9、意識
悪夢から解放されたオーウェンだが、別の悩みが出てきた。
急にステファニーを意識するようになってきてしまったのだ。
鉱山から帰ったオーウェンは悪夢を見ることがなくなったため、朝までぐっすり眠れるようになった。
寝つきも良くなり、隈も消え、顔色が良くなった。まだ昼寝の時間はとっているが、しかし今までと比べて段違いに健康になってきたのだ。
これまで自分のことでいっぱいいっぱいだったのが、鉱山の記念式典の一件で心のつかえが取れたのだろう。オーウェンはなんだか急に周りが見えるようになってきた気がした。
きっかけは、銀細工を買ってやったときにはにかんだステファニーを見て、どきりとしたことだろうか。オーウェンはステファニーのことが気になって仕方なくなってきた。
いや、もっと前からかもしれない。ステファニーは父王の命令で嫁いできたはずなのに、嫌な顔一つせず、ほどよい距離感で自分に接してくれた。トラウマに悩む自分を腫れ物扱いせず、それどころか気が楽になるよう導いてくれたのだ。
鉱山から帰り、ステファニーは引き続き伯爵夫人としてよく働いてくれている。彼女は何も変わりはない。
それなのに、オーウェンは今までと全く違う気持ちでステファニーを見てしまっていた。
彼女の耳で揺れる銀細工を面映い気持ちで眺め、連れ立って仕事をするときには自分の腕に添えられた小さな手に身を固くし、鶏の卵が取れたと嬉しそうに話す姿を眩しく思った。
こうなると、オーウェンは夜に同じ寝台に入るのがとても気恥ずかしくなってきた。
別に夫婦なのだから構わないのかもしれないが、一番初めに、白い結婚を三年貫いて離縁し、王都に帰すと約束してしまっている。
散々世話をかけ、伯爵夫人としての仕事も依頼してきた。その上、こちらの気持ちが変わったからと初めの約束を違えてしまうというのは、あまりにも不誠実で酷く駄目な男なのではないかとオーウェンは思った。
仕方がないので、オーウェンは自室に簡易な寝台を入れることにした。ただ、夜寝る前の彼女のおしゃべりが聞けなくなるのは辛い。
始めは本当にどうでも良かったし全然聞いていなかったおしゃべりだが、今ではステファニーとの貴重なコミュニケーションの時間だ。それに、あのおしゃべりを聞いていると、『今日も一日頑張ったな、さあ寝よう』という気になるのだ。
とりあえず雑談は聞いて、ステファニーが寝たら自分は自室に移ることにした。
もともと朝、先に起きて寝台からいなくなるのはオーウェンの方だ。夜のうちに移動したところで彼女は気付かないだろう。
自室に寝台を置きたいとオーウェンがダンに言うと、彼は途端に心配そうな顔になった。
「オーウェン様、どこかお加減でも……?」
「いや、違うんだ。体調は良い。ただ……、そうだ、寒くなってきたし、昼寝の時にデッキチェアじゃなくて寝台で寝たいなと思って」
言い訳になっていないかもしれないが、ダンは訝しげな顔をしながらも手配することを了承してくれた。
「そうだ、それからもうすぐ一年だから追悼式の準備を頼む」
誰の、とも言わず通じる。無論、父と兄の追悼式だ。
「承知しました。特別にお声がけする方はいらっしゃいますか?」
「葬儀に参列してくれた関係者には連絡してくれ。それから来てくれるか分からないけど、キャシーにも」
「承知しました」
「……まだ一年か」
――いや、もう一年。
少し前まで真っ暗闇の中にいたような気持ちのオーウェンだったが、ステファニーが来たことで確実に過去を過去のものとして捉えられることが出来るようになってきていた。
♢
オーウェンはステファニーへの気持ちの変化に気付いてから、それを彼女に悟られないよう、慎重に過ごしていた。
こんなに気になるのは一過性のものかもしれない。
少し距離をおけば落ち着くだろうと思い込むようにし、必要以上に近付かず、出来るだけステファニーを気にしないようにする。
夜は自室に移動しようと思っていたが、ステファニーのおしゃべりを聞いていると結局そのまま寝てしまうことの方が多い。せっかく自室に寝台を入れたものの、そちらで寝る頻度は高くはなかった。
最近の二人の間の不自然さに、ステファニーも薄々感付いているようだった。
ある日、夜会に招かれて屋敷から出発しようとしたときのことだ。その日のステファニーは濃い緑色のドレスを着て、髪を上げて華やかに飾っていた。
なにかに気付いたステファニーは、オーウェンの頭に手を伸ばした。
「オーウェン様、髪に何かがついています」
なんだろう、と取ってもらおうと屈んだオーウェンは、ステファニーの首元に頭を寄せる形になってしまった。その瞬間に、露わになった首元からふわりと甘い香りがした。
思わず、オーウェンは勢いよく身を引いた。
「……ごめん」
急に離れ、赤い顔を背ける。ステファニーは夫の急な変化に一瞬驚いた顔をして、それから眉を寄せた。
「オーウェン様、最近何か変ですよ。どうかされたのですか? それとも私がなにか変で、避けていらっしゃる?」
「い、いや、違う。ステファニーは何も変じゃない。私が変なんだ。ごめん」
意味が分からないという顔をしたステファニーに再度謝り、屋敷を出発した。
その日、夜会ではいつも通り振る舞っていたものの、二人になるとなんだかギクシャクしてしまい、おかしな雰囲気のまま就寝した。
そんな微妙な空気感をやり過ごす中、追悼式が行われた。
場所は、結婚宣言書を提出したのと同じ教会だ。多くの関係者が集まり、教会の外にも領民が集まって祈りを捧げている。
聖歌の合唱の後、神父の祈りの言葉が続く。
一年前は崩落事故の後すぐの訃報でなにがなんだか分からず、オーウェンは葬儀の様子を外から見ているような気分だった。大勢の人が泣き、今後を憂いていた。
今日も故人の死に涙を流している人もいるが、それでも一年前に比べるとかなり落ち着いている。オーウェンの気持ちもそうだ。やはり時間が心の傷を少しずつ癒すのだろう。
特にオーウェンの場合は崩落事故のトラウマとも重なったため、この一年はほとんどを暗い気持ちで過ごした。しかし、ステファニーが来てくれたおかげで今はだいぶ心が穏やかだ。
相変わらずオーウェンはステファニーの一挙一動にどきまぎしていたものの、彼女はその様子を気にしているのかいないのか、表面上は変わらず接してくれている。
今日は黒いベールを被り、俯いて神父の祈りを聞いていた。
追悼式が済み、教会の広場で関係者に挨拶に回った。大勢の人が故人の思い出を語り、互いを励まし合う。同時にオーウェンは、この一年よくやっていると評価を受けた。
二人が関係者の間を回っていると、すぐ近くから小さく声をかけられた。
「オーウェン様」
振り向くと、キャシーが父であるウィリアムズに連れられていた。
久しぶりに会うキャシーは以前の印象よりも少し痩せてしまっているようだ。しかし落ち着いた様子の彼女に、オーウェンはほっとして駆け寄った。
「キャシー、久しぶりだ。今日は来てくれてありがとう」
「オーウェン様、ご無沙汰して大変申し訳ございませんでした。遅くなりましたがご結婚おめでとうございます」
「ありがとう。妻のステファニーだ。ステファニー、こちらは兄の婚約者だったキャシーだ」
「ステファニーです、婚約者の方とは存じ上げず失礼しました。ご結婚前に大変お気の毒でしたね」
ステファニーが驚いた様子で弔意を表すと、キャシーはわずかに微笑んだ。
「ずっと塞ぎ込んでいたのですが、最近ようやく外に出られるようになってきました。まだ立ち直れているわけではありませんが、少しずつ前向きになってきています」
「私もようやく落ち着いてきたところだ。今日、キャシーに会うことができてとても嬉しい。落ち着いたらまた、家の方にも遊びに来てくれ」
ウィリアムズが、頷いた娘を感慨深げに見つめていた。
その日の夜、いつものように寝台で話をしていたステファニーは、オーウェンに家族のことを訊ねた。
「お父様とお兄様はどのような方だったのですか?」
オーウェンは幼かった頃の父の様子を思い出そうとした。
「そうだな……、父はとにかく立派な領主だったな。皆から尊敬されていて……、でも父親として遊んでもらったことはあまりないかも。仕事が忙しそうだった。今なら分かる。これだけの仕事を一人でしようとしたら、それは忙しい」
オーウェンは家の仕事はステファニーに任せているし、他の仕事も自分である必要のないものは手放した。ほとんど一人でやっていた父は大変だっただろう。
「母は幼いときに亡くなっているから、兄が面倒を見てくれた。兄は将来の領主としていろいろ学んで、父を手伝っていたんだ」
「お兄様もオーウェン様にとって偉大な方だったのですね」
「そうだな。兄は、自分が家を継ぐからお前は好きなことをすればいいと言ってくれた。それで早く家を出て大学へ行き好きなことをしていたが、そのツケが今になって来たんだ、きっと」
そう言って、自嘲気味に笑う。ステファニーは励ますように明るい声を出した。
「でもそのおかげで鉱山事業が順調なんですもの。自信を持って良いはずですよ」
「そうだな」
オーウェンは、思い切ってステファニーのことを訊ねてみた。
「ステファニーは? ステファニーの家族はどんな人だ?」
ステファニーは驚いた様子で固まった。
しまった、やはり聞かない方がよかったか、とオーウェンは後悔したものの、俯いた彼女はゆっくり口を開いた。
「そうですね……、療養していたので、陛下にはほとんどお会いしたことはありません。ご存知だと思いますが、母は王妃様ではありません。母は……」
ステファニーの母が王妃ではないことは皆、知っていた。しかしどういった経歴で彼女が病気療養していたのかは知らされていない。
ステファニーは、慎重に言葉を探しているように見えた。
「母は……、病弱で、優しい人でした。でも正直、よく覚えていません。私の母も幼いときに亡くなったんです」
「……そうか」
「でも、療養先の周りの人々がとても親切だったので、全然寂しくありませんでした。裁縫も楽器も、そこで教わったんです」
「そうやって、自分に得意なことがあるというのはすごくいいな」
話が変わって気が楽になったらしい。
ステファニーは明るい顔に戻り、オーウェンに訊いた。
「オーウェン様は? なにが得意ですか?」
「なんだろう……、悲しいことになにもない気がする。今度、ギターを教えてくれ」
「いいですよ」
笑って頷く彼女に、オーウェンも頬が緩んだ。
正直なところ、オーウェンはもうステファニーが病気療養してようがしてまいが、姫であろうがなかろうが、どちらでも良かった。
まだ彼女は自分の過去を全て話す気にはなってくれていないようだが、別にそれが何であっても受け入れられるだろうと思う。
全て話してくれるくらい、早く自分のことを信用して欲しいと思う。しかし一方で、始めの約束を守るべく三年経ったら離縁するのだから、あまり深入りしない方が良いという気持ちがせめぎ合う。
オーウェンは自分の心の中の、本音と建前の折り合いをつけられずにいた。




