第四話
和子ちゃんへ、三日間の特訓お疲れ様です。
明日の特訓はお休みです、明後日の大晦日は労いの意味を込めてディナーに招待します。
楽しい余興もあるのでお楽しみに。
桜庭夢乃。
一区方面行きバスの車内、私は何度か読み返した夢乃さんからの手紙を鞄にしまった。
文面自体はごく普通に食事へ誘うものでも、夢乃さんからの誘いという時点で警戒せざるをえない。
今回の夢乃さんとの特訓で私が体得しようとしているのは、どんな場面でも脅威から身を守り仕事を遂行する実戦的な力だ、その点を考えると不意打ちで何かの試練が始まることは充分に考えられる。
そんな危惧の一方で、夢乃さんだって普通に人を労うことだってあるさ、という考えも捨てきれない、その場合は『楽しい余興』という単語が気になった。
私と夢乃さんでマジックショーでも観るというのか、あるいはサイリウムを振りながらライブを観るとでも?
「次は市立病院前、お降りの方はボタンを押してください」
バスの車内アナウンスが聞こえて私は思考を中断する、路線図を確認すると目的地の明星スターライトホテルに近い停留所が近づいていた。
病院前停留所では数人が乗り降りして乗降中のドアから冷たい風が吹き込む、お年寄り二人に続いて最後に乗って来たのはだいぶお腹が大きくなった妊婦さんだった。
妊婦さんは私から見て一つ前の座席の横に立ち窓の外に視線を向ける。
私はその遠くを見つめる横顔を見て、ハッと目の醒めるような衝撃を受けた。
穏やかな微笑みの中に力強さと確固とした意思が感じられる表情。
命を守って育てて行こうという覚悟を持っているであろう、その人の姿を見ていると気持ちが明るくなる一方で人殺しの手伝いをしている自分の汚さが浮かびあがるような錯覚が、錯覚…、本当に錯覚?
って、そうじゃない!そんな物思いに耽ってないで席を譲らないと。
「あ、あの…」
私が席を立とうと腰を浮かせた時には、前の席の女の子がサッと立って妊婦さんに席を譲っていた。
「どうぞ」
「あら、どうもありがとう」
にっこりと微笑んで席に着く妊婦さん、そして席を譲った女の子はこちらに気づき私と目が合う、気恥ずかしくなった私は顔を伏せて席につく。
「ありがとう」
「……えっ、は、はい」
私は妊婦さんの「ありがとう」が自分に向けられたものだと一瞬遅れて気づき焦って返事をした。
「あなたも席を譲ろうとしてくれたでしょ」
「えぇ…まぁ、はい」
曇りのない笑顔が眩しすぎて、私はうつむき加減になって応えた。
バスが発進して顔を上げると席を立った女の子の全身が視界に入る、170cmに届きそうなスラリとした長身、つり目気味のルックス、くせのあるショートカットという風貌にボーイッシュなコーディネートが良く似合っていた。
全体的に気が強そうで男勝りな印象を受ける、ただ窓の外を見る横顔はどこか寂し気で、見ていると一昨日の街並みを眺める夢乃さんが思い出された。
しばらくして目的の停留所に着くと私の他に十人ほどの乗客が降車した、降りた人達はみんな何かしらのお楽しみがあるのか浮ついた雰囲気でスターライトホテルの方へ向かって歩く。
連れがいないのは私と席を譲った女の子だけで、女の子はホテルの正面入り口とは逆の駐車場入り口と従業員出入口の方へ歩いて行った。
(大晦日にバイトかな…?)
少し歩いて私はスターライトホテルの正面入り口に着いた、17階建てからなる明星市最大にして最高級のホテルだけあって、その門構えはホテルの名前を刻んだプレートから柱の一本、照明の一つに至るまで豪奢な装飾が施されている。
風除室を通り過ぎる時に掲示してある「本日の予定」をチェックしてみるが、団体客の名前が幾つか書いてあるだけでめぼしい催し物の予定は書いていなかった。
入り口を抜けると正面にカウンター、向かって左側には広々としたロビーと売店・カフェなどが並んでいる、私みたいな宿泊客じゃない人は勝手に入っていいのかな?
そういえば待ち合わせ場所はスターライトホテルというだけで詳しい場所は伝えられていなかった、当然ロビーだろうと思っていたけれど。
そんな心配をよそに私が辺りを見回すとすぐに夢乃さんは見つかった、ロビーの隅の椅子に座り文庫本を読んでいた夢乃さんはかなりの距離があってもこっちに気が付いたようで、いそいそと本を鞄にしまうと小走りに近づいてきた。
「和子ちゃん、こ、今年もよろしく…」
「え、はい、残り7時間くらいだけど」
「あっ、そっか『良いお年を』は別れる時だし、大晦日は何て言うんだっけ?」
「特には、こんにちはでいいんじゃないですか」
「はは、そだね」
天然な振る舞いを見せる夢乃さんに私は毒気を抜かれた、一昨日までの特訓の時と服装も髪型も変わっていないのに、人前で普通に振る舞う夢乃さんに武術家の雰囲気はない。
「それで夕食にはちょっと早いですけど、『余興』ってなんですか?」
「ふっふーん、気になるよね、ついて来て!」
言うや否や夢乃さんは私の手を取って走り出した。
大人の雰囲気漂う高級ホテルのロビーで走るのは、はしゃいだ子供のようで恥ずかしかったが私が抗議するより早く目的のエレベーターホールに着く。
団体客がエレベーターに乗り込み他に誰もいなくなってから私たち二人だけで一機のエレベーターに乗り込む、乗ったのは高層階用のエレベーターだったので行先は展望ラウンジ?などと私が考えているうちに夢乃さんはカードキーを行先ボタン近くの読み込みパネルにかざした。
ピロンッと小気味のいい電子音が鳴り、全ての行先ボタンが点灯する。
「えっ、これは…?」
困惑する私を尻目に夢乃さんは目で追えないくらいの速さで四個か五個の行先ボタンを素早く押した。
「パスワード確認、地下三階へ参ります」
どこからか録音された女性の声が流れてエレベーターが動き出す、このスターライトホテルの地下は地下一階と地下二階が駐車場になっているのみで地下三階なんて聞いたことがない。
あっと言う間にエレベーターは下降を終えて操作盤の方を向いていた夢乃さんが振り向く。
「さあ、着いたよ」
扉が開いた先はもう一つのロビーだった。
地上のロビーより広さは二回りほど狭いが、その代わりに各部の装飾や全体の意匠は更に豪華に煌びやかに設えてある、足元はえんじ色の毛足の長い絨毯が敷かれ正面には大理石らしい材質のカウンターがあった。
「ようこそスターライトコロシアムへ」
カウンターの向こう側に立つ二人の美女のうち一人が言った。
「どうも、お疲れ様です」
隙のないメイクをして隙のない営業スマイルを浮かべる受付の女性達に私は警戒を解けずにいたが、夢乃さんは軽く挨拶を返して足早に奥の廊下へ進んでいく、受付の二人も微笑みで見送るだけで咎めようとはしない。
「ちょっと、コロシアムってなんですか?」
「もうすぐそこだから♪」
振り向きもせず夢乃さんが駆けていく、言葉通り少し進むと廊下の突き当りに大きな両開きの扉があり、その奥から大勢の人間の息遣いが伝わってきた。
「おいしょっと」
夢乃さんが劇場を思わせる分厚い扉を開くと重なり合った人々の声がドッと全身に叩きつけられる。
そこは何かの競技場だった、中央には周囲に金網が張り巡らされた八角形のリングが設置され、リングの四方を取り囲む客席は階段状に設置されてそのほとんどが埋まっていた、ざっと見たところ数百人規模といったところだ。
「夢乃さん、これって」
「ここは世界でも有数の裏の闘技場『スターライトコロシアム』だよ」
私は闘技場の存在に面食らったものの、業界団体が作れるくらい殺し屋が暗躍している明星市ならこれくらいの施設があっても不思議ではないと妙に納得した。
夢乃さんに案内され中央付近の列の通路沿いの座席に座ろうとした時、耳をつんざく悲鳴が聞こえた。
発音から西洋人の男性らしき悲鳴は本物の痛みと恐怖が含まれているようで、私の全身を粟立たせながら身体を通り抜けていく。
恐る恐るリングを見ると一方の選手は両手の拳を天に向けるガッツポーズをして、その足元には片腕があらぬ方向に曲がった選手が横たわっていた。
「うっ」
惨状に思わず目を背ける。
周囲の観客たちからは勝者への賛辞なのか敗者への罵倒なのかわからないが、とにかく興奮の色を帯びた声ばかりが聞こえた。
夢乃さんは平気なんだろうか。
私がチラリと隣に目を向けると夢乃さんの表情には興奮も恐怖も浮かんでいないように見えた。
「今日ね、メインイベントに友達が出るんだ、後で紹介するね」
弾んだ声で話す夢乃さんに私は当たり障りのない返事をして、それきり会話は途絶えてしまう。
それから夢乃さんと試合を観戦した、私はプロ格闘技の選手には詳しくはないが入場時の観客の反応から出場選手の多くは実績を積んだ格闘家であることが察せられた。
夢乃さんの説明によるとルールは案の定なんでもあり、表の試合ではどの格闘技団体でも禁止されている目つき、頭突き、金的、噛みつき、打ち下ろす肘打ち、後頭部・背面への打撃などが全て許容され選手はグローブをせずに拳にバンテージを巻いただけだ、危険なルール故か試合は短時間で決着することが多かった。
そして決着は度々凄惨な結果に終わる、失神KOの後も勢いの止まらぬ相手に上から何度も殴られてピクリとも動かなくなる選手、馬乗りから顔面に繰り返し頭突きを喰らい顔中が血まみれになる選手、私は思わず「酷い」と言いそうになる言葉を飲み込む。
確かに惨たらしい悪趣味な試合ではある、でも命を奪う私たち殺し屋に比べてマシではないか、という思いがあった。
これだけ危険な試合なら選手が死ぬことも当然あるだろう。
ただ、それでも目の前の試合はギリギリのところで殺し合いではなかった、結果的に死ぬことがあっても殺さなければ決着がつかないというわけではないのだ。
「夢乃さんはこうゆうの平気なんですか?」
試合の決着がついたタイミングで私が問うと夢乃さんはしばらく考える素振りを見せる。
「こうゆうの楽しいのかな、勝ったり負けたりって」
夢乃さんはそれだけ言うと私から視線を外しリングの方を向いた、改めて夢乃さんとの感性や価値観の隔絶を感じた私は、それでは答えになっていないと問い返す気力はなかった。
「あっ、始まるよ!」
「只今より本日のメインイベントを行いますっ!!」
リング上で黒服に蝶ネクタイをしたリングアナウンサーが宣言すると、会場のざわめきがサッと波が引くように静まる。
「赤コーナーより“レイジング・ビースト”比良坂秋枝の入場です」
お腹に響く重低音から始まるテーマ曲のイントロが流れて大型モニターとレーザー光線の演出が会場を彩る、入場口の左右から交差するように吹き上げられたスモークが霧散すると比良坂秋枝が姿を現した。
身体にフィットしたビキニタイプのコスチュームを纏い歓声を浴びて花道を歩く選手は、バスで見かけた妊婦さんに席を譲った女の子だった。
「あっきちゃーん!」
興奮気味の歓声が飛び交う中、夢乃さんは子供の運動会を見守る親のような場違いで牧歌的な応援を送る。
秋枝さんは観客たちには一瞥もくれず静かな眼差しでリングに向かって歩く、その様子は私の内側にゾクっとする高揚とも恐怖ともつかない感覚を生じさせた。
野蛮な試合を非難する気持ちがある一方で、この危険なリングでの秋枝さんの闘いを見届けたい、確かにそう思ってしまう。
「続きまして青コーナーより、現UFEライトヘビー級王者、マイク“ストーム”アーヴィンの入場です」
秋枝さんがリングインすると別のテーマ曲が流れ対戦相手の入場が始まる、スモークの向こう側から現れたのは金髪をヘアワックスできっちりと固めた流し目が印象的な伊達男然とした西洋人の男性選手だった。
「えっ、男の人と闘うんですか?相手の方がだいぶ大きいんじゃ」
「ライトヘビーは93kg以下級だから、身長で15cm体重で20kgくらいの差だね、あっでも今日の裏試合は計量なんてないからもっと増量してるかもね」
私の心配をよそに夢乃さんの口調には秋枝さんの身を案じる気配はない。
リングアナウンサーが改めて両選手の名乗り上げを行いリングから出ると金網が閉じられる、そして試合開始を告げるゴングが打ち鳴らされた。
最初に動きを見せたのはマイクだった、キックボクサーを思わせる少し脇を開いた構えでジワジワと間合いを詰めていく、一方の秋枝さんはガードを下げたまま軽やかにリズムをとって様子を見ている。
不意に秋枝さんが対戦相手から視線を外して自分たちの方を見た。
「…!」
熱い殺気がぶつかり私の身体は竦み上がる。
その瞬間、マイクが一気に間合いを詰めてバックハンドブローを放った。
客席から見ると秋枝さんの顔面を横から打ち抜いたように見えたそれは空振りに終わり、両者が一歩下がり試合は仕切りなおされる。
「あっぶなぁ~、あんなの喰らったら!」
「駄目だね」
「怪我じゃ済まないんじゃ…」
「んっ、そうじゃなくてアレじゃ秋ちゃんに通用しないよ」
夢乃さんはつまらなそうに吐き捨てた。
「あのバックハンドブローは当てるつもりはないよ、試合開始早々に見せることで相手にバックハンドを警戒させてプレッシャーを与えようという戦術だね、そんな小賢しいこと秋ちゃんに通じるわけないのに」
熱狂する観客の中でただ一人、夢乃さんはすっかり試合から興味を失った様子でため息をつく。
試合は更にマイクが攻勢に出ていた、ワンツーからのフック、ワンツーからの左ミドルキックなどパンチとキックを織り交ぜたコンビネーションを積極的に仕掛け、秋枝さんは時にスウェーバックで避け、時にパリングで撃ち落とし、時にブロックしてクリーンヒットをもらわずに攻撃をいなす。
私は緊張でゴクリと唾を飲んだ、一見秋枝さんに余裕があるように見えても体格差を考えれば一撃でもまともに喰らえば終わってしまうだろう、更にブロックでの防御は繰り返していれば腕にダメージが蓄積する恐れもある。
連打を避け切って下がる秋枝さんをマイクが追った、その瞬間。
飛び込んだ秋枝さんの左フックがマイクの顎を打ち抜いていた。
そう、『打ち抜いていた』私が気が付いた時には。
今のは『その先』!?
ぐらつくマイクに気付けをするように秋枝さんは右の肘打ちをこめかみに叩き込む。
マイクは後ろへたたらを踏みつつ体勢を立て直そうとする。
秋枝さんが駆ける。
飛び膝蹴り一閃。
真下から顎を打ち抜かれたマイクは仰向けで大の字になって倒れ、ピクリとも動かない。
秋枝さんがそれ以上追撃しないことが確認された後、試合終了を告げるゴングが何度も打ち鳴らされた。
両選手を応援していた観客のオオオォーという興奮の声と、アアァーという悲嘆の声が交じり合って会場を満たす。
リングアナウンサーがリングに入り秋枝さんの勝ち名のりを上げようとした時、秋枝さんがそのマイクを奪い取った。
その途端、会場の歓声が静まる。
「あぁ、見てるんだろ夢乃」
マイクを持った秋枝さんが気だるげに呟く。
「秋ちゃーん、こっち!こっち!」
夢乃さんが立ち上がって両手をブンブン振って応えると、一斉に観客の注目が集まった。
「見ての通りだ、手応えがなくてな、上がって来いよ夢乃」
秋枝さんの要求に会場がざわつく。
夢乃さんが観客の期待を意に介さない様子で秋枝さんを見ていると、いつの間にか近づいていた黒服の男性が夢乃さんにマイクを差し出した。
「私たちの闘いは人に見せるものじゃないよ、そこで…」
マイクを持った夢乃さんがじらすように間を取ってから、高らかに宣言した。
「私のお友達の和子ちゃんが代わりに闘います!」
ふぅん、友達が…って。
「ええええええええええええっ!!!」