第六話
「殺せええ!」
「やっちまえ、比良坂!」
「ぶっ潰せええ!」
殺気立った声が私達の頭上を飛び交っている。
あぁ、ダメだって。
こんなところで終わらせちゃ。
お客さんはみんなせっかちなんだから。
まともな大会でも総合ルールならダウンで試合は中断されない、それなのに秋枝さんは私が立つのを待っている。
私は佇む秋枝さんから視線を逸らさずに金網を掴んで立ち上がった。
右目周辺の血を拭って視界がクリアになると同時に秋枝さんが身構える。
秋枝さんの脇を締めて拳を肩の高さに置く構えを見て、格闘技の素人の私にもなんとなくわかった、秋枝さんは殴りに来る。
私も同じようにキックやタックルを考慮しないボクシング風に身構えた。
秋枝さんがスッと目を細める。
気が付けば観客の声は消えていた。
中途半端なカウンターでは秋枝さんは止まらない、倒すには完璧なタイミングで急所を打ち抜く一撃を入れる。
それには「その先」しかない。
一昨日の特訓の際、夢乃さんに中段突きを決めた時の映像と感触を思い出す。
あれを今ここで、秋枝さんを相手にやる。
お互いに左右へのフットワークや牽制のジャブはせずに真っ直ぐに間合いを詰めていく。
できるのか?
あの、まぐれ当たりみたいなことをもう一度。
ともすれば緊張でガチガチに硬くなりそうな四肢をゆっくりと深い呼吸をすることでほぐした。
秋枝さんの視線が毫も逸れることなく私を捉え続けている。
残り数cm近づけば一呼吸の踏み込みで攻撃が届く距離になる。
もうすぐ。
あと少し。
今、ここ!
その瞬間、身体中に打撃の感触が甦った。
ダメ。
一度あの打撃の重さと痛みを知ってしまったら、もう蛮勇で跳び込めない。
一瞬の迷いの間に秋枝さんが懐へ跳び込んで来る。
右目の下の頬骨から額にかけて爆ぜるような衝撃。
私は打撃を喰らってから、それが下から打ち上げる縦の肘打ちだと気づいた。
更にボディへの二連打を喰らい私はまた闘技場の縁へ押し戻される。
ガシャンと背中が金網にぶつかった時には秋枝さんが眼前に迫っていた、顎を引いた姿勢で身体ごと突っ込んで来る。
頭突き!?
左右に動く余裕がなかった私は顎を引いて顔面への直撃だけは避けた、額と額がぶつかり合う。
私は衝撃に揺れる頭で相手の胴体にしがみ付いた、何の戦術があるわけでもない避難のようなクリンチだ。
「そうらっ!」
すぐに秋枝さんは私を腰に乗せて投げ飛ばす、私が倒れて背中にマットの感触を感じた次の瞬間には既に馬乗りに乗られていた。
「シッ!」
容赦ないマウントパンチが私の顔面を叩く、痛みに鈍る頭で防御を考え始めた時、私は自分が置かれた状況を理解する。
秋枝さんは私のお腹ではなく胸の上に乗り、左脚は私の右の脇下に置いて右脚は私の左肩の上に置いている、この姿勢で私の左腕は秋枝さんの背中側に入ってしまい防御に使うことができない。
更に残った私の右腕は左手で掴むことで私は完全な無防備になり秋枝さんは残った右拳で攻撃することができる。
二度三度とパンチを打ち込まれるうちに私は途切れそうな意識の中で相手の攻撃のリズムを感じた、体勢が完成しているが故に攻撃は単調になっている。
パンチを打ち下ろす際の重心が僅かに前に傾く瞬間を狙って私は自由になっている両脚を振り上げた。
相手の背面から自分の両脚を脇や首に絡めて体勢を変える。
パンチに合わせて私が両脚を振り上げた瞬間、胸の上の重さが消えて相手が横方向に90度回転した。
私の右腕を抱え込んだ秋枝さんが自ら仰向けにマットへ倒れ込んでいく。
これは、腕十字固め!
秋枝さんの動きには説得力があった、格闘技未経験者の私でも肘関節が破壊される痛みの予感に右腕から背中にかけて鳥肌が立つ。
逃げる!
どうやって?
逃げようにも逃げ方がわからない。
関節が限界まで伸ばされた肘の一点に細い針を刺されたような鋭い痛みが走る。
折られる!
覚悟した瞬間、腕のロックが解かれて勢いよくすっぽ抜ける、反動でマットを転がった私は充分に相手と離れたと判断して立ち上がろうとした。
私が片膝立ちになった時点で、秋枝さんは眼前に迫っている。
「シッ!」
側頭部を狙った右の廻し蹴りは私が無造作に掲げた左腕に命中する。
「ぐっ…」
骨が軋むような衝撃。
技術を伴わない受けは、受け止めた腕へダイレクトにダメージが蓄積した。
私は蹴りの勢いに逆らわず後方へ下がり今度こそ立ち上がって身構えた。
ダラリと垂れたままにしている左腕が痛い、少しでも動かすとズキズキともっと痛くなる。
肘打ちで切られた右目の上の傷が深くて血が止まらない、血を拭っても際限なくあふれ出して右目が開けていられない。
何度も顔面を殴られて頭全体に痛みが染み渡っている。
試合はそれほど長時間じゃないはずなのに密度の濃い闘いで息が上がっている。
もう、いいか。
もう、終わってもいい。
終わってほしい。
元々成り行きと好奇心で応じた試合で勝利に執着はない、次の秋枝さんの一撃で失神して終わりでいい。
マットに倒れる自分を想像したところで背筋が寒くなる、それで無事に終われる?
ここにはレフェリーストップはない、そのまま殴り殺されるかも。
それでもいいか。
死ぬかもしれないという危惧もどうでも良くなるくらい痛く苦しい、とにかく終わってほしい。
視界が外側から白い靄に覆われていくようにぼやけていく、見えるのは正面に立つ秋枝さんの姿だけ。
重くて言うことをきかない身体が相手の方へ流れていく。
相手の間合いに入り迎撃を覚悟した瞬間、私の右ストレートが相手の承漿(下唇と顎の先端の間にある急所)を打ち抜いていた。
表面を叩くだけに終わらない、相手の肉体の向こう側まで打ち抜く重い手応えが拳に伝わる。
秋枝さんが糸の切れた操り人形のように崩れていく。
その瞳からは完全に意思の光が消えていた。