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そばにいられるだけで

作者: ゆり

 金曜日。定時ちょうどに仕事を終えると急いで着替えをし、いつも通り三人横並びで化粧を直す。


「今日のお店すごい人気で予約半年待ちらしいですよ。よく予約取れましたね、さすがハイスぺは違うなぁ。」


 私の一つ下の後輩、三星(みつぼし)美樹(みき)のゆるく巻かれた髪がハイスぺという言葉でふわっと弾んだ。

 コンサバファッションに身を包みナチュラルメイクにゆっくりとした話口調。

 彼女の小柄な身体には、男性受け要素がこれでもかというくらいに詰め込まれている。


「幹事の田鍋さんのお友達のお店なんだって。今日はかなり期待できると思うよ、相手もお店も。」


 そう言うと、西山(にしやま)(みどり)は二日酔い防止ドリンクを一気に飲み干した。




 毎週金曜日はこの三人で飲み会という名の合コンか相席バーに行くのが決まりとなっていた。

 今日の飲み会相手は葛城製薬のMRらしい。

 葛城製薬は業界最王手の製薬会社で、医療従事者の私たちはもちろん子どもたちからの認知度も高い。


 ポップで覚えやすく中毒性のあるCMソングが話題となり、SNSに動画を投稿する人が続出するというちょっとしたブームになっていたからだ。

 3歳くらいの男の子が「カチュラギセーヤク」とカメラに向かって笑うご機嫌な姿を微笑ましく思った記憶が蘇る。


 顔が広い翠が毎週飲み会相手を見つけてくるのだが、今日は今までで一番のハイスペック男子ということで二人は特に気合が入っている様子だ。



「翠先輩はその田鍋さんと何繋がりなんですか?」


 一日の疲れで元気を無くした前髪と格闘しながら、ふとした疑問を投げかけた。


「一個上のバスケ部の先輩が大学のときに入ってたサークルの先輩だって。この間友達と居酒屋行ったら、先輩と蓮がたまたま隣の席で飲んでてさ。その時に紹介してもらったんだよね。」



 翠は高校時代バスケ部のマネージャーをしていた。


 以前ランチに行ったイタリアンレストランの店長が翠の同級生、日比野(ひびの)(れん)だった。

 蓮はバスケ部のキャプテンで高校時代二人は仲が良かったらしい。



「そういえば、蓮がまた来てねってサービス券くれたよ。宣伝も兼ねて持ち歩いてるんだって。マメだよね、あいつ。」


 そういって、『デザートサービス』と書かれた紙切れをひらひらさせた。


「もしかして二人が抜け駆けしたイタリアンのお店ですかぁ?」


 美樹は不貞腐れ顔で私と翠を交互に見た。


「そうそう。ってか、抜け駆けって言い方。美樹が勝手にインフルになっただけでしょ。」


「翠さんひど~い。私だって、なりたくてなったわけじゃないのにぃ。」



 翠はサバサバした性格で思ったことははっきり言うタイプだ。

 綺麗な見た目も相まって傍から見たらキツイ言い方に聞こえるかもしれないが、そこにはちゃんと愛があることを私も美樹も分かっている。


「じゃあ今度は三人で行きましょう。美樹ちゃん今度はインフルエンザにならないでね。」と片目をつぶって冗談めかして言った。


「ちょっとぉ、佑海(ゆみ)さんまで。今度は抜け駆け禁止ですからねぇ。」


「はいはい。あ、時間やばいかも。そろそろ行かなきゃ。」


 翠の合図で私たちは慌てて片付けをし、急いで店に向かった。





「あのお店かも。」


 携帯とお店を見比べながら歩いていると、スーツ姿の男性がこちらに向かって手を挙げた。

 18時50分。開始十分前に店に到着した。


「お店すぐ分かった?大通りから一本入るから分かりにくかったでしょ。」


 店の外で待っていてくれた田鍋(たなべ)健作(けんさく)とともに店内に入る。


「先生のおかげで迷わず来れました。」


 地図アプリを田鍋に向けて翠はニコっと微笑んだ。

 毎度のことながら同性の私でも翠の営業スマイルには魅了される。


 飲み会をする度に必ず男性から食事の誘いを受けるのも納得だ。

 しかし食事の先に進めた人は私が知る限りでは一人もいない。



 案内された個室に入ると田鍋の同僚、西(にし)忠文(ただふみ)がひとり待っていた。


「こんばんは。」


 笑顔を見せる西は田鍋に負けず劣らず整った顔立ちをしていた。

 しかも座っている姿からでもかなりの高身長だと分かる。


 二人並んで歩いていたらその場にいる女性たちの視線は彼らが独占するに違いない。

 それでいて大手製薬会社勤務だなんて東京中、いや日本中の女性が放っておかないだろう。


 確か翠の二つ年上だから、田鍋たちは30歳だ。

 このスペックならすでに結婚していてもおかしくない。

 結婚していなかったとしても、彼女の一人や二人いておかしくないレベルだ。


 彼女と別れたばっかりなのか、それとも仕事が忙しくて恋愛どころじゃなかったのか、なんてことを考えていると美樹と翠が着席しようとしていた。


 私は慌てて二人に続き椅子を手前にひいた。

 並び順はいつも決まって奥から美樹、翠、私の順だ。


 田鍋は翠の向かいに座ると、


「あと一人後輩が来るんだけど仕事で少し遅れそうだから先に飲み物注文しよっか。」と言って美味しそうなドリンクの写真が並んだページをこちら側に向けた。




 19時05分。注文したドリンクは揃ったが個室にいるのは五人のままだ。

 田鍋の携帯に「あと二十分くらいで着きます。」と連絡が入ったようなので先に始めることにした。


 グラス同士で挨拶を済ませた後、アルコールを胃袋の中に流し入れる。


 飲み会の相手が誰であろうと仕事終わりのお酒は美味しい。

 今日はイケメンハイスペックの相乗効果でより美味しく感じる。


「翠ちゃんは和樹の後輩なんだよね?」


 ビールグラスを机に置くと同時に田鍋の口が開いた。


「はい。同じ高校でこの間偶然居酒屋でお会いしたんです。お酒飲んでたからかすごくテンション高かったですよ。」


 その時の様子を思い出したのか、ふふっと素の笑顔を見せた。


 和樹とは田鍋達のサークルの後輩であり、翠の高校の先輩であり、この飲み会開催の仲人でもある人物なのだと田鍋が解説した。


「サークル懐かしいな。翠ちゃんは高校の時マネやってたんだっけ?」


 西はすでに中身が半分になったグラスを口元に運んだ。


「はい、マネージャーやってました。カズキ先輩は一個上の代でキャプテンやってましたよ。」


「あいつキャプテンだったんだ。俺、知らなかったな。ところで三人は同じ職場なの?」


 西は私、美樹の順に視線を向けた。

 どうやら蚊帳の外の私たちを気遣って話題を変えてくれたようだ。


「はい。私たち健診専門のクリニックで働いてるんですぅ。」


 美樹は本日最初の上目遣いを披露した。


「クリニックってことは看護師さん?」


 田鍋の声が先程までのトーンより少しだけ上がった。

 今までの経験上、男性は看護師という職業にテンションが上がるようだ。

 田鍋でさえも例外ではないようだ。


「はい。三人とも看護師です。佑海は高校時代の後輩でもあるんですよ。」


「ねっ。」と翠は営業スマイルのままこちらに顔を向けたので思わずドキッとした。


「そうなんだ。じゃあ、佑海ちゃんも和樹知ってるの?」


 田鍋の視線が手元のメニューからこちらに向いた。田鍋のグラスはいつの間にか空になっていた。


「いえ。私が一年の時に翠先輩が三年生だったので、和樹さんとはかぶってないです。」


「カズキ先輩、卒業後も結構部活見に来てくれてたんですけど佑海はそもそもバレー部で部活違ったんで知らないと思います。」


「そうなんだ。佑海ちゃんバレエやってたんだね。開脚でベターってやれる感じ?やっぱり身体柔らかいの?」


 田鍋の顔には大きく「いじられ待ち」と書かれていた。

 何十回と経験してきたこのやりとりにお決まりの返しを決行する。


「バレーってバレーボールですよ?」


「ああ、ボールの方ね。てっきり踊る方かと思っちゃったよ。」といかにも満足げな顔をした。


「お前、わざとらしすぎるだろ。」という西のツッコミで部屋中が笑いに包まれた。




 毎週恒例になっているとはいえなかなか飲み会の雰囲気が好きになれなかった。

 特に、ザ・合コンみたいな「順番に自己紹介しよう」みたいな流れは苦手だった。


 大したことが言えない人間が当たり障りのないことを発表するほどつまらない時間はない。

 面倒見のいい翠はいつも私を助けてくれるのだがそれでも気疲れしてしまうのには変わりがない。


 だから田鍋や西のように会話から自然と情報を引き出してくれる相手だと本当に助かる。

 二人のおかげで場の雰囲気もいい感じに和んでいた。




 19時30分。「すみません。遅くなりました。」

 扉が開いたと同時に私の瞳孔も開いた。


 人間が震驚した瞬間というのは身体はもちろん声帯を動かす筋肉でさえ硬直し、声を出すことができないのだ。


「お疲れ。急なアポ大変だったな。」と田鍋が遅れてきた男を労った。



 なんで。なんで。なんで。



「手術が早く終わって時間ができたとかで急に呼び出しくらっちゃって。いや~、参りましたよ。」


「忙しい先生あるあるだな。お疲れ。」


 西もきっと同じ経験をしたことがあるのだろう。男の苦労がよく分かるようだ。



 どうして。どうして。どうして。



 この男が部屋に入ってきてから私の頭の中は「なんで」と「どうして」で大渋滞していた。





「はじめまして。遅くなってすみません。鮫島(さめじま)康介(こうすけ)と言います。」


 そう言うと、一つだけ空いていた私の目の前の椅子に腰かけた。

 私が知っているはずの彼が私の知らない名を名乗ったことに混乱が増す。


「全然大丈夫ですよぉ。お仕事お疲れ様ですぅ。」


 美樹が発した言葉がまるで合図だったかのように、タイミングよくビールが一つ運ばれてきた。


「じゃあ全員揃ったことだし、もう一回乾杯しますか!」


 本日二度目の乾杯。いつもより美味しく感じたはずのジンジャーハイボールに味はなかった。





 鮫島康介。東京都出身の29歳。学生時代はずっとサッカーをしていたという。


 一重で細い目元。すらっとした体型。顎にある黒子。


 視覚からの情報はすべて私の記憶の中の彼と一致しているのに、彼が話すパーソナルデータと流暢な標準語がただただ違和感でしかなかった。



 お酒が進み会話も一段と盛り上がっていた。もちろん私を除いては。


 鮫島がサッカー部だったことからサッカー日本代表の話題となっていた。

 私は熱弁する目の前の男を見ながらサッカーボールよりバスケットボールの方が似合うのにと思った。


 そんなことを考えていたせいで無意識に視線を送りすぎていたようだ。

 男と目が合うと恥ずかしそうにこちらに微笑みかけてきた。


 何だか少し気まずくなった私は「お手洗い行ってきます。」と告げて席を立った。




 トイレのドアを閉めると笑顔の仮面が床に剥がれ落ちた。

 心ここに在らずの状態を悟られぬよう無理くり仮面を付けてみたものの、ただ疲れが増しただけだった。


 いろいろと考えすぎたせいで私の脳は悲鳴を上げていた。

 それでもなお働くことをやめようとしない。自分でもコントロール不能だ。


 あの男は一体何者なのだろう。

 この世の中にあれだけそっくりな人間が存在するのだろうか。


 ドッペルゲンガー?

 生き別れた双子の兄弟?


 仮説を立てては否定する。この無限な作業を繰り返していたせいで思ったより時間が経ってしまっていたようだ。


 ドアがリズムよく三回叩かれ思わず我に返る。

 酒が提供される飲食店のトイレを占領することは時に迷惑行為の上位にランク付けされる。


 待っていた女性に頭を下げ慌てて外に出た。そのまま斜め向かいに整列した椅子に体重を預ける。

 あの部屋にすぐに戻る気にはなれなかった。



「あの、大丈夫ですか?」


 突然声を掛けられ思わず体がビクッとなる。


「あ、はい。大丈夫です。今日は仕事が忙しくて疲れたせいかお酒の回りが早いみたいです。」


 自分の口からスラスラ言葉が出てきたことに驚いた。


「体調が優れない時って酔いが回りやすいですよね。お水飲みます?」


 男の手には水の入ったコップが握られていた。


「ありがとうございます。」


 コップを私に手渡すと隣の椅子に腰かけた。



「部屋で話してたときから何か体調悪そうだったしなかなか戻ってこられないので心配しました。もしかしたら、ただ単に僕の話がつまらなかったのかなとも思ったんですけど。」


 男は後者の可能性を高く見積もったのかどこか悲しそうな表情を浮かべた。


「いえ、そんなことないですよ。」


 自分が思っていたよりずっと大きな声で否定した。


「つまらなかったとしても言えないですよね。気を遣わせてしまってすみません。」


「いや、本当につまらなくないです。本当です。」


 先程までとは打って変わってどこか楽しそうな表情をしている。

 まるで自分の思った通りの反応をした私を面白がるみたいに。


「ちょっと、私で遊んでません?」


「ケッシテ、ソノヨウナコトハ、ゴザイマセン。」


 いかにもわざとらしい言い方と繕った真顔が何だか可笑しくて私は思わず笑ってしまった。

 それを見て男も笑った。




 懐かしくて心地良いこの感じ。またこんな風に彼と話せる日が来るなんて思わなかったなと嬉しくもあり隣で笑う男が岡田ではないことに悲しくもなる。


「鮫島さんってずっとサッカーやってたんですか?」


「うん。小学生のころからサッカー一筋。」


「そうなんですね。背が高いからバスケやってそうって思いました。」


「それよく言われる。バスケ好き?」


 男はいつの間にか敬語で話すのをやめていた。


「自分じゃ上手くできないんですけど見るのは好きです。」


「じゃあ始めちゃおっかな。」と言ってゴール目掛けてシュートを放つ真似をした。


 そこにぎこちなさは感じなかった。





 21時30分。男性陣から受けた二軒目の誘いを美樹が了承する前に翠が断った。

 美樹の顔には「行・き・た・い」の四文字が書かれていたが口に出すことはなかった。


 翠が正反対の性格の美樹を可愛がるのはちゃんと空気が読めるからなのだと思う。


 私たち三人はお礼を言った後、田鍋が止めてくれたタクシーに乗り込んだ。タクシーが50メートルほど進んだところで振っていた手を降ろして美樹が言った。



「あー楽しかったなぁ。気になった人いましたぁ?」


「私は特にいいと思う人いなかったかな。」


 翠は今日もいつもと同じセリフを口にした。


「え~。今日は三人とも結構いい感じだったじゃないですかぁ。」という美樹の言葉に翠が被せ気味に言った。


「美樹は田鍋さん狙いでしょ。」


「あ、バレました?でも田鍋さんは翠さん狙いだと思うんですよねぇ。」


 美樹は、分かりやすくしゅんとした。


「そんなことないと思うけど。」


「自分のことはなかなか気づかないものですよぉ。」


 翠のフォローも虚しく美樹のテンションはさらに降下した。


「でも、私は田鍋さんのこと何とも思ってないし美樹のこと応援するよ!」


「本当ですかぁ?」


 待ってましたと言わんばかりの勢いだ。


「本当、本当。」


「その言葉聞いて安心しましたぁ。翠さんも田鍋さん狙いだったらどうしようかと思ってたんですぅ。」


 美樹のテンションは再び上昇しあっという間に先程と同等までに回復した。


「その辺の女ならともかく翠さん相手じゃさすがに叶わないですもん。よ~し、頑張るぞっ。」


 決意表明の如く、小さな手で拳を作りそれを顔辺りの高さに挙げた。

 男受け要素が詰まった美樹でさえ翠が相手になると尻込みしてしまうのだろう。恐るべしである。



「でも、あれ以上の優良物件なかなか見つからないですよぉ。せっかくこんなに美人なのに勿体ないですよぉ。」


 テンションの上がった勢いで余計なことまで口にした。結婚願望が強くそのことを普段から公言していた美樹に悪気はなかったのだろうが。


「一緒にいたいと思える相手が見つからないなら一生独身でもいいや。結婚という形のために相手を探すのってなんか違うと思うんだよね、私は。」


「私は翠さんみたいに強くは生きられないですぅ。」


「ん~、これって強いとか弱いとかの問題ではないと思うんだよね。相手の嫌な部分が見えたとき好きでもない相手とそのまま一緒にいられる?私だったら即行で別れると思うんだよね。だって一緒にいる努力する気になれないもん。そもそもそんな相手と一緒にいて楽しいと思えなくない?」



 普段冷静でサバサバした翠らしからぬ発言だった。



 確かに翠の言いたいことも分かる。しかし好きという気持ちだけではずっと一緒にいられる理由にはならない。

 先日ネットニュースか何かでマッチングアプリで知り合った相手と結婚した人の離婚率は低いという調査結果を目にした。


 結婚に一番必要なのは好きという気持ちではなく、条件と冷静さなのかもしれない。



 このまま続けても交わることのない会話を同意という形で美樹が終わらせた。


「確かにそうですね。ところで佑海さんは鮫島さん狙いですよねぇ?」


「え、そんなことないよ。」


 美樹が前触れなく投げてきたボールを慌てて返す。


「いやいや、バレバレですよぉ。鮫島さんも佑海さんのこと気になってる感じでしたし、すごくお似合いだと思いますよ、お二人。」


 返事に困っていると運転席から助け船が出された。どうやら美樹の家に到着したようだ。


「今日はお疲れ様でした。おやすみなさぁい。」


 美樹は後ろ髪を引かれることなくすんなりタクシーを降りていった。

 翠が運転手に次の行き先を告げるとそのまま私に話かけてきた。




「大丈夫?体調悪い?」


「いえ、大丈夫です。なんか今日疲れてたみたいでお酒回っちゃいました。」


 鮫島を騙した嘘が翠にも通用するとは思っていなかったが、他の言い訳を考えるほどの力は残されていなかった。


「そっか。今日忙しかったもんね。」


 翠はこれ以上私を疲弊させないように同調した。

 田鍋たちからの誘いを断ったのはおそらく私のためだろう。


 鮫島が来てからの私の様子の変化に気が付いていたと思う。

 自分を気遣う先輩に本当のことを伝えるべきか迷っているうちに私の家に到着した。


「ゆっくり休んでね。おやすみ。」


 翠の優しさに申し訳なさを感じながらもそのままタクシーを降りた。





 部屋の明かりをつけるとそのままベッドにダイブした。

 シャワーを浴びて化粧を落とさなければ。分かっていても身体を起こすことができない。

 そのまま目を閉じて先程まで目の前にいた男の姿を思い返す。


 鮫島康介。


 彼から感じた懐かしさは容姿に由来するものだけなのだろうか。


 スーツ姿の鮫島はいつの間にか見慣れたジャージ姿に変わっていた。やっぱりジャージの方が似合うと思った。

 ジャージ姿の男性に連れられるようにそのまま眠りについた。





 美樹と佑海が降りた車内で携帯が短く振動した。

 私は携帯のロックを解除すると田鍋からのメッセージが届いていた。


『今日はありがとうね。すごく楽しかった!またみんなで飲もう。』という社交辞令の後に、


『グループ作ったからよかったら美樹ちゃんと佑海ちゃん招待してね~』と続いた。


 田鍋と二人のメッセージ画面から一覧画面に戻ると、一番上には男性陣と私が招待されたグループが表示されていた。



 仕事が早いなと思わず関心する。



 運転手の「着きましたよ。」という言葉を聞き、慌てて鞄の中の財布を探した。


「お金はすでに頂いております。」


 ルームミラー越しに運転手は笑顔を見せた。


「ありがとうございます。」と笑顔を返しタクシーを降りた。



 できる男は違うなと思った。





 目を覚ますと、あと三十分で正午になろうとしていた。

 よほど疲れていたのかかなり熟睡してしまった。長時間頭を使わずに済んだおかげで少し回復していた。



 身体を起こすとそのまま風呂場に直行した。

 クレンジングを顔になじませ化粧を落とすと顔中の毛穴が一気に呼吸を始める。

 シャワーを済ませた後、せめてもの罪滅ぼしにフェイスパックをつけた。


 これならわざとらしい笑顔をせずとも表情を隠すことができるのに。

 昨日の飲み会を思い出し翠の隣に鏡に映る自分を座らせてみる。


 そんなしょうもないことをしてしまうのはまだ疲れが取れていないせいだと思いながら翠に昨夜の礼を伝えるため携帯のロックを解除した。



 メッセージ画面を開く。


『今日はお疲れ様。体調どう?ゆっくり休んでね。』


 労りの言葉とともに心配そうな顔をした猫のキャラクターのスタンプが届いていた。

 さらに、メッセージは続く。


『田鍋さんたちとグループ作ったから招待しておくね。』


 翠に諸々の礼を伝える内容を返信した後、グループの方にも昨夜の礼を送った。


 メッセージ画面を終了し、心を落ち着かせるために目を閉じて小さく息を吐いた。




 約二年ぶり。こっちに来てから始めてSNSのアプリを起動させる。


 写真とともにコメントが表示される。


 「香奈ちゃん結婚したんだ」


 「一華子ども生まれてる」


 一枚一枚の写真に反応しながら画面をスクロールし続ける。



 美味しそうなケーキの写真。写真の上に表示されたokayanという名前を見つけて思わず手を止めた。


『今日は結婚記念日。これからもよろしく! 7月10日』


 投稿日は一か月前だった。

 一度携帯から顔を上げ、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出した。

 思ったより冷静でいられたのはこの二年という月日のおかげだろうか。


 再び画面に視線を落とす。

 今度は名前の左横にあるバスケットボールのアイコンをタップすると、okayanの投稿だけが表示されるページに移動した。



 浴衣姿で腕組みをしている写真

『京都kita。浴衣kita 7月1日』



 体育館で撮影されたバスケットボールと得点板の写真

『久しぶりのバスケ。やっぱ最高! 6月2日』



 どうやら定期的に更新しているようだ。


 続いて別のアプリを起動させる。

 検索キーに『鮫島康介』と入力すると検索結果が二件表示された。


 一つ目をタップする。

 プロフィール画像は初期設定のままで写真は一枚も投稿されていなかった。

 プロフィール画面を確認すると生年月日は1957年5月10日。どうやらあの鮫島ではなさそうだ。


 続いてもう一つの結果をタップする。

 そこには見ず知らずの男性の写真がプロフィールに設定されていた。

 さらに、いくつか投稿されている写真も確認したがどれもあの鮫島ではなかった。



 そんな簡単に見つかるはずないか。


 淡い期待がパラパラと散っていく。しかし、定期的に更新された岡田のSNSは今も変わらない彼の暮らしを表していた。




 やはり、鮫島と岡田は別人だと考えた方が妥当なのだろうか。

 クイズ王でも答えられないであろう難題に二日続けて頭を悩ませるのは過酷すぎた。

 腹からの合図で起きてから何も口にしていなかったことに気づく。


 とりあえず糖分を摂取して頭を働かせよう。そう思い立ち上がったと同時に机の上で携帯が振動した。


 画面には鮫島と表示されており一瞬身体が硬直する。


『鮫島です。昨日は飲み会楽しかった。ありがとうね。今度二人で飲みにでも行かない?』


 鮫島から個別にメッセージが届いていた。


 一瞬ためらったがすぐに返信した。


『こちらこそありがとうございました。ぜひ行きたいです。』


 無駄な労力に時間を費やすより本人から直接情報を探る方が効率的だと思ったからだ。

 メッセージのやり取りはテンポよく進み来週の日曜日に会うことになった。



 私は今度こそ立ち上がり冷凍庫から食パンを取り出した。






 月曜日。

「おはよう。」「おはようございまぁす。」


 職場の隣のコンビニでばったり会ったのだという二人が一緒に更衣室にやってきた。


「佑海さん、聞いてください。私、田鍋さんと二人でご飯行くことになったんですぅ。」


 嬉しそうな美樹とは裏腹に、翠は浮かない表情をしていた。


「さっきからこればっかり。何着ていこう。どんなお店かな。美容院いかなきゃ。ってもう、うるさくて、うるさくて。」


「え、ひど~い。翠さん応援するって言いましたよねぇ?」


 美樹は頬を膨らませた。


「言った、言った。応援してるよ。」


 美樹のテンションが面倒くさいという気持ちと応援しているという気持ちが半々なのだろう。いや、正しくは前者が若干勝っている。



「佑海さんは、鮫島さんと進展ありました?」


 美樹は自分のロッカーを開けて手際よく着替えを始める。


「あ、うん。飲みに行くことになったよ。」


「え、本当ですか?やっぱり鮫島さん狙いだったんですねぇ♪」と美樹は語尾を弾ませた。


 翠は特に何も言わずに着替えを続けていた。



「ミーティング始めるよー。」


 看護師のリーダーの声が聞こえたので三人揃って返事をした。





 金曜日。

 美樹は田鍋との約束のために、定時になると急いで準備を済ませ香水の匂いを残して足早に更衣室を後にした。


 私と翠は蓮のお店に行くことにした。ランチ以外であの店に行くのは初めてだった。




 金曜日の飲み会が恒例化していたため、二人ともそのまま帰路に就く気にはなれなかった。二人きりで飲みに行く金曜日はちょっと新鮮な気持ちになる。


 店に着くと蓮は私たちを笑顔で迎え入れてくれた。

 ドリンクが運ばれてくるタイミングで食事の注文を済ませ、私たちはサングリアで乾杯した。



 飲み会の相手が誰であろうと仕事終わりのお酒は美味しい。

 けれど今日は今までのどんな飲み会よりも美味しく感じた。


 今まで自分に言い聞かせてきたがやはり認めざるを得ない。私は飲み会が苦手だ。


 それでも決して口には出さない。なぜなら、翠が毎週飲み会相手を探したり相手と連絡を取り合ったりしているのは全部私のためだから。




 二年前。勤めていた病院を退職し翠とともに現在のクリニックで働くために上京した。

 それ以来、金曜日は恒例の日となったのだ。


 翠が飲み会相手からの誘いを毎回断っていたのも私のためだろう。幹事の翠に恋人や婚約者ができてしまったらこの飲み会は成立しない。


 万が一、好意的に感じた男性がいたとしてもいつもと同じ言葉を繰り返すのだろう。




「ここのサングリアは自家製なんだって。フルーツ多めで美味しいよね。」


「そうなんですね。フルーツたくさん入ってるとテンション上がりますね。」


 翠は「ねっ」と、柔らかい声で私に賛同し再びグラスを口に運んだ。



「佑海はさ、鮫島さんのことどう思ってるの?」


 ガラス細工を扱うかのように優しく問いかけた。


「正直まだ分かりません。ただ、知りたいという気持ちはあります。」


 唐突に振られた鮫島の話題に、怯むことなく素直な気持ちをそのまま伝えた。


「そっか。鮫島さんいい人そうだし、美樹も言ってたけど二人お似合いだと思うよ。」


「ありがとうございます。明後日飲みに行く約束してるのでまた報告しますね。」


「うん。楽しんできてね。」




 翠が飲み会での私の様子に関して触れてくることはなかったし、私から話すこともしなかった。


 自分の中でバラバラになっている点を少しでも繋いだ状態で話がしたかった。そのためには、もう少し自分なりに整理する時間が必要だった。


 鮫島と二人で飲みに行ってからでも遅くはないだろう。




 この話題はここで終わり残りの時間は他愛のない話ばかりをした。

 とても楽しい金曜日だった。






 看護学部に通っていた私は病院実習で訪れた北村病院で翠と再会した。

 私が転校した高校一年生の冬以来だった。


 そこから私たちは連絡をとり合うようになり時々食事に行ったりもした。

 そして翠からの勧めもあり、大学卒業後、看護師として北村病院で働くことになった。

 350床ほどの大きすぎない適度な病床数と人間関係が決め手だった。



 知り合いが働いている職場は内部事情、特に人間関係を知ることができるのが最大の強みだ。

 看護師という女性社会の中で生きていくためには人間関係を重要視する必要がある。


 病院実習でお世話になった看護主任はとても良い人だった。

 翠の話によると看護師長も優しい上にかなり仕事ができる人で、さらにバサバした先輩が多いとのことだった。



 仕事は大変だったが、翠の言っていた通り人間関係はとても良好だった。

 しかも運が良いことに翠が私のサポーターになった。



 北村病院では、新人教育にサポーター制度を導入していた。

 二、三年目の先輩が新米看護師に業務内容や患者への接し方などについて細かく指導やアドバイスを行うのだ。


 看護師は忙しく院内を一日中走り回っている。

 そのためサポーターがいることで新人が質問しやすい環境を作ったり、時には相談相手となったりして不安を解消する。

 それにより離職を防ぐというものだ。


 多くの病院が看護師の人手不足問題を抱えているため、常に需要が高く再就職しやすいことから好条件を求めて転職する者も少なくない。

 新人を定着させるために病院側も努力しなければならない時代なのだ。




 看護師生活は充実していたが三交代制のシフト勤務のため、学生時代の友人たちとなかなか予定が合わずプライベートの充実度に欠けた。


 しかし、学生時代そこまで仲良くなかった子たちから飲み会という名の合コンやバーベキューに誘われることがしばしばあった。

 どうやら友人たちと予定が合わないのは皆同じようだ。



 今までの私ならそれらの誘いを断っていただろう。

 私はそんなにフットワークが軽いタイプではないし、狭い人間関係の中で生きてきた人間だ。

 しかし、受ける誘いは極力断らないようにした。

 このままじゃダメな気がして、変わらなきゃと思った。



 慣れない環境で気疲れすることも多かったけれど回数を重ねていくうちに何とも思わなくなった。

 人は簡単に変わってしまうという人がいるけれど、変わったのではなく慣れただけなんだと思う。






 看護師として働き始めて一年が経った。

 仕事にもだいぶ慣れプライベートもそれなりに充実していた。


 そんなある日。

 以前バーベキューで知り合った二つ年上の男性に、バレーボールサークルに誘われた。




 私は中学一年生でバレーボールを始めた。

 何かしらの部活動に所属しなければならなかったため一番仲の良い友人と同じ部を選択した。


 運動神経が特に優れているわけではなかったが、身長に恵まれたこともありそれなりに結果を残した。

 その後、中学時代の先輩に誘われ高校でも続けていたのだが、高校卒業以来ボールには一度も触れていない。



 バレーボールは試合をするために十二人必要だ。社会人になって、十人以上の人を集めることは難しい。

 その上、バレーボールをやりたい人という条件が加わるとさらに難易度は増す。


 痛くて怖いという印象があるのか、体育であまり人気のないスポーツをやりたがる者はさほど多くない。



 人集めも然ることながらコートの確保はさらに大変だ。


 体育館を借りるのには思った以上にお金がかかる。そのため、無料で借りられる体育館ともなれば凄まじい争奪戦を勝ち抜かなければならない。



 手間やコストを考えると気軽にできないスポーツなのだと大人になってから改めて気づく。



 久しぶりすぎて足を引っ張ってしまうのではないかと不安がっている私に、


「経験者より初心者の方が多いし遊びみたいなサークルだから。」という彼の言葉が背中を押した。





 数日後、ちょうどサークル活動があるらしく早速参加することになった。

 サークルは月に一から三回ほどのペースで開催されているとのことだった。


 体育館の都合や人の集まり次第で一度も開催されない月もあるらしい。



 体育館に着くとすぐに一人の女性がこちらにやってきた。

 沙織(さおり)と名乗る女性はこのサークルの主催者だった。




 とても気さくな彼女は、


「バレーやってたん?」


「名前は?」


「何歳?」と早口でいくつか質問してきた。




「いや~経験者ありがたいわ。よろしくね、佑海!」


 彼女は初対面の私に敬称は使わなかった。





 その日は私を含め十三人が集まった。

 沙織の職場の同期が大半で私をサークルに誘った彼もそのうちの一人だった。


 しかし最近は人手不足で職場の後輩や私のようにプライベートの知り合いを誘ったりもしているのだという。



 沙織がみんなに私を紹介し参加者それぞれの紹介もしてくれた。

 とても優しい人ばかりだったが、私以外は皆仲がいい雰囲気だった。

 転校した高校一年の頃をふと思い出す。




 早速二つのチームに分かれて試合を始める。

 十三人のうち経験者は私を含めて四人だった。


 そのため聞いていた通りゆるい試合展開となったが、参加者の男女比が半々だったことでそれなりにラリーは続いた。


 何かしらのスポーツ経験がある男子は経験の浅い競技を運動神経で補えたりするものだ。




「佑海ちゃん上手だね。」


「いつからバレーやってるの?」


「どんな仕事してるの?」


「休みの日は何してるの?」



 休憩中に話かけてくれる人もちらほらいた。皆私を新しい人として迎え入れてくれた。





 チーム替えをし再び試合を始める。


 試合中盤、体育館の入り口から黒いリュックを背負った男性が歩いてくるのが見えた。人差し指でバスケットボールをクルクルと器用に回している。



 得点板をしていた沙織が、


「ちょっと。岡やん遅いで。」と遅れてきた彼に言った。


「ごめんて。」と笑う彼から申し訳なさはあまり感じられなかった。



 荷物を降ろしシューズを履き終えた彼は、軽くストレッチをしながら沙織との会話を続けていた。



 試合終了後、続けてもう一試合することになった。

 反対側のコートに移動しようとした時、遅れてきた彼はとある曲を口ずさみながら私の横を通り過ぎた。





 バレーボールにはローテーションというルールがある。


 サーブ権を得たチームが選手の位置を一つずつ右回りの方向にずらし、味方チームがサーブを打ったタイミングで自分のポジションへと移動する。


 サーブを受けるチームはボールを相手チームに返した後、自分のポジションに移動するのだ。


 しかし初心者の多いこのサークルでは一人ひとりのポジションは決めず、ローテーションで回ってきたポジションをやることになっていた。



 味方チームがスパイクを決めたため、私は前衛のレフトポジションに移動した。


 右隣のポジションにいた彼は先程の曲をもう一度口ずさんだ。

 それは、私もよく知っている曲だった。



「俺、この曲が一番好きじゃけん。カラオケでもよく歌っちょるんよ。」


 私はその日その曲を歌うロックバンドのライブTシャツを着ていた。

 彼は私を新しい人として扱うことはなく最初から他のメンバーと同じように接した。


 それがとても心地よかった。






 岡田(おかだ)(りょう)


 沙織の職場の同期で皆から「岡やん」の愛称で呼ばれていた彼は、仲間をいじったり、冗談を言ったりして場を盛り上げるムードメーカーだった。



 けれどいつも会話の中心にいるわけではなく、休憩中に一人でバスケットボールのシュート練習をしたり、黙々と携帯ゲームをしたりしている時もあった。


 彼は外部からの影響を受けない自分という軸を持っていた。

 そして、冗談を言ったり仲間とふざけている時でさえどこか冷静な感じがした。


 岡田は私が今まで出会ったことのないタイプの人間だった。私の中に新たなカテゴリーを作った彼のことが気になってしまうのは、ごく自然な現象だった。





 その日の夜、沙織から個別にメッセージが届いた。


『来週のバレー来れる?来れそうならどっかで待ち合わせして一緒に行こうや。』


 私をサークルに誘ってくれた彼は来週参加できないため沙織は気を遣ってくれたようだ。

 沙織はもともと面倒見のいい性格だが、どうやら私のことを気に入ってくれたみたいだった。


 私は沙織の厚意に甘えることにした。





 二回目に参加したときは、十一人しか集まっていなかった。

 そのため、五対六で試合をすることになった。



 チーム決めはいつも男女別でグーパーし、グーチームとパーチームに分かれることで2チームの男女比が同じになるように考慮している。


 とはいえ、試合によっては実力差が大きくあっという間に終わってしまうこともあったが、その場合はもう一試合多くやるだけ。


 遊びのサークルとはそんなものだ。




 チーム決めを終え何となく空いているポジションにつく。

 いつもよりたった一人少ないだけでコートがやたら広く感じる。


「佑海の守備範囲ここじゃけ、よろしくな!」


 岡田はコートの二分の一ほどのスペースを手で示した。


「え、さすがに広すぎません!?」


 彼は、私の反応を見てニヤリと笑った。




 岡田は沙織と同様、私を呼び捨てで呼んだ。


 彼に名前を呼ばれると沙織のときとは違った、むず痒いような、心が弾むような、何とも言えない気持ちになる。




 次の試合は通常通り六人チームだった。二回連続を免れたことに正直ホッとする自分がいる。

 遊びとは言え、やはりスポーツはスポーツなのだ。欠員分の体力はしっかりと消耗される。



 ネットを挟んだ反対側のコートでボールを持った岡田が叫ぶ。


「そっちのチーム六人なんに、佑海おるのずるいじゃろ。俺のサーブとんなよーーー。」



 長めの前置きを終えて勢いよく打ち放たれたサーブは、私の腕に引き寄せられるかのように真正面に飛んで来た。


 私はスポーツマンシップにのっとり丁寧にセッターの元へボールを送った。

 自分で言うのもなんだが、見事なサーブレシーブだ。


 自分のサーブが軽々と処理された岡田は悔しさがこもった雄叫びをあげる。


 その姿に皆が笑った。






 サークルにはできる限り参加した。

 久しぶりのバレーボールはやっぱり楽しかったのだが、それだけが理由ではない。



 岡田は毎回参加しているわけではなく、私が休んだ日に参加しているときもあったし、すれ違うと二か月以上会わない時もあった。


 サークル以外の接点はない。お互いサークルのメッセージグループに入っているため、個別に連絡をとることもできたが私はそれをしなかった。



 以前、岡田がサークルを休んだときメンバーの一人がこう言った。


「岡やん、今日彼女と夢の国だって。」


 不確かが確かに変わった瞬間、心臓に鈍い痛みを感じた。




 岡田だけが所属する私の中のカテゴリーはいつの間にか『新奇』から『特別』に変わっていた。


 目を背けていた自分の気持ちに焦点が合ったところで彼女がいる相手にアプローチできるほどタフではない。


 自分に自信のない私はその行為が彼の幸せを壊すことにもなるのだと、彼と自分の関係を壊さないための言い訳にした。




 しょうもない話で笑い合えるだけでいい。


 私の名前を呼んでくれるだけでいい。


 ただ、そばにいられるだけでいい。






 日曜日。

 私は、鮫島と待ち合わせした駅に向かっていた。


 もうすぐ到着する旨を伝えるため鞄から携帯を取り出そうとしたが、その必要はなかったようだ。

 すっと佇む185cmは人混みの中で自らが目印となる。


 私は彼の元へ急いで向かうと待たせてしまった謝罪をした。



「大丈夫。僕も今来たところだから。」


 鮫島の使う一人称は岡田の使うそれとは違った。





 鮫島が予約してくれたお店は駅から徒歩五分ほどのところにある昔ながらの雰囲気漂う焼き鳥屋だ。

 金曜や土曜を思わせるような賑わいっぷりからするとなかなかの人気店なのだろう。



「こんな感じの店で良かった?」


 心配そうな顔をしながら先程店員が置いて行ったおしぼりの入った袋を破る。


「はい。こういう雰囲気好きです。」


 焼き鳥をリクエストしたのは私だ。

 鮫島と二人きりという緊張確定のシチュエーションでさらに緊張を煽るようなことはしたくなかった。


 静かで落ち着いた小洒落た店より、これくらい騒がしい方がありがたい。



「明日仕事だよね?ごめんね、日曜日に。金曜日も土曜日も先生たちとの食事会だったから。」


「いえ、明日は休みなので大丈夫ですよ。余ってる有給をとりあえず使っただけの休みなのでちょうど良かったです。」


 鮫島も明日は有給をとったらしく、私たちは「有給に乾杯」という謎の挨拶でグラスを合わせた。




 鮫島の飲みっぷりを見る限り、三日連続の酒の席とは到底思えない。


 酒が好きな上にかなり強いのだという。酒での失敗は一度もなくいつも周りの介抱をしなければならないのだと嘆いた。




 この日はいつもより酒が進んだ。

 大将秘伝のタレとやらが肉の味を引き立て、アルコールのペースをアシストした。鮫島がこの店に通う理由がよく分かる。


 串と酒が進むにつれ鮫島の情報も着々と収集できた。




 A型で几帳面


 一人っ子


 好きな食べ物は、海鮮とチョコレート


 嫌いな食べ物は、辛いもの


 趣味は映画を観ること




 しかし、最近は新薬の勉強や新しいプロジェクトで忙しく、なかなか観ることができないのだと言った。


 それから、鮫島は田鍋たちと同じ大学だった。

 大学時代は特に接点がなかったため、互いを認知したのは今の会社に就職してかららしい。


 田鍋は鮫島を可愛がってくれる良き先輩で仕事でもプライベートでも付き合いがあるらしい。

 何だか翠と私みたいだ。




 話をすればするほど、鮫島はごく普通の一人の男性だった。

 けれどやはり、容姿はもちろん声すらも岡田そのものだった。



 もしかしたら私の勘違いかもしれない。

 そう思った私は鮫島と初めて会った飲み会の後、昔の写真を見返してみたりもした。

 バレーサークルで撮った写真に写る岡田の姿はどう見ても鮫島だった。



 フォルダの中には、試合風景を撮影した動画も残っていた。


 自分のサーブが容易にセッターへ返された時の悔しそうに叫ぶ声は、賑わう店内で「すいませーん」と店員を呼ぶ目の前の声と見事にリンクしていた。




 私は思い切って誰かに似ていると言われたことがないか訊ねてみた。


「う~ん。どこにでもいそうな顔だよねとは言われたことあるけど。実際誰かに似てるとは言われたことないかも。」と言った。


 岡田との接点を見つけるのは思っていたより難しいかもしれない。




「佑海ちゃんは休みの日何してるの?」


 自分の話を終えた鮫島が今度は質問役に回る。


「撮り溜めたテレビの録画観たり買い物したりですかね。」という何とも無難な返しに対して鮫島はこう言った。


「佑海ちゃんお洒落だもんね。洋服の色合わせがすごく上手だし、メイクとか佑海ちゃんの雰囲気にもよく合ってる。」


 アルコールでの火照りがすっと引くのが分かった。鮫島はさらに続ける。



「初めて会った飲み会の時から思ってたんだよね。めっちゃお洒落な人だなって。僕そういう服装すごい好き。」



 私が一番嬉しい褒め言葉を言ってくれた男性は、鮫島が二人目だった。






 今日はサークル終わりにみんなで食事に行くことになった

 たまに予定が合うメンバーでこうして食事に行ったりもする。


 この頃にはもう皆とかなり打ち解けていた。


 沙織と岡田以外に私を呼び捨てで呼ぶようになったメンバーもいたが、やはり岡田が呼ぶ自分の名前は特別だった。





 沙織が先程電話で予約した店は駐車場があまり広くないため、何人かで乗り合わせて行くことになった。


 私はサークルに誘ってくれた彼が運転する車の後部座席に、岡田は助手席に乗ることになった。

 運転席と助手席ではどうやら職場の人の話をしているらしい。

 私は携帯を取り出し来ていたメッセージの確認をする。



 再来週ビアガーデンに行かないかという友人からの誘いに『行く!』と秒で返信した。


 正直ビアガーデンの料理を美味しいと思ったことはないけれど、あのお祭りみたいな雰囲気が好きなのだ。



 久しぶりのビアガーデンに胸を高鳴らせているといつの間にか職場の人の話は終わりこちらに話が振られていた。


「えっ?何ですか?」


「だから、佑海ってお洒落よな。」と岡田が言った。



 突然の褒め言葉に上手い返しが見つからない。

 すると運転席の彼が私の代わりに返事をした。


「確かにバレーに私服で来る人ってお洒落だよね。」


 この頃の私は極力誘いを断らないために一日に複数の予定を入れることも多かった。

 そのため、サークルの前後に入れた他の予定のために行き帰りは私服に着替えていた。


 バレーサークルでは私を含めた少数派を除いて、大半が行き帰りもジャージ姿のままだった。


 だから、わざわざ私服に着替えるのは意識が高いお洒落な人なのだと彼は言いたかったのだろう。



 しかし、岡田はそれを否定した。


「色合わせが上手いし、佑海の雰囲気やメイクともよく合っててお洒落だなと思ったんよ。」


 そう言い終わるとちょうど店の駐車場に到着したのでこの話はこれ以上深堀されることはなかった。



 私の頭の中では岡田の言葉が反芻していた。

 なぜなら私にとって一番の褒め言葉を男性から初めて言われたからだ。




 私は昔からお洒落をするのが好きだった。


 両親は教師をしており平日はもちろん土日も部活動で家を留守にすることが多かった。


 特に父親が監督を務める野球部は全国大会常連の強豪校だったため、幼少期に旅行など連れて行ってもらった記憶はほとんどない。


 その代わり、母親が時間を見つけては近くのショッピングモールに連れて行ってくれた。そこで可愛い洋服やアクセサリーを見るのが大好きだった。



 自分の容姿にあまり自身がなかった私は可愛い洋服やアクセサリーを身に纏うことで自分を補った。

 さらにファッション雑誌を読み漁りコーディネートの研究やヘアメイクの練習もたくさんした。



 女性が相手の持ち物やファッションを褒めるのは呼吸をするみたいに無意識で特に感情を持たない。


 男性受けするいわゆるコンサバファッションが苦手な私を褒めてくれた男性は岡田が初めてだった。


 「かわいいね。」「スタイル良いね。」という言葉はお世辞にしか聞こえなかったが、自分が好きなファッションを褒められると努力が認められたみたいで素直に嬉しかった。 


 そして褒められたこと以上にそれが岡田だったことが嬉しかったのだ。






 案内された十人掛けテーブルに成人した男女十人が腰を掛けると一切余裕はなくなった。

 そこへ注文した料理が次々と運ばれてくると、窮屈さに拍車がかかる。



 値段の割に美味しいと評判の中華料理中心のチェーン居酒屋は、週末ともなれば満席は当たり前。

 こんな大人数の急な予約を受け入れてくれただけでも謝意を示さなければならない。



 私の視線が運ばれてきた大皿の青椒肉絲を捉えた。油を纏った光る身体でこちらを誘惑してくる。

 私は抗うことなく自分の皿に迎え入れたのだが、いくつかの肉がそれを拒んだ。



 あ、やっちゃった。


 そう思った瞬間、右隣から伸びてきた箸が拒んだ者たちを救出するとそのまま口の中へと姿を消した。


「レスキュー成功!」と言って岡田は笑った。


 その笑顔を見てやっぱり好きだなと思った。






「最近すごく明るくなったね。もしかして恋でもしてる?」


 ちょうど昼休憩が重なった翠がニヤニヤした顔で私の向かい側に座った。

 私は玉子焼きを上手く飲み込めずに少しむせた。



「ちょっと、大丈夫?」


 翠は慌ててお茶を差し出してくれた。


「少し前からバレーボールのサークルに行ってるんです。久しぶりにバレーやれてストレス発散って感じで。」


「そこで好きな人ができたんだ?」


 頬杖をつき私の心を見透かすかのようにこちらをじっと見つめてくる。



「好きっていうか、その、他の人と雰囲気が違ってなんか気になるというか。」


「それが好きってことじゃないの?」


「でも、その人彼女いるんで。まあ近くで見てたまに話せればいいかなって。目の保養っていうか、心の拠り所っていうか。」


 恥ずかしさを隠すかのように普段より早口になった。



「え、そんなの物足りなくない?結婚してないなら彼女いるかいないかなんて関係ないよ。」


「それは自分に自信のある人の考え方ですよ。私はそんな風に思えません。」


「え、何でよ。佑海は優しくて、気配りできて、可愛くて、スタイルもいいし、私が男だったら絶対彼女にするのに。」


「ありがとうございます。」


 こんな美人に言われてもお世辞にしか聞こえないので感謝が投げやりになる。


「ちょっと。絶対思ってないでしょ、その言い方。」


 でも本当は翠の人柄を知っているからお世辞や冗談ではなく、彼女の本心なのだと分かっていた。

 これは私の照れ隠しなのだ。






 私たちは焼き鳥屋を後にして落ち着いた雰囲気のバルに移動していた。


 先程の店で二軒目に丁度良さそうな店を鮫島がいくつか見繕い、席の確認をしてくれたおかげでスムーズに来店することができた。


 鮫島から一人っ子っぽさを感じたことは今までに一度もない。

 彼の手際の良さに驚嘆すると職場でもこのような立ち回りをすることが多いのだと照れ笑いを浮かべた。





 目が覚めると自分の部屋のベッドで横たわっていた。帰宅時の記憶はない。

 二軒目のバルでワインカクテルを二杯飲み終え白ワインのボトルを開けたところまでは憶えている。



 上半身を起こすと視界が大きく歪み耳鳴りがした。

 立ち上がることを諦め、その体勢のまましばらく目を閉じていると耳鳴りは治まり、視界も落ち着いた。



 持ち主同様ベッドの横で倒れていた鞄の中から携帯を取り出す。

 予想通り鮫島からメッセージが来ていた。


『今日はありがとうね。僕のペースに付き合わせてしまったみたいだけど体調大丈夫かな?ゆっくり休んでね。』


 どうやら酒の強い鮫島のペースで飲み続けた結果、酔い潰れてしまったらしい。

 自分の言動を憶えていないことがこんなにも恐ろしいものなのか。つらい。


 どんなにつらくても過去には戻れない。とりあえず昨夜の礼と謝罪の意を送った。



 こういう場合のレスポンスの早さは心の安定剤となる。


『お詫びなんて別に気にしなくていいのに。じゃあ、今度手料理食べたいな。』



 詫びの真意はする側の心を楽にすることだ。

 される側のためにあるものではない。許すつもりのない相手の詫びは絶対に受け入れてはいけない。


 私の詫びを受け入れ、謝罪内容まで提示してくれた鮫島は優しい。私たちは次回ドライブに行く約束をした。






 まばらに色づき始めてはいるものの、ほとんど紅葉していない木々を眺める。


 紅葉狩りのピークを迎える頃には人混みと渋滞でそれどころではなくなるため、時期的に早いくらいがちょうどいい。


 木と土の匂い、澄んだ空気、ここにある自然の全てが人工的な日常で濁った細胞を一つひとつ浄化していくようだ。


 こんなに穏やかな気持ちになれるのなら部屋に観葉植物でも飾ろうかなと簡単に影響されてしまう私は「壺でも買わされないか心配」といういつかの友人の言葉を思い出した。




 きちんと補正された道を歩いていくとベンチがいくつもある広場に辿り着いた。

 空いている中からちょうど日陰になっているベンチを見つけここで昼食をとることにした。


 鮫島がリクエストしたサンドイッチの他に唐揚げやキャロットラペ、アスパラとキノコの肉巻き、トマトソースを使ったグラタン、ポテトサラダならぬカボチャサラダなど彩りを意識したラインナップだ。



 誰かのために弁当を作ったことがなかったため不安しかなかったのだが、鮫島のリアクションで全てが報われた。


 そして作りすぎた弁当は跡形もなく胃袋の中へと消えた。



「まじで美味しかった。準備大変だったよね?本当ありがとう。」


 詫びで作ったはずの弁当を労う鮫島にデザートのガトーショコラとコーヒーを差し出した。

 以前チョコレートが好きだと言っていた鮫島のために昨日の夜仕込んでおいたものだ。



「何これ、美味すぎでしょ。」


「これ手作りのレベルじゃない。」


「お店出せるよ。」


「てか今まで食べた中で一番美味しい。」



 大袈裟すぎる反応が可笑しくて、嬉しくて、愛おしかった。


「こんなに美味しいものを作ってもらえるなら何されてもいいや。」と笑う鮫島は少し意地悪な顔をした。

 もちろんそれが冗談だとは分かっていたが、私は改めて謝罪をした。




 鮫島と二人で飲みに行った日は、二軒目のバルで相当飲んだらしかった。

 鮫島に勝るほどの勢いで飲み続けフラフラになった私を自宅まで送ってくれたそうだ。本当に面目ない。



 私の反応を面白がる鮫島は初めて会った時と変わらなかった。


 けれど、私はあの時とは確実に変わっていた。



 岡田に瓜二つの鮫島を警戒し、疑い、必ずあるであろう裏をどうにかして見つけようとしていたはずが、いつの間にか鮫島という一人の男性に惹かれていた。


 鮫島が岡田かどうかなんて正直どうでも良いとさえ思うようになっていた。





 非日常を満喫し、あっという間に帰路に就く。


 今日は朝からずっと一緒にいたが、無理をせずとも絶えることない会話が私を終始楽しませた。

 改めて鮫島は話をするのが上手いと思った。



 そんな鮫島が一瞬躊躇いを見せた後、先程までとは明らかに違うトーンで話しだした。


「佑海ちゃんが酔っぱらっちゃったあの日、近くの席で飲んでた男女の会話覚えてる?」


 記憶を辿ってみたものの、会話どころかその男女のことすら覚えていなかったため首を横に振った。



 鮫島の話によると、どうやら二人は不倫関係にあり女性が男性に奥さんと別れて欲しいと言いだして口論になっていたのだという。


「それで男性が「ただ隣にいられるだけでいいって君が言ったんだろ?」って少し怒鳴ったんだ。」


 今の一文で何だか嫌な予感がした。



「私だって始めはそう思ってたよ。隣にいられるだけで、それだけでいいって本当に思ってたんだよ。」と私はその男性に絡みだしたらしい。


 やっぱりか。そこから酒のペースが上がり酔い潰れたそうだ。



「言おうかどうか迷ったんだけど、僕だけ知ってて佑海ちゃんが覚えてないのは何だかフェアじゃない気がして。」


 鮫島なら知らないふりをしようと思えば完璧に演じられただろう。

 でも、それをしないのが鮫島なのだ。




「何があったのかは言わなくていい。ただ、辛いときは一緒に美味しいものを食べて、しょうもない話で笑って、またこうやってどこかに出かけて気分転換でもしよう。その相手を僕にさせて欲しい。佑海ちゃんが好きなんだ。」


 鮫島はいつも私が欲しい言葉をくれる人だ。そんな鮫島の隣にいたいと思った。






 今日は蓮の働く店でランチをすることになっていた。

 前回はパスタランチにしたので今日はピザランチを注文した。



「にしても、美樹はこの店に縁がなさすぎるね。一生来れないんじゃないの?」


 美樹には申し訳ないが私も翠に同感だ。二人して思わず笑ってしまう。



 11月にインフルエンザにかかるとはとんだ(・・・)フライングをしたものだ。


 今日は先生が午後から学会発表のため健診は午前のみの受付だった。

 そのため、前回三人で行けなかった蓮の店にリベンジすることになっていたのだが、残念ながらリベンジは失敗に終わった。




 焼きたてのピザを両手に蓮がやってくると香ばしい香りが私たちのテーブルを包み込んだ。


 トロトロに溶けたたっぷりのチーズは終わりを感じさせないくらいの勢いで糸を引き続ける。

 一口食べればチーズのコクとトマトの酸味が繰り出す絶妙なバランスの虜になっていた。



 あまりの美味しさに話すべきことを忘れそうになっていた自分を翠の前に引き戻す。


 そして鮫島と付き合うことになった旨を伝えると自分のことのように喜んでくれた。



 続けて、あの飲み会で様子がおかしかったこと、検索したSNSのこと、バルで酔い潰れたこと、紅葉狩りの帰りに鮫島が言ってくれたことを拙いながらも自分の言葉で精一杯話した。


 翠は私が話を終える最後の最後まで口出しすることはなかった。


 一字一句聞き逃さぬよう真剣に耳を傾け相槌を打ち続けた。



 私が話し終えるとどこか少し不安気な顔で一言こう言った。


「佑海は今幸せ?」


 私は大きく頷き笑顔で「はい。」と返事をした。


「佑海が幸せならよかった。」


 翠は泣きそうな顔で笑った。



 翠の泣きそうな顔を見たのは、これが三度目だった。






「待ってーーーーー」


 自分の叫び声で目が覚めた。久しぶりに見た夢のせいで髪は乱れ、全身に汗をかき、心臓は激しく鼓動した。


 再び眠る気になれず、リビングのソファに座り上半身を倒して天井を見上げた。

 佑海はあんなに幸せそうに笑っていたのに。



 一年前までよく見ていたこの夢も上京してからだんだん見ることが少なくなって今ではほとんど見ることがなくなった。


 やせ細った佑海が「さよなら。」と言ってベランダから飛び降りる夢。

 あの頃はいつ正夢になってもおかしくない状況だった。


 けれどもうあの頃の佑海ではないのだ。


 大丈夫。大丈夫。大丈夫。


 私は自分に言い聞かせた。






 気づけばあっという間に年が暮れ、新たな一年が始まっていた。


 自分自身は昨日と何も変わらないのに、干支が変わり、西暦が変わり、昨日が去年で今日が今年になる。理屈は分かっていてもこの違和感を飲み込むことが昔から苦手だ。



 連休が終われば世間は日常を取り戻す。

 年始を迎えたことをもう忘れてしまったかのように街中が次のイベントの準備を始めていた。




 バレンタインのリクエストにガトーショコラと即答した康介のために、五号サイズのホールのガトーショコラを用意した。


 紅葉狩りで食べたガトーショコラの味が忘れられないのだという。



 康介は相変わらず新プロジェクトで忙しいらしく、会う時間がなかなか作れなかった。

 それでもマメに連絡をくれたし、時間を見つけては電話をしてくれた。


 仕事を理由に私のことをおろそかにすることはなかったしその逆もしかりだ。

 彼は本当に尊敬できる人だ。




 今日はバレンタインデー前日だが、康介とは今日会う約束になっていた。


 明日は病院の先生たちも交えて新薬についての勉強会があるらしい。


 毎日大変そうな康介を見ると無理が祟らないかと心配になる。外食ではなく家でまったり過ごそうと提案した私は康介の家で夕食の準備をしていた。



「二十時には帰れると思うから。佑海の手料理楽しみだな。」という期待に応えるべく気合を入れて煮込みハンバーグを作る。





 時計の針は約束の時刻から三回転しようとしていた。

 私も明日は仕事だしそれ以前に終電もそろそろだ。私はメッセージを送り康介の部屋を後にした。





 自宅アパートが目の前に見えてくると後ろから私の名前を呼ぶ声がした。

 振り返ると、29cmの全速力がこちらに近づいてきて目の前で止まった。



「ごめん、、、連絡できなくて、、、遅くなって、、、本当ごめん。」


 汗だくの康介は、息を切らしながら謝罪の言葉を繰り返した。



「お疲れ様。明日も仕事でしょ?わざわざ来てくれなくても大丈夫だったのに。」


「いや、僕が大丈夫じゃなかったから。」


 そう言って私を抱きしめた。



 しかし慌てて私から離れると


「ごめん、汗だくなのに、ごめん。」と再び謝罪の言葉を繰り返した。




「あ、そういえばこれ。」

 彼はパンパンに膨れたビニール袋を私に差し出した。


 中を覗くとコンビニのお菓子が大量に入っていた。



「もちろん今日のお詫びもホワイトデーも別でやるから。これはその、お礼。」


「お礼?何のお礼よ。」


 引きつった顔を隠すために無理やり笑顔を作る。


「手料理のお礼。」


 康介の回答に「ん?」と首をかしげると、それを見て慌てて言葉をつけ足す。



「紅葉狩り行った時お弁当作ってくれたでしょ。美味しかったし佑海の手料理食べられて嬉しかったんだけど、想像以上に凄すぎて作るの大変だっただろうなって。安易に手料理リクエストしたことが申し訳なく思えてきてさ。」



 確かにあの日以来手料理ををリクエストされたことはない。



「久しぶりの手料理でつい楽しみにしてるって言っちゃったけど、その後にあの時のこと思い出して。帰りにお花か何か買って帰ろうと思ってたのにこんな時間だから閉まってて。コンビニしか開いてなかったから。ごめん。」


「こんなに食べられないよ。」


 私は声が震えそうになるのを必死で抑えながら言った。



 「確かに多すぎだよね、ごめん。」


 彼は俯きがちに頭を掻いた。

 今日は謝られてばかりだ。




 康介は私を部屋の前まで送り届けると、来た道を戻って行った。



 私は部屋に入ると電気も付けずにその場に座り込み、大量のお菓子を黙って眺めた。






 岡田との関係は、進展することも後退することもないまま時間だけが過ぎていった。


 ここ二、三か月は仕事が忙しく予定がなかなか合わなかったため、しばらくサークルには参加できていなかった。



 年が明け久しぶりにサークルに顔を出したとき、年末年始の長期休暇で旅行に行った人たちからお土産をもらった。


 岡田がくれたクッキーはコーヒー味ではなくミルク味を選んだはずなのに、何だかほろ苦く感じた。



 私が参加していなかった間にサークル内ではお菓子作りが流行っていたようだ。

 その日は年下の男の子がスコーンを作ってきていた。

 もらってすぐに一口食べてみるとなかなかのクオリティだった。


「美味しい~。お菓子作り上手なんだね。」


 男の子に感想を伝えていると、何だか視線を感じたので目線だけを動かす。


 含み笑いを浮かべた沙織が「佑海ちゃん!」と甘えた声で近づいてくる姿を捕らえた。

 私は彼女の意図を察知した。





 久しぶりのお菓子作りで何を作ろうか迷ったが、バレンタインが近いということもありガトーショコラとクッキーを作ることにした。

 学生時代に大量の友チョコ作りで徹夜したことを思い出す。何だかすごく懐かしい。


 私は念のため、沙織から聞いていた人数分より少し多めに作って持っていくことにした。



 次の日。

「少し早めのバレンタイン」と言って、その日の参加者に配った。


 ちょうど来週がバレンタインデーだ。



「ガトーショコラうまっ。」


「これプロレベルやろ。」


「お店出せるよ。」



 皆の言葉に思わず笑みがこぼれるが私は耳を澄ませ続ける。



「いやいやこれ店のレベル超えとるわ。ってかクッキーも美味すぎじゃろ。クオリティ高すぎ。すげえなぁ。」


 お目当ての声を捉え、ようやく胸をなでおろすことができた。


 お菓子作りは正直言うと面倒くさい。

 分量を量らないといけないし、裏ごしたり泡立てたりとやたら手間のかかる作業も多い。

 けれど嫌いではないのは、この瞬間が好きだからなのかもしれない。





 今月は二週続けてサークルがあった。仕事が少し落ち着いたため今週も参加できた。

 やっぱり体を動かすのは楽しい。


 定期的に汗を流す機会は、社会人になってから特に必要だと改めて思う。



 着替えを済ませ荷物をまとめていると、突然目の前に大きく膨れたビニール袋が姿を現した。


「はい、バレンタインのお返し。」


 岡やんの右手に握られていたそれを受け取り中身を確認すると、そこにはコンビニのお菓子が大量に入っていた。


 お礼を言うと「おうっ」と返事をし、その日はみんなの着替えを待たずに先に帰ってしまった。




 岡田の後ろ姿を眺めながら喜びと疑問が交錯していた。


 お菓子作りはみんなで順番にやっていたことだし、私はたまたまバレンタインが近かったからそれに乗っかっただけだ。


 どうして私だけにくれたのだろうか。






「それって絶対佑海のこと好きじゃん!」


 私の弁当箱から玉子焼きを一つ連れ去った翠はまるで自分のことかのように浮かれていた。



「いや、だから彼女さんいるんですよ。」


「もう別れそうなんじゃない?」


「年末に旅行行ったってお土産もらいましたよ。」


「じゃあ、何でそんなことしてくるのよ!」


「私が知りたいですよ。」


「あ、そうだよね。ごめん。」


 翠は玉子焼きのいた場所に自分の唐揚げで埋め合わせをした。



「でもさ、少なからず好感のない相手にはしないよね、そういうこと。」


 翠が自分と同じ考えを口にしたことで淡い期待を抱いてしまったことに私は後悔することになる。






 バレーサークルでは毎年2月に新年会を行うことになっていた。


 1月だと職場の新年会があったりするので、なかなかみんなの予定が合わない。

 今年も何とかギリギリ2月に開催することが決まった。


 その甲斐あって三十人が参加することとなった新年会も四つのテーブルに分かれてしまえば結局いつも絡むメンバーでテーブルを囲むことになる。


 沙織と向かい合わせで話していると、「おつかれ~」と言って部屋に入ってきた岡田は何人かと軽い会話を交わした後、私の隣に腰かけた。




 酒が進むにつれて会話が弾み、みんなの声が大きくなったり、顔が赤くなったりとどんどん変化していく。それなのに私の身体の右半分はずっと緊張が解けないままだった。


 私はお酒を飲むと満腹感を感じやすくなるタイプでメイン料理が運ばれてくるころにはすでに腹八分になっていた。


 自然と箸から手が離れ、時々グラスを握る以外は身体の横が定位置となっていた。



 会の盛り上がりがピークに達した時、笑いの沸点は今日一低くなっていた。

 しょうもないボケに沙織の鋭いツッコミが決まると爆笑の渦が巻き起こる。


 笑いすぎてお腹が痛い。

 そう思った次の瞬間にはその痛みのことなんか忘れてしまっていて、私の意識は全て右腕に注がれていた。


 岡田の腕が私の腕に触れた。


 一分経っても、五分経っても、十分経っても一向に離れることはなかった。




 話題はコロコロ変わり恋愛話に着地した。


「佑海はどれくらい彼氏いないの?」


 沙織が私にパスを回す。



「一年半くらいですかね。」


 右側からの視線を感じてもそちらを見ることができない。


「じゃあ俺が誰か紹介してあげようか?」


 一人の男性が挙手をした。


「お前の紹介心配じゃけやめとけ、やめとけ。」


「間違いないわ。」


 岡やんに便乗した沙織が続けてこう言った。



「岡やん誰か紹介したりいよ。」


「おう。でも今は紹介できそうないいやつおらんのよな。」


 岡田はこちらを見ずにテーブルの下で私の手を握った。



 「えっ。」


 微かに漏れた私の声は周りの騒がしさにかき消されていった。



 岡田を見ると何食わぬ顔で会話を続けていたが、私の耳にはその会話が入ってこなかった。






 飲み会での岡田の行動の真相を知ることはできぬまま五か月ほど経った。


 3月はコートの争奪戦に負けたためサークルは開催されず、4、5月は仕事や他の予定と重なってサークルに参加することができなかった。


 久しぶりに参加した6月は岡田が不参加だったため会うことができなかった。



「会いたいな。」


 思わず本音が音となって漏れだした。

 こんな風に思いを馳せるのは予定のない二連休のせいだろう。



 普段予定を詰め込んだ生活をしていると予定がないときに何をしたらいいか分からなくてそわそわする。

 とりあえずベッドに寝そべりながら久しぶりにSNSのアプリを起動させてみる。



「香奈のあげてるパスタ美味しそう」


「一華、彼氏できたんだ!」



 どんどん写真をスクロールさせていく。


 一定のリズムで動いていた指がバスケットボールのアイコンでピタッと止まった。

 止まったというより身体全体が動かせず息もできない、そんな感覚だった。




 左手の薬指に指輪をはめた小さな手と大きな手。



「入籍しました。妊娠五か月です。」


「入籍しました。妊娠五か月です。」


「入籍しました。妊娠五か月です。」


「入籍しました。妊娠五か月です。」


「入籍しました。妊娠五か月です。」



 文章はさらに続いていたが、最初の二行を行ったり来たりしてその先に進めない。







「あ、ちょっと西山さん。立花さんがお休みすること聞いてたりする?」


「聞いてないですけど、佑海来てないんですか?」


「そうなのよ。西山さんなら何か知ってるかと思ったんだけど。」


「私、連絡してみますね!」



 佑海が無断欠勤するなんて今まで一度もなかったし、佑海の性格からも考えられなかった。

 事故にでも巻き込まれたのではないか。


 私は何度も何度も電話をかけてみたが、不安を払拭することができないまま仕事が始まる時間になってしまった。




 欠員分の仕事を分担しなければならないこの状況に誰一人として文句を言うことはなかった。


 それどころか皆がそろって心配の言葉を口にし、私の仕事までも引き受け、定時より三時間も早くあがらせてくれたのは紛れもなく佑海の人柄と普段の仕事ぶりによるものだ。





 佑海の家に向かう途中、再度電話をかけてみたもののコール音すら鳴らなくなっていた。

 病院から十分ほどの距離が不安の分だけ遠く感じる。



 ようやく部屋の前にたどり着きインターフォンを鳴らす。


 もう一度。

 もう一度。

 もう一度。


 それでもドアが開くことはない。



 願うようにドアを叩き名前を呼んだ。

 呼んだというよりもはや叫んでいたと思う。

 周りの目なんて気にせず無我夢中で名前を叫び続けた。






 暗くなった部屋に光が差し込んできた。

 あれからどれくらいの時間がたったのだろうか。



 身体が重だるく起き上がることができない。


 先程から何度も繰り返される手元の振動を感じることはできてもそれを手に取って確認することすらできなかった。



 こんな状態になっていることに自分自身が一番驚いている。


 私はこんなにも彼が好きだったのか。



 あの日私たちの関係が進展していたら、彼を責めることができたら、こんなに苦しい思いをせずに済んだのかもしれない。


 でもそういう人間じゃないからこそ好きになったのだ。



 岡田のような人間に今まで出会ったことがなかったし、これから先も出会うことはないと思う。

 だからこそ彼との関係を壊したくなかった。




「ただ、そばにいられるだけでいい。」




 臆病な自分に言い聞かされてきた言葉が反芻する。

 私はどうしていたら良かったんだろうか。考えても考えても答えが見つからない。



 迷路の中にいるかのように同じ道を行ったり来たりしていたせいで眠ることも考えるのをやめることもできず、ただただ天井を眺めて横たわっていた。


 いつの間にか手元の振動は収まって、まるで今の私みたいに動かなくなった。


 真っ暗な画面の中に引き込まれるかのようにいつしか意識を失っていた。







 目を開けるとずっと眺めていた天井とは違う色に変わっていた。



「佑海!良かった。本当良かった。」


 ベッドの横で翠が私の手を握りながら今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 翠の姿を見て何だかホッとした気持ちになった。



「立花さん、気分はどうですか?」


 部屋に入ってきた医師の問いかけに小さく頷く。

 私が目を覚ましたことに安堵しながらも医師への連絡は欠かさなかったようだ。さすがである。




「佑海、熱中症だって。もう7月なんだからちゃんとクーラー使わないと。でも本当良かったよ。」


 医師の診察が終わり安心したのか、いつも通りの元気な翠に戻っていた。

 終わった点滴を外しながら話し続ける。




「もう少し寝る?それともベッド起こそうか?」


「じゃあ少しだけ起こしてもらってもいいですか?」



「そしたら私一旦部屋戻ってまた来るよ。何か欲しいものとかある?」


「着替えとタオルをお願いします。それから、」



「何かあったらナースコール押しなね。」


 翠は話し終わるとそのまま部屋を出ていった。

 私は横になったままのベッドで天井を見つめていた。





 翌日、出された朝食に一切手を付けなかった。

 約三日間食事をしていないはずなのに、全くお腹が空いていない。


 昼食も同じことを繰り返したため私の腕には再び管が取り付けられていた。



 一定のリズムでぽたぽた落ちていく雫を眺めていると医師と翠が病室にやってきた。

 回診の時間か。



「立花さん、調子はどう?」


「あんまりお腹空かない?」


「身体はまだだるい?」


「しびれてたり痛かったりするところある?」



 私は全ての質問に首だけで応答した。

 見慣れた病室のはずなのにベッドから見える景色はまるで別物だった。


 患者さんからはこんな風に見えてるんだと冷静に観察する自分とは裏腹に相変わらず身体のだるさは続いていた。


 しかし今回はそれだけではなかった。






「立花さんの検査結果出たって?」


「はい。声帯および腔内の異常は見つかりませんでした。明日の午後からカウンセリングの予約入ってます。」


「そう。何があったのかしら。」


「あの、安田師長。ちょっとご相談が、、、。」






 入院して一週間。

 身体のだるさは以前に比べ少し落ち着いてきたが、思い通りに話すことはできないままだった。



 おそらく心因性失声症だろう。


 心理的ストレスによって声が上手く出せない状態になることがあるのだ。


 先日受けた検査やカウンセリングから考えてもその疑いがあると判断されているにちがいない。

 冷静な自分が見え隠れするのは検査や処置で自分の状態がある程度把握できてしまうからだ。




「立花さん、調子はどう?」


 わざわざ声をかけに来てくれた看護師長にぎこちない笑顔で応えた。


「ちょっと今お話しいいかしら。」


 こくりと一度頭を下げて了承の意を示す。



「あなたならきっともう分かっていると思うから単刀直入に言うけど、心因性失声症の診断が出たの。それで、今後のことなんだけどね。期間は決めずに当分の間は休職という形でゆっくりするのはどうかなと思って。」



「いいんですか?」


 声にならなかったはずの問いかけが安田師長には聞こえているみたいだった。


「もちろんよ。私たちにはあなたが必要なんだから。」と笑顔で私を抱きしめてくれた。


「人手不足とか余計な心配はしなくていいからね。手続きとかも西山さんがやってくれるからあなたは何も心配しなくて大丈夫よ。いつも周りを優先するあなたはとっても素敵だけど、今は自分のことだけ考えればいいんだから。」


 今度は感謝の意を込めて頭を下げた。






 退院の日。


 翠は休みを取ってくれたらしく、私の代わりに荷物をまとめたり手続きをしたりと慣れた手つきでやるべきことをこなしていく。


 気づけば長らく過ごした病室を後にしタクシーの後部座席に二人並んで座っていた。



「今日めちゃくちゃいい天気だね。まぶしい~。」


 目を細める翠の笑顔が太陽以上にまぶしくて、私は目を細めた。



 私たちを乗せたタクシーは私の家とは反対方向へと進んでいき、最終的に知らないアパートの前で停車した。


「さあさあ早く降りて降りて。」


 背中を押されるがままにタクシーを降りると、両手いっぱいに荷物を抱えた翠が「三階まで頑張ろう!」と言ってリズムよく階段を上がっていく。


 私は急いで彼女の後ろをついていった。





 303号室のドアを開け部屋に入ると、翠は荷物を持ったまま間取りの説明を始めた。


 ひと通り説明を終えるとリビングの隅に荷物を置き「麦茶しかないけどいい?」と言って冷蔵庫を開けた。



 自分を置いて進んでいく状況について行けずその場に立ち尽くしているとソファに促された。



「今日からここで一緒に暮らすの、私たち。」


「狭い部屋で申し訳ないけどそこは我慢してね。」


「私ルームシェアとか憧れてたんだよね。」


 学生みたいにはしゃぐ彼女をじっと見つめる。



「佑海は何も心配しなくていいんだよ。何も考えずにゆっくりすればいい。」


 私の眉が少し下がったのを翠は見逃さなかった。



「迷惑かけてるだなんて絶対に思わないでね。迷惑だなんて一度も思ったことないし、私が佑海のそばにいたいだけなんだから。」


 それでも私の眉が上がることはなかった。






 私の問いかけに返事をしなかった佑海を見てまさかとは思ったが、そのまさかは的中してしまった。


 検査結果に異常がなかった時点で心因性失声症を確信した私は、看護師長に佑海の休職についての打診をしていた。


 期間の定めのない休職は病院として異例だったようだが、看護師長が上層部の首を縦に振らせたらしい。

 一体何と言って説得したのだろうか。

 敵に回してはいけない人とは安田師長みたいな人のことだと思う。



 次に佑海と一緒に暮らすための準備に取り掛からなければならない。


 退院までの日にちがあまりなく広い部屋に引っ越すことはできないため、ベッドの位置を移動させたりタオルや日用品を多めに準備したりと必要最低限のことしかできなさそうだ。


 それから佑海が住んでいるアパートの大家さんのところにも行かなければならない。


 あの日、佑海の部屋の鍵を開けてくれたり救急車を呼んでくれたりと色々迷惑を掛けてしまったお礼も兼ねて長期間家を空けることを伝えておいた方がいいだろう。



 休日だけでは時間が足りず夜勤明けに準備や手続きをしなければならないのは正直きつかったが、「今度は私があの子を守らなければ」その一心で身体を動かし続けた。






「俺、推薦だめだったわ。」


「え、なんで。」


「なんでだろうな。俺も分からん。」


 悲しそうに笑う彼に何と声をかけたらいいか分からなかった。

 蓮は部活動推薦でバスケ強豪校へ進学する予定だったが、その推薦がもらえなかったのだという。



「普通に大学行けるほど裕福な家庭じゃないからさ、俺就職することにした。」


「じゃあバスケ辞めるの?」


「そうだね。まあ大学で続けてもプロになれるやつなんてほんの一握りなわけだし、今が辞めどきかもな。」


 私はバスケ部のマネージャーとして三年間彼の頑張っている姿を間近で見てきた。


 蓮は勉強そっちのけで部活動に打ち込み、最後は全国大会目前で敗れてしまったもののキャプテンとして立派にチームをまとめ上げた。



 私がマネージャーになったのは単にマネージャーという響きに憧れていたからで、マネージャーになれるのなら何部だって良かった。


 最終的にバスケ部に決めたのは中学時代所属していたバスケ部なら試合のルールが分かるからという理由だった。



 そんな安易な理由から、いつしかチームを支えたい、彼を支えたいという想いを抱くようになっていた。もちろん後者を口に出して言うことはしなかった。




「翠は看護学校の推薦もらったんだろ。」


「うん。」


「才色兼備の翠様なら推薦なくても余裕だろうけどさ。」


「何それ。トゲのある言い方。」


「冗談冗談。でも翠は俺と違って勉強も手を抜かず頑張ってたから本当尊敬するわ。」


「え、どうしたの?急に。」


「どうもしてないけど。たまにはさ、柄にもないことを言ってみたりもするわけですよ。でもまあ、翠なら絶対推薦で受かるだろうけど、万が一だめでも一般で余裕だろうから気楽にいけよな。」


「え、だからどうしたのって。蓮、もしかして死ぬの?」


「なんでやねん。まだ死なんわ、勝手に殺すなや。」



 蓮が面と向かって私を褒めるなんて柄にもなさすぎることをするもんだから何だか照れくさくて、ついついふざけた返しをしてしまったが本当は彼の言葉が嬉しかった。



「お前が翠様の隣を歩くなんておこがましいってクラスの奴らによく言われるけど、そいつらにお前の本性見せてやりたいわ。」


「いつもありのままですけど?」


 私は足を組み、手に顎を乗せ、片目をつぶって決め顔を披露した。


「魔性の女こえ~。」

 

 いつもの私たちに戻っていた。






「失礼します。」


 職員室を見渡したが担任の姿が見当たらなかったため、頼まれていたプリントを机の上に置いておくことにした。


 目線を上げるとバスケ部顧問の林が職員室から出ていく姿が見えたので、急いでその後を追う。



「林先生、お疲れ様です。」


「おぉ、西山お疲れさん。」


「先生、今ちょっとお時間いいですか?」



 蓮の推薦の件については、林もかなり残念がっていた。


「あいつ頑張ってたから推薦で行かせてやりたかったんだけど、推薦の枠が足りなかったんだよ。」という林の答えに私は納得できなかった。



 全国大会にはいけなかったもののある程度結果は残しているし、蓮はキャプテンだったのだから他の生徒に比べて有利なはずである。


 どうやら林も同じ考えだったようで全力で後押ししたらしいが、進路指導の澤田は首を縦に振らなかったのだという。




「これでバスケ辞めちゃうのはもったいない気もするが、あいつはもう吹っ切れたみたいだし、これ以上俺が口出しするのもな。代わりに金を出してやれるわけでもないし。」



 蓮の家は母子家庭ということもあり、金銭面はぶつからざるを得ない最大の壁のようだ。





 林と別れた後、私はその足で進路指導室にやってきた。



「失礼します。」


「お、西山。どうした?進路相談か?確か西山は看護学校の推薦だったよな。」


「はい。その、推薦のことでちょっとお聞きしたいことがあって。」


「いいぞ。じゃあここ座って。」


「ありがとうございます。」


 私は促されたパイプ椅子に腰かけた。



「面接対策か?それとも小論文あったっけか?」


 澤田は『看護』と書かれたファイルをめくりながら私の向かい側に座った。



「いや、その、私がこんなこと聞くのはおかしいと思うんですが、蓮はどうして推薦がもらえなかったのでしょうか?」


「ああ、日比野か。推薦枠が足りなかったんだよ。一つの高校から推薦入学者がたくさん出たら不公平になるだろ。だから高校ごとに推薦枠がある程度決まってるんだよ。」


 予想通りの返答に当然納得することができなかった。



「それは分かるんですが…。バスケ部はある程度結果残してますし、蓮はキャプテンだったから他の人より有利なはずじゃないのかなと思って。」


「確かに西山の意見も一理ある。でも、部活頑張ってるやつは他にも山ほどいるしそれだけの理由では弱いんだよ。」


「じゃあ、例えば、私が推薦を辞めたら推薦枠が一つ空くってことですよね。そしたら蓮が」


 私が話し終わる前に澤田が諭すように話し始めた。



「西山。そういうわけにはいかないんだよ。受ける学校との兼ね合いもあるし、そんな簡単なことじゃないんだ。」


「そうですよね。勝手なこと言ってすみません。」


 最後の希望が絶たれてしまった。

 だめ元ではあったが、心のどこかでいけるような気がしていた。根拠のない自信というやつだ。



「日比野に頼まれたのか?」


「いえ、私が勝手に。すみません。」


「そうか。そんなにあいつに推薦あげたいのか?」


「まあ勉強はそっちのけでしたけど、バスケには命注いでましたしチームのために誰よりも頑張ってたんで。」


「なるほどな。まあ西山がそんなに言うならかけ合ってみてもいいのだが。」


「え、本当ですか!」



 喜びのあまり浮かれていた私は、この時の澤田の含み笑いに何の疑いも持たなかったことを後悔することになる。







 私は放課後、彼女が教室にやって来るような気がしていた。

 トイレから戻ると予想は的中して教室の中を覗き込んでいる彼女を見つけた。



 西山翠。美人で頭がよくマドンナ的存在の彼女をこの学校で知らない人はいないだろう。

 私も例外ではなく名前と顔は知っていた。あと、バスケ部のマネージャーであることも。



 体育館で部活をしていた時、隣のコートから誰よりも大きな声で声をかける翠の姿を何度も目にしていたからだ。


 しかし三年生が引退してからは彼女の姿を見かけることはなくなった。




 私はちょうど二週間前に部活で肩を壊してしまった。


 試合形式での練習中、チームメイトのレシーブが大きく弾かれコートの外へ飛んでいった。

 そのボールを必死に追いかけ、滑り込んだ先にあった得点板が私の右肩に直撃した。


 当たりどころが悪かったらしく、歩いたり走ったりする程度の振動が加わるだけで肩に激痛が走った。

 そのせいで三週間ほどは部活を休むことになってしまった。




 部活がないとこんなに早く家に帰れるのか。

 こんなことなら学校で宿題を済ませてこればよかった。


 いつもより時間はあるはずなのに何もやる気が起こらず制服のままベッドにダイブした。




 次の日からは放課後の教室で宿題をやるのが日課になった。


 先日席替えをして窓側の後ろから二番目の席になったのだが、この席からは外の景色が良く見えるのですごく気に入っている。


 いつも通り放課後の教室で宿題をしていた時、ふと外に目線をやると副担任の澤田が北棟に入っていく姿が見えた。



 澤田は確か天文部の顧問をしていた。


「そういえば天文部の部屋って北棟だったっけ。」


 集中力の切れた私は指でペンを回しながらぼーっと外を眺め続けた。

 すると再び動く何かが視界に入り、ピントを合わせる。



「あ、翠先輩だ。」


 彼女もまた北棟の中へと入って行った。北棟に何の用事だろう。


 私が宿題を終えるまで二人が北棟から出てくる姿を見ることはなかった。





 次の日の昼食の時間。

 いつも通り机を四つくっつけて弁当を食べる準備をする。



「昨日彼氏と映画見に行ったんだ。」


「お、いいな~。」


「春ちゃんって付き合って何か月だっけ?」


「もうすぐで三か月だよ。」


「先輩の彼氏なんて羨ましいいい。」


 女子高校生の盛り上がる話題ランキングトップ3の中に恋愛がランクインするのは確実だろう。

 恋愛トークの時は、皆の声のトーンが二つほど上がっている。



「彼氏先輩って何部なの?」


 私も皆に合わせて質問をする。


「天文部だよ。」


「え、天文部なんてあったんだ。活動してるの?」


「一応月曜日だけ集まりあるみたいだよ。週一だけだから入ったって言ってた。」



 私たちの高校では何かしらの部活動に所属しなければならないため、帰宅部希望者たちは活動日の少ないマイナーな文化部に入ることが多い。


 私は先程の春香の言葉が引っかかっていた。

 昨日は火曜日なのにどうして澤田は北棟へ入っていったのだろうか。




 今日の放課後もいつも通り教室で一人。

 けれど宿題はやらずにずっと窓の外を眺めていた。


 しばらくすると澤田が、そしてさらにしばらくすると翠先輩が北棟の中へと消えていった。


 今日もまただ。



「え、もしかして二人って…。」


 胸がざわざわする。見てはいけないものを見てしまった時みたいに。

 そこからいろんな思考を巡らせながらも私は出入口から目が離せなくなっていた。



 あれから四十分後くらいに澤田が北棟から出てきたが、翠先輩の姿は未だ確認できていなかった。

 やっぱり私の思い違いだったのかもしれない。


 下校のチャイムが鳴ったので私は席を立った。



 昇降口を出て校門に向かう途中、私の少し前を歩く翠先輩の姿を見つけた。

 足取りが重く後ろ姿からでも何だか疲れているように感じた。





 私は次の日も宿題は鞄の中にしまったままじっと外を眺めていた。

 やはり澤田と翠先輩は北棟の中へと消えていった。私はおもむろに立ち上がると北棟へと向かった。



 放課後の北棟はやけに静かだった。


 北棟は自習室や実習室がメインになっていてクラスの教室などはない。

 他の棟からは結構離れており、実験実習の授業で北棟に行かなければならない時は皆がそろって愚痴をこぼした。


 そのため、わざわざ北棟の自習室を使う者はおらず、放課後はほとんど誰も足を運ばない棟となっていた。



 私は廊下を歩きながら二人の気配を探したが、一階には誰もいないみたいだった。

 そのまま階段を上がって二階、三階、四階と同じことを繰り返したがやはり誰もいなかった。



 部活を休んでいたせいで体力が落ちてしまったのだろう。四階までの道のりで息が少し乱れ足が重く感じた。


 でも、次の階で最後。



 最上階の五階には天文部が活動する部屋がある。


 四階から五階へ階段を上っていくと先程とは明らかに様子が違っていた。

 誰もいない静かな空間からかすかに声のような音のような何かが聞こえた。


 自然と忍び足になる。



 どうやらその何かは女子トイレの方から聞こえてくるようだ。


「え、もしかして。そういうの無理なんだけど。」



 『学校』と『トイレ』の二つのワードから自分の名前を連想させる彼女はすごいけど、今の私にはすごいより怖いが勝っている。


 けれど、わざわざ五階までやってきたのだからという今までの自分が帰らせてはくれなかった。




 私は恐る恐るトイレの入り口付近まで近づくとそっと耳を澄ませた。

 すると、女子トイレから何度も何度も嘔吐く声が聞こえた。


 しばらく続いた後、トイレの個室のドアが開く音が聞こえたため慌てて天文部の部屋に身を隠す。



 部屋の中には天体望遠鏡や惑星の模型、巨大な星座のポスターなどいかにも天文部を思わせるものたちで溢れていた。


 私は相手に気づかれないように扉の隙間からトイレの方向へ目を凝らした。

 しばらくするとトイレから出てきた翠先輩が階段を下りていった。



 足音がほとんど聞こえなくなったことを確認してから部屋を出ようと歩き出した時、私の足が何かを蹴飛ばした。


 拾い上げたその何かからは天文部らしさを一切感じなかった。






 トントン。

 私は二回ノックをしてからドアを開けた。今日もアイツは満面の笑みで私を迎え入れた。



 あの日以来、天文部が活動する月曜日以外はここに呼び出されるようになっていた。


 私は黙ってアイツの目の前まで行き、いつも通り床に膝をついて座るとアイツは満面の笑みのままズボンと下着を脱ぎ始めた。



「翠、いいよ。もっと奥まで丁寧にね。」


 吐き気をこらえながら言われた通りにするが、息が苦しくなって思わずむせてしまった。


「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。まだまだ時間はたっぷりあるんだから。」


 全身に鳥肌が広がっていく。

 それでも、「さあ、もう一度。」という合図とともに口を大きく開けるしかないのだ。




 アイツから解放された後は必ずトイレで嘔吐した。


 胃の内容物が空になっても尚、アイツの声と先程までの映像がフラッシュバックするたびに吐き気が込み上げてくる。



 下校時には疲労感と明日が来る恐怖に苛まれ何度も線路に飛び込もうと思った。


 それを思いとどまることができたのは今までの我慢を無駄にしたくない気持ちと推薦がもらえるかもしれない希望があったからだ。


 しかし、もうそろそろ限界だった。



「死にたい。」


 思わず本音が溢れ出る。




「あの、翠先輩ですよね?」


 突然誰かに名前を呼ばれて我に返った。

 顔を上げると同じ制服を着た背の高い女子生徒が口角を上げてペコっとお辞儀をした。



「はい。」


 誰かと話せるような精神状態ではなかったため、最小限の返事をした。


「このキーホルダーって先輩のですよね?落ちてましたよ。」


 彼女の手にはバスケットボールの上にウサギのキャラクターがちょこんと座ったキーホルダーが握られていた。


 部活帰りにみんなでゲームセンターへ行った時、蓮が取ってくれたものだ。いつもこれを付けているはずのスクールバッグは何だか寂しそうだった。



 いつ落としたんだろう?でもそんなことはどうでもよかった。

 礼を言ってそのまま歩き出そうとすると彼女はこう言った。


「先輩また明日。必ず学校で。」






 目覚まし時計が部屋中に鳴り響く。

 ここ最近はあまり眠れず、朝起きても体がだるい。


 目覚まし時計を止めてから頭まで布団をかぶる。



「あー行きたくない。」


 時間ギリギリまで布団の中にいたが、決心して準備を始める。



「翠、朝ごはんは?」


「時間ないからいいや。いってきます。」


 少し小走りで家を出た。





 昨日あの子に会っていなかったら今日は学校を休んでいたかもしれない。

 別れ際に言われたあの言葉が私を学校まで引っ張っていく。



 校舎が見えてきたあたりで一度腕時計を確認する。

 ギリギリではあるが何とか間に合いそうだ。


 時間が時間なだけに登校している生徒が少なかったため、校門の少し手前で立っている女子生徒が遠くからでもしっかり確認できた。


 彼女は私に気が付くとこちらに向かって近づいてきた。




「おはようございます。」


「おはよう。」


「良かった来てくれて。では。」


 彼女は校門の方へ歩き出した。あまりにも淡泊な彼女を思わず引き留める。



「ちょっと待って。昨日の必ず学校でってどういう意味?今日何かあるの?っていうかあなたは誰なの?」


「私は一年五組の立花佑海です。」


 彼女の自己紹介と同時に校内に鐘が響き渡った。



「うわ、やばい。遅刻遅刻。」


 彼女は「ではお先です。」と言ってお辞儀をすると、あっという間に校舎の中へと消えていった。






「翠おは~。珍しくギリギリだね。」


「あ、うん。」


「はい、席着けよ。」


 教室に入るとすぐに担任がやってきた。



「急なんだが、今日の二限目の英語は自習な。」


 自習という響きにお茶らけ担当の男子が騒ぎ出す。


「静かにしろ。それ受験生の反応じゃないぞ、そんなんで大丈夫か。」


 教室で笑いが起きる中、私だけは動揺していた。

 自習というのはアイツが学校に来ていないということなんだろうか。




 その日は何だか一日中そわそわして落ち着かなかった。


 特に移動教室のない時間割だったため、アイツが学校に来ているのかどうか分からないままその日の授業は終了した。




「はい、席着けよ。連絡事項言うぞ。明日からの英語の授業は和田先生が担当することになったから。あと、急なんだが進路指導担当も北村先生に変更になったからな。」


「澤田先生どうかしたんすか?」


 二限目の自習を喜んでいた男子がクラスメイト全員の疑問を代表した。



「澤田先生は家の都合で学校を辞めることになったそうだ。」


「え、急じゃね。」


「澤やん辞めちゃうんだ。」


 皆がそれぞれ驚きの言葉を口にする中、私だけは違う種類の驚きと衝撃の大きさに思わず固まってしまった。一体何が起きたのか。




 ホームルームを終えると、私は急いで一年生の教室がある東棟へと向かった。

 もちろん立花佑海に会うために。


 しかし、一年五組の教室はもぬけの殻だった。

 すでに帰宅したかもしくは部活動へ行ってしまったかの二択だろう。彼女はどっちなんだろうか。



 その時、背後から私の名前を呼ぶ声がして思わず体がビクッとなる。

 振り返るとそこには立花佑海が立っていた。



「あなたは一体何をしたの?」






 私は先輩を誘って駅前にあるカラオケにやって来た。個室なら場所はどこでも良かった。



 私はあの次の日、翠先輩が北棟に入っていくのを確認した後すぐに後を追った。


 この日は五階に直行した。

 天文部の部屋から声がする。でもこれは昨日とは違う声色だった。



 昨日私が翠先輩の姿を確認した隙間から今日は室内を覗き込む。

 そこには澤田と翠先輩の姿があった。


 その光景に心臓の鼓動がどんどん加速していく。


 どうすればいいんだ。


 考えろ。

 考えろ。

 考えろ。



 想像を超えた状況にフリーズする頭を無理やり働かせる。

 私はとっさにポケットから携帯を取り出した。






「澤田先生。」


 北棟から出てきた澤田に声を掛けた。


「おお、立花こんなところでどうした?」


 その姿は冷静なようにも動揺しているようにも見えた。



「先生こそこんなところで何してたんですか?」


「天文部の部屋に忘れ物したから取りに行ってたんだよ。」


「そうなんですね。じゃあなかなか忘れ物が見つからなくて大変ですね。」


「どういう意味だ。」


「だって、昨日も一昨日もその前の日も北棟に探しに行ってたんですよね?」


 澤田は苦い顔をした。



「これを校長に見せられたくなければ、今日で学校辞めてください。」


 私の手に握られていた携帯の画面に一瞬動揺を見せたが、すぐに元通りに切り替わる。



「これは合意の元なんだ。だから、もしそんなことしたら西山にも影響が出るんだぞ。」


「そんな嘘通用すると思ってるんですか?ちなみにこれ動画なんでちゃんと声も入ってますよ。」


「西山に頼まれたのか?」


「頼まれてません。ってか先生に質問する権利はないですよ。今日で学校を辞めるか校長や教育委員会に報告されるかの二択です。」


「でも、お前、今日で辞めるなんて急すぎて無理だよ。」


「無理なら辞めない選択肢を選べばいいだけです。」


「分かった、辞める。今日で辞めるよ。その代わりその動画を消してくれ。頼む。」


「だから先生には二択以外選ぶ権利はないんですよ。」



 次の日澤田が学校に姿を現すことはなかった。





 翠先輩は私の話を聞き終わると、ありがとうと何度も何度もお礼を言った。


「でもどうしてそこまでしてくれたの?私たち話したこともないのに。」


「もし自分が逆の立場だったら相当きついだろうなと思って。先輩よく耐えましたね、すごいです。」


 翠先輩はぎゅっと私に抱きついて、再びお礼の言葉を繰り返した。





 結局蓮の推薦はだめだったが、彼はもうとっくに吹っ切れている感じで私は単に自分で自分の首を絞めていただけだった。


 佑海の行動には感謝してもしきれない。

 何かお礼がしたくていろいろ考えてみたけど、どれも物足りない気がして結局一週間決めきれずに週末を迎えてしまった。



 週末にヒントを求めてショッピングモールへ足を運ぶと、チョコレート専門店が新しくオープンしていた。

 可愛らしい箱に入ったチョコレートはまるで宝石みたいにキラキラしていた。

 可愛くて美味しいものを嫌いな女子などいない。


 ようやくしっくり来たものに出会えて一安心だ。



 私は週明けに一年五組の教室を訪れた。

 もう一度きちんとお礼を伝えたかった。



「あのぉ、誰か探してますか?」


 小柄な可愛らしい女子生徒が声をかけてきてくれた。


「立花佑海ちゃんっている?」


「ああ、佑海ちゃんならもういませんよ。」


「もういない?」



 佑海は転校してしまっていた。

 家庭の事情で三か月前には転校することが決まっていたようだ。


 彼女は私にそのことを伝えることなくこの学校を去って行った。







 今日から佑海との共同生活が始まった。

 仕事のため先に朝食を食べ終えた私は準備を済ませて足早に部屋を出た。



 佑海の様子が心配だったものの、私の部屋にいることは分かっていたし顔色もだいぶ良くなっていたため私は安心しきっていた。


 それを後に後悔することとなる。




 仕事を終えて帰宅すると部屋の電気はついていなかった。

 まさかどこかへ行ってしまったのか。慌てて靴を脱ぎ部屋に入る。



「暑っ。」


 部屋には昼間の四十度近い熱気がこもっていた。


 リビングの電気を付けるとそこには仕事に行く前と同じ光景があった。

 机にはほとんど手を付けていない朝食、ソファには部屋着姿の佑海が座っていた。



「佑海、大丈夫?」


 慌ててクーラーのスイッチを入れる。

 彼女はあの日こうやって熱中症になったのか。


「佑海、これ飲んで。」


 冷蔵庫からスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出しキャップを外して彼女に手渡したが、中身は一口しか減らなかった。


 私はコップとストローを取りに再びキッチンへと向かった。

 退院は早すぎたのかもしれない。




 その日以来、朝はクーラーと電気を付けて家を出るようになった。


 冷蔵庫の中には作り置きのおかずや調理せずに食べられるもので常にいっぱいにしておいた。

 もし彼女が少しでも何か食べる気になった時のために。



 仕事中は時間を見つけてはこまめに連絡を入れ、休憩時間には一度帰宅するようになった。


 佑海はほとんどの時間をリビングのソファの上で過ごしていた。

 何をするわけでもなくただただそこにいるだけだったが、いてくれるだけでとりあえずホッとした。


 なぜならこの頃から頻繁に佑海がベランダから飛び降りる夢を見るようになっていたからだ。



 今日も佑海が眠ったタイミングで少し仮眠したが、あの夢で目が覚めてしまったため結局一、二時間ほどしか眠れなかった。


 隣で眠る佑海の姿を確認した後、ベランダで夜風に当たった。





 翠の家に来てからも相変わらず何もする気になれなかった。

 ベランダで仰向けになって死んでいるセミの姿が自分と重なって見えた。



 私は学生時代、勉強も部活もそれなりに成績を残してきた。


 それは勉強が好きだったわけでも部活で負けるのが悔しかったわけでもない。

 ただ認められたかった。

 ただ褒められたかった。


 それだけだ。




 テストでいい点を取れば両親は褒めてくれたし、試合で得点を決めればチームから必要とされた。

 自分の価値を他人から求められることで見出していた。


 けれど社会人になってその機会がめっきり減った。


 仕事をするのは当たり前だし、勉強や部活みたいに頑張ったら褒めてもらえるものが大人にはない。



 私は岡田に憧れていたのかもしれない。

 自分の軸をしっかり持った周りに影響されない彼を。


 彼から必要とされれば、彼が私を褒めてくれれば私も彼みたいな人間になれた気がした。


 けれど彼は私を選ばなかった。


 価値のない人間と言われているみたいだった。



 分かっていたことだったけど、彼のそばにいることができなくなった今、私の存在意義はどこにあるのだろうか。







 俺は人生最後の制服姿で西山翠を体育館裏に呼び出していた。


 だるくて長い式の最中も、クラスの女子がすすり泣くホームルームの時間も、部活の奴らと写真を撮っている時も、すでに心の大半は体育館裏にあった。



「翠、俺と付き合って欲しい。」


「ごめんなさい。」


「そっか。他に好きなやつとかいるのか?」


「いえ、いないんですけど。今は部活頑張りたいっていう思いが強くて恋愛する気持ちにはなれなくて。カズキ先輩たちが引退してから先輩たちの偉大さを痛感してて。もっと頑張らなきゃ先輩たちみたいに全国にはいけないなって思ってて。」


 彼女が俺に気を遣って一生懸命言葉を選んで伝えようとしてくれているのがひしひしと伝わってくる。



「さすがだな、翠は。本当最高のマネージャーだよ。」


「全然。私なんてまだまだですよ。お気持ちはすごく嬉しかったです。ありがとうございます。」


「こっちこそありがとな。これからも行けるときは部活顔出すからさ、今まで通りよろしくな?」


「はい。よろしくお願いします。」


 たった今振られたばかりなのに彼女の笑顔を見た途端、幸せな気持ちに変わっていた。






「おい、カズキ。めっちゃ可愛い一年がマネージャーで入ってくるらしいぞ。」


「お前浮かれてねぇでちゃんとアップしろよ。」


「クールぶっちゃって。」


「うるせぇ。」



 今年の新入生にものすごい美女がいるというのは入学式以降かなり話題になっていた。

 どうやらその美女がバスケ部にマネージャーとして入ってくるというのだ。


 俺にその話をしてきたやつはあからさまに浮かれていたが、他のやつらもどこかそわそわしている様子だった。



「はい、集合。」


 監督の合図で俺らは舞台前に集められた。


「今日から新入部員十五人とマネージャー一人が練習に加わることになったからな。じゃあ、一年、順番に自己紹介。」


 指名を受けた一番右の新入生が名前を名乗り、大きな声で「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。


 残りのやつらもそれに続く。



「西山翠です。よろしくお願いします。」


 最後の挨拶が終わるとすぐに練習が再開された。

 けれど俺の心は舞台前に取り残されたままだった。


 完全に一目惚れだった。



 最初は学校中でも話題になるほどの美貌に心奪われた。


 けれど彼女の人柄を知っていくうちに西山翠という人間に惹かれていった。

 気さくで明るい性格も、気配りができるところも、負けず嫌いで少し頑固なところも。



「カズキ先輩、さっきのシュートめっちゃかっこよかったです。」


 その言葉が聞きたくて必死に練習した。きつくてもう限界だと思っても彼女の声援が聞こえてこれば自然と体中に力がみなぎった。



 彼女が俺の原動力となり、どんどんバスケを上達させた。


 不純な動機かもしれないけれど彼女を全国大会へ連れていきたい一心だった。それが達成できた時は本当に嬉しかった。



 彼女は俺の太陽だなんて臭いセリフを他のやつらに聞かれたら絶対バカにされるから死ぬまで口に出すことはないけど、この事実は死ぬまで揺らぐことはない。







 佑海が私の家に来てから三か月くらい経った。

 彼女はかなりやせ細ってしまい、相変わらず話すことはできないままだった。



 私はというと正直体力的にも精神的にもかなりきつかったが、そんな時はあの日のことを思い出すようにしていた。


 そうすると自然と心にも身体にも余裕が生まれた。

 高校生にして人生最大の辛さを経験した私は強い。


 けれど安田師長には全てを見透かされているみたいだった。




「西山さん、お疲れ様。立花さんの調子はどう?」


「お疲れ様です。んー。相変わらずですね。」


「そうなのね。西山さんはどうなの?あなたちゃんと休めてないでしょ?」


「そんなことないですよ。体力だけには自信あるんで。」


「西山さん、あなた有給溜まってたわよね。何日かまとめて取ったらどう?」


「いや、本当に大丈夫ですよ。」


「大丈夫じゃない人はみんな大丈夫って言うのよ。仕事のことなら心配しないで。うちは優秀な看護師ばかりなんだから。もちろんあなたも立花さんも含めてね。」




 結局安田師長のはからいで五連休もらえることになった。


 ただでさえ夜勤を減らしてもらったり休憩時間に一度帰宅するために色々フォローしてもらったりと同僚の看護師には迷惑をかけっぱなしだったが、皆快く了承してくれた。


 恵まれた職場だと改めて感じた。




 連休初日。

 五日休みがあっても遠出をしたりどこかに出かけたりすることはない。

 今の佑海の状態からしてそんな気力も体力もない。完全に私のための休みだった。



 いつも通り二人で朝食を食べる。


 彼女が食事を食べきることはなかったが、用意した全てのものに必ず手を付けた。

 多分そんなに食欲がないのだろうけど、わざわざ準備した私に申し訳なさを感じているんだと思う。


 立花佑海という人間はいつだって相手への気遣いを忘れない。


 自分がどんな状況だったとしても例外はないのだ。



 いつもなら家を出る時間にのんびりしている私を見て心配そうな表情を向けてくる。



「今日から五日間休みなんだ。言ってなかったね、ごめん。何か食べたいものある?時間あるから何でも作れるよ。」


 彼女は黙って首を振った。


「今、朝ごはん食べたばっかりだもんね。ごめんごめん。」



 一日中家にいるのは久しぶりだった。

 仕事が休みでも買い出しやら何やらで出かけなければいけなかったから。


 彼女は相変わらず何をするでもなくソファに座っていた。私は彼女のそばでテレビを見たり本を読んだりした。



 ふと彼女に目をやるといつの間にか眠ってしまっていたため、私は起こさぬようにそっとブランケットをかけた。彼女の穏やかな表情に思わず笑みがこぼれる。


「いい夢見てね。」


 彼女の眠る姿を見ていたら自分も眠たくなってきた。

 そのまま床に寝そべったらすぐに眠りについた。





 目を覚ますと外が少し暗くなり始めていた。彼女はまだ眠っている。

 こんなに熟睡している姿を久しぶりに見た気がする。


 私は鍵と財布だけ持って部屋着のまま部屋を出た。






 目を覚ますとそこに翠の姿はなかった。

 久しぶりによく眠ることができたのは、翠がずっとそばにいてくれた安心感があったからかもしれない。



 玄関の鍵が開く音が聞こえた。


「あ、佑海起きてた?ごめんね、黙って出て行って。コンビニ行ってた。」


 彼女と暮らすようになってから彼女は私に謝ってばかりだ。謝らなければいけないのは私の方なのに。



 彼女が冷蔵庫に買ってきたものをしまっているとインターフォンが鳴った。


「あ、来た来た。」


 彼女は嬉しそうに玄関へ向かう。



 玄関のドアが閉まると彼女はいい匂いを連れてリビングに戻ってきた。


「じゃーん。宅配ピザ頼んじゃった。何だか急に食べたくなっちゃって。あと、コンビニスイーツもお菓子もお酒もあるよ。」



 机の上には懐かしい光景が広がっていた。


 以前は休みが被ると私の部屋でよく女子会をした。

 その時決まってコンビニで大量のお菓子やお酒を買い、宅配ピザを注文した。



「佑海の好きなチューハイ買ってきたけど飲む?」


 彼女の手には桃味のチューハイが握られていた。

 お酒が飲みたい気分ではなかったけれど久々に飲んでもいいかなと思えたのはよく眠れたおかげだろうか。



 翠はいつも通りビールを片手に私たちは久しぶりの乾杯をした。


「あ~美味しい!」


 彼女は久しぶりのアルコールを堪能しているようだった。

 私も翠もお酒が好きでよく飲みに行ったりもした。

 そんな彼女に半ば強制的に禁酒させてしまって申し訳なく思う。




 ピザのジャンクな味が酒を進める。翠は四本目の缶を開けていた。

 酒の強い彼女はいつもはあまり変化がないのに、今日は頬が少し赤らんでいる。


「あ、満月だ。」


 窓の外を指さして驚喜する彼女は美しかった。



 私たちはベランダに移動した。


 少し肌寒かったけどそれを忘れさせるくらい月も美しかった。


「こんな綺麗な月があって、美味しいお酒があって、隣に佑海がいて。もう他に何にもいらないよ、わたしは。」


 どうやら彼女は少し酔っぱらっているらしい。



「佑海はわたしのヒーローだ。いや、恩人だ。いや、神様だ。いや、もはや空気だ。うん、空気だ。佑海がいなくては生きていけないのだよ。」


 私の頭の上で翠の手が優しく二回バウンドする。



「佑海。あの時みたいに突然いなくなったりしないでね。絶対に。お願い。」


 彼女の声は震えていた。

 今にも泣きだしそうだった。


 つられて泣きそうになるのを堪えて「はい。」と返事をした。






 目が覚めるとソファの上で横たわっていた。

 上半身を起こすとブランケットがするりと床へ逃げていく。


 綺麗に片付けられている机を見て昨日の記憶を辿るが、ベランダに移動したところまでしか思い出すことができない。



 玄関のドアが閉まる音がして思わず立ち上がる。


 佑海が出て行ってしまったのだと慌てて追いかけようと玄関へ向かうと、リビングに入ってくる佑海とぶつかりそうになった。



「わ、びっくりした。そんなに慌ててどうしたんですか。」


 驚きが渋滞して言葉にならない。

 私は彼女を思いきり抱きしめた。



 彼女はどうやらゴミ出しに行っていたらしい。

 机の上を片付けてくれたのも私にブランケットをかけてくれたのも彼女だった。



 昨日あの後何があったのかを説明するこの声を、久しぶりに聞く佑海の声をずっと聞いていたいと思った。


 佑海はそのまま何があったのかも話してくれた。


 岡田の結婚と妊娠をSNSで知ったこと。

 それをきっかけにどんどん病んでいったこと。



 岡田に彼女がいることは分かっていたことだけれど、いざ結婚や妊娠を目の当たりにし無意識に抱いていた希望を奪われた時の空虚感は計り知れないものだっただろう。


 その上、佑海は自己肯定感が異常に低い。

 それは彼女と再会したときから感じていたことだった。


 真面目な性格と周りへの気遣いは紛れもなく彼女の長所であるが、同時に短所にもなりかねない域に達していた。


 岡田に必要とされることで自分は価値のある人間なのだと感じることができていたのかもしれない。


 それが叶わなくなった今、自分の価値のなさを突き付けられているみたいでどんどん負のスパイラルにはまっていったのだ。



 私はこれからの自分の使命をはっきりと悟った。そのために私はあの時生かされたんだ。






 佑海が職場に復帰して二か月くらい経過した。


 私は大学時代の先輩が東京で健診専門のクリニックを開業するため看護師を募集しているという噂を耳にした。

 関りがあったのは一年の時だけだったけれどすごく良くしてくれた先輩だったのでかなり印象に残っていた。


 私は先輩にアポを取り詳しく話を聞きに行くことにした。


 今の職場の人間関係を手放すのはかなりもったいないが、それ以上に新しい環境に身を置くことが必要だと感じていた。



 先輩は私たちを大いに歓迎し、その半年後に私たちは上京した。








 俺は約束通り卒業後もバスケ部の練習に顔を出すようになった。



「カズキ先輩、お疲れ様です。やっぱり先輩が来てくれた時の練習の充実度は違いますね。」


「それは良かった。みんなだいぶ仕上がってきたな。」


「そうなんですよ。今年も全国行くって気合十分ですから。」



 けれど彼らは全国大会に行くことはできなかった。

 悔し涙を流す彼女に何と声をかけてやればいいか分からなかった。



 練習の時も最後の大会の時も彼女の視線の先にいる一人の人物に俺は気づいていた。

 彼女を泣かせたあいつを俺は許せなかった。


 俺ならこんな風に彼女を泣かせたりしないのに。




 翠たちが部活を引退した後も監督から声を掛けられたときは練習に顔を出していた。


「カズキお疲れさん。今日もありがとな。」


「いいえ。また人手いる時言ってくださいね。」


 失礼しますと監督に挨拶を済ませ体育館を後にする。



「お、カズキか。久しぶりだな。元気してるか?」


 校門に向かう途中、三年の時の担任だった澤田に声を掛けられた。


「元気っすよ。澤やんも相変わらずで。」


「どういう意味だよ。」


 卒業生が母校を訪れるのは教師にとって嬉しいことのようで、澤田は俺を食堂に誘った。




「へぇ、じゃあ今年は進路指導担当なんだ。」


「そうなんだよ。結構面倒くさいんだぞ。」


 懐かしい食堂のカレーを口いっぱいに頬張りながら澤田の愚痴に耳を傾ける。



「推薦で入ったやつが学校辞めたり、部活辞めたりすると今後の推薦枠に影響が出るからな。お前辞めるなよ。」


 この一言は冗談にも本気にも聞こえた。



「じゃあ、推薦で行くやつ慎重に選ばないと。」


「そうなんだよ。悪い噂を聞いたやつは極力一般に回すようにしてる。」




 澤田は俺の助言を受け、蓮を推薦の候補から外したようだった。


 練習終わりにそのことを残念そうに話す監督の姿に少し申し訳なくも思ったが、翠を泣かせた当然の報いだと自分に言い聞かせる。



 翠は看護の大学に進学した。

 彼女と会うのは年に二、三回あるバスケ部の集まりくらいだったが、彼女は実習やら国家試験の勉強やらで年々参加する回数が減っていった。



 会う頻度が減ると気持ちが離れていくという人もいるが、俺は寧ろその逆だった。

 会えなくても毎日彼女のことを想う度に彼女との思い出は濃くなっていくのだ。




 俺は社会人になってもバスケを続けていた。

 大学のやつらと社会人サークルを作り、月に一、二回ほどのペースで開催していた。


 とある日の試合中、コート内に転がってきたボールがジャンプシュートをした俺の着地地点までやってきて足首をさらった。


 体勢を崩した俺は小指が曲がった状態で咄嗟に床に手を着いてしまったため、みるみるうちに小指が見たこともない色と形に変化した。



 サークル仲間に車を出してもらい急いで病院へ向かった。


 右足は捻挫、手の小指は骨折。

 今日は最悪の一日だ。



 治療を終え慣れない松葉杖に苦戦しながら出口に向かっていると俺の名前を呼ぶ声がした。


「やっぱり、カズキ先輩だ。」



 白色のナース服に身を包んだ天使が俺の元へ舞い降りた。

 翠は去年から北村病院の看護師として働いているのだという。


 最悪の日が一瞬にして最高の日に変わった。





 この日をきっかけに俺たちは二人で飲みに行ったり出かけたりするようになった。

 あの頃と変わらないどころかますます綺麗になっていた彼女の虜になった。


 仕事で辛いことがあっても彼女と会えばあっという間に回復し、彼女との約束を楽しみに仕事にも打ち込めた。

 その甲斐あって営業成績は右肩上がりを続けている。


 今も昔も変わらず彼女は俺の原動力なのだ。




 俺はあの日、体育館裏に翠を呼び出した日のことを思い出すようになっていた。

 今度こそ。俺はもう一度翠に告白する決心をしていた。






 最近翠からの連絡がやけに遅い。

 次の予定を尋ねても『まだ分からないのでまた連絡します。』という曖昧な返事だった。


 仕事で何かトラブルでもあったのだろうか。



 それから二週間後ようやく彼女から連絡が来て食事をする約束をした。

 彼女は俺に話したいことがあるというのだ。何だか嫌な予感がする。




 久しぶりに会った彼女は少し痩せたように感じた。

 やつれたという表現の方がより的確かもしれない。


 料理を注文し終えるとすぐに彼女は返信が遅くなったことを謝罪した。

 そして間髪を容れずに本題に入った。



 俺の嫌な予感は半分的中し半分外れた。


 的中したのは当分会えなくなること。

 外れたのはその理由。体調が悪い後輩の面倒を見るためだというのだ。



 当分会えなくなるのはもちろん嫌だが、理由を聞いてひとまず胸をなでおろす。

 その後輩は翠が一番辛かった時に助けてくれた恩人だという。


 そのでき事について彼女は触れなかったが、彼女にそんな辛い過去があったことを俺は知らない。






 俺は引越しの準備に追われていた。


 いくら荷物が少なくてもやはり引越しするのは手間がかかる。けれど今回の引っ越しはその手間すら楽しく思えた。


 ちょうど一週間前。

 不動産会社からお目当ての物件の203号室に空きが出たと連絡が入ったため内覧せずにそのまま入居を決めた。



 新しい部屋は駅からは少し距離があるものの近くにスーパーやコンビニがあり、通勤時間も五分ほど短くて済む場所にあった。


 この部屋で一番気に入っているのはベランダだ。

 ビール片手に夜空を眺めたり夜風に当たったりするのが日課になっていた。


 翠とはあの食事をした日以来会うことはなかったが時々メッセージのやりとりをした。


 少しやつれてしまった彼女の体調が心配だった。


『後輩の体調はどう?翠も無理しないように。今日は星が綺麗に見えるよ。』



 メッセージを送った後、俺はビールを取りに一度リビングへ戻った。


 明日は仕事が休みなのでもう一本飲むことにした。コンビニで買ったスナック菓子も一緒にベランダへ戻る。


 ビールの缶を開けるのと同時に網戸の開閉音がした。

 このベランダを気に入っている住人が他にもいるようだ。




 俺の携帯は暗闇の中で輝く星たちに負けんとばかりに画面を光らせ、一件のメッセージを受信したことをアピールした。


 送り主を確認した後、夜空を見上げて飲んだビールは格別に美味かった。







 俺は和樹からこの話を聞いたとき、疑いよりも強い興味を抱いた。

 どうやら大手製薬会社に就職した大学時代の先輩が携わっている新薬のプロジェクトがやばいらしい。


 何やら薬を飲むだけで理想の容姿を手に入れられる薬の開発をしているというのだ。



「もしこのプロジェクトが成功したら世界初の大快挙だよ。整形手術しなくても理想の容姿になれるなんて凄すぎるだろ。」


 まるで自分のことかのように興奮する和樹とは対照的に俺は冷静だった。



「それってバスケサークルで仲良かったナベ先輩?」


「そうそう。頭良いしかっこいいしバスケ上手いし、ナベ先輩にできないことなんてないね。」


「なんでお前がドヤるんだよ。」


「いいじゃん。サークルで一番可愛がってもらってた後輩なんだからさ。それにしても俺が東京の大学から戻ってきたと思ったら今度は一樹が東京行っちゃうんだもんな。母さん寂しがってたぞ。」


「それお前が言えるセリフかよ。まあどっちか一人いれば大丈夫だろ。」


「あ、一樹もうすぐ電車の時間じゃね?」


「本当だ。もう行くわ。また連絡する。」



 俺は和樹と別れた後、SNSでダイレクトメッセージを送った。







 田鍋と直接会うのは朝飯前だった。

 和樹の名前を出したらあっという間に会う約束までこぎつけた。


 あいつがドヤっていた通り二人は親しい間柄のようだ。



 田鍋は気さくで面倒見のいい性格のようだった。


 こっちにきてからまだ一か月ほどで知り合いもいないと伝えると定期的に飲みに連れて行ってくれるようになった。




 田鍋と飲みに行くのは今日が三回目。

 俺のことを和樹並みに気に入ってくれているようだった。


「一樹とはもう長い付き合いに感じるわ。」


「それ完全にこの顔っすよね。」


「まあな。でも声も似てる。和樹の方がうるさいけど、落ち着いた和樹って感じ。それにしても和樹に双子の兄ちゃんがいたとはな。」


「あいつから聞いてなかったんですか?」


「兄ちゃんがいるとは聞いてたけど双子とは聞いてなかった。」


 別に隠すつもりはなかったのだろう。俺もあえて双子の弟がいるという言い方はしない。



「そういえばナベ先輩って今すごいプロジェクトやってるんすよね?」


「あ、もしかして和樹から聞いた?内緒にしろよって言ったのに。」


 本当に秘密にしなければいけないことはどんなに信頼している相手であっても話すべきではない。



「多分俺にしか言ってないですよ。ナベ先輩みたいなすごい先輩と仲良いってことを自慢したかっただけだと思うんで。」


「バカだな、あいつは。」


 言葉とは裏腹に嬉しそうに笑った。



「一樹は誰にも言ってないよな。」


「言うも何もこっちに知り合いいないんで。」


「そうだった、そうだった。」




 酒が入っていたこともあってプロジェクトの内容を聞き出すことは容易だった。

 薬の仕組みはこうだ。


 例えば目を大きくしたい場合、目尻を切開するなど外部から手を加えて形を変えるのが一般的な美容整形手術だ。

 しかし、田鍋たちの新薬は目の大きい遺伝子情報を含ませたカプセルを一定期間服用することで元々の遺伝子情報を書き換えるというものだった。



「なんかマンガみたいな話ですね。すげぇ。」


「だろ。これが実用化されたら凄いことになるぞ、まじで。」


「遺伝子情報を書き換えるってことは、例えばなりたい人のDNAを薬にして飲み続けたらその人みたいになれるってことなんですか?」


「そうなんだよ。今は目とか鼻とか体の一部分の情報までしか治験ができてないんだけど、今後はそこも視野に入れてる。」



 俺は今までの会話を頭の中で整理しながら、グラスに残っていた酒を飲み干した。







「良かったな、後輩の子元気になって。」


「はい。一安心です。」


「じゃあまた前みたいにちょこちょこ飲みに行けるな。」


「それが実は…。」



 十か月ぶりの翠との食事に浮かれていた分だけより大きな衝撃を受けた。

 彼女は転職のために東京へ行くというのだ。



 彼女との心の距離を求めれば求めるだけ物理的に離れていってしまう。

 どうしてこうも上手くいかないのだろうか。


 東京へは後輩も一緒に行くらしい。

 以前、翠と一緒にアパートへ入っていく姿を目にしたことがあるが、俺はその後輩に見覚えがあった。


 俺がそのことを思い出したのは東京に来てすぐだった。




 翠から話を聞いた後、ダメ元ではあったが東京本社へ異動希望を出したところまさかのまさか。

 その希望が通ったのだ。神様は俺を見放さなかった。



 初めての土地で知り合いもいなかったため、休日は家でダラダラ過ごすことが増えた。

 その日も特にやることがなく何となくSNSを開いた。


 バスケサークルの仲間の一人が試合風景の動画をアップしていた。


「あー。バスケやりてぇ。」


 ボールくらい持ってこればよかった。

 荷物になるからと実家に置いてきてしまったことを後悔する。


 でもあのボール結構古かったし新しいの買っちゃおうかななんて思いながらそのまま過去の投稿を遡っていく。



 結婚報告の投稿。

「そっか。結婚したって言ってたもんな。」


 かき氷の写真。

「美味そう。あとでアイスでも買いに行こ。」


 昔サークルのみんなで撮った写真。

「うわ。この写真懐かしい。」



 写真とは不思議なもので、自分が撮ったり関わったりしたものでなくても意外と楽しめてしまう。



「あれ、こんな写真撮ったっけ?」


 先程と同じ体育館での写真だったが見覚えがない写真。

 写真のコメントには『久々のバレー』と書かれていた。



 そういえばたまにバレーもやってるって動画見せてもらったことあったっけ。


「あ…。」


 十五人ほどの中にいた一人に焦点が合う。

 そこには翠と一緒にいたあの後輩が映っていた。


 そうか、見覚えがあったのは亮から見せてもらった動画だったのか。



「ちょっと待てよ、まさか。」


 点と点が線で繋がるとはまさしくこのことことだ。

 バスケットボールのアイコンの右隣にはokayanと名前が表示されていた。



「そうか。そうだったのか。」


 普段下の名前で呼んでいたから亮の苗字が岡田であることをすっかり忘れていた。

 翠の後輩が話していた「岡やんさん」とは亮のことだったんだ。


 俺はこの日人生最大のある決意をした。






「カズキ久々だな。東京の生活はどうよ。」


「まあまあだな。」


「何が「まあまあだな。」だよ。かっこつけちゃって。」


「うるせぇ。」


 俺はある目的のために帰省していた。

 久しぶりのバスケとたわい無い会話をついつい楽しんでしまっている自分に活を入れる。



 試合開始のホイッスルが鳴る。

 必死にボールを追いかけながらも絶好のチャンスを逃さぬよう常に亮の動きに意識を向ける。



 亮は俺らがバスケサークルを作った半年後くらいにメンバーの一人が連れてきたのがきっかけで知り合った。


 サークル以外での関わりはなかったけど、会えば普通に話をしたしサークル終わりにみんなで飯を食いに行ったりもした。


 その程度の付き合いでも亮がいいやつであることはすぐに分かった。

 そんな亮に申し訳なさを感じながらも俺の決意が揺らぐことはなかった。




「いってぇ。」という声とともに俺と亮は床に倒れこんだ。亮の腕の引っ掻き傷からは血が滲んでいた。


「悪い。大丈夫か?」


「大丈夫、大丈夫。これくらい余裕。」


 俺は持っていたティッシュで軽く血を拭きとってから傷口に絆創膏を貼った。


「カズキ女子力高いな。サンキュ。」


「まじ申し訳ない。」


「全然大丈夫だって。」


 俺に気遣って明るく振る舞う亮はやっぱりいいやつだと思った。



「あれ、亮白髪生えてんじゃん。抜いてやろうか?」


「え、まじ?抜いて、抜いて。」


「いてっ。見せて。」


「わりぃ。抜けたけど落とした。」


「何だそれ。」




 俺はトイレに行ってから戻ると伝え、先に亮をコートに戻らせた。

 田鍋から渡されていたケースの中にティッシュと髪の毛を入れ、急いでそれを鞄の中にしまった。



 若干不自然ではあったものの、何とか任務を遂行することができてホッとした。


 採取するサンプル量が少なくても支障がないのが何よりもの救いだった。

 可能な限り手荒な真似はしたくない。




 終わりの時間が来たため皆でコートを片付け始める。

 俺がコートにモップをかけていると同じくモップを持った亮が後ろから声をかけてきた。


「カズキも飯行くよな?」


「わりぃ。俺この後そのまま東京帰るんだよ。実は明日も仕事でさ。」


「そっか。仕事大変なんだな。無理すんなよ。」



 亮を含めサークル仲間と会うのはこの日が最後となった。






 薬を服用し始めて一週間。特に変化は感じられない。


 俺はあの夜、田鍋のプロジェクトの治験に立候補した。

 田鍋は驚いた様子だったが、俺の並々ならぬ決意を察し了承した。



 今回は身体の一部を変えるのとは比べ物にならない量の遺伝子情報を投与しなければならない。


 一度に大量の遺伝子情報を摂取することは身体に悪影響を及ぼす可能性が高い。

 そのため様子を見ながら少しずつ調整していかなければならない。


 初の試みではあるが絶対に失敗できないプロジェクトのため慎重に進めていくようだ。



 田鍋からは身体の一部を変える場合の何倍もの時間を要すると説明を受けている。

 俺はどれだけ時間がかかってもこの容姿を手に入れたかった。




 薬を飲み始めてから二か月くらい経過した。

 少しずつ身体に変化が見られるようになってきた。


 一番の変化は目である。もともとは二重で割とぱっちりした大きい目をしていたが今では完全に一重になり、細い切れ長の目に変化しつつある。



 変化を感じられるようになってきた代償に副作用が現れるようになった。

 身体の奥が燃えるように熱くて痛い。身体を冷やしてみても痛み止めを飲んでみても全く効果がなかった。


 あまりにもひどい時は起き上がることすらできず仕事を休まなければならなかった。



 俺は診察時にこの副作用についての相談をした。


 このプロジェクトでは、毎日自分の写真を撮って記録し、一、二週間に一度は診察で体調や変化を報告しなければならなかった。



「前回出してもらった痛み止めは全然効きませんでした。有給も残り一日しかないのでこれ以上仕事を休むこともできないし。」


「仕事のことなんだけど、よかったらうちの会社に来ないか?体調が悪い時は気にせず休んでもらって構わないし急な変化にも対応できる。もう上には話が通してあるから。」



 俺は田鍋が持ち掛けてくれた提案に乗ることにした。

 こんな形で大手製薬会社に入社できるとは思いもしなかった。



 副作用を緩和する薬はなかなか見つからなかったけれど、気兼ねなく仕事を休める環境と身体が変わっていく高揚感で何とか痛みに耐え続けた。







 俺がトイレから戻ると一年のやつらが体育館の一角に集まっていた。



「何やってんの?」


「練習着とか発注するから名前書けって。俺らも先輩たちと同じやつ着れるんだぞ。高まる~。」


 力を入れている部活動は練習着や鞄をチームオリジナルのものに統一する傾向がある。


 同じものを身に付けることで団結力や協調性が高まるからなのか、見た目で相手を圧倒させるためなのか、ただの自己満足なのかは分からない。



「あ、お前の分も書いといてやったぞ。」


「まじ?サンキュ。」


 最後のやつが書き終えるとマネージャーの太田先輩がその紙切れを回収した。




 後日、でき上がったものが届いたようで一人ひとりに配られていく。

 練習着の袖や鞄の右下にはローマ字で名前が刺繍されていた。


「うわ~かっけぇ~。」


 皆のテンションが上がる中、俺は太田先輩に声をかけた。



「太田先輩、俺の名前間違ってるんですけど。」


「え、嘘。」


「カズキじゃなくてイツキなんですけど。」


「本当だ。え、でも注文票にはカズキって書いてあるよ。」


 太田先輩の手元の紙には水谷一樹の上にミズタニカズキとルビが振ってあった。



「え、ごめん。俺カズキだと思ってたわ。」


 入部して間もなかった俺らは互いのことをまだあまりよく知らなかった。

 当時は皆、俺のことを苗字で呼んでいた。



「どうしよう。こっちのミスとなると再注文になっちゃうんだよね。」


 オリジナルかつ名前の刺繍入りともなるとそこそこの金額に跳ね上がる。


「じゃあさ、お前のコートネームをカズキにすればよくね?」


「よくね?じゃねーよ。」



 それからは皆俺のことをカズキと呼ぶようになった。

 先輩も監督も部活とは関係のないクラスのやつらでさえ。


 今までだったらそうはいかなかったかもしれないけど、和樹とは違う高校に進学したため特に支障はなかった。


 一つだけ問題があるとするならば、家で母親が「和樹」と呼ぶとつい反応してしまうことくらいだ。


「あれ、一樹じゃなくて和樹呼んだんだけど。」


「悪い。和樹呼んでくる。」


「あ、いいのいいの。一樹悪いんだけど、ちょっと牛乳買ってきてくれない?」







 俺は大学時代の連れの結婚式という名目で東京にやって来た。

 東京の大学院を卒業後、地元の会社に就職してから一度も訪れていなかったので五年ぶりくらいだろうか。



 久しぶりの東京は何だか騒がしく、空気も視界も人も全てが濁っているような気がした。


 上京したての頃も同じように感じていたはずなのに数か月後にはそれが俺の日常となっていた。

 人間の順応性は凄まじい。




 一樹が東京に転勤になってから約二年。

 最初は時々メッセージや電話でやりとりをしていたが、ここ一年くらいは全く連絡がつかなくなっていた。



 結婚式の会場が偶然にも一樹の会社の隣駅だったので、結婚式終わりに会社近くへ行ってみることにした。


 駅から出てすぐのところで見知らぬ男性に声を掛けられた。

 どうやらそいつは一樹の会社の同僚らしかった。



「お、水谷。久しぶりだな。元気してたか?」


「おう。」


「お前が会社辞めた直後は結構バタバタしたんだぞ。どうだ新しい会社は?」


「まあまあかな。」


「そっか。俺今から予定あるからもう行かなきゃなんだけど、また飯でも食いにいこうぜ。」




 一樹が会社を辞めていたことをこの場で初めて知ることになった。

 数少ない手がかりが一つ減ってしまった。


 落ち込んでいても仕方がないので、とりあえずホテルに戻って着替えることにした。


 7月のスーツは暑くて動きづらい。ただでさえスーツが嫌いなのに持ち運びで手間を取らされてやっぱり好きになれない。



 どうせクリーニングに出すのだからスーツケースにしまってしまえばいいのかもしれないが、皺にならないようハンガーにかけておくことにする。


 昔、別れ際に彼女から言われた一言が頭を過ったが、机の上の携帯がそんなこと忘れろよと言わんばかりに振動した。



『明日二十時で店予約してあるから。』


 メッセージの後に店の位置情報が送られてきた。

 礼を返信した後、二つ目の手がかりの場所へと向かった。




 俺が店に入ると向こうから気づいて声を掛けてきてくれた。

 久しぶりに会う先輩を前にしてとても嬉しそうな様子が伝わってくる。


「カズキ先輩、この後暇だったりします?俺、今日早上がりのシフトだから終わったら飲みに行きましょうよ。」


 一樹の高校時代の後輩が東京でイタリアンの店をやっているという噂を耳にしたので俺はその店を訪れたのだ。



 一時間後。

 仕事が終わった後輩とともに海鮮居酒屋へ移動した。


 実はこの後輩とは初対面ではなかった。高校時代に何度か部活の試合会場で見かけたことがあったからだ。




 俺は中高バスケ部だったが、高校二年の冬で部活を辞めた。

 肘を痛めて思うようにプレーできなくなったからだ。


 一樹には部活を続けるよう何度も説得されたが俺は耳を貸さなかった。辞める理由ができたことに正直ホッとしている自分がいた。



 中学では俺らはチームメイトとして部活に励んでいた。


 それなりに運動神経が良かったこともあり二人ともレギュラーになることができて他のチームから注目されることも結構あった。

 しかし段々と皆の注目が一樹のプレーに集まるようになり、口々にこうつぶやかれるようになった。



「顔は一緒なのにね。」





 中三の秋。

 俺は一樹から同じ高校に誘われたけれどその誘いを断った。


 部活を引退した後もあの言葉が常に付きまとい頭から離れなかった。



「俺はいいや。一樹みたいに本気でバスケやろうって思ってないから。」


 ヘラヘラした自分を演じていないと自分が壊れてしまいそうだった。


 それでもバスケは好きだったから高校でも続けることにした。

 一樹と違うチームでならやっていけるなんて完全に安易だった。




 強豪校に進学した一樹。

 二回戦負けが当たり前の弱小チームの俺。


 周りのやつらが比較をやめるわけがなかった。



「お前の兄ちゃんあの強豪チームでレギュラーなんだって?すごいな。」


 悪気のないチームメイトも。




「あれって水谷一樹じゃね?なんで地区予選にいんの?確かシードだったよな?」


「それは兄ちゃんの方。あいつ弟だから。顔は一緒でもプレーが全然違うんだから。」


「そうなんだ。じゃあ休憩の合間であいつらの試合見に行こうぜ。」


 聞こえてないと思って好き勝手言う他校のやつらも。




「お前も今日試合だろ?お互い頑張ろうな。」


 変わらず俺を対等に扱う一樹も。




 みんないなくなればいいのに。





 高校卒業後、一樹から逃げるようにして上京した俺が今は一樹を探しに東京に来ているなんて当時の俺が知ったらびっくりするだろうな。




「それにしてもカズキ先輩まじ久しぶりっすね。俺が高校卒業して以来だから十年ぶりくらい?」


 どうやらこの後輩は一樹が東京に来たことはおろか高校卒業後の情報をほとんど知らない様子だった。

 またもや俺の予測は不発に終わった。



 これは明日に賭けるしかなさそうだ。

 今日は普通に酒を飲むとしよう。



 一樹からは部活の話をちょこちょこ聞いていたし、高校卒業後に関りがなかったおかげでこの後輩の前で一樹になりきることは容易だった。


 割と話しやすい後輩だったのとアルコールのおかげもあって四杯目の酒が届いたころには素の自分で酒の場を楽しんでいた。



「カズキ先輩、なんか雰囲気変わりましたね。」


「そうか?」


「前より明るくなった感じがします。すげぇ話しやすいです。」


「悪かったな、今まで話しにくくて。」


 あからさまな不貞腐れ顔を作った。


「いやいやいや。そんなこと言ってないっすよ。でも今までは頼れる先輩って感じでかっこよかったんですけど、ちょっと威圧感もあるというか。でも今はもちろん相変わらずかっこいいですけど雰囲気が柔らかくなって話しやすくなったなって。俺、今のカズキ先輩の雰囲気めっちゃ好きです。」



「男から告白されても嬉しくねぇわ。」


 でも本当はすごく嬉しかった。俺という存在を認められた気がして。




「あれ?蓮とカズキ先輩?」


 俺らのテーブルの隣に案内された二人の女性のうちの一人が俺らに声を掛けてきた。

 どうやら高校時代の部活のマネージャーらしかった。



「東京来るなら連絡くれれば良かったのに。偶然でも会えたから良かったですけど。」


 彼女も仕事の関係で東京に来たらしく上京する前までは一樹と連絡をとっていたようだ。

 そして俺への接し方とため口混じりの口調からして割と親しい間柄なのだろう。


 そんな彼女ですら一樹が東京にいることを知らなかった。






 今日は二十時まで時間があるため昼から街をぶらぶらすることにした。

 昨夜は一樹の後輩と偶然にもマネージャーとも会うことができたが大した収穫は得られなかった。



 今のところ分かったことは三つ。


 一つ目は一樹が会社を辞めていたこと。

 会社近くで会った同僚の会話から別の会社に転職した可能性が高い。



 二つ目は周囲の人に東京に来たことを伝えていないこと。

 地元のバスケサークルのやつらは転勤のことを知っているみたいだったから、ほんの一部の人にしか伝えていないのだろう。



 最後三つ目はあのマネージャーのことが好きだということ。


 三つ目に関してはあくまで俺の予想なのだが、会って間もない俺が彼女に好意を抱いてしまうくらいなのだから、部活で支えてもらったともなれば好きになって当然だろう。


 俺なら確実にそうなっているはずだ。




 この三つの手がかりからでは一樹の居場所は到底特定できそうにない。


 一体どこにいるのだろうか。






 俺が上京したての頃、一樹は定期的に連絡をくれた。


 知らない土地で周りは知らない人たちばかり。

 自らそれを望んだはずなのに心細さでどんどん孤独になっていった。


 一樹はそれを察していたのかもしれない。


 比較され劣等感を感じていたあのときでさえ、結局一樹が俺の支えになっていたのだと離れてからようやく気付いた。



 いつも一緒にいることが当たり前だった一樹の偉大さに。

 一樹がいてくれる心強さに。



 今度は俺が一樹を支える番だ。

 上手く声を掛けてやることはできないかもしれないけど、そばにいてやることはできる。





 結局一樹の手がかりを見つけることができないまま約束の時間になってしまった。

 都合よく偶然が重なることなんてそうそうない。


 先に入ってると連絡が入っていたため、俺は急いで店に向かった。





「すみません、遅くなって。」


「おー和樹久しぶり。俺が早く着きすぎただけだから全然大丈夫。」


 大学時代のサークルで一番仲が良かった先輩。

 優しくて頼りになるのはもちろんイケメンで今は大手製薬会社に勤めている完璧人間と言っても過言ではない。



 一樹が東京へ転勤になると言った時に真っ先に先輩の話をしたのは、何か困ったことがあった時に先輩なら一樹を助けてくれると思ったからだ。


 間接的であっても知り合いがいると分かっていれば一樹も少しは安心できるんじゃないかなとも思った。



「お前卒業してから全然東京来ないんだもんな。もう忘れられたかと思ったわ。」


「忘れるわけないじゃないですか。一番仲いい先輩なんですから。」


「なんかお前の言葉薄っぺらく聞こえるな。」


「なんでなんすか。そんなことないっすよ。」


 先輩と話していると大学生に戻った気分になる。

 けれど今は思い出に浸っている場合ではない。




「そういえば、一樹から連絡来たりしました?」


「おう、何回か飯行ったぞ。本当お前とそっくりでびっくりしたわ。まあ双子なんだから当たり前なんだけどさ。」


 やはり一樹は先輩に連絡をとっていたようだ。俺は思い切って現状を打ち明けた。



「実はここ一年くらい全然連絡が取れてなくて。ちょうど結婚式もあったんで一樹の様子を見に来たんですけど、いつの間にか会社も辞めてたみたいで。先輩何か聞いてたりしますか?」


「そうなのか。それは心配だな。」


「元気ならいいんですけど。」


「まあ一樹なら大丈夫だろ。お前と違ってしっかりしてるしな。」


「ちょっと待ってくださいよ。」




 多分先輩は一樹のことで何か知っている。そう思った。

 なぜなら先輩は知らないとは言わなかったからだ。


 普段白黒ハッキリしている先輩が嘘をつく時はいつもグレーになる。

 しかし、最後まで先輩の口から真実が話されることはなかった。



 俺は別れ際に先輩にこう言った。


「もし一樹に何かあったら連絡くださいね。」


「分かった。」


 先輩の言葉を信じて俺は日常へと帰って行った。







 芸能人や小説家など本名じゃない名前で活動している人たちはどうやって名前を決めるのだろうか。

 いざ好きな名前が選べるとなったら意外と決めるのが難しい。



 俺は理想の容姿を手に入れ、母親の旧姓と好きなバスケットボール選手の名前で第二の人生をスタートさせた。


 性格も以前より少し丸くなった気がする。




 飲み会で偶然翠と再会できた時は本当に嬉しかった。

 辛く長かった二年が一瞬にして報われた気がした。




 佑海と初めて二人で食事に行った日。

 二軒目のバルで佑海が酔い潰れてしまった後、俺が翠に連絡したら彼女はすぐさま俺らの元へと飛んで来た。


 その後、翠と一緒に佑海を家まで運ぶと何度も俺に礼を言った。




 佑海と紅葉狩りに行った日。


 俺がリクエストした手作り弁当はもちろん美味しかったが、サプライズで用意してくれた手作りガトーショコラが本当に絶品で同時に懐かしくも感じた。


 俺はその日佑海に告白して俺らは付き合うことになった。

 ようやくここまで辿り着いたのだと歓喜に沸いた。




 佑海を喜ばせたくてイベント前に翠にプレゼントの相談をしたり、時には買い物に付き合ってもらうこともあった。


 俺が佑海を大事にすればするほど翠は喜び俺を慕った。




 ガトーショコラの他にも佑海と過ごす中で懐かしく感じることが多々あって、これは偶然なのか薬の影響なのかは分からなかったけれど正直どっちでも良かった。


 俺の目的とは関係ないことだから。




 最近は三人で会う機会も増えた。


「翠ちゃんも誘えば?」と言うと佑海はすごく嬉しそうだったし、何より俺も翠に会えることが嬉しかった。


 そして今日もこうして三人でテーブルを囲んでいる。

 俺が佑海のそばにいる限り翠のそばにいることができるのだ。






「そばにいられるだけでいい」


 何だかすごく健気な言葉に聞こえるかもしれないが、本当の意味でこの言葉を使っている人はどのくらい存在するのだろうか。



 相手が自分を見てくれなくても


 相手と結ばれる可能性がなくても


 相手が別の誰かと結ばれたとしても



 相手の幸せだけを願い、そばにいられるだけで幸せを感じ、それ以上は望まない。



 例えどんな手段を使っても。




 この言葉を使うには相当な気合と覚悟が必要だ。俺はそのどちらも持ち合わせている。

 これからも俺は一生彼女たちのそばにいるつもりだ。



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