飴が苦手なんだ
ナタリア・ハーディングの婚約が成ったのは、八歳を迎えたばかりの秋口だった。
相手は、ナタリアの二つ年上のバンクス公爵家の次期当主オースティン・バンクスである。
彼は社交界で美しいと評判の母親と、見目麗しい騎士の血を受け継いだ物凄く綺麗な男の子だった。
ナタリアが隣に並ぶにはあまりにも差があったが、ぼんやりしているナタリアがそれに気が付くことはなかった──ただし、『この時は』という言葉を強調したい。
そう、この時のナタリアは子供過ぎてよく分からなかったのだ。
しかし、年月を重ねるにつれて見えてくる。
自分が彼に釣り合わないということが。
「ナタリア、婚約者の方とは順調なの? 失礼はないでしょうね?」
「は、はい……恐らく……」
「もう少しはっきり話しなさい」
「はいっ」
母の冷たい口調にびくりと肩が反応してしまい、また、それを視線で咎められて委縮に拍車がかかる。
こういったびくびくした態度が母をイライラさせているのは分かるのだが……。
「……お義母様? ナタリアとオースティン様は順調ですわ。今日だって、バンクス家に遊びに行くのですよ?」
妊娠の為に帰省している姉のマージョリーが言うと、母は釣り上げた眉を下げて柔らかい声で「ええ、そうだったわねえ」と返事をする。
母は実の娘より、血の繋がらない義理の娘を可愛がっている……と、思うナタリアの考えは被害妄想や嫉妬の類ではなく、純然たる事実である。
母はハーディング家の後妻だ。
若くして儚くなった前妻の子供が兄と姉で、二人はナタリアの腹違いの兄姉になる。
前妻に似て華やかな容姿をしている兄と姉と、今は亡き母方の祖母に似ているナタリアは見た目が全然違う。一目見て、『他所の子』と分かる見た目と言えば分かりやすいだろうか。半分は血の繋がりはあるはずなのだが、見た目ではそれが判断できない。
家族の中で一人だけ金髪ではないナタリアは幼いころから自分が仲間外れだという自覚があった。
そんなナタリアを、マージョリーよりも完璧な淑女にするべく育てているつもり……らしい。姉曰く。
『あなたはマージョリーよりも、見た目がずっと劣っているのだからせめてマナーくらいは完璧になさい』
『マージョリーは、あなたの年にはできていたと言うじゃない。……なのに、どうしてあなたは出来ないの?』
『これ以上失望させないで』
美しく完璧な姉と、自分を比べる言葉にナタリアは酷く傷付いた。いや、今も傷付いている。
オースティンとの婚約が決まってから、母が自分に笑いかけてくれたことはあっただろうか。
残念なことにその記憶がナタリアにはない。
「はあ、お義母様ったら、お父様とお兄様が居ない時は相変わらずなのね。お兄様の奥様になる方は大丈夫かしら? ああ、心配なことばかり。……ナタリアは早くお嫁に行った方が幸せかも知れないわね」
姉がナタリアを慰めるように頬をそっと撫でる。
ナタリアが俯いている内に母をうまいこと言って部屋から出してくれたようだ。到底ナタリアには出来ないことである。
「ナタリア、辛くなったら私達の家にいらっしゃい。旦那様も何日でもいていいと仰ってくれているから」
「はい」とは言ったものの、言葉通りにすれば母は烈火の如く怒るだろう。
ナタリアは姉の華奢な手に自分の手を重ねてほんの一時の癒しの時間を堪能した。
午後にはオースティンとのお茶会がある──二人きりの時にだけ、にこりともしない婚約者と会うのは酷く憂鬱だとこっそり息を吐いた。
「こんにちはぁ」
「こ、こんにちは?」
バンクス家のガゼボでオースティンを待っていると、小さな女の子がにこにこしながらナタリアに挨拶してきた。見たことのない子だが、オースティンの親戚の子だろうか?
斜め掛けの小さな桃色のポシェットがぱんぱんに膨れていて、今にも中身が飛び出しそうだ。
「シシー!!!」
ナタリアがうーんと首を傾げていると、頭に葉っぱを付けたバンクス家次男のカイルが息を切らしてやってきた。
「どうしてシシーは変な道ばっかり通るの!?」
そう言ってカイルは、女の子の手をぎゅうっと握る。
「かいる、あたまに葉っぱついてる」
「そりゃあ、あんな狭い所を通ればね……あっ! ナタリアさん、こんにちは!」
「こんにちは、カイル様」
頭をかき回してる途中でナタリアに気が付いたカイルの顔が赤らむのを見て、笑みが零れる。
「かいるのお顔真っ赤っか」
「シシーのせいじゃないかっ」
「え~? ごめんねえ?」
「……ん、いいよ」
可愛らしい会話に耳を傾けていると、今度こそオースティンがやってきた。
そして、自分の弟がいると知ったのか口角を上げた──彼はナタリアと二人きりの時は笑顔を見せないし、目も合わせない。
「おーすてぃんにいさま!」
ててて、と女の子がオースティンに駆け寄ると、彼は女の子の頭を撫でて優しい顔で微笑んだ。
「カイルと遊んでたのか?」
「うんっ」
子供好きなのだろうか。
ナタリアはそんなことを思いながら、彼を観察……しようとしたところで、ばちっと目が合い、そして、思いっきり逸らされた。
やっぱり自分は嫌われていると、改めて確認させられる。
もしも。
もしも、婚約が解消になったら、母は発狂してナタリアを修道院に送るに違いない。昔、そんなことをまるで脅すかのように言っていた。
でも、それも悪くないかも知れない。家は居づらいし、修道院は婚約者に嫌われているナタリアの正しい居場所な気すらしてきた。
そう思うと、ナタリアは肩の力が抜けた。
だって、ナタリアが修道院に行けば自分の悩みは綺麗さっぱり解決する。
もう母のお小言にも、オースティンを好きな女の子の意地悪や嫌味にも悩むことはなくなるのだ。
「ナタリア、待たせて悪かった」
「いえ……」
二人きりではないので、彼はいつもの顰めっ面ではなかった。
「この子は、カイルの客なんだ。シシー、ご挨拶したか?」
前者はナタリアへ、後者は女の子へ彼は言った。女の子はふるふると首を横に振ってからぺこーっと頭を下げて「ししー・くらーくそん、です。よろしくお願いします」と自己紹介した。
「私はナタリア・ハーディングと申します、シシー様。よろしくお願いします」
「なたりあちゃん?」
「ふふ、はい」
舌足らずな喋り方が可愛らしいお嬢さんだ。
そして、『ちゃん』付けで呼ばれるのはとても久しぶりで、擽ったい気持ちになった。
「あのね、これ、あげる」
シシーはぱんぱんなポシェットから包み紙に包まれたお菓子を二つナタリアの掌に転がした。
「いいのですか? これは……何かしら?」
「あめっこ。いちご味なの。美味しいよ」
ナタリアは飴は苦手だったが、悟らせないように少し大袈裟に喜んでみせた。
そもそもナタリアが飴が苦手だということは殆どの者が知らない……母ですら知らないことだ。
でも、それを悲しいとか寂しいという気持ちは、もうない。
「シシー、ナタリアは飴が苦手なんだ」
え……と驚いたナタリアの声は音になっていなかった。と、思う。多分。
「そうなの? じゃあ、クッキーは?」
「ああ、クッキーなら大丈夫」
ナタリアの手から飴玉がなくなり、その代わりにクッキーが包んでいるであろう包みが乗せられた。
「でも茶会だから、菓子は揃っているんだけどな?」
「ほんとだあ。お菓子がたーっくさんあるねえ」
オースティンの言葉に、シシーの視線が用意されているお菓子に向く。
その目がきらきらと輝いているのを見たナタリアは、気が付くと「カイル様とシシー様もご一緒にいかがですか?」と誘っていた。
いつも通り無言が続くはずだったお茶会はカイルとシシーのおかげで思いがけず楽しいものになった。
お菓子の食べさせ合いっこしているカイルとシシーにメイド達の表情も柔らかい──いつも彼女達は強張った顔をしている。
「なたりあちゃん、なたりあちゃん」
「はい、何でしょう?」
会の中盤、ナタリアの横にやってきたシシーに「お耳かして」と言われたナタリアはシシーの口元に耳を寄せた。
「なたりあちゃんが、おーすてぃんにいさまと、結婚するってほんとぉ?」
本人は内緒話のつもりらしいが、シシーの声はオースティンに届いている気がした。
が、それは些末なことだ。
ナタリアは、「そうですよ」とシシーの耳元で囁いた。
「ししーはね、かいるのお嫁さんになるの」
「まあ、お二人は婚約なさっているのですね」
「こんやくって、なあに?」
「結婚を約束することですよ」
「へ~」
「シシー様はカイル様がお好きなんですね」
「うんっ。ししー、かいるのこと、だあいすき」
「素敵ですね。……あら、お口の横に食べかすがついてますよ」
にこにこしているシシーの口の端の食べかすをナプキンで払おうとすると、いやいやと逃げられてしまい、彼女は自分の席に戻ってしまった。
余計なことをしてしまったかも知れないと反省していると彼女の隣に座るカイルが、がしっとシシーの顎を掴んで「やーん!」と嫌がるシシーの口元を拭っていた。『大好き』と言われた照れ隠しにしてはやや乱暴に見えたがシシーもお返しと言わんばかりにむんずっとカイルの顎を掴んでいるのを見て、何となくこれが彼らの日常なのだなあと妙に納得した。
「正式な婚約ではないんだ」
わちゃわちゃしているカイルとシシーを眺めていると、唐突に、オースティンがいつものトーンでナタリアに言った。
「……え?」
「口約束というのが正しいな」
「あ、そう、だったんですか……」
知らなかった──彼と自分の婚約が親同士の口約束だったなんて。
てっきり正式な婚約だとばかり思っていた。
しかし、このタイミングでこのように言うのはなぜだろう? 彼に正式な婚約者が出来たということだろうか?
「で、では、私はもうオースティン様の婚約者と名乗らない方がいいということなのでしょうか……?」
声が掠れてしまい俯くと、がちゃん、とカップがソーサーにぶつかる音がした。
顔を上げると、目を見開いたオースティンがナタリアを見てぱくぱくと口を動かしている。
「オースティン様?」
「…………は? ……え? ……あっ、いいや、違う違う! これはカイルとシシーの話で……俺達は正式な婚約者だ!」
ナタリアは、自分のことを『俺』という彼を初めて見た。
ついでにこんな取り乱している彼も。
いつも冷静で、ナタリアに興味がない婚約者の見たことのない姿に驚いて息が詰まる。
「だから……どうか、これからも俺の婚約者と名乗ってほしい」
真剣な顔で、眉を顰めている顔は『いつもの顔』だ。それに加えて今日は耳まで赤い。
もしかして。
もしかして、今までの表情は『照れ』だったのだろうか。
そう思うと、可笑しくてたまらない。
ナタリアは思わず噴き出した。
「かいる、なたりあちゃんは、どうして笑ってるの?」
「え? 分かんない。兄さんが面白いこと言ったのかな?」
「おーすてぃんにいさま、なんて言ったの? もっかい言って?」
「兄さん、僕も聞きたい!」
「……ナタリア、笑い過ぎだ……」
「ふふ、ふふふっ、ごめんなさい。でも、可笑しくって」
オースティンの必死さに、ナタリアの笑いはなかなか止まることはなかった。
きっと次のお茶会から憂鬱なんて感じないだろうという確信に似た予感は、ナタリアの胸を温めた。
そして、ナタリアが飴が苦手なことを知っている理由を聞こうと心に決めたのであった。
オースティン・バンクス(十五)
ナタリア・ハーディング(十三)
カイル・バンクス(八)
シシー・クラークソン(七)




