1(締め切りは延びない)
月とザリガニ(Blue: Moon and Crayfish with Note Scale)
兄が異星人との交渉役に抜擢されるなんて想像だにもしなかった。
「なーんで引き受けちゃったんだろ」ばりばりお煎餅を齧りながら、義姉のミーちゃんが言った。「前のひと、逃げちゃったのに」
先だって落成したばかりの二世帯住宅のリビングは、仄かに真新しいお家のにおいが漂っている。今日もお外は真夏日で、ラジオは熱中症と紫外線の二本立て。蝉の鳴き声を締め出して、エアコンの冷気が心地好い。
「タツ兄ぃは昔から断るのヘタだったから」
「あー」そうだねそうだねとミーちゃんは納得し、いきなりガバッとテーブルに手を突き、ガタッと椅子から腰を浮かせた。「あたしと結婚したのもその所為か!」
「そうだねー」あたしはグラスの中の冷たい麦茶を飲んだ。
ミーちゃんは崩れるように椅子に落ちると、ああんと、何だか嘆息して、体をテーブルにぐでぇっと投げ出した。「やっぱそうかー。ちぇー。くっそー」
いい年して子供っぽさが抜けないこの人は、高校の頃からちっとも変わってない。フォークギター部に入部して半年以上、誇張でもなく同学年だと思ってた。高校一年生で、まだまだ素直で純朴なあの頃のあたしなら、高校にはゼロ学年があると担がれても、まるっと頭から信じた。ミーちゃんはゼロ年生です。飛び級で高校に入学しました、でも中学三年生でもありません。
しくしく嘆いているミーちゃんを放置して食べる海苔のお煎餅は、ばりばり美味しい。
「無理難題押し付けられたらどうするのかなぁ」ほうっ、とミーちゃんは、やけに色っぽい息を吐いた。
「頑張るんじゃない?」
兄はそーゆー人なのだ。たぶん頑張る。きっと頑張る。でも道理が引っ込む無理は無理。でもまぁなんだ。かわいい妹としては愚痴のひとつくらいは聞いてあげようじゃないか。
「あらやだ」不意にミーちゃんは体を起こし、「リョータ、帰ってきちゃう」
ゼロ学年生だった後輩のような先輩だった人も今やお母さん六年生。人は環境で変わる所もあればそうでないところもあると言うなんとなく格言めいた言い回しを舌先で転がし、改めて何処にも哲学的な所もなく、バーナム効果の如くナンにでも転用できる便利語であると思うのでした。
*
「進み具合は?」と佐伯さん。
「さぁねぇ」とあたし。
「月と地球の間に円盤が浮いていても締め切りは延びないわよ」
電話の向うで彼女はきっぱり言い切った。
ちぇっ。「古い映画に異星人と音楽交流を試みて失敗した作品があったと思います」
「コンペに勝てば箔がつくでしょ?」
まぁそうだ。「音や光のリズムって、異文化コミュニケーションの基本だよね」
「そうなの?」
知らんのか。「うっかり今からブチかますぜってメッセージになったら怖いんで」
「まさかぁ」だはは、と能天気な笑い声。
「たまさか固有振動数を引き当てちゃって、細胞を破裂させちゃうかもしれないし」
「まっさかぁ」だはっ、だははっ。
「あたし、ヤダよ。百年後も二百年後も、アイツの作った歌がキッカケになったって語り継がれるの」
「二百年後も聴かれるようなモノ、作ってるの?」だはははっ。だっしゃっしゃ。
去ね。
*
誰かを悪く思ったり口にした時は、お風呂に入ることにしている。負の感情が沈んで澱となる前に、心も体も洗っちゃう。お肌に触れる水の感触が好き。気持ちを溶かし、流れていく。
「あー」極楽ごくらく。湯船に浸かると声が出る。お湯は少し温いくらいがちょうど良い。
あれは一年くらい前のことで。やっぱり今日みたいに暑い夏の日で。月と地球の間に、円盤がぽこっと現れた。もちろん誰もが驚いた。ところが何もしてこない。これには誰もが戸惑った。満月の夜に見上げたら、まるでホクロみたいだった。
湯を両手ですくって、ざぶざぶと顔を洗う。はー、さっぱりさっぱり。おっと、臀部付近に圧迫感。メーデー、メーデー。ガス攻撃です。ご存知ですか? 屁が可視化されるのが湯船の中だけぶくぶくぶく。
くっさ。