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第三話

「うわ」

 脱衣所の鏡で自分の裸体を見た瞬間、私は思わず声を出した。

 太腿、脇腹、胸、上腕、顔面、体中痣だらけだ。

 シャワーだけ浴びて早く寝よう。

 私は熱めのシャワーを頭から浴びて浴室の壁に(もた)れかかった。

 明日もか。


 夢乃さんとの特訓は実戦形式で行われた。

 格闘技の試合を何ラウンドも繰り返すような形式ではなく、剣豪同士が行うような一瞬の攻防をしてはまた仕切り直しを何度も繰り返した。

 きっと夢乃さんが格闘競技の選手じゃなくて、暴力の鎮圧や命のやり取りを前提とした技を持つ武術家だから、こんな形式なんだと思う。

 試合で言うところの『一本』の決まり方は何パターンかあった。

 私の踏み込みに合わせて顔面へ寸止めの突きを出して制するノン・コンタクトのパターン。

 急所へパシンッと当てて素早く引く軽い打撃を決めるライト・コンタクトのパターン。

 そして攻撃をかわされた無防備な瞬間に全力の打撃を決めるフル・コンタクトのパターン。

 最後のフル・コンタクトのパターンは『後の先』で来ることが多く、その時は攻撃をかわされてから反撃を喰らうまで一瞬のタイムラグがあり、その反撃をもらうことを覚悟する瞬間が何より怖かった。

 そうかと思えば『先の先』でこっちが動くや否や強烈な一撃をもらうこともあった、承漿(しょうしょう)三日月(みかづき)といった顔面の急所を容赦なく打ち抜かれる。

 流れ落ちるお湯の中で私はそっと顔に触れてみる、多少の腫れはあっても辛うじて骨や歯は折れてはいなかった。


 二日目。

「私が明星市にいる時間は限られてるから、今日も『その先』の特訓頑張ろうね!」

「よ、よろしくお願いします」

 はじける笑顔の夢乃さんに私は笑顔を引き()らせながら応える。

 二日目も特訓の内容は一日目と同じくタイミングを見定めては相手の懐に飛び込み一合(いちごう)して離れるの繰り返し、結果も一日目とほぼ同じで今!と見切ったつもりで飛び込めば万全の体勢で待ち受ける夢乃さんに迎え撃たれ、間合いの外で機をうかがっていれば向こうから攻められ初弾・次弾くらいまではかわせてもすぐに追い詰められてしまう。

 特訓を重ねて変わったことといえば心身に恐怖と迷いが染み込んだことだ。

 (したた)かに打ちのめされるイメージが頭にこびりつき、仕掛ける瞬間に動きが鈍ってしまう。

 そんな瞬間を夢乃さんは見逃さず、私が躊躇った時の反撃は一撃では終わらなかった。

 起点となる打撃を入れた後に小手を極めた投げ技や重心の乗った軸足を払うなどして私からダウンを奪い、倒れたところへ更に追い打ちの打撃を入れてくる。

 それでも夢乃さんは言葉で私を叱責することはなく、攻防が終われば倒れた私に手を差し伸べて土埃がついた服をほろってくれた。

「だいぶ暗くなっちゃったから、今日は帰ろうか」

 結局二日目もさしたる手ごたえはなく、午前中から数回の休憩を挟んで夕方まで続いたこの日の特訓は終わった。

 満身創痍の私はヨロヨロと歩く、先で待つ夢乃さんは鳥居の下で灯りが点き始めた街並みをどこか物憂げな眼差しで見つめていた。

 帰宅後、シャワーを浴びる前に私は鏡で自分の身体を見ないようにした。


 三日目。

 重い足を引きずって神社の石段を登りきると境内(けいだい)の片隅でアウトドア用の椅子に座る夢乃さんが目に入る、私が歩み寄ると紙コップの中身をフーフーしていた夢乃さんが顔を上げた。

「おはよう和子ちゃん、コーヒー飲む?」

「もらいます」

 愛想よく返事をする気力を無くしていた私はもう一つの椅子にドカッと腰を下ろす、(ひら)いた両膝の上に肘を乗せる女の子らしくない姿勢で大きく息を吐いた。

 テーブルがないので夢乃さんが飲んでいたコーヒーの紙コップを私が一旦預かり、その間に私の分を注いでもらう。

「はい」

「どうも」

 淹れたて、ではないけれど注ぎたてのコーヒーの香りがふわりと広がった。

「ブラックですか」

「うん、朝飲むならブラックがいいと思って、インドネシア産のストレートだよ」

 熱いコーヒーを少しだけ口に含むと鋭い苦みが舌を刺激する、コクやまろやかさよりも酸味が強く大地の香りがするような荒削りで野性味あふれる味がした。

「和子ちゃん、年越しの予定は?」

「特には…」

 十二月の朝は日差しがあっても空気は冷たい、香りがどうとかよりもとにかくコーヒーの熱が身体に染みる。

「平和みたいだね」

 街の方向を見て夢乃さんが呟く。

 先にコーヒーを飲み終わった夢乃さんは紙コップを片付け、数歩進んだ先でグッと伸びをした。

 そして周囲の木々でチュンチュンと鳴く小鳥たちを眺めている。

 澄んだ空気に響く鳥たちの歌声は荒んだ心を和ませてくれる。

 そんな穏やかな気持ちに水を差すのが夢乃さんの後ろ姿だ。

 これ見よがしに背を向けて、わざとらしい。

 わざと隙のある素振(そぶ)りを見せて私が攻撃するように仕向けているんだ。

 その余裕。

 その(たわむ)れ。

 風に(なび)く艶やかな黒髪が私の神経を逆なでする。

 気づけば私は椅子から立ち静かに間合いを詰めていた。

 握った拳に熱を感じながらも呼吸は穏やかで程よくリラックスしているのが自分でもわかった。

 攻撃間合いまで残り2m。

 残り1.5m。

 残り…。

 私は歩みを止めた。

 見えざる力によって止められた。

 全身を冷たい手で掴まれたように少しも動けず、ただ震えた。

 いつの間にか痛いくらいガチガチに肩に力が入っている。 

 桜庭夢乃が肩越しに私を見た。

 桜庭夢乃が(おもむろ)に振り返り私と正対する。

 ハァハァという自分自身の荒い呼吸音が聞こえる。

 あいつはその場から動かず口元に微笑を浮かべた。

 握った拳の中が汗でべちゃべちゃになっている。

 緊張が限界に達した時、声が聞こえた。

 秋月和子、お前は何だ。

 人殺しの手伝いをしておきながら、自分は目の前の女に痛めつけられるのが嫌か?

 なんて卑小(ひしょう)で見苦しい。

 ああ、もういいか。

 もういい。

 終わりたい。

 全身が粘液質の液体になったように力が抜ける。

 流れる水になった私は自然に相手との間合いを詰めた。

 攻撃射程内に入る瞬間、相手はわざわざ隙を晒すようにタイミングのずれた攻撃動作を始める。

 確かな手応えを伴って私の中段突きが相手の脇腹に命中。

「えっ…」

 軽い!?

 まるで小さな子供を殴ってしまったような不安になる感触、それくらい打ち抜いた瞬間の夢乃さんは弱々しく抵抗を感じなかった。

「ぐっ、うぅ…」

 地面に倒れて身体をくの字に曲げる夢乃さんを見て、ようやく冷静な頭で自分の打撃が夢乃さんに当たったことを理解する。

「あ、えっと、大丈夫…」

 倒れたままの夢乃さんから鋭い眼光と共に殺気をぶつけられた私は近寄ろうとしていた足を止めた。

「ひっ」

 今、近寄れば殺される。

 直感がそう告げる。

 夢乃さんは苦痛に顔を歪めて殴られた脇腹を押さえながら、こちらへの視線を逸らさずゆっくりとした動作で立ち上がった。

 手負いの夢乃さんが放つ殺気は凄まじく、ダメージを与えたはずの私の方が攻めることも逃げることもできない。

「あ、やっ…」

 私は夢乃さんを視界に捉えたまま一歩二歩と後ずさり…。

 唐突に背後に別の気配が生じた。

 緊張した場にそぐわない緩み切ったような温かい気配。

 背中に柔らかい感触が生じた時には二本の腕が私の首に巻き付いていた。

「おやすみ」

 耳元で優しげな囁き。

 誰!?

 これ、まずい、スリーパーホールド。

 …。


「ん…」

 目を覚ました私は固い地面の感触で状況を思い出す。

 冷たい風にブルっと震え辺りを見回すと、近くに人の姿はなくコーヒーを飲む時に使った椅子や荷物もなくなっていた。

 服についた土埃を払い腰・肩・首をほぐしながら首筋に手を当ててみると、特に痛みはなく新しい怪我はないようだった。

 何もわからないうちに意識を失ってしまったけど、恐ろしく鮮やかなスリーパーホールドだったことは身体が覚えている。

 締め技に対してジワジワと追い詰める技という印象を持っていただけに、数秒で落とされたことは衝撃だった。

 あの後に襲撃者と夢乃さんが戦ったのか、それとも夢乃さんの味方だったのか。

 実戦的鍛錬の為に一対多の状況を作るというのは、夢乃さんが考えそうなことだけど。

 そして夢乃さんに命中した一撃。

 あれが体得を目指していた「その先」なの?

 中段突きを当てるまでの一連の動作はまるで他人が自分の身体を動かしていたような、あるいは録画された映像を見ているような、とにかく実感が湧かなかった。

 不意に上着のポケットに何か覚えのない物が入っていることに気づき、取り出してみるとそれは桜のイラストが描かれた便箋だった。

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