猫嫌いな旦那さまと、猫の私
とどのつまり、旦那さまは私のことが嫌いのにゃ。
私がやって来て旦那さまの足元で少し体を擦り付けただけなのに、決まって旦那さまはカエルを踏み潰したような声を上げて立ち退いていってしまうにゃ。
大抵の人間は、私のことを撫でたり膝の上に乗っけたりして可愛がる。けれど、旦那さまの場合は、むしろ膝に乗った私をしっしっと追い払うのにゃ。
何故なのにゃ?
そんな反応をされると逆に、気になって仕方がなくなる。
旦那さまとお話が出来ればにゃぁ。
旦那さまは昔から私の事が嫌いだったけれど、一段と私を避けるようになりはじめたのは、一年前に奥さまを亡くしてからにゃ。
奥さまは道に捨てられた私のことを拾ってくれたにゃ。
はじめて旦那さまと顔を合わせたとき、旦那さまは、
「猫っ!!」
と、瞬時に反応して叫びながら逃げていったにゃ。
奥さまは笑いながら私の頭を撫でてくれたけれど、私は旦那さまの反応が気になって気になって仕方なかったにゃ。
「名前どうする?」
「名前?猫に名前なんているのか?猫、でいいんじゃないか、別に」
ソファに座りながら、奥さまと旦那さまは、どうやら私の名前について話してるようにゃ。
「ダメよ、ちゃんと考えないと。だって今日からこの子は私達の家族なんだから」
と、奥さまは反発したにゃ。
「うーん、この子……体は白くて、何だかフワフワと宙に浮きそうだから、ケセランパセランは?」
そう奥さまが嬉しそうに言うと、旦那さまは眉を寄せたにゃ。
「そのセンスに自信があるのか?きみは」
「だって可愛いじゃない」
「長いし、呼びづらい」
私が思ってることを旦那さまが代弁してくれたにゃ。私はソファの背もたれの上に飛び乗ると、そこから奥さまの膝の上に乗っかる。私の名前はもっと可愛い名前がいいにゃ。
そう思っていたところで、旦那さまはぼそりと小さく呟いた。
「じゃあ、けいと」
けいと……?全く名前の意味が分からないにゃ。そう思っていると私の言葉を奥さまが代弁してくれたにゃ。
「けいと?けいとって何?この子はメスなのよ」
すると、旦那さまは顎に指を添えて神妙な顔をした。
「毛糸だよ、ほら、ヒゲが毛糸っぽいだろ。だからけいと」
奥さまは、堪えていた笑いを吹き出したようにゃ。
「確かに、毛糸っぽいから、けいとだね。でも、この子一応女の子なんですけど」
「女の子だろうが、ただの猫だ。問題あるか?」
旦那さまは少し頬を赤くしながら真面目な顔を作っていたにゃ。反対に、奥さまは旦那さまをあしらう様に、ハイハイと空返事をしたにゃ。私はそれを見てると何だか面白くて、にゃぁ~と一声上げた。
「けいと、喜んでるみたい」
「喜んでる?猫の気持ちなんて分かるのか?」
「分かる。ちゃんと、この子の声を聞いてあげるの」
奥さまは私を抱き抱えると、そっと頭を撫でてくれたにゃ。
「声……ね」
旦那さまは、奥さまの言ってる事が理解できない様子だったにゃ。段々眠くなってきた私は奥さまの膝の上ですやすやと眠りについたにゃ。
「おやすみ、けいと。おやすみ」
ある日、奥さまは帰ってこなくなったにゃ。家に帰ってきた旦那さまは、玄関で泣き崩れていたにゃ。私は、旦那さまへ近づいて、小さく鳴いてみた。旦那さまは、私の事も気づかずに「裕子……裕子……」と、ずっと奥さまの名前を呼んでいたにゃ。
一体どうしたのにゃ?旦那さまの顔を覗くと、瞳から水が零れていたにゃ。床に落ちた水は、いつもの水と違って、とてもしょっぱかったにゃ。
それから、私と旦那さまと二人の生活がはじまったにゃ。
旦那さまは、部屋を片付けないからいつも散らかり放題にゃ。私が遊んでと飛びつくと、旦那さまは即座にその場から飛び跳ねるにゃ。
餌は、奥さまがいつも選んでいるのとは違って、すごく不味いにゃ。
「猫……。俺はお前が嫌いだ」
奥さまが亡くなってから、私の名前はケイトから猫に変わったにゃ。旦那さまは、いつものように深い息を吐く。
私もひどく寂しいにゃ……。奥さまに、会いたいにゃ。私を撫でてくれた手。私を呼ぶ優しい声。もう、なくなるのにゃ?
人間は、餌みたいになくなるものじゃないと思っていたにゃ。だけど、奥さまは、どこかへ消えてしまったにゃ。
「祐子に会いたい」
そう思っていると、旦那さまも同じことを呟いた。私は恐る恐る、旦那さまの足元へ近づく。私に気づいた旦那さまは、私のことをじっと見下ろしたにゃ。
「お前も、祐子に会いたいよな。ごめんな、残ったのが俺で」
旦那さまの声は震えていたにゃ。
「俺が、祐子の代わりに死ねばよかった」
死ぬ?死ぬって、何のことにゃ?私には分からなかったにゃ。だけど、旦那さまがとても辛そうで、悲しそうで、私は旦那さまの足に寄り添ったにゃ。旦那さまは嫌がると思ったけれど、私を避ける事はしなかったにゃ。
「悪いけど、祐子みたいにお前を幸せにしてやれる自信が無いんだ。だから、……明日。お前を預けることにしたよ」
旦那さま。私をどこへ連れていくにゃ?私は、ずっとここにいたいにゃ。
今日の旦那さまは、夜ふかしせず直ぐにソファで寝てしまったにゃ。
奥さまがいなくなったから、旦那さまはずっとソファで寝ているにゃ。
私は旦那さまを温めてあげたいけれど、旦那さまにとって私は邪魔だから……。隅っこで丸くなって寝るにゃ。
私も、奥さまに会いたいにゃ。
朝起きると、私は猫嫌いな旦那さまに抱っこされていたにゃ。
旦那さまは、何も話さず、ずっと私の方を見ずに、お出かけ用の“お家”に、私を入れたにゃ。
どこに行くのだろう。お出かけは大好きにゃ。もしかして、奥さまに会いに行くにゃ?
私は楽しみになって、お家の中の布団で大人しくしていたら、段々眠くなっできたので、ちょっとだけ寝ることにしたにゃ。
夢の中で、奥さまに会ったにゃ。
奥さまは幸せそうに目を細めて笑って、私の白い体を撫でてくれたにゃ。その手は温かくて、優しくて、私はとてもとても幸せだったにゃ。
「けいと」
そう奥さまに呼ばれて目を開くと、目の前には旦那さまが困ったような顔で私を見ていたにゃ。
「ごめんな」
気がつくと私は見知らぬ人間に抱かれていたにゃ。横を見ると、大きな小屋みたいなのがあって、少し開いた扉からは檻に入れられて汚れていた猫が、寂しそうにしていたにゃ。
私は直感で、この檻に入れられるのだと分かったにゃ。
「にゃー!!」
「こら!暴れない!」
私を抱いている人間は、どうやら手慣れている様子で、私の首輪にリードを繋いだにゃ。苦しいにゃ。
嫌にゃ。あそこに行くのは嫌にゃ。奥さまの家に帰りたいにゃ。
「すいません。よろしくお願いします」
旦那さまは、私のことが嫌いにゃ。
私はもう、ただの猫になってしまったのかにゃ?
暗くて寒い檻の中へ入れられたにゃ。ほかの猫や犬達も、もう体力がないのか、皆静かで動かないにゃ。
「おい、新入り」
声がしたのは、隣の檻からだったにゃ。茶色く痩せばった猫は、足も細く所々に抜け毛があったにゃ。
「お前も捨てられたのかにゃ。残念だったにゃ。もう、ここから出られることはないにゃ。飼い主が見つからずに長い間このままにゃと、狭い箱に閉じ込められて殺されるらしいにゃ」
それを聞いて私はゾクッと猫肌が立ったにゃ。
「捨てられてないにゃ。旦那さまはきっと迎えに来るにゃ」
「そうかい。なら、ずっと待ってるんだにゃ」
痩せた猫は他猫事のように、欠伸をして伸びをしたにゃ。
「言われなくてもそうするにゃ」
私はそっぽを向いて、旦那さまのお迎えを待つことに決めたにゃ。
だけれど内心、怖くて怖くて仕方なかったから、体を丸めて震えていたにゃ。
旦那さま。きっと旦那さまは、私を迎えになんて来るわけがないにゃ。私はいつも嫌われていたにゃ。いつも怒られていたにゃ。
奥さまだったら、私を捨てにゃいのに。
殺されるってことは、前に旦那さまが言っていた死ぬってことなのかにゃ?
もしかして、死んだら奥さまにもう一度会えるのかにゃ。
私はそう思うと、どうにか檻から抜け出そうと試みたにゃ。それに気づいたさっきの痩せた猫が、私に言ったにゃ。
「おい、そんな事をしても逃げられにゃーぞ。この檻が開くのは新しい飼い主が俺達を選んでくれる時だけにゃ。それか、最悪の状況の場合にゃ」
私は脱力し、冷たい床に体を伸ばしたにゃ。
じゃあ、死ねるのは新しい飼い主さんが来たらかにゃ?それとも。
「最悪の状況って何にゃ?」
「それがさっき言っていた殺されるってことにゃ」
「ふーん、にゃるほど。最悪の状況はいつくるにゃ?」
「お前は大事にされてたんだろうにゃ。きっと、直ぐに選ばれるに違いにゃい。俺は、こんなに老いているし、箱行きは間違いないにゃ。ああ、こんな事になるなら、最後に、飼い主の食ってた美味そうな飯を盗み食いすれば良かったにゃぁ」
痩せた猫は残念そうに鳴いた。
「選ばれるのはダメにゃ。私は奥さまの元に行くのにゃ」
「その奥さまってのは前の飼い主かい?お前頭大丈夫かにゃ?どこにいるのにゃ、その奥さまとやらは」
「多分、天国にゃ」
以前、旦那さまから聞いた言葉を言ってみたにゃ。奥さまはそこにいると旦那さまが言っていたにゃ。
私は最悪の状況がくるまで、この檻の中で待機していたにゃ。暫くすると、見知らぬ誰かが他の子を受け取りに来ていたり、ここの人間が連れて行ったりしていたにゃ。いずれも、抵抗しない子がいなかったにゃ。ほとんどが、過去に飼い主さんに捨てられたり、虐待されていた子だったにゃ。
そして、何日も経ったある日、とうとう私の番が来たにゃ。やって来たのは、新しい飼い主さんではなく、最初に私を檻に入れたあの人間だったにゃ。
私は前と違って抵抗せず、抱き抱えられるまま連れて行かれたにゃ。
これでもうすぐ、奥さまに会えるにゃ。
奥さま、元気かにゃ?
天国に行ったらもう一度私を撫でてくれるかにゃ?
早く会いたいにゃ。
私は、目を固く閉じたにゃ。
死ぬのは痛いのかにゃ。
怖いのかにゃ。
だけどきっと一瞬で終わるにゃ。
そうしたら、いつまでも幸せになれるにゃ。
「ありがとうございます」
不意に、旦那さまの声が聞こえてきたにゃ。目を開けると、そこには旦那さまの姿があったにゃ。
「どうも猫が苦手で」
私は不思議そうに、旦那さまのことをじっと見つめていたにゃ。旦那さまが私を迎えに来てくれるにゃんて。
「そうなんですか、でも何でまた引き取る気になったんです?」
「気づいたんです。この子は裕子の大事な家族……、いや、俺達の大事な家族だって事」
旦那さま。旦那さま――。
「昔、猫を触ろうとしたら引っかかれた事があって。だから、猫を触るのがこわいんです。でも、これからは少しずつ、慣れていこうと思います」
そう言って、旦那さまはお出かけ用の家を差し出したにゃ。私は嬉しくて飛び込んでいったにゃ。
「けいと、おかえり」
旦那さまが、私の名前を呼んでくれたにゃ。
私は幸せ一杯に、にゃぁと鳴いたにゃ。
少しだけ、旦那さまが微笑んでくれたにゃ。
私は、また奥さまのいた家で、今も旦那さまと暮らしているにゃ。猫嫌いな旦那さまと、猫の私で一緒に。
「けいと、お前が犬だったらなぁ……」
そう言って、旦那さまは少しだけ私を撫でてくれた事は、私と旦那さまだけの秘密にゃ。