6、焦燥
相変わらず寝付くのに時間がかかるオーウェンだが、ステファニーが来る前のような、寝台に入った後の焦燥感は無くなった。彼女が引き続きよく喋ってくれるからだ。
ステファニーがどうでもいい話をしているとなんだか眠くなり、先に寝落ちしてしまうこともあれば、きちんとおやすみと告げることもある。
明け方に悪夢で起きるのも変わらないが、それでも寝る前の焦りがなくなったことで、オーウェンの気持ちがずいぶん楽になった。
全体の睡眠時間は足りていないので、隈は消えないしやはり体はだるいけれども。
それから、まだ窓も扉も開けているので二人は厚着をして寝るようになった。屋敷の者たちからは不審がられているかもしれないが、誰もなにも言ってはこない。
仕事も、天気の良い日は外で、雨の日は応接室で行っており、執務室は書類置き場と化した。
ステファニーが飼い始めた鶏がうろうろする近くで仕事をしている自分は、普通と比べたら『いびつ』だなとは思う。だが、それなりになんとかなるものだとオーウェンは半ば開き直りつつあった。
ある日の夜、オーウェンはステファニーに聞いてみた。
「私よりも遅く寝ていることの方が多いはずなのに、ステファニーはなぜそんなに元気なんだ?」
するとステファニーはあっけらかんと答えた。
「私は昼寝をしていますよ」
合点が入った。それでステファニーは睡眠時間が足りているのか。
「オーウェン様も昼寝なさったら?」
「昼寝など……、できないに決まっている。忙しい」
「昼寝をしてはいけないって、誰が決めたんですか? 多少仕事が遅れたって誰も死にませんよ」
オーウェンは呆れてステファニーを見やった。また同じことを言っている。
「昼寝をしたら、夜寝られなくならないか?」
「どうせ今、なかなか眠れてないんですから、同じじゃないですか」
ステファニーはけらけらと笑った。
早速次の日、昼食後に少しだけ時間が空かないかダンに聞いてみると、運良く来客は入っていなかった。
昼食後、ステファニーが昼寝しているかと寝室を見ると、誰もいない。
寝室の隣のステファニーの部屋をそっと開けて中を覗き見ると、ステファニーは陽の当たる窓際で、デッキチェアのようなものに横たわってうたた寝をしていた。
――羨ましい。あんなの絶対に気持ちいいじゃないか。欲しい。
オーウェンがアンナを捕まえて聞くと、あれはステファニーが個人的な荷物で送ってもらった中にあったものだという。
オーウェンはアンナに似たようなものを急ぎ探してもらうことにし、その日は長椅子で横になった。久しぶりの長椅子は腰が痛くなった。
デッキチェアはすぐに届き、早速来客のない昼食後に自室で横になった。陽が当たって気持ちがいい。
夜と違ってあっという間に眠くなり、三十分ほど寝て起きると、本当に久しぶりに頭の中のもやが取れたような気分だった。
オーウェンはダンに頼み、昼食後に少しだけ昼寝の時間を取るようになった。
昼寝をし始めたオーウェンはすこぶる体調が良くなった。隈は消えないが、昼に少し休憩を取るだけで、一日中すっきり仕事を進めることができる。感動だ。なんでもできそうな気がする。
そのうちオーウェンは今までの仕事の遅れを取り戻そうと、夜遅くまで仕事をするようになった。どうせ眠れないのだし、昼寝をすることで回復するのだから問題ない。
そういったこともあり、オーウェンが夜に仕事を終えて寝室に行くとステファニーは先に寝ていることが増えた。それまでよりも寝室に入る時間がずっと遅くなったからだ。
ステファニーのおしゃべりがないとやはりなかなか寝付けないオーウェンだったが、昼寝できるんだと思うと焦りもなかった。
バリバリと仕事をこなしていたオーウェンだが、ある日、急に限界が訪れた。
来客を見送って仕事の続きに戻ろうと玄関から庭へ出ようとしたところで、急にふらついて倒れたのだ。
気付いたら寝台の上だった。
「まあ、過労でしょうね」
昔から診てくれている侍医が聴診器をしまいながら言う。
「よく寝て、栄養のあるものを食べて、ゆっくり休むことです」
寝られないし休む暇もないんだけどな……とオーウェンは気が遠くなった。
昼寝すれば回復した気になって、焦って仕事を詰め込んで倒れた。
早く仕事をこなせるようにならなければと思っているのに、結局周りに迷惑をかけて。
今の仕事量なんて、父が軽々とこなしていたものの一部でしかない。優秀な兄だったらきっともっと簡単にこなしていただろうし、皆頼りにできたはずだ。
自分の不甲斐なさに情けなくて、オーウェンは涙が出てきた。
偉大な父や兄が急にいなくなって、孤独だ。
不眠な上に閉所も雷も怖くて、もうダメかもしれない。誰か他の人に伯爵位なんて渡してしまいたいが、そうしたら今度こそ自己嫌悪で死んでしまいたくなるだろう。
オーウェンは消えてしまいたくなり、布団に潜り込んだ。
しばらくすると、布団の上から誰かに撫でられた。
「オーウェン様、オーウェン様。ご飯を食べましょう」
ステファニーがなにか食べ物を持ってきたようで、いい匂いがする。
オーウェンがのそのそと布団から出ると、ステファニーは「ひどい顔だわ」と笑った。反論する気力もない。オーウェンは上半身を起こし、ぼさぼさの髪のまま項垂れた。
「……あなたにも迷惑をかけて申し訳ないことを。こんなところで三年も過ごすより、早く王宮に帰してやりたいが……、申し訳ない」
「別に迷惑なんてかけられていませんよ。というか、私、帰りたいって言いましたっけ?」
ステファニーは明るい声で、湯気の上がる器の中身を匙でかき混ぜている。
「あなたは社交的で、優秀で、親切だ。こんな、自分の体調管理もできないような男のところにいる必要はない」
「オーウェン様、今回は倒れてしまいましたけど、でも死んでませんよ」
彼女の判断基準はいつも、死なないかどうかだなとオーウェンはぼんやり思った。
「はい、あーんしてもらいたいですか?」
「……自分で食べる」
器を渡されて、なんだかよく分からない肉の浮いたスープのようなものをもそもそと食べる。
確かにいま死んではいないと思ったオーウェンは、死ぬほど怖かった話をステファニーに聞いて欲しいなと思った。
「……少し話をしても?」
「もちろん、どうぞ」
ステファニーは穏やかな目でオーウェンを見つめている。
「私が予定されていなかった領主であることは聞いているか?」
「領主のお父様と跡継ぎのお兄様を亡くされたことは嫁ぐ前に聞いてきました」
「そうだ。その前は鉱山採掘の仕事をしていた」
オーウェンはゆっくりと、崩落事故の話をした。自分がやっていた仕事。閉じ込められた五時間。
その後から眠れなくなったこと、悪夢を見ること。閉所や雷が怖くなったことも。
「……実際には全員助かったのに、私の悪夢の中では誰かが死ぬんだ。自分のこともある。事故からずいぶん経つのに、ずっと同じだ」
「苦しい思い出は長く残ります。死ぬほど辛い思いをしたのであれば、当然です」
「崩落事故の後、全員助かったことについて皆が私を讃えてくれた。でもそれは運が良かっただけだ。私の手柄ではないし、チームの皆が素早く行動してくれたからだ。その後、父と兄が亡くなり、ここに呼び戻された」
オーウェンは過去を思い出して苦笑した。
「……本当は、技術者になりたかったんだ。でももうなれない。今後は頭を切り替えて良き領主になろうと頑張っていたが、難しい仕事だ。領民の暮らしがかかっているというのに、私は力が足りなくて満足に領主としての仕事ができない」
「……夢に見るほど怖い思いをして、大切な家族を亡くして、経験のない仕事をして、オーウェン様は十分頑張っていますよ」
今まで色々な人から慰められたり、励まされたりしたが、オーウェンは素直に受け取ることができなかった。
頑張れと言われれば言われるほど、まだまだ自分の努力が足りないと焦っていた。
しかし今、ステファニーから言われる言葉はなぜかすんなり心に入ってきた。
ステファニーは自分に対して、寝ろとも、頑張れとも、かといって休めとも、一度も言ってきたことがない。
オーウェンが自分自身の心に無理に抗わないように、誘導してきてくれたように感じる。トラウマに立ち向かうのではなく、それを回避する方法もあるのだということを教えてくれた。
「……頑張っているかな」
「頑張っているから倒れてしまったのでしょう?」
ステファニーは食事を終えたオーウェンから空いた皿を受け取り、グラスに水を注いだ。
「差し出がましいことを申しますが、一つ提案があります」
「なんだ」
「業務の棚卸しをなさったらいかがかと」
オーウェンは首を捻った。
「ひょっとすると、仕事の中にはオーウェン様でなくても大丈夫なものがあるかもしれません。仕事を全て書き出して、分類して、オーウェン様でなくても大丈夫なものは得意な人にやってもらうんです。最終確認は必要ですけどね」
そんなことが出来るだろうかと考えた。
今やっている仕事はほとんど、父がこなしていた仕事だ。ただ、ダンに相談してみることは出来るだろう。
「……考えてみる」
「ぜひそうしてください」
オーウェンは水の入ったグラスを受け取って飲んだ。
「ところで、さっきのスープみたいなものはなんだったんだ?」
「あれは亀です」
「ごっほ」
飄々と述べるステファニーの言葉にオーウェンは水を吹き出し、ごほごほと咳き込んだ。
「この間、河川に視察に行ったじゃないですか。そうしたら亀がいたのが見えたので、ひょっとするとこの辺りにも亀がいるかもと思って仕掛けてみたら捕れたんです」
「それをなぜ今、スープに……?」
「お医者様が、栄養のあるものをと仰ったので。タイミングよく捕れてよかったですよ」
「ああ、そう……」
オーウェンはなんだか力が抜けて、寝台に深くもたれかかった。
♢
少し体調の戻ったオーウェンは、ステファニーに提案された業務の棚卸しを早速ダンに相談し、全ての仕事を書き出した。
まず、馬車に乗れるようになってから一度増やした外出を伴う仕事は、緊急のものを除いて減らした。来客や面会も、必要性の低いものは一旦延期か、断ることにした。
それから事務仕事についても、前々伯爵である隠居していた祖父に依頼して期間限定で手伝ってもらうことにした。
役人たちには、ある程度自分たちで判断した上で話を上げてもらうようにし、ただしなにか困ることがあったり最終判断の際には迷わず来るように告げた。
そもそも領主である自分の判断が本来必要ない仕事については、思い切って自分の手から離した。
最後に、オーウェンはステファニーを呼んだ。
「お呼びですか?」
ステファニーは庭仕事をしていたようで、ほっかむりをして小さなスコップを手にしたままだ。
「ステファニー、あなたに任せたい仕事がある」
彼女は驚いたように目を丸くした。
「なんでしょう」
「屋敷の中の管理や、もろもろの対応を一通り任せたい。やってもらえないだろうか」
オーウェンは三年で離縁しようと思っていたので、伯爵夫人としての家の仕事をステファニーに任せないでいた。
「……三年後……、もう三年もないが、離縁するまでだ。それまでには余裕を持って仕事ができるようになるよう努力するので……」
「私、離縁したいなんて一度も言っていませんのに」
ステファニーは苦笑して、労わるような眼差しでオーウェンを見つめる。しかし、すぐに満面の笑みで口を開いた。
「でも、お仕事を頂けてとても嬉しいです。ありがとうございます」
業務分担に伴ってオーウェンが仕事を頼むと皆、嬉しそうに了承してくれた。ダンも、役人たちも、隠居していた祖父もだ。
大丈夫だ、任せろ、なにかあったらすぐに相談する、仕事を任せてくれて嬉しいと。
皆、心配してくれていたのだ。
オーウェンは自分だけが肩肘張っていたことに気付き、少し恥ずかしくなった。もっと早く、周りを頼れば良かったのだ。
偉大な父や兄はいないが、自分の周りには協力してくれる人たちがたくさんいることにようやく気付き、オーウェンは少し肩の荷が降りたような気がした。