その時は……
ベンジャミンが十歳になった年、四つ下のクラークソン家の長女との婚約が白紙になった。
彼女の祖父が急逝したことで、クラークソン家からの恩恵が期待できなくなったことが理由だ。
婚約を白紙にする話し合いの場所は家具が差し押さえられたクラークソン家だった。そこは酷く閑散としていたことを今でも覚えている。
帰り際、ベンジャミンは不安気な元婚約者の少女の目に気付かないふりをして踵を返した。
もう彼女の機嫌を取る必要はない。
ただそれだけを思った。
第三皇子の誕生パーティはとても華やかなものだった。
昨年平民と成婚されたキャデラック殿下とは一度ご縁があり話したことがあるが、素晴らしい人格者だったことを思い出す。もしかしたら、今日も縁があり直接ご挨拶ができるかも知れない。
そんなことを思いながら、つい最近、経済的理由から婚約が白紙になったベンジャミンは会場で第三皇子を目で追う──一度目の婚約の白紙はこちら側からの希望だったが、二度目の婚約の白紙は相手側からの希望である。
人に囲まれながらも自身の妃にぴったりと寄り添う第三皇子を見た周囲の女性達がうっとりと溜め息を吐くのを感じながら、第三皇子と皇子妃が人の輪から抜けるのを確認する。
本日の主役が途中退席なんて……と眉を顰めていると、どうやら親しくしているバンクス公爵夫妻と歓談の場を設けて三十分ほど席を外すとのことらしい。
ベンジャミンは舌打ちしたい気持ちになった。
この世は公平ではない。
戦争が終わって少し考え方は変わり、次代国王の第一皇子の方針により今後は変化してしていくだろうが、やはり今は『身分』が貴ばれる。結局のところは、『身分』なのだ。
だって、ベンジャミンだって生まれが『子爵』でなかったのなら、今頃こんなに苦労していることはなかったはずだ。
きっと素直で可愛い若い女を妻にできていただろうし、コーエン・バンクス公爵のように老若男女から尊敬の眼差しを受けていただろうし、第三皇子の肩を叩いて笑顔で気安く会話もできていただろう。
持っていたグラスのワインをぐっと飲み干す。
流石、生誕祭のワインというべきか。乱暴に飲み干すにはもったいないほど上等なワインの味にベンジャミンは今度はもっと味わおうと反省しながらおかわりをする。
その時、一組の夫婦の会話が耳に入った。
「このワインはだめだ。飲まない方がいい」
気に入りのワインを貶されたと振り返った先にいたのは、国の英雄だった──名前は失念したが、黒髪に赤い瞳を見てすぐに分かった。
彼は『悪魔』だとか『狂戦士』だとか囁かれたりもしたが、戦争を経験した男で彼に憧れない者などいない。
予想していた彼は巨漢だったが、実際の彼はそんなことはなかった。しかし身長は高く背筋が良く隙が無い、服を着ていてもしなやかで無駄のない体をしている。
「えっ、美味しくないんですか?」
「いや、美味いよ。でも、度数がな……こっちの葡萄ジュースにしておこうな?」
「ふふ。はい、そうします」
そういえば、結婚したという話を聞いた覚えがあった。
しかし、会話している女の声が若い。後ろ姿しか確認できないが、編み込んだレース越しに見える肌が白く、ごくりと喉が鳴る。
「あ、これ美味い」
「どれですか?」
じいっと英雄の隣にいる彼女の後ろ姿を見つめていたせいか、英雄が壁になり美しい背中は隠されてしまった。偶然か、はたまた英雄の悋気かは不明だ。
「これ。中にチーズ入ってるやつ」
「アシュレイ様って、チーズ好きですよね」
「うん」
「あの、私もアシュレイ様と同じのを食べたいです」
「じゃあ、取り分けるよ。あ、このニンジンのは入れないから安心していいぞ」
「もう!」
会話を何ともなしに聞いていると、英雄の名前が判明した。
そうだ、彼の名前はアシュレイ──アシュレイ・タウンゼントだ。
それにしても、なんとも仲の良い夫婦だ。
声色から彼の妻がアシュレイを好ましく思っているのが分かるし、意地の悪い人間をアシュレイが自分の妻に気付かれないように目や態度で追い払っている。
ベンジャミンはこうなると酔いも回ってきたせいか、アシュレイの妻の顔をどうしても見たくなってきた。
そして、その機会は思いがけずに突然に起こった。
「おっ、アシュレイ、やっと見つけた!」
アシュレイに話しかけたのは、コーエン・バンクスとその妻だった。
「アシュレイ・クラークソンの妻、ジェーンでございます」
周囲がしんっとした中、美しい挨拶をしたのはかつての婚約者ジェーンだった。
昔ありきたりでつまらないと思っていた茶色の髪には艶があり、素人目で見ても高価で繊細な造りの髪飾りがあった。
後ろ姿も美麗であったが、正面から見るジェーンはもっと綺麗で眩しい。
不安気な瞳で母親の手を握っていたあの少女と同じ瞳なのか疑うほどに輝いているエメラルドの瞳が、今はアシュレイを見つめてきらきらと輝いている。
その目を見たら誰だって分かっただろう、彼女の瞳が『恋する瞳』だってことが。
バンクス夫妻の後に続き、アシュレイとジェーンが向かった先は第三皇子が無理を言って設けた歓談の席だった。
仕切りの向こうのテラスでどんな話がされているのかを知ることができる者は、ベンジャミンを含めてほとんどいない。
「吃驚したなあ、クラークソン子爵夫人があんなに可憐だったなんて」
「あんなに可愛いなら流石の英雄も助けずにはいられないってやつ?」
「いや、どうやら二人は結婚式が初対面だったらしい」
「ええ? それ本当か?」
「ああ。正真正銘、夫人と妹君を助ける為だけの婚姻だったとか」
「ええ? すっげえな……つうか懐広すぎないか?」
「だな。それに加えてあんなに仲睦まじいし」
「……なんか、やっぱりあの男は別格だわー」
「ああ」
感心したように話すのは子爵位より格上の者達だ。
そしてベンジャミンはアシュレイがタウンゼント姓ではなくクラークソン姓になった理由を知った。
「でもあいつが子爵位を金で買ったことは事実だろ!」
男二人がアシュレイを讃辞している中、突如横やりが入った。
「テオフィモ、お前は戦争に行かなかったから分らんのだろう。彼は、」
「待て、こいつに何言ったって時間の無駄だ。行こうぜ。……じゃあな、テオ……いや、スパンジャーズ」
「おい! 待てよっ!!」
ベンジャミンは地団太踏むテオフィモ・スパンジャーズであろう男を蔑みの意を込めて見ていたが、そういった視線で奴を見るのは自分だけではなかった。
しばらくして、歓談の為に閉められていた扉が開き中から三組の夫婦が出てきた。
第三皇子と皇子妃とバンクス夫妻はあっという間に人々に囲まれている。
一方のアシュレイとジェーンは……どこだ?
きょろきょろと見渡すが、見つけられない。……というか、なぜ自分はこんなにあの二人が気になるのだろうか。
酔っているせいだと思い、庭に涼みに行くと、そこに先ほどまで探していた二人が月明かりの下、会場から聞こえる演奏に合わせ踊っていた。
アシュレイがジェーンを軽々と抱き上げると、ジェーンが楽しそうに笑う声が耳に入る。
『でもあいつが子爵位を金で買ったことは事実だろ!』
あの言葉が真実だったとしても、あの二人を見てそれを信じる者はいないだろうとベンジャミンは思った。
自分もあの喚く男のように傲慢な部分があったと恥ずかしい想いに駆られる。
一に身分、二に身分、と言って嫉妬している自分が恥ずかしくて堪らない。
でも、今気付けて良かった。
そして、恥ずかしくない人物になった時、話すことを許してもらえるのなら──
「その時は……」
──顔を合わせて話をすることを許してほしい。
自分はまだまだこれからだ。
人は変わろうと思ったその時から変わることができるのだから。
ベンジャミンは決意を胸に、踊る二人に背を向け会場に戻っていった。




