第五話
「お友達?」
夢乃さんの提案に秋枝さんが訝しげに応えた。
リング上から私達のいる客席まではかなりの距離があったけれど、確かに見られていることを感じて私は身を縮ませる。
「うん、和子ちゃんは中々…ううん、とっても強いよ!」
「あの、私、やるとは…」
私が隣でマイクを持つ夢乃さんを見上げても、夢乃さんはこちらには一瞥もくれずに真っ直ぐに秋枝さんを見続ける。
暫しの間、会場全体が夢乃さんと秋枝さんのやりとりを見守るように静まりかえった。
「友達ね、いいぜ!」
秋枝さんが強い口調で言った瞬間、会場がオオッ!と湧く。
「但し、その女を倒したら…、次は出て来いよ」
「うん、いいよ」
夢乃さんが承諾した瞬間、さっきよりも二回りは大きくウオオオオッ!と会場が沸き上がった。
「決まりだな」
リングアナウンサーにマイクを返した秋枝さんが退場していく、入場の時と同じテーマ曲が再び場内に流れた。
秋枝さんの姿が完全に舞台袖に隠れてテーマ曲がフェードアウトすると、それを待っていたリングアナウンサーが熱っぽい調子で喋り始める。
「たった今、お聞きいただいたように、緊急エキシビションマッチが決定いたしました!」
入場ゲートの左右からドーンと花火が上がり背後の大型モニターにかっこいい筆字のフォントで、
比 秋
良 月
坂 VS
秋 和
枝 子
と大きく表示された、字の周りにはご丁寧にメラメラと炎が燃えるエフェクトまで表示されている。
「試合は今から30分後に行います、それまで今しばらくお待ちください」
私は茫然として大きく息を吐き、目が疲れた時のようにグッと強く目をつぶっては開く動きを繰り返した。
大型モニターを見るとファイティングポーズをした秋枝さんが映し出され「レイジングビースト 比良坂秋枝」の文字、次に大きく「VS」の文字、その次は夢乃さんの姿、すぐに夢乃さんにかぶさるように私の立ち姿が表示されると「桜庭夢乃推薦 秋月和子」の文字、そして最初の炎を背景にした筆字のフォント画面に戻った。
わぁ、凝った演出だなぁ。
「って!なんですか、あの演出は!明らかに前もって用意してあるじゃないですか!!」
「えへへ、サプライズ♪」
夢乃さんが上目使いでちょっとはにかんだ笑顔で応える。
「『サプライズ♪』じゃないですよ、もう、あんな!あんな!強い人と闘ったら殺されちゃう!」
「大丈夫だよ、秋ちゃんはそんなことしないって、弾みで死ぬのはあるかもだけど」
「あ~、もう!」
私が頭を抱えると頭上から優し気な女性の声が聞こえた。
「秋月様、桜庭様、控室にご案内いたします」
声の主を仰ぎ見るとスターライトコロシアムのロゴが入ったスタッフジャンパーを着た女性が営業スマイルで立っていた。
案内された先は照明を落とし気味の会場とは対照的に蛍光灯の光が眩しい白い壁の部屋だった、おそらく選手・トレーナー・スパーリングパートナーなどが何組か同時に入って準備することが想定されているようでかなりの広さがある。
控室で夢乃さんから試合用のコスチューム・シューズ・バンテージ・オープンフィンガーグローブ・マウスピースなど諸々の品を慌ただしく説明されて手渡された。
「オープンフィンガーグローブはする?裏の試合だからしなくてもいいけど」
「んー、どうしよう、した方が拳を保護できるんですよね」
既にグローブとマウスピース以外を身に着けた私はバンテージが巻かれた右拳をパシッパシッと左掌に叩きつけて感触を確かめた。
バンテージだけの方が硬く鋭いダメージを与えられる、グローブをした方が拳を保護できる、それぞれの利点を考えて少し迷ったものの、普段私が東雲さんと仕事をする時はどうかと考えた時グローブはしていない。
「このままで」
闘う場所は秋枝さんのフィールドでも私が格闘家に転身するわけじゃない、ネコはネコのまま闘おう。
「オッケー、もうあんまり時間ないけどアップしておく?」
「それもいいです、ネコは準備運動なんかしませんから」
「ふふ、そうなんだ」
私の反応が気に入ったのか夢乃さんは満足そうに微笑んだ。
「それより秋枝さんのことを教えて、夢乃さんにとって秋枝さんはどうゆう人なんですか?」
「秋ちゃん?秋ちゃんはねぇ、私のことを必要としてくれて、危なっかしくて放っておけない友達だね」
「放っておけない…、ですか」
「うん!だから、和子ちゃんにも秋ちゃんのこと知ってほしくて」
「そんなに好きなら私に譲らないで夢乃さんが闘えばいいのに」
その一言で夢乃さんの笑顔に陰りが生じた。
夢乃さんは視線を彷徨わせて珍しく何かを言い淀む様子を見せる。
「夢乃さん?」
「私と秋ちゃんがやりあったら…」
視線を逸らす夢乃さん、気まずい沈黙の時間が流れる。
「と、とにかく頑張ってね和子ちゃん!」
大音量の入場曲と観客の歓声の中を歩く最中も私の心は静かだった。
試合への興奮や不安よりも比良坂秋枝という人を知りたい気持ちが上回っている。
私と同じ年頃で裏の闘技場で闘って。
試合に勝っても全然嬉しそうじゃない、それどころか悲しそうにも見えて。
控室で見た過去の試合映像でも秋枝さんは一度として勝利のパフォーマンスをしていなかった。
明るく前向きにスポーツに取り組む人達よりも、家にも学校にも居場所がなくて殺し屋家業に居場所を見つけた私に近いような。
花道を歩ききってリングに入る前にもう一度自分のコスチュームを見る、下は少し丈の長い短パンで右にはオオカミが左にはネコが黒地に白いラインで描かれている、胸元は水着よりもしっかりと胸元が隠れた陸上選手のような上着でこちらも黒地にトランプのダイヤマーク型の星が幾つか描かれ、その星の配置は双子座になっていた。
私が金網の中に入るとリングアナウンサーはそそくさと退場する、表の試合のようにレフェリーによるルール確認などがないので出入口が閉じられると間を置かずに試合開始のゴングが鳴った。
互いに八角形のリングの対角に立ちガードを下げて自然に立つ。
私は出来る限り相手の全身の動きを注視しながら慎重に間合いを詰めようとした、その瞬間。
秋枝さんが駆け出し一気に距離を詰める。
来た!
そう思った時には私の右ストレートが相手の顔面に当たっていた。
骨と骨とがぶつかる予想以上に重い感触が拳に伝わる。
私は金網へ追い詰められないように相手を軸に反時計回りに移動しつつ距離をとった。
再び視線が交差した時、秋枝さんが目を細めた。
自分に向けられる殺気の濃度が増す。
肌が、肉が、熱くなり私はらしくもなく気持ちが昂るのを感じた。
秋枝さんが一気に懐へと跳び込み、攻防の間合いに入ると同時に体を沈める。
タックル!?
いや、これは。
相手の右オーバーハンドフックを読んだ私はすれ違い様に左の飛び膝蹴りを放った。
膝蹴りが相手の胸元にヒット。
それでも秋枝さんの攻めは止まらない。
私が着地と同時に相手へ向き直ったところへ間髪入れず跳び込んで来る。
攻撃の間合いに入られる瞬間、私の右の前蹴りが水月(鳩尾)を穿った。
私は素早く蹴り脚を引いて間合いの外へ。
初めての格闘技の試合に私は確実な手応えを感じていた。
複雑な攻防をすれば技術が未熟な私では秋枝さんに敵わない。
でも、間合いに入る瞬間や最初の接触でカウンターを当てることはできる。
私はカウンターとヒットアンドアウェイの戦法に徹した。
相手の技を躱してカウンターを、時には相手の技が出る前にカウンターを打ち、一撃が入れば深追いせずに間合いの外に出る。
上段右ストレートに右のボディを、踏み込んだ左脚へローキックを、幾つものパターンで私の攻撃が入った。
それでも秋枝さんの攻めは途切れることがない、真っ直ぐにこちらを見つめて迷いのない動きで跳び込んで来る。
「しっかりしろー、素人に負けんなー!」
気が付けば観客たちの秋枝さんに対するヤジが目立っていた。
そこで私はハッとなった、試合開始時点では全く耳に入ってこなかった観客の声が気になっている。
これは良いことじゃない、集中力が落ちている。
何かがマズい。
緊張で口の中が乾く、水が飲みたい。
大丈夫、私は的確な攻防が出来る、勝てる!
直感が警鐘を鳴らす一方で、理性が今までの試合内容を分析して私を鼓舞した。
そんな時、秋枝さんの鋭かった眼つきが和らいだ。
その視線には殺気も何もない、まるで路傍の石を見るかのような空虚な眼差しに私の心はざわついた。
懐に跳び込んで来る秋枝さんの顔面に私の左ストレートがヒットする。
その瞬間、背筋に悪寒が走る。
秋枝さんは殴られながらしっかりと私を見ていた。
「カアッ!」
打たれながらも前進した相手のオーバーハンドフックが私の顔面を叩く、更に怯んだところへボディブローが入る。
「うぐっ」
マウスピースを吐き出しそうになるのを必死で耐えた。
相手の攻撃は途切れない。
眉間・こめかみ・顎・胸・腹・脇腹・ガードしている腕へと所かまわず上半身へパンチの連打が浴びせられた。
がっちりガードを固めてもガードしている腕が壊されそうになる。
パンチの連打が途切れた瞬間、私は無意識のうちに上体を反らした。
直後、私の眼前を相手の膝蹴りがかすめていく。
危ない!今のが当たっていたら終わっていた。
どうにか間合いをとり、身構えて仕切り直しても状況はさっきとは全然違う。
痛い。
あちこちが痛い。
鋭く骨に響く痛み。
鈍く肉に染み渡る痛み。
痛みが闘う気力を削いでいく。
悠然と間合いを詰める秋枝さんに今度は私から機先を制して攻める!
跳び込んだ瞬間、ローキックが前に出した左の太腿を叩いた。
「うっ…」
熱く重い痛みがじわりと広がり私の歩みが止まる。
秋枝さんがパンチの構えを見せ私は頭部のガードを固めた。
「シャアァッ!」
パンチ!と思いきや攻撃は守りが薄くなった中段へ強烈なミドルキック、肋骨に守られていない脇腹が抉られ呼吸が止まる。
まともなフットワークが出来なくなった私はよろよろと後退して金網にぶつかった、秋枝さんはもう目の前にいる。
「ヒッ」
最早形だけになった私のガードを秋枝さんの両手がすり抜けた、私は頭髪を根元からがっちりと掴まれ横顔を金網に押し付けられて身動きが取れない。
秋枝さんはフッと短く息を吐くと怒りの雄叫びをあげて私の顔面を金網に擦りつけながらリングの外周を走った。
「ガアアアアアッ!」
一頻り走り終えると私をマットの上に放り投げる、私は金網のダメージで右目がほとんど開けられず、不明瞭な視界に秋枝さんを見た。
「なあ…終わりか?」
私を見下ろす秋枝さんの顔にほんの一瞬だけ切なげな色が浮かび、それがすぐに猛々しい色に塗り潰される。
「終わりなのかっ!!」