本当に泣き虫だなあ
最近、ジェーンはとっても眠い。
寝ても寝ても、眠い。
いつも、眠たい。
倦怠感が常に付きまとい、ぼんやりしてしまう。
昨日なんて夕食を食べている途中で船を漕いでしまった。
「──えっ、お医者様……ですか?」
「うん。詳しくはコニーとノラに聞いて」
朝、仕事に向かうアシュレイを見送る際、『医者を呼んだ』と言われたジェーンは困惑した。
「お医者様なんて、大袈裟だと思います」
だって、ジェーンはただ怠いだけで、特に体調は悪くないのだ。
「うーん……俺を安心させると思って、かかってくれない?」
アシュレイを安心させる為──こう言われてしまえばジェーンは断れない。
それに、心配症の夫が安心するなら医者に診てもらい、何でもないと証明してもらうのが一番だろう。
「もう……分かりました」
「ありがとう。じゃあ、行ってくる」
アシュレイが屈んで、ジェーンは反射で彼の肩に手を置いて踵を上げた。
そして、「行ってらっしゃい」と言って、アシュレイの頬に口付ける。
後ろに控えている使用人達の目は正直まだ気になるし、この行為にも全然慣れないが『行ってらっしゃいの口付けをすると夫の寿命が延びる』らしいとエリーに聞いてから、続けている。
騎士という職業柄、他の職業より命の危険が伴う夫には、少しでも長く生きてほしい。
最初の頃は、アシュレイもジェーンにつられて頬を赤くしていたが、今ではこうして催促してくるほどに慣れてしまった。
言い出しっぺのジェーンは毎日どきどきするのに、ずるい。
こういう時には年の差が恨めしい。いや、気持ちの差だろうか?
絶対、ジェーンの方がアシュレイより『好き』の気持ちの比重が大きいと思う。
「にいさま、いってらっしゃーい」
「うん。行ってくる。いい子にしてるんだぞ」
「ししーは、いっつもいいこです!」
「ははっ、そうだな」
シシーをぎゅーっと抱き締めて、頭をくしゃっと撫でてからアシュレイは今度こそ仕事に向かった。
後ろ姿も格好良いなとぼんやりしていると、心配そうに眉を下げるノラに声をかけられた。
「奥様、大丈夫ですか?」
「……え?」
「ぼんやりされているように見えたので……」
「あ、うん、ごめんね? やっぱりまだ眠くて」
「少し横になりましょう」
「でも……」
昨日も一昨日も、先週もアシュレイが仕事に行ってすぐ横になっているので、さすがに罪悪感があって素直に頷けない。
それに勉強もレッスンもずっと休んでいて、これ以上は休めない。ただでさえ、ジェーンは色々遅れているのに……。
「奥様の体調が第一優先だと旦那様に申し付けられております。奥様が無理をすれば、私が叱られてしまいます」
悲しそうな顔のノラにこんなことを言われてしまえば、ジェーンは頷くしかない。
とは言え、眠気が限界になったこともあり、ジェーンは罪悪感に浸ることもなくすぐに寝入ってしまった。
そして、二度目の起床後、昼食を終えたジェーンは眠気を堪えながら医者の診察を受けた。
──結果から言うと、ジェーンは妊娠していた。
出産経験のあるアンナや使用人達は『やっぱりね』という表情で、ノラもそれほど驚いてはいなかった。
そういえば、と思い当たる節は幾つもあるのだが……ジェーンは実感が湧かない。
「ねえさまのおなかのなかに、あかちゃんいるの?」
「そうですよぉ」
「ししー、おねえさんになる?」
「はい、お手本になるお姉さんにならないといけませんねぇ」
「うん!」
シシーとアンナの会話を聞きながら、ジェーンはやはりぼんやりしていた。
医者からの注意事項をノラが質問を挟みながら聞いている内容によると、ジェーンの異常な眠気も倦怠感も体の火照りも妊娠初期の症状らしい。
アシュレイはきっと喜んでくれるだろうな、とジェーンは思った──シシーのことも可愛がっているし、ココにもこっそりお菓子をあげたりと、彼は子供好きだから、自分の子供にならば尚更に、愛情をかけるに違いない。
「ねえさま、ねむねむ?」
「うん、ちょっと眠いかな」
座っているジェーンの膝に、シシーが顎を乗せて甘えてきたので頭を撫でてやると妹は「えへへ」と嬉しそうに笑った。
人見知りだとばかり思っていた妹が、実はそうではなかったと知ったのは割と最近のことだ。
シシーは、ジェーンが信用していない人間には懐かない。
どおりで、ジェーンが嫉妬するほどシシーがアシュレイに懐くはずだ。
「ししー、いいおねえさんになるね」
「ええ? 本当に?」
「ほーんとー!」
「ふふふ」
やる気満々のシシーに笑みが零れる。
ついこの間まで赤ん坊だったのに、子供の成長は早いなと感慨深くなる。
最近は咳の発作も起こらず、食欲も旺盛になったシシーのふくふく柔らかい小さな手の温かさに何か込み上がるものを感じながら、ジェーンは幸せを噛み締めた。
昔のジェーンは、シシー以上に甘えたで我が儘な子供だったが……この可愛い妹も、叔母になることで姉に甘えなくなったりするのだろうか?
「……それは寂しいなあ」
「ねえさま、なあに?」
「何でもないよ、甘えん坊さん」
ジェーンは、シシーにはずっとこうして自分に甘えてくれる妹でいてほしいなと思った。
アシュレイが帰宅すると、ジェーンは彼が着替えに行く後に着いて行き、昼間の診察の結果──妊娠のことを告げた。
「ああ、やっぱりそうか」
そして、この返答である。
……全然驚いてない。
「気付いてたんですか?」
「うん。何となくね。いつもよりジェーンの体温が高いなって思ってたから」
体温が高かった、とは肌を合わせての感想だと分かって恥ずかしくなる。
アシュレイはこういうことを、いつもさらっと言ってしまうのだ。
「……」
──それにしても、皆が驚かなかったことが本当に不思議である。
どうしてだろう、と思っていると引き寄せられてアシュレイの腕の中に閉じ込められた。
何だかいつもより腕に力が入っていない気がするのは気のせいではなく、アシュレイがジェーンのまだ膨らんでいない薄い腹部に気を使っているからだろう。
「ジェーンは、自分のことに頓着がないから気付かなかったんだと思うよ?」
いつもよりも優しい口調のその言葉は、以前にも言われた覚えがあるものだった──『今までは体調が悪くても、我慢してたから平気に感じるんじゃないか? これからは、ちゃんと自分のことを気にしないと』
「これからはちゃんと気を付けないとな?」
既視感のある付け加えられたアシュレイの言葉に、ジェーンは素直に頷いた。
どうしても自分のことを後回しにしてしまうジェーンだったが、これからはそうもいかない。
なんせ、腹の中にはアシュレイの子供がいるのだから──この時、ジェーンはようやく子供を授かったという実感が湧いてきた。
「ジェーン?」
「……はい」
「あ、また泣いてる」
アシュレイの言葉が、とても嬉しそうでジェーンの目頭が熱くなる。
「だって……」
アシュレイと出会ってから、ジェーンは泣いてばかりいる。
「本当に泣き虫だなあ、ジェーンは」
と言いつつも、ちっとも面倒臭そうではないアシュレイがジェーンの背中や頭をよしよしと撫でる。
「いや、色々不安だよな……仕方ないか。ごめんな」
どうやらアシュレイは、ジェーンが不安で泣いていると思っているようだ。
「違います、私……嬉しくて」
もちろん不安もあるが、アシュレイの子供を授かったことを本当に嬉しく思う。
「そっか。でも、本当に無理はしないでくれよ?」
「はい」
ジェーンは、隙間を埋めるようにアシュレイを抱き締め返しながら、『泣き虫』はしばらく直りそうにないなあと思った。




