90階層
「我々は探求をやめない。すべての探求の果ては、出発した場所に戻り、その場所を初めて知ることだ。」
――T・S・エリオット『四つの四重奏』
◇
闇が、応えた。
広間の最奥、水の底に沈んでいた質量がゆっくりと持ち上がる。古い水が滝になって背を流れ落ち、そのたびに、ごう、と空気が鳴った。
長い首。鱗に覆われた胴。八〇のあれは竜になりそこねた瘤の塊だったが、こいつはどうも違う。曲がりなりにも、竜の形をしている。
表面が歪。鱗の隙間という隙間から刃が生えている。剣、槍、鉈。名も知らない形の凶器までが、肉の中からせり上がってはぬらりと抜け落ち、また新しいものが生えてくる。一本残らず殺意によって研がれていた。撫でるだけで肉が簡単に裂け、骨を断つ、そんな圧を感じる。
武器が無限に湧いてくる竜。
俺は、思わず足を止めた。
「……驚いた」
これまでこの世界で殺してきたものをざっと思い返す。まぁ、正直雑魚。80階層の魔物も、色々と縛って、ようやく少し楽しめた程度。腹の底は冷えたまま、作業感覚で振り下ろして、ルーチンのように終わる。嚙んでも嚙んでも、歯ごたえのない肉ばかり。
だから、今回もそうだと思った。
うまくは言えない。ただ、見た瞬間に奥歯の裏のあたりが、じわりと疼いた。冷えきっていた腹の底に、ひとすじの熱が通る。
「曲がりなりにも、真竜級に近い存在。面白いな。レベル的にも80のアレよりも格は上だな」
胸の奥でとうに冷えて固まっていたものがぱちりと爆ぜた。
ああ、と思う。この世界を楽しめない箱庭というのは早計だったか。こうやって多少まともな魔物がまだ眠っていた。だったら、もっと奥にはいいのがいるのかもしれない。そう考えたら、口の端がまた持ち上がる。
それにしても、と俺は竜の体を眺めた。
あの刃、どんなスキルだ。いったいどう使うつもりなのか。一本ずつ手に取って振るうには…体格が無理すぎない?⠀あのちっこい手で、しかも四足歩行。仮に、あのまま暴れ回って全部を振り回せば、自分の鱗ごと刻んでしまう。近接の得物にはどう見ても向いていない。
何のために生やしている。
わからない。わからないから、見たくなった。あれをどう振るうのか、この目で確かめてからでも殺すのは遅くない。
縛りは解かない。
戦気は最低限、身体強化なし、標も探知も切ったまま。武器の出し入れと、動体視力と、思考の加速だけ。玩具を前にして枷を外すなんて、もったいない。すぐ壊れてしまうのはもったいないんだ。楽しみは、薄めて長く味わうに限る。
奥の竜が、無数の刃を一斉に軋ませて、こちらを向いた。
"うわ"
"なんだこれ"
"竜…か?"
"竜じゃん……竜が出たぞ"
"こんなのが本当にいるのか……?"
"ヤバすぎ"
"他のダンジョンでも竜は見たことあったが、なんだ、この、トゲ……? だらけの竜は初めてだ"
"未踏域。しかも80であのレベル。この子一瞬でぶっ飛ばしてたけど、普通にSクラスだったし…そうだとしたら、やばくないか?"
"体から武器が生えてくるんだけど正気か"
"あれ全部刃物? か。何百本あるんだよ"
"もしかしてこれ、アンノウンじゃ……"
"アンノウン確定だわ。S級でこんなの見たことない"
"嘘だと言ってくれ。せめて画面の向こうの話であってくれ"
"とりあえず一回、麦茶淹れてくるわ"
"この状況でお前のメンタルが一番アンノウンだよ"
"いやでも笑った。こんなやべぇ状況でお前すげぇよ"
"てかあの子が普通に怯えてないのが凄すぎる"
"しかも笑ったね。竜を前にして笑うやつがいるか"
"頼むから逃げてくれ"
"逃げるわけないんだよなぁ、もうさっきので学んじゃった"
一旦、手ぶらのままでいってみようか。
武器はまだ。指を一本ずつ折り曲げて手首を回す。固まった関節がこきりと鳴った。素手で足りると思っているわけじゃない。ただ、こいつがどう来るのか気になる。それを見てから得物を選んでも遅くない。
「さぁ──魅せてくれ」
竜は、吼えなかった。
代わりに、全身の刃がぞろりと浮いた。鱗の隙間から生えた何百という鉄が、一斉に肉を離れ、空中でぐるりと切っ先を揃える。剣も、槍も、鉈も、名も知らない凶器も、その尖端のことごとくが、俺ひとりへ向いた。空気が、ぴんと張る。鉄錆と血の匂いがした。
なるほど、念動か……!!
振り回すんじゃない、浮かせて、飛ばす。
あの数をいっぺんにか。面白い──!
最初の一本が、音を置き去りにして来た。
頬の真横を過ぎた。遅れて、背後で破裂音。音より速いな。勘でいくか。
二本、五本、十本、三十本。間断なく。鉄の驟雨だな。
半身を捻って先頭をかわし、追ってきた剣の柄を空中で掴む。掌にずしりと重みが乗る。人間が振り回す用じゃないな。まさに魔物用ってか。握り返して、横合いの槍を打ち払った。金属が嚙み合い火花が散る。掴んだ剣で次の刃を弾き、弾いた反動のままもう一本を斬り落とす。考えるより先に腕が最適を選んでいく。
ある意味、需要と供給ってか?
格納庫から短刀を二本、指の間に抜いた。来る刃を逸らし、逸らし、その隙間を縫って、間合いを一歩、詰める。
「おっ…?」
巨体が、来た。
あの質量で、ありえない速さだ。風がうねる。爪が横薙ぎに薙ぐ──床すれすれまで沈んでかわすと、鼻先を五本の鉤爪が裂いていった。返しに踏みつけ。天井から家ほどもある足が落ちてくる。横へ転がる。踏み砕かれた床から、水と石の礫が散弾になって弾けた。
「やるなっ!」
"はやっ!?"
"見えん見えん見えん"
"速い"
"いや速すぎて見えない"
"何が起きてるのか全然わからん"
"飛んできた武器キャッチしてそのまま使ってない??"
"使ってる。敵の武器を奪って敵の武器を捌いてるんだよ。頭おかしい"
"あの速度で飛んでくる武器の柄を正確に掴んで? そのまま回転したり反動を使って飛んでくるものを弾く。そんで余裕あったら投げ飛ばしてる? か。うん。人間?"
"人間、あの体勢から回避して反撃できる?おかしいだろ"
"物理エンジン、バグってます"
"竜もデカいのに動き速すぎ問題"
"特級探索者ですやん"
"すげぇぇぇぇぇ"
"語彙力が死んだ"
"誰か実況してくれ"
"無理。実況の目も追えてない"
"目が二つじゃ足りない"
竜が攻め方を変えた。
正面から刃の束。同時に、頭上にも別の束が回り込んでくる。
挟む気…横に避けさせるためか? だが──上は遅いな。正面のほうが速くて魔力が濃い。脅威の桁が違う。だから俺は正面を捌きながら、上を後回しにした。
──それが、罠だった。
正面を払い終え、横に避けようと跳んだ。その一瞬。
足の裏が、ぐっと地面に吸いついた。
「っ?」
いや、足だけじゃない。肩が、腕が、内臓までが、まとめて下へ引きずり込まれる。膝が悲鳴を上げて骨が軋んだ。俺を中心に、床の水が円く押し潰れて波紋だけが外へ逃げていく。視界が重みでたわむ。
重力……!! それも、桁が違う……! この円の中だけ、重力を何百倍に書き換えられてる……!
──驚いた。
ただ武器を飛ばすだけの蜥蜴じゃない。こいつ頭をちゃんと使ってんな。軽い束をちらつかせて俺の判断を釣り、重たい置き土産のど真ん中へ誘い込む。
いい……っ。実に、いい……!! ここまでさせる相手は、この世界に来てから初めてだ。
"今、地面が潰れたぞ"
"重力魔法だこれ"
"魔物が重力魔法を使ったんだが!?"
"重力って高度魔法でも最上位クラスじゃなかったか"
"そんなものを魔物が使えてたまるか"
"使ってるんだよ目の前で"
"知能まであるのかよこの竜"
"化物すぎる。もうアンノウンとか言ってる場合じゃない"
そして、後回しにした頭上の束が落ちてきた。
重力に引かれ、切っ先を真下に揃えて雨になって降りそそぐ。さっき俺が見送ったあれ。
体が鉛のよう。腕一本持ち上げるのに、全身の筋が灼ける。だが、止まれば串刺し。
奥歯を、嚙み砕きそうなほど嚙んだ。重い腕を無理やり振り上げる。降る刃を払い、払い、払い──払いきれなかったものが、肩を裂き、腿を抉り、頬を切り開いていく。熱い線が走る。血が重力に引かれて、まっすぐ下へ落ちていく。
チッ、体が言うことを聞かん!
最後の一本が眉間に届くその寸前。残った力をぜんぶ脚に集めて、俺は円の縁へ体ごと投げ出した。
境を越えた瞬間、嘘みたいに体が軽くなってたたらを踏む。
抜けたぁ……はぁ、しんど。
抜けて、顔を上げて──見た。
竜の喉が、白く灼けている。腹の奥から、光が逆流してくる。ずっと、溜めていたらしい。刃も、重力も、降る雨も、ぜんぶ、俺をこの一点へ、この一直線へ追い込むための、布石だったらしい。
「普通の人間よりも頭良いんじゃない…?!」
正面。逃げ場はない。
そこへ竜が、ゆっくりと、口を開いた。
──ああ……っ。そこまでやるのか……!!
腹の底の熱が、一息に喉まで競り上がる。冷えて固まっていたものが、音を立てて燃え上がった。
気づけば、笑っていた。たぶんひどい顔だ。可愛くない狂気的な顔。頬が勝手に吊り上がっていく。
逃げない。避けない。
こんな一手を、最後の最後まで隠し持っていた相手に──背中を見せるなんて、できるわけがないだろう……!?
白い光が、喉から膨れ上がる。世界が、端から白く灼けていく。
俺はそれをまっすぐ睨んで──炎を、正面から、浴びた。
"えっ"
"えっ"
"なんだ!?"
"白い…炎?"
"ブレスか!"
"竜のブレスを真正面から!? 死ぬぞ!"
"ブレス受けた?真正面から受けたの??"
"待って画面が真っ白なんだけど"
"何が起きたの"
"誰か、誰か説明して"
"なんだ……一瞬、なんか見えた気が"
炎が俺に届く、その半瞬前。
戦気を薄く体の表へ回した。最低限と決めていたその最低限を、ぜんぶ防御へ。戦意が皮膚の上で硬い膜になり、赤黒い微光が輪郭をなぞる。
炎が、俺を呑んだ。視界が白に溶ける。轟音。皮膚のすぐ外側で世界が燃えている。膜の内側、紙一重のところだけが、かろうじてまだ俺の体だった。
熱い。痛い。楽しい。
炎の壁の向こうで、竜が、勝ち誇るように喉を鳴らしている。布石を積み、罠を編み、最後の一手をきれいに通しきった。あの蜥蜴は、間違いなくこの世界に来てから一番俺を楽しませた。
だからこそ、だ。
このまま縛った状態で片手間に終わらせるのは──それは違う。違うんじゃないか、それは。あまりにも、違うだろう?
「舐め腐った態度で殺すのは……礼儀に、欠けるよなぁ……とかげぇ!?」
魔気の具現化放出。普段は井戸の蓋みたいに固く閉じて、危ういときだけ開けると自分で決めた最後の鍵だ。その蓋を今だけ開ける。
これなら、縛りの外であり、限界点。
──この体の魔力は少ないし、体の構造上、これ以上負荷をかけたら粉々になりそうだし。
戦気でも、魔力でもない。その二つを融合させた、第三の流れだ。
戦気は、俺の戦意をそのまま物理に変える力。混魂に属する、俺だけのもの。魔力は、この世界のやつらが当たり前に振り回しているあれ。俺は生まれつきこれも内に持っている。この世界では誰でも持ってるらしいけど。この二つを練り合わせると、どちらとも違う質感のもう一段上の流れになる。それが、魔気だ。前世からずっとそう呼んでいる。かっこいいし。
普段は汎用に使う。空中へ薄く流せば、あたり一帯の構造が面で頭に入ってくる。どこに壁があってどこが空いているか。手のひらに地図を広げるみたいにわかる。武器に纏わせればもとから乗っている付与の効果が底上げされる。便利ななんでも屋だ。出力も、前世の頃と比べて二倍弱まで上がっている。
だが、今欲しいのは地図でも底上げでもない。
この汎用の流れを一点に集める。体の内側で波の向きを片っ端から揃え、互いに打ち消さないよう拍を重ねて足し合わせていく。一が十、十が百。膨れ上がった奔流を、針の先ほどの一点へ押し込めて限界まで圧して圧して──そうして溜めきった先から、ただ一方向にだけ解き放つ。
拡散しない。減衰しない。全ての力がまっすぐ同じ場所へ。
要は、なんでも屋に一つの仕事だけさせてまっすぐ撃つ。前世でいうところの…光線兵器みたいなものか。難しく言ったが、やってることは『集めて放つ』。そんな単純なやり方だな。
炎の壁を、内側から貫いた。
黒に赤の走る一条が、俺の指先から伸び、白い炎を縦に裂いてその奥の竜に、一直線に突き刺さる。
光が触れた。
その瞬間、頭が、首が、胴が、尾が、生やしていた何百の刃ごと、輪郭から白く飛んだ。残すものを何ひとつ、残させない。
跡形もなく。
俺は、魔気の蓋をまた閉じた。開いていたのは瞬きより短い間だ。
炎が燃料を失って、急速にしぼんでいく。広間に静けさが戻ってきた。潰れた床から古い水が、ぴちゃ、と落ちる。
──……ん〜。今の限界がここまでか。
限界値。
戦気を防御に回して、最後に魔気を一瞬だけ。それだけで、もう体の芯がじんと痺れはじめている。
"……"
"炎、消えた"
"竜は?竜どこ行った"
"いない"
"いないってどういうことだよ"
"消えた。跡形もなく消えたぞ"
"何が起きたんだ本当に"
"一瞬、黒くて赤い光が見えた気がする"
"あれでアンノウンの竜が消し飛んだのか…?"
"嘘だろ"
"画面、明るさ戻ったけど……竜がいた場所、ほんとに何もないんだけど"
"…………"
"すっげぇ…はかいこうせんだ"
……あ。
やってしまった。
魔石だけがぽつんと残った広間を見回して、俺は思わず、口を半開きにした。興奮にまかせて魔気なんぞ撃ったものだから、勢い余って、竜の置き土産も、足元に湧いていた箱も、残っていたものをまとめて消し飛ばしてしまったらしい。
"た、宝箱が消えた……"?
"前代未聞すぎるwww"
"というか、宝箱って消し飛ぶの……?"
「……あちゃぁ」
眉が、自分でも情けないくらい下がる。目が半分になった。
あぁ~……もったいなぁ。大事な資金が。
せめてもの救いは魔石だ。
広間の中央に、こぶし二つ分の黒い石が、ことりと落ちている。芯のほうで赤と紫の光がゆっくり渦を巻いていた。これだけは消えずに残ったらしい。よほど頑丈にできているんだろう。
歩み寄って拾い上げる。ずっしりと重い。掌の中で、渦が生き物みたいに脈打っていた。
さて。俺は暗い奥のほうへ目を向けた。
九十の、その下。さっきの竜が真竜級に近いところまで来ていたのなら、もっと下には、あれ以上の──
そこで、足が止まった。
というより、止まってしまった。さっきの痺れが引くどころか、じわじわ濃くなっている。膝から下が、自分のものじゃないみたいに重くて、指先が細かく震えていた。この体はまだ俺の力に馴染んでいない。前世の感覚で動かしているが、器のほうがぜんぜん追いついていなかった。
じ、地味に結構痛みがくるな…。
"今の見た?アンノウンの竜を一撃だぞ"
"この調子なら最終階層の一〇〇階まですぐ行けるんじゃ!?"
"いやいや、今回の戦闘でも普通に怪我してたし、一回帰還したほうがよくない?"
"でもあの子、治癒系のスキル持ってるし、行けちゃうんじゃない?"
"治っても疲労は別だろ。魔力とか体力の問題もあるって"
"言われてみれば。さすがにノンストップは無理か"
"いや、この子に常識当てはめても無駄では"
俺は、魔石を手にしたまま立っていた。
いつのまにか、空いたほうの手が、腹のあたりに当たっている。さすった。なんだか落ち着かない。
"なんだ"
"お腹、触ってる?"
"傷のせいで痛くなったのか?"
"ポンポンだ"
"もしかして生r"
"おいやめろ"
"デリカシーがどうのの前に、人間として終わっててくさ"
"せめて死んでくれ。せめて"
「……お腹すいた」
言いながら、大きなあくびがひとつ出た。目尻にじわりと涙がにじむ。
そういえば、と思う。この体になってからまだ一度もまともに何も食べてないな。眠ってもいない。戦って、潜って、運んで、また戦って。俺もちゃんと人間だし腹も減る、眠くもなる。
……仕方ない。
「帰るか」
"草"
"食欲と睡眠が一気に襲ってきてて笑った"
"アンノウン討伐の余韻、どこいった"
"ここ九十層だぞ。そんな状態で帰りは……大丈夫そうか"
"なんなら魔物側が可哀想になってくるかも"
"大丈夫そうって思ってる自分が一番おかしい説"
"おやすみ……いや、まだ帰ってもないか"
"初見でここまでやばいルーキー見たことないぉ"
"あの『覇王』以来…いやそれ以上だな"
"とりあえずこれからが楽しみ"
俺は、暗い奥に背を向けた。来た道のほうへ一歩踏み出す。
流石に腹がすいたら、俺でもしんどい。ここは一旦帰って食べて寝る。
……。
お風呂……俺、大丈夫かな。




