第九話 あなたの人生、本にします
趣味で小説を書いている遠藤が訪ねた出版社は……
「あなた、またブツブツ歌ってたわよ」
妻にそう言われ、遠藤はハッとした。
「ああ、そうか。すまん」
「悩みごとなの?」
「えっ、どうしてわかった?」
「やっぱりね。だって、あなたが『迷子の迷子の子ネコちゃん』って歌ってる時は、大抵そうだもの。どうしたの。また、変なサイトに引っかかったんじゃないでしょうね」
妻が言っているのは、一か月ほど前の話だ。遠藤は、ネットでショートショートを募集をしているサイトを見つけ、《入賞作は雑誌に掲載します》という文言に惹かれ、興味半分で投稿してみた。すると、数日後に次のような通知のメールが来た。
《惜しくも次点でした。但し、少し手を加えれば掲載できます。ついては、編集費を電子マネーで振り込んでください》
大した金額ではなかったため振り込んだところ、次に来たのは、《イラストを付けるので、その費用も振り込んでください》という内容のメールだった。
さすがにこれは怪しいと思って様子をみていると、次々に督促のメールが来た。少し怖くなって、すべて無視していたら、いつのまにかメールは来なくなった。
だが、ホッとしたあまり、つい妻に経緯をしゃべってしまい、散々怒られたのだった。
「いや、違うよ。今回はネットじゃない。リアルな出版社なんだ」
遠藤は《あなたの人生、本にします》と書かれた折込みチラシを妻に見せた。
「どうせサギまがいの商法じゃないの」
「そんなことないだろう。その出版社の住所を見ると、ウチから歩ける距離なんだよ。たまの休日なのにやることがなくて退屈してたから、散歩がてら行ってみてもいいかなと思ったんだ。覗いてみて変なところだったら、すぐに帰って来るからさ」
「まあ、ちょうど掃除がしたかったところだから、出かけてくれると助かるけど。ホントに少しでも怪しかったら、契約なんかしないで帰って来てよ」
「わかってるさ」
自宅から二十分ほど歩き、ちょっと黒っぽい外観の雑居ビルに着いた。案内板を確認し、エレベーターに乗って十三階で降りる。廊下の突き当たりまで歩き、金色のプレートに『ルシフェル出版』と書かれたドアをノックした。すると、中から「カムイン!」という返事があった。
(外国人なのか)
遠藤がためらっていると、少し外国語なまりの日本語で「どぞ、お入りくらさあい」と聞こえた。
「し、失礼します」
おそるおそる事務所に入ると、中は想像以上に広い。真正面の大きなデスクに、体格のいい男が一人で座っていた。髪も瞳も黒いが、どことなく日本人離れした顔立ちをしている。男は白い八重歯を見せてニッコリ笑った。
「出版希望の方ですねえ。どぞ、その椅子にお掛けくらさあい。ちょどみな、出払ってて、何のおもてえなしも、できませぬが」
「あ、いえ、あの、ちょっとお話だけ聞こうと思いまして」
「いですよ。何でえも、聞いてくらさあい」
「ええと、自分の人生を本にする、というのは、自分史的なことでしょうか。そういうのはあまり得意じゃなくて。ぼくは主にフィクションを書いているんですが、そういうものも対象になるんでしょうか?」
「もちろん、もちろん。どゆもの書かれるにせよ、それえは、あなたを表すものでえす。あなた自身が、本になるのでえす」
男は口の端をキュッと吊り上げて笑った。
「はあ。あ、それと費用なんですが」
「ご心配なあく。これは、自費出版ではありませぬよ。われわれは、本から利益を得るだけでえす。ただあし、ちょとした契約を、交わしていたらく必要ありまあすが」
男はますます八重歯をむき出した笑顔になり、ちょっと古めかしい契約書のようなものを取り出した。普通の紙ではなく、羊皮紙とかいうもののようである。
その時、遠藤のスマホにメールの着信があった。
「あ、ちょっと失礼します」
見ると、例の投稿サイトから、《入賞作・次点作がまとめて本になりました。あなたの作品も掲載されています。出版費用の百万円を至急振り込んでください。振り込まれない場合は、法的な手段に訴えます》というものだった。
「おお、迷子の迷子の」
「え、何ですて?」
「あ、すいません、つい」
「そでえすか。『オーマイゴッド! ノー!』とゆたのですね。あなたがクリスチャンとは、うかあつでした。残念でえす」
そう言うなり、男は紫色の煙になって消えてしまった。