ。」

「では、無事会社に来ることができましたね。一カ月前とは進歩しています。」


 その後もカウンセリングは続いた。


「これでカウンセリングは終わります。とりあえず、三十分ほどやっていきます。週に三回、あなたの家の近くの喫茶店などで。慣れてきたら、会社でやりましょう。今日は送っていきます。」

「いえいえ、そんな。」

「すみませんね。規則なんです。流石に病人をそのまま帰してはいけませんので。では、帰りましょうか。」


 こうして、私のカウンセリング生活が始まった。





 十か月後。


「足利君、この資料は大丈夫かい?」

「ええ、こちらに。」

「いつも早いな、ありがと。」


 服の袖には錠剤がある。発作が起きたときに飲む薬だ。


「以前はすまなかったな。資料が上手にできるから君に頼むことが多かった。徐々にうちの課でもやっているから。また、今度、暇なときに担当へレクチャーを頼む。」

「はい。休みをいただいてすみません。」

「何言ってんだ?足利君が帰ってこなかったら、先方が頭を抱えたままだったぞ。よくやってくれていたから彼らも楽できていたのだから。あ、これな。ガーデン商事からの差し入れな。復帰祝いだって。少し高級だけど、もらっとけ。お返しはいいから。」

「…はい。」

「復帰してくれてありがとう。また、頼むな。」


 少し席を外して屋上で空気を吸う。


 今日も空が青い。



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