3(あれは事件でした)
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あたしたち兄妹は年が離れている。間に姉がひとり挟まっていて、そのお姉ちゃんは沙漠か海か氷山か、おそらく地上の何処かを、今日も元気に闊歩している、とても自由な人なのです(深海の可能性もゼロでない)。
語学堪能、体力無限、人当たり良く、胃腸が強い。身内びいきを差し引いても、とても自慢のお姉ちゃん。あたしは小さな時分に既に絶対かなわないって悟っていた。末っ子なのに余りゴリゴリしていないのは、たぶん、そんな姉を間近で見ていたからだと思う。
ところで兄は老け顔で、やっとこ見た目に年が追いついたと言った風采で、髭は濃いが髪は薄い。昔話回想。高校の帰り、制服のまま仕事上りのタツ兄ぃと歩いていたら、お巡りさんに捕まって(職質は後にも先にもない)、タツ兄ぃは何故にか身分を証明できず、あたしの生徒手帳も役には立たず、そこにたまたまた通りかかったやっぱり制服姿のミーちゃんが誤解に余計な拍車をかけた。あれは事件でした。ミーちゃんからタツ兄ぃと付き合っていると知らされた時はもっと事件だったけれども。
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「暗中模索だね」ニュース見たよ、とあたし。
「五里霧中だ」ぐったりと、タツ兄ぃ。「何を望んでいるのか全く分からない」
「そしてどうして僕なのか」
「なんだって?」
「なんでもない。ねぇ、タツ兄ぃ、価値観を等しくしないもの同士が理解し合うのは無理だと思うよ」
「それをどうにかしなきゃいけないんだ」むっつりとタツ兄ぃ。「どうして俺なんだろうな」言ってハッと顔を上げ、出来の悪い妹を見つめ、小鼻に皴を寄せたのでした。それからはーっと、細く長いため息を吐いて、「同じ宇宙で生まれたんだから、そうは違うとは思わないんだよなぁ」
「いやいや」楽観にも程があるぞ? 「価値観って文明の規模とか文化に関係してるんだよ。で、文化は土地や気候、民族の興味対象に依存してる。空にかかる虹の色、あっちは六色、こっちは七色。三色だって言う人もいる」ほらね? 「このちっちゃい青い星だけでも、どれだけ言葉や仕草があるのかねぇ」
むぅ、とタツ兄ぃ唇を尖らせる。「素数はうまくいくと思ったんだがな」
「はい?」
「お前の言う民族だとかも、数学的な定数、基礎や基準は変わらないだろう?」
「うーん」あたしはちょっと考えて、「それって物理的にモノを数えるカルチャーに基づいてない?」
タツ兄ぃが不思議そうな顔をした。あたしは人差し指を立てて、「人類には指があるから、たぶんこうして数え始めた」次いで中指、薬指、小指、最後に親指を立て、「これで五。でも相手がぶにぶにのゼリー人だったら?」
「個体が自分と他者を分けるために数えることはあるだろう」
「あ、そっか」今度はあたしがむぅと唇を突き出した。どうしたもんだろう。
「あのさ」ふと思いついてあたしは続けた。「数字に価値がなかったら? 有か無か。区分が自分かそれ以外。機械の概念ってオンオフじゃん? それの組み合せじゃん? なら円盤だって作れるじゃん?」
「よしんばそれが正解だとしても」兄は悲しげに目を伏せた。「どうしたってお手上げだ」
「そうかねぇ」白旗なのかねぇ。
「お前、コンペに出すんだってな?」いきなりタツ兄ぃは別の話題を釣り上げた。
「うん、まぁ」あたしは頭をかりかり掻いて。「著作権代理人に頼まれて」
「乗り気じゃなさそうだな」
そのコンペとやらは、ありとあらゆる分野の垣根無し異種格闘技的なノリで有り体に言えば第三種接近遭遇、さぁお迎えどうしよう奇抜アイディア大募集なのだ。主催側もたぶん目的分かってない。そしてあたしはちまちまと地味に活動していたフィールドでの参加の打診をされた。佐伯さんがあたしだけに声をかけたとは考えにくい。と言うか、佐伯さんはお抱えの全員に声をかけただろうと言うことがたぶん地味に引っかかっていて、なんだかそれを認めるのが実にシャクなのです。
「きっと誰も聴いたことのない音楽になるんだと思う。凡庸なあたしには荷が勝つよ」
「そうか」
「それに、音楽も煎じ詰めるに数学だって気付いちゃった」
「そうか」
あたしたちは、それきりふたりしてひっそり黙り込んだ。寝室の方から、ミーちゃんのくしゃみが聞こえた。
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「降りたいって?」驚いたように佐伯さん。
「それもひとつの手かなって」とあたし。
「本気で? 真面目に? 真剣に?」
そこまで言われてしまうと、ちょとグラつく。「めいびー?」
「なによ」ふん、と佐伯さんは受話器の向うで鼻を鳴らした。「はっきりなさい」
「ごめんなさい」
「なら仕事に戻って」
「イエス、マム」
受話器を戻し、あたしは両膝を抱えて丸くうずくまった。なんだろうなぁ。どうしてなんだろうなぁ。あたしの何に、何を求められているんだろうなぁ。他人のことなら幾らでも言えるのに、簡単に言えちゃうのに、自分のことだと、どうしてこうも上手くいかないんだろう?
膝を抱えてゴロゴロ廊下を転がった。
たぶん、タツ兄ぃも似たような気持ちなんだろうなぁと思って、あたしは転がるの止め、立ち上がった。
あたしは、あたしだ。
「よし」声に出して気合いを入れた。お仕事、してやろうじゃないの。
顔を上げたらリョータと目が合った。
「今のは太古から伝わる由緒正しいおまじないだ」あたしは言った。
「何をお願いしたの?」
「みんなが毎日、元気で楽しく暮らせますように」
リョータは首を傾げた。「何それ」
あたしは甥っ子の頭をぽんぽん優しく叩いて、自室兼の仕事部屋に戻った。
そうだよね。キミにはちょっとばかり早いかもだね。知らなくて良いことならそれで良いんだよ、おチビさん。