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大いなる災い

 部倉(ぶくら)ビルから、無事に事務所に戻ってきた桧藤とスーリン、それに佳津砂の三人だった。

 桧藤はいつものように正面のデスクに座り、佳津砂はその前の腰掛に腰を下ろした。スーリンは横でにこにこしながら控えている。佳津砂が最初に口を開いた。

「今回も、どうにか邪神を倒せて、本当によかったわ」

「まったく、お前がでしゃばらなくても、あの程度のヤツなら、あっさりカタがついたんだがなあ」

 桧藤が苦言を呈した。

「そんなこと言ったって、仕方ないじゃない。あの人が、今にも飛び降りそうだったんだから。すぐに止めなきゃ! って思ったのよ」

「まあ、いい。それより、報酬ははずんでくれたんだろうな?」

 佳津砂は、不満そうに形のいい唇をとがらせながらも、ハンドバッグから紙幣の入った封筒を取り出して、桧藤に渡した。桧藤は、中身を確かめる。確かめ終えて、

「ご依頼、ありがとうございました」

 どこか、慇懃無礼(いんぎんぶれい)な、皮肉っぽい口調で言った。佳津砂は、その口調に対しては特に何も言わず、

「じゃ、また何かあったら、頼むわよ。それじゃね」

 それだけ言い残して、さっ、と立って事務所を出ていった。桧藤は、少しの間、座ったまま黙っていたが、頃やよし、と思ったのか、ふと立ち上がって、窓から下の通りを見下ろした。ちょうど、ビルから出て通りを歩いて去っていく佳津砂の後姿が、見えた。

 その佳津砂の後姿をしばらくの間、見送ってから、桧藤はつぶやいた。

「……帰ったな。スーリン」

「はい、センセイ」

「アイスを食べていて、いいぞ。俺は、上に行ってくる」

「はい、行ってらっしゃいませ」

 そして桧藤は、事務所を出て、三階にのぼる階段の方へ行った。そのまま暗くて足元もおぼつかないような階段をのぼって、三階に上がる。

 三階は、ろくに照明もついておらず、昼間でも薄暗い。階段を昇った先には窓もなく、廊下の先のずっと奥の方に唯一ある小さなすりガラスの窓から染み込んでくるわずかな陽光だけが、ぼんやりと辺りをどうにか見える程度に照らしているだけだった。

 桧藤は、すぐ目の前にあるドアを開けて部屋へ入った。

 中は、ガランとして何もない、まるで空っぽの物置か倉庫のような部屋だった。窓にはカーテンではなくブラインドが掛けられていて、外の様子はまったく見えない。ブラインドの隙間から差し込む外の明かりが、床に縞模様を作っていた。

 桧藤は、つかつかと部屋の奥の方へ歩いていった。部屋の奥の床には、何やら円形の魔法陣のようなものが描かれていた。二重になった円の内側に、微妙に歪んだ形の六芒星形があり、そして二重の円と六芒星それぞれの間の隙間には、いろいろな、見慣れない奇妙な文字のようなものがたくさん描かれていた。

 桧藤は、その魔法陣の前まで来て止まると、内ポケットから小瓶を取り出した。小瓶の内部では、黒々とした流動状の物体が、生命を持ってでもいるかのように勝手にうごめいている。

 桧藤は、呪文を唱えはじめた。

「ヒョゴスゾザカラム、グムルフズウォバウ……」

 すると、魔法陣を形作っている黒い線が、明るい緑色に輝きはじめた。

 緑色の光は、強まったり、また弱まったりと点滅を繰り返しながら、だんだんとその輝きを増していった。そして、最後には一本の光の柱となって魔法陣から天井へ向けて立ち上った。

 桧藤の目の前に、緑色に輝く光の柱が立っている。その柱の中に、もやもやと顔のようなものが現れてきた。その顔は、かなり爬虫類的であり、ワニを連想させるところがあった。しかし、ワニよりも人間の顔に近い造作をしており、その点で実際のワニよりもかなりおぞましく、忌まわしい印象を見る者に与えた。長い鼻づらをしていて、口には無数の鋭い牙が生えている。目はどんよりと白濁しているだけで、瞳がない。頭には、左右に二本の太い角が伸びていた。爬虫類のようなウロコにおおわれたごつごつとした肌をもち、それでいて、どことなく全体的なつくりが人間の顔に近く、人間と爬虫類を掛け合わせるなどという、悪魔の実験の産物はおそらくこのようなものになるのではないか、と思わせる、どこか冒涜的で邪悪極まりない顔つきだった。

 その、爬虫類じみた顔が現れると、桧藤は手にしていた小瓶のふたを外し、口先をそちらへ向けた。見る間に、小瓶の中に入っていた黒い流動状のものが、ふたたび黒い煙のような気体となって、その醜い顔の方へ吸い寄せられていく。そして、その顔は口を開くと、吸い寄せられてきた黒い気体を、どんどん吸い込んでいった。

 小瓶の中の黒いものを全部、吸い込み終わると、醜い顔は満足げな笑みを浮かべたように見えた。そして、その口から、非常に聞き取りにくい、しわがれた低い声が漏れ出してきた。

「……コレデ、モウマモナク、ワレノフッカツハ、カンゼンナモノトナル……コレマデ、ゴクロウデアッタ……」

 桧藤は、面白くもなさそうに、無表情でその聞き苦しい言葉を聞いていた。

「……デハ、ワレハモウスコシ、チカラヲタクワエルトシヨウ。マタアオウゾ……」

 そう言うと、その爬虫類じみた醜い顔は、ふっ、と消えてしまった。そして、光の柱もだんだんとその光量を減じてゆき、ついには光を失って、魔法陣はもとの、ただ床に黒い線で描かれただけのものに戻ってしまった。

 桧藤が、ふっ、とごく小さな溜息を漏らして、振り返ると。

「あなた、いったい何をしているの?」

 部屋の入口のところに、いつの間にか佳津砂が立って、腕組みしてこちらを睨みつけていた。

 桧藤は、意外そうな目で佳津砂を見たが、驚いた様子は見せなかった。

「……佳津砂か。いつから、そこにいた」

「最初から、ずっといたわよ」

「帰ったはずじゃ、なかったのか?」

「フフ、帰ったのは、わたしじゃなくて、わたしの式神よ。式神をわたしの姿に化身させて、帰ったようにみせかけたの。そしてわたしは、陰陽道の身固式(みがためしき)で気配を消して、このビル内に潜んであなたが邪神の魂で何をするつもりなのか、見届けていた、というわけ。それにしても、身固式が難なく通用するところを見ると、あなたも、あなたの使い魔も、そうとう、邪悪な存在のようね」

 佳津砂が、皮肉のこもった口調で言った。

「これは、俺としたことが、してやられたようだな」

 桧藤は、別に大変でもなさそうに、平然として言った。

「さあ、言ってちょうだい。あなたは、邪神の魂を封じて持ち帰って、いったい何をしているの? 何のために、邪神と戦っているの。さっきの、あの悪魔みたいな顔はなに? あなた、まさか、あんな悪魔の復活に手を貸している、なんていうんじゃないわよね?」

 佳津砂が、詰問した。

 桧藤は、何も言わずにただ黙って佳津砂を見返していた。そして少ししてから、仕方なさそうに口を開いた。

「見られてしまったんじゃあ、今さら誤魔化しようもないな。いいだろう、話してやる。ここで立ち話もなんだから、下の事務所へ来い。そこでゆっくり、教えてやろう」

 そう言うと、佳津砂を促して、二階の事務所へ下りていった。


                  *


「お前が見たとおりに」

 桧藤はいつものデスクに座って、話をはじめた。佳津砂はその前の腰掛に座っている。スーリンは、いつものように、ただにこにこしながら横に控えていた。

「俺はあの大邪神の復活を手助けしている。ヤツの名は、ボヌカーズォーグ・ツフという。ヤツとの因縁が始まったのは、俺がまだ学生だった頃だ」

 佳津砂は、身じろぎもせずに、桧藤の言葉に聞き入っていた。

「俺は当時、中東地域の、イスラエルやイラン、イラク、それにエジプトとその周辺国だな。その辺一帯を、旅行していた。その旅行中に、ひょんなことからある怪しげな魔道書を手に入れたんだ。最初は、そんな魔道書など、どうせ偽物か、あるいは大した内容ではないだろう、とタカをくくっていた。だが、実際に実物に手を触れて、最初のページをめくった瞬間に、これはひょっとすると、ただ事ではない大発見なのではないか、と直感的に感じたのだ。俺はさっそく、その古びた魔道書の解読に取り掛かった。中身は、かなり古い文字で書かれていて、すぐには読めなかったが、俺はそっち方面には多少、知識があったのでな。苦労の末、全部ではないが、主要な部分については解読することができたんだ。そこに書かれていたのは、太古の昔、人類が現れるよりもはるか以前から地球上に存在していた神々についてと、そしてそれらの神々を召喚する方法についてだった。俺は日本に帰ってから、さっそくその方法を試してみた……今にして思えば、単なる好奇心から入り込むには、あまりにも危険すぎる領域だったが……それでも俺は、いにしえの神を呼び出す、という怪しい魅力に逆らえなかった。俺は、ある夜、その古文書に書かれていた儀式を実行に移した。儀式は成功し、古代において地球上に君臨していた神の一柱が復活した……だが、ヤツは人間に恩恵をもたらすような、慈愛にあふれる神ではなかった。人間に恐怖と狂気をもたらし、巨大な災厄をひき起こして人間社会をめちゃくちゃに破壊しようとする、とんでもない邪神だったんだ。そのとき復活した邪神、ボヌカーズォーグ・ツフは、現れるとすぐに、俺と、俺の家族に大災厄をもたらした。俺と家族が住んでいた家は倒壊し、俺の両親はそのとき、死んだ。俺自身も、右眼に重傷を負い、今にも死にかけていた。そのまま放っておかれたら、確実に死んでいただろう。だが、薄れゆく意識の中に、たった今、俺の家族を皆殺しにしたその邪神、ボヌカーが語りかけてきたのだ……」

 佳津砂は、ひとことも発することなく、桧藤の次の言葉を待った。

「ヤツはこう言った。『キサマは、我を再び人間界へと復活させる儀式を行った者だな。ここで殺してしまうには惜しい。どうだ、キサマのその命、今しばらく生きながらえさせてやる代わりに、我の復活をより完全なものとするために、我に力を貸すつもりはないか』とな。ヤツの復活は、まだ完全なものではなかったのだ。ヤツは、もっとこの人間界に影響を及ぼすために、より完全な形での復活を望んでいたのだ。そして、そのための道具として、この俺を選ぼうとしていた。俺には、悩んでいるゆとりさえ、なかった。もう今にも、死にかけていたのだ。俺は、死にたくない、生きたい、という思いの方がはるかに勝り、ヤツの誘いに乗った。そして、ヤツと、『魂の盟約』を結ぶことになったのだ……」

「魂の……盟約?」

 佳津砂が、ひとことだけ発した。

「そうだ。その悪魔の契約によって、俺はこの呪われた右眼を与えられた。この右眼の魔眼の魔力により、死ぬことは免れた。だが、それから俺は、ヤツの復活のために働く、下僕となり下がったのだ……」

 桧藤は、眉間に深いしわを寄せて、苦悩に満ちた表情を見せた。

「実は、俺がヤツを復活させたせいで、ヤツの放つ邪悪な波動が、かつて施された封印のバランスをわずかずつだが崩し始めたらしくてな。異次元空間や時空の狭間に閉じ込められていた他の邪神どもも、同時に復活し始めてしまったのだ。力の強いヤツ、弱いヤツ、大小、いくつもの邪神ども、そしてその眷属神たち、そういったものたちが解き放たれてしまい、少しずつ、この現実世界に姿を現すようになってきたんだ。邪神がらみの事件が、俺の事務所からそう遠くない範囲でばかり起こるのは、実はその原因をつくったのが、他ならぬ、この俺自身だからなのだ」

 佳津砂が、びっくりした目で桧藤を見た。

「ええっ、じゃあ、もとをただせば、あなたが、邪神どもの復活の、原因だった、というの……」

「そういうことに、なるだろう……」

 桧藤は、彼としては珍しく、非常に苦しそうな、苦々しい表情で、面を伏せた。机の上で強くにぎりしめた拳が、ぶるぶると震えていた。

「じゃあ、その罪滅ぼしのために、邪神を倒して封じていた、というのではないの?」

「違うのだ。俺は邪神ボヌカーと交わした『魂の盟約』に常に縛られている。俺が邪神どもを倒して、『封魂の小瓶』に神魂を封じて持ち帰っていたのは、ボヌカーとの契約にもとづき、神魂をボヌカーに喰らわせるためだ。ボヌカーは、俺の持ち帰る神魂を吸収して、その力を自らのものとし、より完全な復活へと近づいていった、というわけさ」

 桧藤は、どこか自嘲気味に言った。眉間には深いしわを寄せ、口元には、自らを蔑むかのような、皮肉な笑みが浮かんでいる。そしてさらに言葉を続けた。

「さらに、かつてボヌカーと、太古の昔から最大の敵対関係にあった、大邪神がいた。その名を、クルルフ・ガシャーという。そいつも、いつの間にか復活を遂げていたんだ。そいつとは、お前も会っている。先日、閣下とお前が呼ぶ男に憑りついていた大蜘蛛を倒したときに現れた、毛むくじゃらのボールがいただろう」

「あっ、あの怪物!」

「あれが、そのクルルフ・ガシャーだ。ヤツはヤツで、秘かに力を蓄えて、こちらと同じように真の復活を目指して暗躍していたのだろう。さっきの、『ソグ・ヌルゥ』は、クルルフに従う下級の眷属神だ」

「『ソグ・ヌルゥ』……それは、さっきのひとつ目の化物の名前なの?」

「正確には、あいつの名前ではない。『ソグ・ヌルゥ』というのは、超古代語で『我を捧げる』という意味を持つ。つまり、邪神クルルフ・ガシャーに、自分の魂を捧げる、ということだ。クルルフも、そうやって自分の配下の眷属神を使って、人間の魂を集めていたのだろう。もしかすると、ヤツの完全な復活も、もうすぐなのかもしれない……」

「そんな……もし、そのクルルフとかいう大邪神が、完全な復活を遂げたら、いったいどうなるの?」

「そうだな、想像もつかないような、大いなる災いが、人類全体にまで及ぶような規模で降りかかることになるだろうな」

「なんとか、それを止める手立ては、ないの?」

「……ないとも、あるとも言えないが、仮に方法があったとしても、どのみち俺はボヌカーとの『魂の盟約』に縛られている。クルルフの復活を阻止できたとしても、俺はボヌカーの復活には手を貸さざるを得ない。ボヌカーが復活しても、同じことだ。考えられないような大災厄が俺たちを襲うだろう。それも、地球全体にまで及ぶような巨大さで、な」

「あなたが、そんな危険な、大邪神の復活を手助けしていたなんて……」

 佳津砂が、ぎりっ、と歯がみして、桧藤を睨みつけた。だが、少し表情を緩めて、また言葉を続けた。

「今からでも、そのボヌカーなんとかっていう邪神と、手を切ることは、できないの? いくらなんでも、そこまで聞かされて、黙って見過ごすわけにはいかないわ」

「手を切る、か……」

 桧藤は、ちょっと黙った。佳津砂は、懇願するような目で桧藤を見ている。

 桧藤は、つと立って、奥の部屋に通じるドアの方へ歩いていった。

「ちょっと、待っててくれ」

 そう言い残して隣りの部屋へ行き、そしてものの数分と経たずに戻ってきた。手には、何やら古びた羊皮紙が握られていた。

「これが、ボヌカーと交わした悪魔の契約、『魂の盟約』だ」

 佳津砂に差し出したその羊皮紙には、見慣れない、奇妙な文字が並んでいた。当然、佳津砂には何が書かれているのか、まったく分からなかった。

「……えっと、なんて書いてあるのかしら?」

「これを日本語訳すると」

 桧藤は、話し出した。

「まず最初は、『我は汝に下命す』、この我というのは邪神、ボヌカーズォーグ・ツフ、汝というのは俺だ。ヤツが、俺に命令する、というわけだ」

「それくらいは、分かるわ。続けてちょうだい」

「次は、『我は汝に、魔なる右眼を与え、その命を長らえしむる。その代償として、汝は我の完全なる復活のために、我がしもべとして働くものなり。汝は、我のために、神々の魂を封じ、我のもとに持ち帰り、我に与えよ。我はそれを食らい、力を増すものなり。それが存分に満たされしとき、我は完全なる復活を遂げる。そのときまで、汝は我の忠実なる下僕として仕えるべし』……」

「なんてことなの……」

 佳津砂が、背筋をゾッとさせながらつぶやいた。

「そして、最後にこう付け加えられている。『我の復活が未だ成就せざる間に、汝が我を裏切り、我に歯向かいしとき、あるいは我から逃れんとせしときは、汝の体は八つ裂きにされ、その魂は永遠に地獄に堕ちるであろう』……とな」

 佳津砂は、しばらくの間、腕組みをして考え込んでいた。そしてそれから、言葉を発した。

「逃れる術は、ないの?」

「ないな。『魂の盟約』は絶対だ。俺のほうから一方的に破棄しようとすれば、ヤツを裏切ることになり、俺は永遠に地獄に堕とされることになるだろう。仮に、俺がヤツを裏切り、俺が地獄に堕ちたとしても、ヤツはまた別な人間を下僕に選ぶだろう。ヤツを止めることは、できない」

「だからって……だからって、このまま世界が破滅するのを、黙って見ているわけにはいかないわ!」

「……破滅するかどうかは、分からんさ。ただ、大災厄に見舞われる、というだけの話だ」

「大災厄って、いったいどんなことが起こるっていうの?」

「そうだな、起きてみなければ分からんが、地球規模の大地震とか、巨大隕石の落下、あるいは、いきなり氷河期が来るとかいった自然災害かもしれないし、そうではなく、もしかしたら、核戦争が勃発、とか、世界大恐慌が起こって経済破綻、とかいうのかもしれない」

「ほとんど、破滅そのものじゃないのよ! あなたは、世界がそんなことになっても、平気だっていうの? そもそも、元はといえば、あなたが招いたことなんでしょう!?」

 佳津砂は、激して言った。

「……俺とても、一応、人間の端くれだ。世界がそんなことになって、平気なわけはない……だが、何度も言うように、俺は『魂の盟約』によってがんじがらめに縛られている。俺には、ヤツの復活に手を貸す以外に、選択肢はないのだ……」

 桧藤は、苦悩に顔をひき歪ませ、両手で頭を抱えて机に突っ伏した。その姿は弱々しく、佳津砂には、桧藤がいつもより小さく見えるほどだった。

 そのとき。

 だん、だん! と大きな音が、三階から聞こえてきた。そしてビル全体が、ぐらぐらっ、と揺れた。

「な、なに?」

 佳津砂が驚いて、天井を見上げる。桧藤は、顔を上げると、いつもの冷静な調子に戻って、言った。

「……どうやら、ヤツ、ボヌカーズォーグ・ツフの復活が、完全なものとなるときが来てしまったようだ。あれは、俺を呼んでいるのだ」

「な、なんですって! もう、復活が完全になってしまったというの?」

「そうだ。さきほど与えた神魂で、もう十分だったんだろう。俺は、行かねばならない。ヤツの復活を完全なものとするために、最後の儀式を執り行わなくては」

 そう言うと、桧藤はすっ、と立ち上がった。そして、事務所を出て行こうとする。

「ま、待って! 行ってはダメよ! そんな邪神の復活に手を貸すなんて、やめて!!」

 ひき止めようとして桧藤の前に立ちふさがる佳津砂。

「無駄なことだ。すでに、ヤツは十分な力を蓄えてしまった。俺がやらなくとも、ヤツは誰か別な人間を選びなおし、儀式を執り行わせるだろう」

「でも……でも、そんなことを黙って見過ごすことはできないわ! 力ずくでも、あなたを止める!」

「ほう、この俺と、やろう、っていうのか?」

 桧藤が、物凄い目つきで佳津砂を睨みつけながら言った。桧藤の強さをよく知っている佳津砂は、思わずたじろいで後ずさった。

「俺は、行くぞ」

 佳津砂を無視して、その横を通り抜けて事務所の扉の方へ歩いて行こうとする桧藤。

「ま、待って!」

 佳津砂が、桧藤の右腕をつかんでひき止めようとした。その瞬間。

「きゃっ!?」

 桧藤の右腕から、電流のようなものが流れて、佳津砂の体を激しく感電させた。佳津砂は、体をびくん、とさせてから、くたっ、と床にくずおれてしまった。

「くっ……か、体が、痺れる……」

 佳津砂は、体が麻痺してしまい、起き上がることができなかった。

 桧藤は、事務所のドアから出て行きながら、床に倒れている佳津砂へともなく、ひとりつぶやいた。

「……俺は、自分の命が助かりたいばかりに、世界を破滅に追いやろうとしている、弱くて気の小さな、卑怯きわまりない大馬鹿者でしかない。できるものなら、この俺を止めてもらいたかった……お前になら、できるか、と思ったのだが……もし、可能であるならば……」

 あとは、小さな口の中のつぶやきになり、聞き取れなかった。佳津砂は、桧藤の言葉を聞きながらも、体が動かず床に倒れたままになっていた。その横では、スーリンが何も言わず、ただにこにこして立っていた。


                *


 桧藤は、三階の部屋で、魔法陣の前に立っていた。魔法陣は、すでに緑色の光を放って、脈打つように光を増したり、減じたりして明滅していた。やがて、魔法陣から光の柱が立ちのぼると、そこに大邪神、ボヌカーズォーグ・ツフの顔が現れた。邪神は、桧藤に語りかけてきた。

「来たか。我がしもべよ。時は満ちた。我の完全なる復活のときが来たのだ。さあ、我がもとへ来い。そして、最後の儀式を執り行うのだ……」

 人を威圧するような、低くて太い、腹の底に響いてくるような、恐ろしい声だった。

 言い終わると、邪神の顔はふっ、と消えた。

 桧藤は、なんのためらう様子もなく、無表情に魔法陣から立ちのぼる光の柱の中に入っていった。入ると、桧藤の姿はそのまま消えてしまった。

 桧藤が次に現れたのは、一面、草も木も生えていない、ごつごつとした岩と砂ばかりの、荒涼とした荒れ地だった。見渡す限り、地平線まで同じ、荒れ果ててひとつの生命も存在しないような光景が、前にも後ろにも、右にも左にもずっとひたすら続いているだけである。空は黒く、星ひとつ出ていない。ただ、どういうわけか、地平線だけが、ほのかにオレンジ色に輝いている。それも、東西南北、すべての方角の地平線が、同じように黄昏どきのような色合いをたたえて、辺りをほのかに薄暗く照らしているのだった。

 そのような、奇妙な光景の中に、桧藤の姿がふいに現れたのだった。

 桧藤のすぐ目の前には、十階建てのビルに相当するほどの大きさの、巨大な岩塊がそそり立っていた。その岩塊には、何か巨大な体躯を持つ、異様なものが埋め込まれていた。その頭部は、桧藤の事務所の三階に現れた、あの大邪神、ボヌカズォーグ・ツフの顔そのものであった。ワニと人間の合の子のような、爬虫類じみていながらどこか人間のような風貌を合わせ持つ、おぞましくも忌まわしい顔であった。邪神の体は、全身がウロコにおおわれ、凄まじいばかりに太い腕には恐ろしいほどの筋肉が盛り上がり、胸も、腹も、そして脚部も、同じように筋骨たくましく、見る者を震え上がらせるほどの強靭さに満ち満ちていた。その体が、半分岩の中にめり込んでいて、体の前面の一部だけが、露出している状態になっていた。邪神は、その岩の中から、出てくることができないようだった。

 桧藤は、その邪神が埋もれている岩に近づいていった。そして、おもむろに呪文を唱えはじめた。

「ンガラ、ンガラ、ソードーク、ポドソム、ゴラソノ……」

 邪神の目に、光が点った。桧藤は、なおも、同じ呪文を繰り返し唱えた。

「ンガラ、ンガラ、ソードーク、ポドソム、ゴラソノ!」

 邪神の体が、身動きし始めた。だが、まだ岩から出てくることができない。

 桧藤は、同じ呪文を繰り返し唱えながら、右手を上にあげ始めた。桧藤が右手をだんだんと高く掲げていくにつれ、その右手がぼうっ、と光を放ち始めた。右手が上がるほど、光もどんどん強さを増していき、ついに右腕を完全に伸ばして右手を上げきったときには、まばゆいばかりの光をあたりにまき散らすほどになった。

 そして、桧藤は高らかに、最後の宣言を行った。

「人の世に、破壊と混乱をもたらす大いなるもの、ボヌカーズォーグ・ツフよ! 太古の呪縛より解き放たれ、今こそその力のすべてを取り戻せ!」

 言うなり、桧藤は光り輝く右手で、邪神ボヌカーを封じている岩を激しく打ち付けた。

 すると、桧藤が打ったところから、巨大な岩塊に亀裂が入りはじめた。亀裂はどんどん広がっていき、上の方にまで裂け目が走り、そして中に捕えられていた大邪神、ボヌカーズォーグ・ツフが体を大きく揺り動かした途端、巨大な岩塊が一気に、木端微塵に砕け散った。岩塊の破片はどういうわけか、辺りに散らばることなく、中空へ飛ぶとまるでシャボン玉か何かのように、そのまま虚空へと消えていってしまった。

 今や、完全に復活を遂げた大邪神、ボヌカーズォーグ・ツフは、ひと声、巨大な咆哮をまるで勝ち誇ったかのように発した。その、十階建てのビルくらいはありそうな巨大な体躯は、人間のように二足歩行するように出来てはいるものの、全体に爬虫類のようで、ぬめぬめとしたウロコに覆われ、手の先にも足の先にも、鋭い爪がギラリと鈍く光っていた。ワニを思わせる頭部には、二本の太い角が、左右に張り出していた。そして、人間がどんなに鍛えても、こうはなるまい、というくらい、凄まじいばかりの筋肉が盛り上がり、腕も足も物凄い太さとたくましさで、特に上体の筋肉隆々たるさまは圧倒的だった。尻からは、これまた太くてたくましい尻尾が伸びていた。

 邪神ボヌカーは、咆哮を終えて、今度は安堵したかのように、煙のような息をぶはーっ、と豪快に吐き出した。そして、小さな桧藤の姿を、見下ろした。

 桧藤は、面白くもなさそうに、無表情にたった今、自分が復活させたばかりの大邪神を見返していた。

 邪神ボヌカーが、腹の底に響くような重低音で声を発した。

「我は今、完全に復活し、力をすべて取り戻した。もはや何を恐れる必要もない。今こそ、人の世に、大いなる災いをもたらし、人間どもの恐怖と絶望を我が身に浴びようぞ。我にとっては、それに勝る喜びはないのだからな……」

 桧藤は、苦々しい顔をして、黙って邪神ボヌカーの言葉を聞いていた。

 そのときだった。

 空中から、嘲弄するような、嫌な笑い声が、ふいに響いてきた。

「ふほーっほっほっほっほっほっ」

 何事か、と笑い声のした方を振り向く、邪神ボヌカー。桧藤も、そちらを見る。

 見上げると、空中に浮かんでこちらを見下ろしているものがある。

 それは、ふさふさした毛に覆われたボールのような体から、ちょこんと短くて小さな手足を生やして、少しだけ盛り上がった頭部に二つの赤い目を光らせた、邪神クルルフ・ガシャーであった。クルルフ・ガシャーは、甲高くてどこか癇に障る声でしゃべり出した。

「ふほっほっほっ。ついに、おぬしも完全復活を遂げたか。我もすでに、十分な力を蓄え、完全なる復活を遂げておったぞ。おぬしの強烈な霊波動を感じたのでな、こうして挨拶にきてやったという次第じゃ。ふほっ、ほっ、ほっ」

 邪神ボヌカーは、ひと声、吠えた。吠えると、口から炎のようなブレスが漏れだしてくる。

 そして重々しい重低音で邪神クルルフに応えた。

「黙れ。この毛玉のなりそこないめが。太古の昔につけられなかった決着、今この場でつけてくれようぞ。覚悟するがいい」

 そしてまた、毛玉の邪神、クルルフに向けてひと声、吠えた。

「ふほーっ、ほっ、ほっ、ほっ。我とても、力を完全に取り戻しておるぞ。キサマのような大トカゲふぜいに、後れをとると思うか?」

 邪神ボヌカーはいきなり、それまでよりもひときわ大きな声で吠えた。すると、その無数の牙が生えた口から、物凄い火炎のブレスが吐き出された。毛玉状の邪神、クルルフは、それをさっ、とかわした。

「ふほほほほほほ。相変わらず、気が早いのう。では、我もその真の姿を現してやルトシヨウカ……」

 邪神クルルフは、その声のトーンをだんだん低くしながらそう言った。言いながら、ごつごつとした地面に着地する。すると、ぐぐっ、と毛玉の内側から、何かが盛り上がって来ようとするかのように、そのボール型の形が歪み始めた。球形の体のあちこちで、内側から何かが飛び出そうとしているかのように、表面が何か所も盛り上がってきていた。そしてそれが、ついに抑えきれなくなってぱーん、と弾け飛び、中から何かドロドロしたものが膨れ上がってきて巨大化を始めた。

 そして一瞬にして、邪神ボヌカーと同じくらいの大きさにまで達したその姿は。

 ぬらぬらと濡れて青黒く光る、まん丸い巨大な頭部。その下部から無数に生えた、ぐにゃぐにゃした触手。巨大なタコのような姿ではあったが、しかしタコとも様子がかなり違っていた。軟体動物にしては、頭の形がちゃんと球形に保たれていたし、また異様に数多く生えている触手には吸盤はなかった。全体に青黒く、ぬらぬらとした体液で常に濡れており、手を触れるのもおぞましいと思わせるものであった。巨大な頭部の下の方には、鋭く青い光を放つ、吊り上った目がついていた。

 邪神クルルフは変身を済ませると、その青光りする目から、光線のようなものをボヌカーズォーグ・ツフに向けて発射した。ボヌカーは、両手をクロスさせると、目に見えない障壁のようなものを出現させて、クルルフの光線をすべてはじき返してしまった。今度は、ボヌカーの口から、凄まじい勢いで火炎弾がいくつもいくつも射出され、クルルフのタコ頭めがけて真っ直ぐに飛んでいった。しかしこれも、クルルフに到達する前に、目に見えないバリアーに阻まれてすべて弾き落とされてしまった。

 邪神たちは、両者ともしばらくの間、飛び道具をお互いに撃ち合っていたが、どちらにも全く有効なダメージを与えることができないので、はたと撃ち合いをやめた。そして、お互いに睨み合うこと数十秒。今度は、両者とも、この世のものとも思えないような激烈な雄叫びをあげて、物凄まじい轟音をとどろかせて走り寄った。そして両者ががっぷりと組みあい、熾烈な肉弾戦を展開し始めた。

 ボヌカーは、その爪と牙で、クルルフをひっかき、つらぬき、噛みちぎろうとする。

 クルルフは、その無数にある長い触手で、ボヌカーをからめとり、締め上げようとした。クルルフの無数にある触手は、ときどきその先端部分が鋭くトゲ状に尖り、ボヌカーを突き刺そうとしていた。しかし、ボヌカーの固いウロコにびっしりと覆われた体は、簡単には貫き通すことができず、クルルフの触手といえども空しくはね返されるだけだった。

 それはボヌカーの方も同じことで、いくらその鋭い爪で、クルルフの一見してやわらかそうに見える表皮を突き破り、ひき裂こうとしても、それはゴムのような弾力性をもち、また異様に分厚くて、しなやかにしなり、しかも体液で常に濡れているせいもあって、ボヌカーの爪をつるつると滑らせ、なかなか破れなかった。

どちらも、その外皮はかなり強靭であり、お互いに傷をつけ合うのもかなり困難な様子であった。クルルフがその無数にある触手を伸ばして、ボヌカーの体をあらゆる方向からからめ捕り、万力のようにがっちりとつかんで締め上げようとするが、ボヌカーの方はそのさらに上をいく凄まじいばかりの腕力を発揮して、それを力ではねのけ、牙でかぶりつき、自分の体からひき離した。

 そうやって、お互いに致命的なダメージを与えることができないまま、巨体と巨体が激しくぶつかりあうとてつもなく巨大なスケールの肉弾戦が、いつ果てるともなく続いた。

 桧藤は、その、この世の終末かとさえ思われるような光景を、無感動な目でただじっ、と見つめているだけだった。


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