第八話 怪しい音
副店長を任された掛川が聞いた怪しい音とは……
店内のテーブルで今日の売り上げを計算していた掛川は、人の気配にハッとした。
「副店長、戸締りお願いしときますね」
最後まで残って後片付けをしていた、一番若い板前の米田だった。
「ああ」
掛川は、ざっと店内を見回って必要のない照明を消し、勝手口以外のカギをかけた。
お茶を入れた湯呑を持ってテーブルに戻り、伝票の束をめくりながらため息をついた。
(入社一年目のおれに副店長なんて、荷が重いよ)
掛川が勤めている居酒屋チェーンでは、郊外にある店舗は、ベテラン社員が店長で新人が副店長という体制になっている。ちなみに、板前はすべて契約社員、仲居や配膳係はすべてアルバイトである。
したがって、店長が休みの日には、掛川が売り上げの締めをしなければならない。
学生の時アルバイトをしていた居酒屋チェーンにそのまま就職し、仕事の流れはわかっているつもりだった。だが、チェーンの中でも数少ない本格的な活き造り料理を出す店舗に、いきなり配属されるとは思ってもみなかった。
最初の頃は刺身を『お造り』と言うことさえ知らず、板前から「はじかみ(=芽生姜のこと)に気を付けて運んでください」と言われ、はにかんで見せたりした。
料理の知識や礼儀作法などは、店を閉めた後、仲居頭の滝上さんに教えてもらった。
「副店長。どうしてお食事の前に『いただきます』と言うのか、わかりますか?」
なぜ急に滝上さんがそんなことを聞くのかわからず、掛川は戸惑ったものだ。
「うーん、作ってもらった人への感謝、ですかね」
「それもあるでしょう。でも、『いただきます』の本当の意味は、命をいただきます、ということなんです。お魚だって、お野菜だって、命があります。人間は自分が生きるために、その命をいただくんです。だから、食べ物に感謝しないとバチが当たりますよ」
普段やさしい滝上さんが、厳しい表情をした。
「も、もちろん、感謝してます」
「この店では活き造りを出すでしょう。だから、定期的に供養をしてもらっているんですよ」
「へえ、そうなんだ。ちゃんと供養してあれば、安心ですね」
そう言ったものの、正直ちょっと怖くなった。
店内には大きな生け簀があって、冬場などはフグで一杯になる。店を閉めて一人残っていると、時々ギューッという鳴き声のような音が聞こえてきて、結構不気味である。たまにバシャッと跳ねたりする水音がすると、ビクッとしてしまう。
丁度そんなことを考えている時、ドサッという大きな音が聞こえた。
掛川の背中側、店の奥の方、生け簀のある辺りだ。何かものが落ちたのだろうか。耳をすますと、かすかに生け簀で泳ぐ魚たちのパシャパシャという水音しか聞こえない。
と、今度はガサッという音がした。明らかに水の中の音ではない。
また、ガサッ。ゴソッ。ガサッゴソッ。
少しずつ近づいて来ているような気がする。
(何だよお。ちゃんと供養はしてるって言ってたぞ)
だが、掛川はオバケよりも恐ろしい可能性に思い当たった。
(ま、まさか、ドロボウか)
音はすぐそばまで近づいて来ている。恐ろしくても、振り向いて確かめるしかない。
振り向いた。
暗くてよくわからないが、土鍋の蓋のようなものが床の上を動いている。
(何だろう。オバケでもドロボウでもなさそうだぞ。あっ、これは)
体長三十センチ以上はありそうな大きなスッポンだった。生け簀から逃げ出したらしい。これはこれで別の意味で危険である。万が一咬まれた場合、下手をすると指ぐらい喰い千切られてしまう。掛川の背中にツーッと冷たい汗が流れた。
その時、パッと厨房の照明が点いた。
「すいません、副店長。忘れ物しました」
米田の声だ。
「スッ、ポポ、ポン、スッポ」
焦りで上手くしゃべれない。
「あ、こいつ、逃げやがったのか」
米田は大きめの網ですばやく捕獲し、スッポンを生け簀に戻した。
「すみません。ぼくが生け簀の蓋をちゃんと閉めてなかったみたいです」
「いや、いいんだいいんだ。戻って来てくれて、助かったよ」
翌日、ランチタイムが終わった頃、掛川は米田に呼ばれた。
「昨日はすみませんでした」
「いやいや、気にすることないさ」
「お詫びのシルシと言っては何ですが、副店長はお酒好きでしたよね」
「まあ、嫌いではないね」
「これ、良かったら、どうぞ」
小さなグラスに一口分ぐらいの赤ワインが入っている。
(勤務中だが、これぐらいなら味見程度だな)
「え、いいの?」
「どうぞどうぞ」
掛川は何も考えず、そのワインを一気にのどに流し込んだ。
「ん?」
何だか生臭く、ねっとりしている。
「スッポンの生き血入りです。体にいいですよ」
思わず吐き出しそうになったのをグッとこらえ、掛川は必死で飲み込んだ。
「ふーっ、ご、ごめんなさい、いただきました!」