13、初めての
「オーウェン様はキャシー様のことがお好きなのですか?」
その日の夜、ステファニーは早速オーウェンに聞いてみた。気になったことは早めに聞いておかないと気持ちが悪いものである。
「ええ?」
「キャシー様ですよ。今日いらしていたでしょう」
「なんでだ?」
いつも通りの怪訝な顔で見てくるオーウェンにステファニーは説明した。
「庭から見えていたのですが、とてもお似合いでしたし、オーウェン様がとても優しくキャシー様を見つめていらしたので」
「ええ……?」
「もしお好きなら、三年待たずに離縁してもよろしいのですよ」
オーウェンは非常に渋い顔で、大きくため息をついた。
「兄の婚約者だった人だぞ。そういう意味で好きだということはない。なんというか……、同志のような感じだ」
「キャシー様がオーウェン様を好いていらっしゃるということは?」
「ない。むしろ今日は縁談があることの報告だった」
そうだったのか。しかしそれだとオーウェンが失恋したことになる。ステファニーは神妙に言った。
「まあ、オーウェン様、可哀想に」
「好きじゃないと言ってるだろ」
呆れたように息をつき、それからオーウェンは逡巡しながら続けた。
「その……、もしも私がキャシーを好きで離縁してくれと言ったら、ステファニーは了承するのか?」
「了承します。お邪魔虫になるのは嫌です」
「……そうか」
オーウェンの声が小さくなる。ステファニーはうつむいたまま、少しだけ本音を漏らすことにした。
「……でも、もしそうなったら私自身は残念な気持ちになるだろうな、と思いました」
「なぜ?」
「うまく話せませんが、私はオーウェン様といるのが楽しいですし、今の生活にとても満足していますから」
彼の気持ちを勘違いしたことと、それにより嫉妬したことは言わないでおいた。思わせぶりな態度を取ったことについては文句を言ってやりたい気もするが。
「そうか」
先ほどとは変わり喜色をはらんだ声に顔を上げると、オーウェンは口元を押さえてにやにやしていた。
「なにをにやにやしているのですか」
「いや……、ごめん」
口にしたことで自分でも再認識したが、オーウェンと一緒にいて楽しいと感じているのは確かだ。頑張っているオーウェンを応援したいとも思う。
にやにやしていたオーウェンだが、今度はもじもじと話し出した。
「……ステファニー、相談だが……、もしステファニーが今後も楽しかったら、三年後に離縁するという約束を反故にしても? 延期でもいい」
「初めから申し上げてますが、私は別に離縁したいなんて思ってませんよ」
「……そうか。それではこれからもステファニーが楽しいと思うことを教えてくれ。努力する」
そう言うとオーウェンは非常に満足そうに頷いた。
今の言葉で、彼は離縁したいとは思っていないのだなとステファニーは理解した。しかし、また勘違いするではないか。彼の考えていることがよく分からない。
だが、ステファニーはもうそれ以上は考えるのが面倒になった。
とりあえず現状の関係は結論付けず先送りにしよう。また今度考えればいい。ステファニーはため息をついて、寝ようと目をつむった。
♦︎
それからオーウェンとステファニーの関係はほんの少し変わった。
オーウェンは三年の期限をよほど気にしていたのか、あの話をして以来、もう挙動不審になることなく落ち着いている。ステファニーも少し前のような緊張は減り、穏やかな関係に落ち着いたことに安心していた。
ある日、ステファニーは鶏小屋の前でしゃがんで鶏を眺めていた。
簡素なドレスにほっかむりのいつものスタイルだ。
ステファニーは鶏の餌を変更してみようかどうか考えていた。今までは鶏を譲ってもらった農家から言われるままの餌で育てていた。しかし書庫にあった本に、与える餌により卵の味が変わるとの記載を見つけ、試してみたくなったのだ。
どのように餌を変えてみようかと悩んでいると、屋敷からオーウェンが出てきて大きく伸びをしている。まだ仕事中のはずだが、とそちらを見ると、ステファニーに気付いたオーウェンがやってきた。
「ああ、疲れた」
オーウェンはしゃがんでいるステファニーの隣に、同じようにしゃがみ込んだ。
「なにしてるんだ?」
「鶏の餌を変えようかどうしようか迷っています」
そう言って、本で読んだ内容を伝える。
「卵の味を比較してみたいんですけど、どうせなら同じタイミングで餌の違う卵を食べてみたいじゃないですか。でも二羽飼うのは大変だし、かといって農家からもらった卵と比較すると、環境と個体の違いによる差なのか、餌の差なのかどうか判断つかないかな……と」
話し終えたが、返事がない。
また全然聞いていないのかとステファニーが横を向くと、思いの外すぐ近く、肩が触れるほどの距離にオーウェンがいた。
深い緑色の瞳と目が合う。
近いなと思ったステファニーが体を引こうとした瞬間、唇にふわりと何かが触れて、すぐに離れた。
一瞬なんだか分からなかったが、キスされたのだと気付いたステファニーは動揺してよろめき、尻餅をついた。
オーウェンも一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに気まずそうな表情で顔を背けた。
「……ごめん」
意味が分からない。なぜいまキスされたのだろう。しかも、キスしてきたオーウェンが驚いた顔をしたのはなぜなのだ。
恋愛小説などを読む限り、通常はもっとロマンチックな状況でするものなのではないだろうか。なのにいまここは鶏小屋の前で、自分はほっかむり姿だ。
ステファニーは混乱した。
「いまのはキスですか? なぜいまキスしてきたのですか? なぜキスしてきたオーウェン様の方が驚いているんですか? 謝るならなぜキスを?」
「キス、キスうるさいな」
「うるさくもなりますよ。初めてだったんです」
結婚式の時は唇ではなく、頬に受けた。
オーウェンは驚いた顔でステファニーを見ると、また「悪かった」と謝った。
「……もしかして、オーウェン様は私に好意を持っていらっしゃる?」
思い切って訊ねると、オーウェンはうーん、うーんと唸り始め、顔を手で覆った。
「……そうだ」
オーウェンが小さい声で呟いたそれを、かろうじてステファニーは聞き取れた。
「そうですか、分かりました」
自分の自意識過剰ではなく、オーウェンの行動の意味がわかったステファニーはなんだかほっとした。同時に、嬉しく感じた。彼の挙動不審は、やはり好意だったのだ。そして、そのことがとても嬉しい。つまり、自分も彼が好き。
しかし、いまの行動については文句を言っておかねばならない。
「初めてのキスは、綺麗なドレスで、美しい場所でしたかったなあ」
「悪かったってば」
それからしばらく二人で並んで鶏を眺めた。
ステファニーは大きな衝撃を受けたので鶏の餌の件は頭の中から抜けてしまった。
♦︎
オーウェンの気持ちを認識したステファニーだが、特段それ以上の変化はなく、鶏小屋の一件以降、何もされることはなかった。
ステファニーもとりあえずもやもやは解消したので、日常に戻っていた。
そんな中、オーウェンは隣の領地の侯爵家から夜会の誘いを受けた。バートン伯爵家の領地は鉱山により財源が潤っているが、鉱山事業に伴い、侯爵家領地にも人の出入りが増えた。
侯爵家はひがむこともなく、むしろ感謝していると言ってくれており、今回の夜会はあちこちから商人も来るので鉱山事業の宣伝や商談にもどうか、と誘ってくれたのだ。
オーウェンは鉱山の広報担当のシンも連れて夜会に出席することにした。
規模の大きい夜会のようで、ステファニーはいつもより気合を入れてアンナたちに飾り付けられた。宣伝のためにと、耳にはオーウェンに買ってもらった銀の耳飾りを下げている。
出発時間に現れたシンは、伯爵夫妻を見てにやりと笑い、オーウェンに目配せをした。
「なんですか? 私、どこかおかしいですか?」
「いや、なんでもない。大丈夫だ」
オーウェンは困ったような顔をしたが、シンはにやにやと笑い、特注馬車に乗り込んだ。
シンは陽気な男で、鉱山で仕事をしていた時のオーウェンの話を次から次へと披露してくれた。オーウェンは渋い顔をしているが、昔の同僚が同行してくれてリラックスした様子である。
辛いことを一緒に乗り越えた仲間というのは良いな、と思う。ステファニーも修道院の皆を懐かしく思った。
侯爵家の夜会は今までステファニーが出席した中で、最も煌びやかだった。大勢の男女が談笑しており、あちこちで商談も行われているようだ。
シンはオーウェンと離れて商談へ向かった。伯爵として話をして欲しい時には声をかけるという。
ステファニーはオーウェンから離れず、主催の侯爵夫妻へ挨拶をした。
「鉱山は順調なようだね。若い夫婦でよく頑張っている」
「優秀な技術者の皆が頑張っているおかげです」
「奥さまは療養されていたという姫だね。お加減は?」
「元気にしております。お気遣いありがとうございます」
侯爵夫妻はにこやかに頷いた。
「人が多く来ている。存分に売り込んで、楽しんでいってくれ」
それからオーウェンは知り合いに挨拶したり、逆に声をかけられたりしていた。たまにシンが呼びにきて、初めて会う商人などにも挨拶している。
ステファニーもそれを隣で見ていたが、途中で髪飾りが気になり、鏡で確認するためオーウェンに耳打ちした。
「少し外します」
「分かった。ここにいる」
ステファニーが広間に戻ると、元の場所にオーウェンはいなかった。まあいいか、と近くで飲み物を取って辺りを見回していると、知らない男に声をかけられた。
「失礼、よろしかったらあちらで一緒に休憩しませんか?」
すらりと背の高い、金髪で整った顔の男。しかし知り合いではない。
当然ながら、このような誘いを受けたことがない。ステファニーがどのように断ろうか考えていると、男に腕をとられて引っ張られた。
瞬間、それをとても気持ち悪く感じた。
触られた腕からぶわりと鳥肌が立つ。腕を取られているだけなのに、恐ろしくて声が出せない。
「ああ、いたいた」
ステファニーが固まって動けずにいると、オーウェンの呑気な声が聞こえた。彼の手がステファニーの腰に回り、金髪の男は掴んでいた腕を放した。
「失礼、妻とはぐれてしまって。ありがとうございました」
状況は理解しているだろうが、オーウェンは男を問い詰めることはせず、ステファニーを連れてにこやかにその場を去った。
二人はそのまま広間のテラスから外へ出た。灯された綺麗なランプがあちこちに置かれているが辺りは暗く、時折虫の音が聞こえる。
腰に回していた手を離したオーウェンは、ステファニーの顔を見て苦笑した。
「ひどい顔、大丈夫か?」
「どこへ行っていたのですか、ちゃんと元の場所に戻ったのに」
「ごめん、知り合いに捕まっていたんだ」
ステファニーはようやく息をついた。
一瞬だけだったのに、知らない男から腕を掴まれただけでこんなに気持ち悪く感じるとは思わなかった。
「さっきのは売り出し中の役者だ。すごいのに目をつけられたな」
「……気持ち悪くて頭が真っ白になりました。ありがとうございました」
オーウェンはにやりと笑うと、ステファニーの顔を覗き込んだ。
「お礼なら欲しいものがあるんだが」
いつもの立場と逆だ。なにを要求されるのか、ステファニーは身構える。
「なんでしょう。高価なものは無理ですよ」
「目を閉じてくれ」
「……不埒なことを考えていますね」
鶏小屋の一件を思い出し、一歩後ろへ下がった。
「だって、いまはステファニーのお望み通りの状況だ」
「……まあ、確かに」
オーウェンは、以前、鶏小屋の前でステファニーが吐露した内容を示唆している。
確かに、いまは綺麗なドレスを着ているし、周りは美しいランプでキラキラしている。自分が望んだ通りの状況だ。
「他のところでこんな状況を作り出すのは難しい」
彼の言う通りではあると思ったステファニーは、渋々了承した。
「仕方ないですね」
「嫌ならやめておくけど」
「……嫌ではありません」
くすくすと笑ったオーウェンの手がそっと腕に添えられた。オーウェンなら腕をとられても嫌ではない。大丈夫だ。
それから体を寄せてきたオーウェンに、ステファニーはぎゅっと目をつむった。




