寝汗
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夏の朝、目が覚めたとき、かなり寝汗を掻いている。毎日蒸し暑いからだ。特に眠る前にミネラルウオーターを飲んでベッドに潜り込むので、夜間はかなり汗が出ているのだった。さすがに水分を取らないと脱水症状になってしまうので、ちゃんと補給している。朝は決まってシーツに汗が滲んでいるのだ。起き出して汚れていたシーツを洗濯し、乾燥までさせる。そして急いで朝食を取り、食後コーヒーを軽く一杯飲んでメイクする。汗を誤魔化すためデオドラントを降った後、職場へ向かった。普通の女性社員にとって朝は一番慌しい時間だ。あたしもそういったことは承知の上で就職していた。確かに大学卒業後、新卒で今の職場である出版社に入社して五年が経ち、今年で二十八歳になるのだが、職場での扱い自体、相変わらずだ。仕事はそう大変でもない。言われたことだけやっていれば上司が睨んでくることはなかった。ただ、あたしの勤務先はあくまで出版社である。担当の作家たちの原稿などを読むことも出来るのだが、社主催の新人賞の公募原稿などを下読みの一人として読んだりすることもあった。さすがにずっと雑用が続くのだし、お昼はお昼で近くのランチ店で食べるのだけれど、正午から午後一時までがお昼の休み時間で、午後からは定刻通りに仕事がスタートする。ゆっくりする暇はなかった。ただ、食事時に何を食べられるかだけが楽しみだ。午前中から午後までずっと作家の原稿をプリントアウトして、コピーしたり、社に送られてくる相当数の公募原稿を読むのを手伝ったりしていた。別に違和感はない。出版社の社員の生活に特に大きな変化はないからだ。あたしもずっと今の社で働き続けながら、疲れることが多すぎた。でもいいと思う。部署は広報部なのだが、現役の作家と接することもあるのだし、疲れたときは上司に一言言って、早めに仕事を切り上げてから帰らせてもらうこともある。それで何気に時間が過ぎ去っていった。
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「朝村」
「はい」
部の上司の今田から呼ばれたので、返事をして立ち上がり行った。今田が口を開く。
「倉田先生の原稿はまだ届いてないのか?」
「ええ。……さっきメールをお送りしましたけど」
「君が倉田先生の担当なのは分かってるよね?」
「はい」
「じゃあ、また督促して。あの作家さんはうちの社のドル箱なんだから。いい?」
「分かりました」
あたしも広報部とはいえ、出版関係者であることに間違いはない。原稿を送ってこない作家には督促を掛け、きちんと原稿を受け取るのが仕事だ。そしてその原稿を読むのも仕事のうちである。デスクに戻りメールを打った。そしてメールがちゃんと届いているか、自宅にも電話連絡をしたのである。電話は呼び出し音が鳴りっぱなしで出ない。ただ電話してから小一時間後、メールが来た。<倉田です>という書き出しで打ってある。そして添付ファイルに原稿が添付してあった。胸を撫で下ろし、原稿を早速開いてプリントアウトする。今田の分も一部コピー機でコピーして席を立ち、渡す。
「ああ、ありがとう。君もやれば出来るじゃない」
「いえ……」
幾分冷や冷やしていたのだが、何とか大丈夫だった。ゆっくりと自分のデスクへ舞い戻る。さすがに疲れていた。倉田直正は直木賞作家で文壇では大御所で通っている。あたしも以前会ったことがあるのだが、さすがに貫禄はあった。ミステリー作家でうちの社ではドル箱だったし、部数もそこそこ出る。テレビドラマ化されたり、映画化されたりしていたので有名だった。もちろん他社からも多数の作品を出している。その倉田にあたしたちの方からも原稿の依頼をしていたのだった。倉田もスロースターターで、書き始めればパソコンの前に五時間とか六時間ほど居続けるらしいのだが、なかなか腰が重い方ではある。作家の生原稿をざっと読み終わってから編集部へと回すのが、広報部長の今田の仕事だ。倉田の作品はもちろん企画出版である。あたしも気を使っていた。大御所作家を敵に回したりすれば、出版社の経営は成り立たないからである。
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「お疲れ様でした。お先に失礼します」
「お疲れー」
午後六時過ぎにあたしが立ち上がり、今田に言葉を掛けた。今田が一言返す。フロア内には男性社員しか残っていなかった。先にフロアを出、歩き出す。社外は蒸し暑い。あたしも連日きついのだったが、出勤しないと話にならない。お盆まではまとまった休みが取れないものと思われる。今が七月下旬だから、もう後一月弱待たないといけない。疲れていた。出版社もちゃんとしたビジネスだ。慈善事業じゃないのである。だからしっかりやっていた。あたしも給料は普通の二十代女性の中では多い方である。それに結婚もしてないので気楽だった。配偶者や子供などがいたりすれば料理を二人分とか三人分作ったり、洗濯なども小まめにする必要があるのだが、独身だといいのである。単にマンションでもワンルームだから、使っている部屋に掃除をするだけでいい。仕事では疲れるのだが、帰ってきたら有り合わせの材料で簡単に作るか、買ってきていたレトルトタイプのカレーなどを茹でて食べるか、だった。そして入浴し、浮いていた汗や脂などを流してゆっくりと体を休める。大抵午後十一時過ぎには眠っていた。そして朝は午前七時前に起き出し、出勤準備を整える。別にいいのだった。出版社の社員は確かに花形職業だと思われがちだが、普通に3K労働である。そういった仕事をしたい人が来ればいい。もちろん後輩はいたのだが、辞めていく人間も大勢いて、いかに出版社の仕事がきついのかは皆十分分かっているのだった。そしてあたしも社に在籍中は担当作家などの原稿を粗方読みながら、編集者へと回す。合間に作家にメールなどを打って送るのも仕事だった。ご機嫌伺いのような側面もあるのだ。作家はナイーブな人間が多くて、ちょっと傷付けてしまうと、そっぽを向く人間が多い。元々実社会でまともに働いた経験がない人が多いから尚更だった。あたしもそういったことにはかなり気を付けている。朝起き出した時の寝汗を汗吹き用のコットンシートで拭き、今日も出社する。とりわけ変化がないのがあたしたち女性社員の仕事であり、実態だった。自宅マンションの最寄の駅まで歩いていき、そこから電車に乗り込む。疲労でかなりやられていたのだが、特に気に留めることはない。これがあたしの日常なのだから……。夏場の寝汗が不快なのも十分分かっていて……。
(了)