もちろんです、喜んで
ジェーン・クラークソンは子爵家の長女として生まれ、蝶よ花よと育てられた。
祖父が生きていた六つになる頃までの話だが。
父は、やり手の祖父と比べて平凡な──いや、呆れるほどに大変なお人好しだった。
それ故に祖父がいなくなったクラークソン家は急速に落ちぶれた。
領地を持たない分家だったことだけが不幸中の幸いだ。
そんな折、戦争が始まり父は人助けに尽力することなる。
生活は苦しいものだったが何とかやっていけたのは、母がしっかりしていたからだ。
体は弱くてもいつも笑みを絶やさない母はクラークソン家の太陽のような存在で、母がいるなら大丈夫だという安心感があった。
その母が妹のシシーを産んで天に召されてしまった時は胸が潰れる想いだった。
それでも苦難を乗り越え、戦争も終わって細々と暮らしていたさなか、父が騙された。
そして、借金を残して逝ってしまった。
借金は五年前には返せた金額だったが、今のジェーンにはとても返せそうにない。
まだ四つになったばかりのシシーとジェーンを助けてくれる者は誰もおらず、文字通り途方に暮れた。
そんな中、自分と結婚したいという人物が現れた。
男は、加虐性愛の好色家で、父が生きていた時からジェーンにねっとりとした視線を寄越していた人物だった。
嫁げば借金はなくなるが、ジェーンが玩具になることは明らか──この時ほど父を恨んだことはない。
それでも可愛いシシーの為ならばと、決意もできた。
しかし、書類に判を押す直前で男が言ったのだ、「お前の妹は、アンサリの孤児院に入れる」と。
アンサリの孤児院は国境付近にあり、簡単に会いに行けるような場所ではない。
加えてそこは、もう長く生きられない子供が入る施設として有名だった。
同年代の子供よりも体が小さく、喉の器官が少しだけ弱いシシーを「死にかけのガキめ」と言って手で払った男を見て、ジェーンは怒りで書類を破り、幼い妹を抱えて逃げた。
とは言え、十七歳の小娘と四歳の幼子はすぐに見つかった。捜索を依頼され、二人を内密に保護したのがコーエン・バンクスという男だった。
「あの爺よりは、千億倍も良い男だよ」
そう言われて、出された名前がアシュレイ・タウンゼントである。
どうやらアシュレイが出世するには身分が足りないらしく、ジェーンと結婚すればそれが叶うらしい。
借金はもちろん、妹ごとジェーンを引き取ってくれるという話だ。
「さて、どうする?」
悪魔と呼ばれている男をべた褒めするコーエン──胡散臭い笑顔を信じていいのか躊躇われる。
しかし、このままでは自分は下劣な男の玩具になり、シシーとは離れ離れだ。
そして、どちらの男とも結婚しない場合、借金は払えずシシーをまともに育ててはいけない。
ええい、女は度胸だ!
半ばやけくそでジェーンはアシュレイ・タウンゼントとの結婚を決めた。
「ねえさま、かわいいねえ」
「ありがとう、シシーも可愛くしてもらったね」
「うんっ」
「ふふ、回って見せて」
ジェーンは自分の装いよりも、妹のドレス姿に感動した。
髪を結って、淡い水色のドレスを着てくるくる回るシシーはとても可愛い。
これも全て、夫になるアシュレイのおかげだ。
コーエンに保護されてから一月も経っていない今日が、アシュレイとジェーンの結婚式である。
ジェーンは式の日取りが決まった際、アシュレイをこっそり見る機会を得た。
人物画を用意できない代わりに、コーエンにこっそり案内されて訓練中の彼を見たのだ。
アシュレイが自身の出世の為ではなく、自分達を助ける為に結婚を決めたという話は、この日知った。
遠目から見るアシュレイは、髪はぼさぼさで髭面の男だった。
身長が高く姿勢も良いが、まさか二十六歳の若者には見えない。
だが、ジェーンは安心した。
彼の見た目が優れていたら、こちらの申し訳なさは膨らんで、ついぞ爆発してしまう。
なんて思っていたのだが……。
「誓いの口付けを」
神父に言われ、ベールを捲る目の前の男を見て思ったことは『爆発する』だった。
髭もじゃで年齢不詳だった男は、髭がない短髪の爽やかな青年になっていた。
騎士の正装がよく似合う彼の深い赤の瞳に捉えられて、目が離せない。
「えー……誓いの口付けを」
二度目の神父の言葉に、アシュレイの大きな手がジェーンの肩に遠慮がちに添えられた時、なぜだか泣きたくなった。嫌悪ではない。
結局、二回も促された口付けはジェーンの口の端にされた。
がっかりした気持ちと、ほっとした気持ちが入り混じる不思議な感覚は、ジェーンに長い長い余韻を残した。
式は滞りなく済み、体を隅々まで磨かれたジェーンは緊張で心臓が口から出そうな思いで広いベッドの端に浅く腰かけていた。
初夜である。
はっきり言って怖い。だが、それ以上に恥ずかしい。
控え目なノックの後、扉が開いて彼がジェーンの元にやって来る。
ジェーンはバスローブの合わせをぎゅうっと握った。
「隣に座ってもいい?」
彼の声はとても優しかった。
ジェーンは、もちろんという意思表明よろしく大きく何度も頷いた。色気は皆無だ。
一人分空けて腰を下したアシュレイに、ジェーンを怖がらせまいとする心遣いを感じた。
「あ、あのっ!」
意を決して発した声は、裏返らなかっただけましだろう。
ジェーンは合わせから手を離して、頭を下げた。
「かっ……」
「『か』?」
「か、可愛がってください、旦那様……」
この台詞は顔から火が出そうだったし、実際少しだけだが火は出た(出てない)。
「ええと、ジェーンって、呼んでも?」
アシュレイに聞かれて、食い気味に頷けば、「何もしない」と言われて戸惑う。
「え? あ、の?」
どういうことだろうかと、不安になる。
何をされるのだろうと怖がっていたくせに、勝手なことだ。
「俺達は、今日が『はじめまして』だ」
戸惑うジェーンに、彼はゆっくり話してくれた。
「何も分からない相手は、怖いだろう? 特に俺は、こんなんだしな」
否定しながら、『こんなん』とは……どういう意味だろうと思ったが、ジェーンは、この場にいるだけでいっぱいいっぱいで聞くことはできなかった。
「これからずっと一緒にいるんだから、急がなくてもいい。そうだろ?」
子供扱いされてる感も否めないが、その扱いですら久しぶりで新鮮だった。
「おやすみ、ジェーン」
「お、おやすみなさい」
一人分空けて横になりながら、彼には感謝は幾らしても足りないと思った。
「あの」
呼びかけると随分と眠そうな声が返ってきた。
あんなにたくさんの酒を飲まされていたのだ、当然だろう。
「借金のことも、妹も一緒にこの家に住んでもいいと仰ってくれたことも、とても感謝しています。本当に、ありがとうございます。私、アシュレイ様の為なら何でもします……」
彼が、半分寝ていると思えば言葉はすんなり出てきた。
この言葉に、嘘は一つもない。
そして、期待していなかった意外な返事が返って来た。
「……俺と、家族になってほしい」
祖父が亡くなり、婚約が白紙になった自分には、人並みの幸せはないと諦めていた。
自分に声をかけてくるのは、体目当ての男か、金持ちの老人くらいで、男なんて皆そんなものだろうと期待すらしていなかった。
シシーの為だけに生きようと、思っていた。
だけど。
「もちろんです、喜んで」
ジェーンの声は、眠った彼には届かなかった。
だけど、伝える機会などこれからたくさんある──彼は、「ずっと一緒」だと言ってくれた。
「おやすみなさい、アシュレイ様」
二回目のおやすみには、彼の名前を添えた。
明日が楽しみで眠るのは一体いつぶりだろう。
ジェーンは幸せな気持ちのまま瞼を閉じた。