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前人未到

「社会の中で生きられない者、あるいは自足していて他を必要としない者は、獣か、さもなくば神である」


 ――アリストテレス『政治学』:第1巻




 知らない空の色だった。


 赤とも紫ともつかない光が、地平の果てまで低く垂れ込めている。空気は焼けた鉄の匂いに満ちていて、足の下の地面は踏むたびに乾いて軋んだ。



 ここは、自分がそこに立っていることに遅れて気づいた。



「ここは……?」



 呟いた声はどこにも届かなかった。誰も振り返らない。まるで薄い硝子の向こうから世界を覗いているみたいだった。自分はここにいて、けれど、ここにいない。


 視界の先に、ひしめくものがあった。


 軍勢だった。


 数えることに意味のない数だった。地平を埋め尽くし、丘の稜線まで黒く塗り潰して、なお続いている。数千でも数万でもない。数十万。人が一度に視界へ収めていい量を、とうに超えていた。


 その姿は、ひとつとして同じものがなかった。


 磨き上げた甲冑を全身にまとった者がいた。鋼の隙間から青白い管がのぞいている。隣には、身体の半分が別の生き物のように変質し、肉が膨れ、骨が外へ反り返り、もう人とは呼べない輪郭になった者がいた。さらにその奥には、顔だけが亡霊のように白く透けて、表情の置き場所を失った者たちがぞろぞろと連なっていた。


 異質な者たちの群れ。けれど、その全員の顔に、たったひとつだけ共通するものがあった。


 恐怖だった。


 これから死にに行く者の顔だ、とここは思った。なぜそう思ったのか自分でも分からない。ただ、その数十万の表情が揃って同じ色に塗り固められていた。逃げ場のない場所へ追い立てられた家畜が、最後にする顔。


 そして、その軍勢が向かう先はたった一人の人間が顕現。


 少年が立っていた。


 黒い髪。けれど、ところどころに赤が差している。痩せた身体に、戦うための無駄のない筋がついている。年の頃は、十代の半ばに見える。


 その少年の顔には、何の感情もなかった。


 恐怖もない。昂りもない。憎しみすらない。あるのは、ただ、『退屈』……そんな顔だった。これから始末しなければならない作業を前にした、ありふれた一日のうんざりした横顔。数十万が殺しに来ているというのに、その少年だけが、明日の天気でも考えるような顔をしてそこに立っていた。


 知らない少年のはずだった。


 なのに。


 ここの胸の奥が、わけもなく強く引き攣れた。



 ──知っている。



 姿が違う。性別すら違う。それでも、その立ち方、その気だるげな肩の線、世界を一段下に見るような底のない目つき。


 あの少女だ、とここは思った。


 どこかで会った、あの。けれど、名前も、いつ会ったのかも、どうしても思い出せない。ただ、確信だけが根のないまま胸に居座っていた。これは、あの人の過去だ。


 戦が始まった。


 いや、始まったと思った時には、もう終わりかけていた。


 少年が、片手を無造作に振った。


 それだけで、空気が裂けた。見えない刃が、軍勢の前列を横ざまに薙ぎ払う。圧し縮められた大気そのものが斬撃となって、甲冑ごと、変質した肉ごと、数百を一息に両断した。


 少年が、足を蹴り上げた。


 地面が爆ぜた。陥没した大地から衝撃が走り、立っていた者たちが根こそぎ宙へ巻き上げられる。


 少年が、どこからともなく握った得物を振り下ろした。


 その一撃が触れた地点を中心に、世界が円く凹んだ。何が起きたのか、ここの目では追いきれない。ただ、軍勢が面で消えた。


 少年が、最前列の一体を片手で持ち上げた。そうして、それを後方の群れへ無造作に投げ放った。投げられた一体は砲弾になり、着弾した地点で、また数十がまとめて吹き飛んだ。


 手を振る。足を上げる。叩きつける。掴んで、投げる。


 ただ、それだけだった。


 技と呼べるものすら、ほとんどなかった。少年はただ、日々の家事をこなすように、淡々と目の前の数十万を片付けていく。衝撃波が走り、空気の刃が舞い、地面が爆ぜ、無数の死が絶え間なく地平を駆け抜けていった。


 どれほどの時間が流れたのか、ここには分からなかった。


 数十分だったかもしれない。数時間だったかもしれない。あるいは、何日も、自分はここに立ち尽くしてこの光景を見ていたのかもしれない。時間の感覚が、最初からこの場所には無かった。


 気づいたとき。


 戦場には、立っている者が一人しか残っていなかった。


 生きている者が、と言い換えても、同じだった。


 少年が、ふう、と息を吐いた。


 疲れた、という吐息ではなかった。退屈な作業をようやく終えた者の吐息だった。少年は、累々と横たわる数十万を一度だけ見渡して、それから、ぽつりと言った。



「弱けりゃ、なんもできねぇんだよカス共が」



 罵声だった。


 吐き捨てるような、冷たい声。けれど、ここの耳は、その声の底に沈んでいるものを勝手に拾い上げてしまった。


 怒りでは、なかった。蔑みでも、なかった。


 それは、諦めた人間の声だった。


 とうに何かを失くして、もう取り返せないと知っていて、それでも生き続けるしかない者の、底の抜けた絶望と失望。罵声の形をした、誰にも届けるあてのない嘆きだった。



 その声が、ここの胸のいちばん深い場所に触れた。


 なぜか、泣きたくなった私は、その理由はついぞ分からなかった。



 ◇



 痛みで、目が覚めた。


 右の脇腹の奥が、脈を打つたびに鈍く灼けている。その熱が、ここの意識を眠りの底からゆっくりと引きずり上げた。


 ああ、傷が痛むのか、とここはほとんど反射のように理解した。痛みの種類で自分が今どういう状態にあるのかを測るのは、探索者になってから身についた癖だった。鋭い痛みではない。脈に合わせて疼く、深い場所の痛み。出血はたぶん止まってるのかな。


 夢を、見ていた気がした。


 とても大きな、とても遠く、大切な何かをずっと見ていた。胸の奥がまだ、わけもなくざわついている。目尻が湿っているような気もした。泣いていたのだろうか。けれど、その中身は指の隙間から零れる砂のように、思い出そうとするほどこぼれ落ちていく。


 ……何だったんだろう。


 ここは、すぐに思い出すのを諦めた。覚えていないものを掘り返すより、今の自分の状況を把握するほうが先だった。


 白い天井。消毒液の匂い。規則正しい、機械の電子音。


 病室だ、と分かった。柔らかい寝具の感触。腕には、見慣れない管が繋がれている。千葉支部の医療施設か、あるいはそれに準じたどこか。自分は、生きて運び込まれたらしい。


 生きて。


 その単語を、ここはもう一度、心の中で転がした。


 六十一階層で、自分は死ぬはずだった。拒絶を限界まで使い切って、輪郭が薄くなる感覚の中で、それでも、何かを残してから終わりたいと、そう思っていた。なのに今、自分はこうして呼吸をしている。


 なら、誰かが助けたのだ。


 断片が戻ってくる。黒と赤の髪。底のない瞳。魔物を、虫けらでも払うように消し飛ばした小柄な少女。抱き留められたときの、不思議な安心。あの感触だけは、夢と違ってはっきりと残っていた。


 ……あの人。


 もう一度、あの少女のことを思い浮かべた瞬間。


 ふわり、と胸の奥が温かくなった。


 あの人のことを思い浮かべるだけで、こんなにも心が甘く満たされていく。底のない、深い深い瞳。黒と赤の、綺麗な髪。小さくて、なのに誰よりも強くて。それでいて、自分を抱き留めてくれた腕は、ふるえるくらい優しかった。


 あの瞳が、もう一度自分を見てくれたら。あの声が、もう一度自分の名前を呼んでくれたら。


 そんなことを考えるだけで、胸の奥が、ぎゅうっと幸せそうに鳴る。じわじわと、身体の芯まで甘い熱が広がっていく。ずっと、この温かさの中に浸っていたい。もっと、あの人のことを知りたい。もう一度、会いたい。会って、今度はちゃんと目を見て、お礼を言いたい。


 ああ──と、ここは、とろけるような心地のまま、ようやくその気持ちの名前にたどり着いた。



 一目惚れ、してしまったんだ。



 胸いっぱいに、ふわふわと広がっていく甘い自覚。認めた途端、それは、抱きしめたくなるくらい温かくて。そして、もう、どうやっても隠せそうになかった。


 ……でも。


 次の瞬間、その甘さに、べつの熱が混ざってきた。



「は、はぅ……っ」



 声にならない声が、喉から漏れた。顔から火が出る、という言い回しを、ここは生まれて初めて、身をもって理解した。


 しかも、悪いことに。


 いったん意識してしまうと、止まらなかった。両手で覆った顔の、その暗がりの中に、よりにもよって、あの場面がやけに鮮明に蘇ってくる。


 あの少女が、私の血を──な、舐めたときのこと。


 傷口の縁に、そっと指を這わせて。その指先を、自分の薄い唇へ運んで。睫毛の一本まで数えられそうな距離で、あの底のない瞳が、まっすぐここを見ていた。赤く濡れた唇が、ほんの少し開いて。


 あのとき、自分は。


 意識が朦朧としていたはずなのに。死にかけていたはずなのに。あの距離で、あの瞳に覗き込まれて、血を舐め取られて、自分は、確かに──。


 ……えっちな、気分になっていた。


 ここの頭の中が、ぼん、と音を立てて沸騰した。



「〜〜〜〜っ!!」



 声にもならない悲鳴を、喉の奥で必死に押し殺す。ち、違う。違うはず。あれは、極限状態で、意識も飛びかけていて、だから、その、勘違いというか、生存本能の一種というか、そういう、何か神聖な──いや、神聖ってなに、いやでも、心臓は、あのとき、確かに。


 だめだ。思い出せば思い出すほど、顔から湯気が出そうになる。


 ここは、たまらず、枕に顔をぐりぐりとうずめた。それでも収まらず、布団の中で、両足をじたばたとばたつかせる。十八年、家族のために生きてきた真面目な少女の面影は、どこにもなかった。



 ────っ、痛っ。



 その、瞬間だった。


 右の脇腹の奥に、ずきりと鋭い痛みが走った。


 はしゃいだ拍子に、傷に響いたのだ。ここは、ぴたりと動きを止めた。火照った頭が、痛みですっと冷えていく。


 ……そうだ、わたし、怪我を。


 今さらのように、自分が大怪我を負っていたことを思い出した。それも、かなりの深手だったはずだ。あれだけのことがあって、無事で済むわけがない。


 冷静に考えれば、とここは、火照りの残る頭でゆっくり先を読んだ。


 自分の傷は、治らない。


 ここの拒絶は、他者からの一切の付与を弾く。治癒魔法も例外ではない。どれほど腕のいい治癒術師が手をかざそうと、その力は、ここの肌に届く前に逸れていく。物心ついた頃から、ずっとそうだった。だから、これほどの深手なら、運び込まれたところでできることは限られている。止血と、自然治癒をただ待つだけ。


 恐る恐る、ここは、寝衣の隙間から傷へと指を滑り込ませた。


 そして、止まった。


 ……え。


 厚く巻かれているはずの包帯の感触が、薄い。直に触れた肌の上で、傷口は──塞がりかけていた。


 深く抉れていたはずの肉が、寄り、繋がり、薄い膜のような新しい皮膚がその上を覆い始めている。残っているのは、もう、開いた傷の痛みではない。治りかけの傷の、あの疼きだった。


 ここの呼吸が、止まった。


 あり得ない。


 他者の治癒は、自分には届かない。それは、十八年間、ただの一度の例外もなく、ここの身体が証明し続けてきた絶対の事実だった。自然治癒でもここまで急速に回復なんて現実味がない。


 傷の表面で、何かが薄く揺れていた。


 赤黒い、もやのようなもの。血の色にも闇の色にも見える淡い流れが、傷の縁に纏わりついて、肉を内側から寄せ集めている。魔力の色とは、違った。これまで見てきた、どんな治癒魔法の輝きとも似ていなかった。


 拒絶が、それを弾いていない。


 ここの中で、絶対のはずだった壁が、その赤黒いものだけは、まるで最初から無かったかのように素通りさせている。



 ──……これは。



 胸の奥が、また引き攣れた。さっき顔を覆ったときに感じた、あの締めつけと同じ場所だった。


 赤と、黒。


 その色に、ここは覚えがあった。あの少女の、髪の色だ。


 あの人の、能力なのだろうか。


 確かな根拠は、何もなかった。ただ、感触だけが根のないまま胸に居座る。この赤黒い流れは、きっと、あの黒と赤の髪の少女に繋がっている。理屈ではなく、もっと深い場所が、勝手にそう告げていた。


 赤黒い流れを、ここはしばらく見つめていた。


 やがて、それもすうっと薄れて消えた。役目を終えた、とでもいうように。あとには、塞がりかけた傷と、いくつもの分からないことだけが残された。


 ……結局のところ、自分の身に何が起きたのだろう。


 思い返してみても、曖昧な部分が多すぎた。どうやって助かったのか。どうやって、この病室まで運ばれてきたのか。この赤黒い、不思議な修復は、いったい何なのか。そして、あの人は──誰、なのか。


 名前すら知らなかった。


 助けてもらったのに。こんなにも胸を焦がしているのに。あの人のことを、自分は、まだ何ひとつ知らない。


 ……確かめたい。


 もやもやしたまま横になっているのは、性に合わなかった。そういえば、と、ふと思い当たる。探索中の出来事は、たいてい、配信か録画で記録される。決まりだからだ。だとすれば、自分の救出も、どこかの配信に映っていたかもしれない。その映像を見れば、何が起きたのか、少しは分かるはずだ。あわよくば、あの人の名前も。


 枕元に、自分の端末が置いてあった。誰かが、気を利かせて置いておいてくれたらしい。ここは、まだ少し震える指で、それを手に取った。


 配信サイト『ダン生』を、開く。


 自分の救出配信の履歴を探そうとした。検索の文字を打ち込もうとして。


 その前に、指が止まった。


 画面の、いちばん上。注目の生配信ランキング。私は結構期待されてるから毎回じゃないけど、千葉ダンジョンの探索配信は絶対に載るからお世話になっている。


 その先頭に、ひとつの配信が、とんでもない数字を背負って表示されていた。視聴者数の桁が、おかしい。ここが今まで目にしてきた、どんな人気配信も軽々と飛び越えた、ありえない大きさの数字が、今この瞬間も、すごい速さで回り続けている。


 なんだろう、これ。


 半ば吸い寄せられるように、ここは、その配信に触れていた。


 画面が、切り替わる。


 その、瞬間だった。


 目の前いっぱいに、ひとつの顔が、どアップで映し出された。


 黒と、赤の、髪。底の、ない、瞳。陶器みたいに白い肌。睫毛の一本まで数えられそうな、距離。



「う、うぇっ……?!」



 心臓が、跳ねた。


 あ、あの人だ。あの人の、顔。それが、画面いっぱいに、こんな至近距離で。ど、どきどきが止まらない。なんで、こんなに近いの。なんで、こっちを、まっすぐ──。


 …………もしかして。


 ここの、できたてほやほやの、まだ何の免疫もない恋愛脳が、ぐるんと危ない方向へ回転した。


 こ、これは。もしかして、ご褒美、なのでは……?! あの、絶望的な状況から、なんとか生き延びた、わたしへの……! あの人が、わたしのためだけに、こんなに近くで、顔を、見せて……っ!?



 ──……いや。



 秒で我に返った。


 違う。これ配信だ。生配信。世界中に向けて流れてるやつ。わたしに向けてる、わけがない。一人で百面相をして、勝手に舞い上がっていた自分が、急にいたたまれなくなった。ここは、こほん、と、誰にともなく咳払いをした。


 落ち着いて、よく見れば。


 画面の隅に、配信者の名前が表示されていた。



 ──クロエ。



 その、三文字。


 知らなかったはずの名前が、初めて、形を持って胸の中へ入ってくる。あの人は、クロエ、というのだ。クロエ。クロエ、さん。心の中で、そっと何度か呼んでみる。たったそれだけのことが、なぜだか、ひどく嬉しかった。


 そうして、ようやく、ここは、画面の、肝心の中身に目を向けた。


 クロエの顔の、その向こう側。映し出されていたのは、見たこともない、暗い階層だった。淀んだ空気。歪な形をした、異形の魔物の群れ。そのただ中で、クロエが、心底どうでもよさそうな顔で、片手をひらりと振っている。


 それだけで、魔物が、面で消えた。


 何が起きたのか、ここの目では追いきれなかった。ただ、画面の端に小さく表示された、現在地の階層数。その数字に、視線が吸い寄せられて。


 ここの思考が、ぴたりと止まった。



「……え?!」



 ◇



 もう、どれくらい斬り結んでいるだろう。


 黒い沼のボス部屋。とぐろを巻いた三十メートルの、でかいの。八つの頭にも八つの尾にもなりきれなかった、半端な蛇。そいつと、もうしばらく踊っている。


 足元は底の見えない黒い水。天井からは黒い雫が滴る。空気は重く、魔力は淀んでいる。普通の探索者なら立っているだけで流路が濁る、嫌な空間だ。天井の水面には、なぜか七つの星みたいな光が沈んでいた。


 縛りは、さっき自分で決めた通り。


 戦気は最低限で、底上げはなし。武器の出し入れと、動体視力、思考の加速にだけ、ほんの少し回す。魔気は封印。本当に危なくなるまで使わない。治癒もなし。残る手札は技術と魔力と、このぺらっぺらの身体だけだ。


 ……うん。久しぶりに骨が折れる。悪くない。


 黒いのの手札は、もうだいたい出揃った。


 足を掴んでくる黒い泥。沼そのものを操る領域系で、動きを奪って消耗を強いてくる。重心の運びだけで抜けられるから、問題ない。


 その泥に混ざった毒。肉じゃなく魔力流路を腐らせる種類で、長く浴びれば魔法が暴発する。流路に入った分は、汚れた魔力ごと矢じりに変えて撃ち返した。魔力は減るが、体内で暴れさせるよりマシだ。


 ダメージを与えれば脱皮して再生し、剥がした皮が黒い泥の蛇に化けて数で押してくる。面倒なので、胸の奥の再生核を綺麗な魔力で一点突破して潰した。雑魚はまとめて泥に崩れた。


 ……一通り、付き合った。だいたい、底は見えた。


 とはいえ、無傷とはいかない。


 左の二の腕は尾に抉られて、まだ血が垂れている。肩口はブレスに掠られて焼けた。治癒なしだから塞がらない。魔力の残量も、じわじわ削れてる。縛ったぶん、間合いも手数も足りない。一手間違えれば、本当にやられる。


 なのに。


 ……ああ。たまらない。


 心臓が嬉しそうに跳ねている。前世のあの紛争の頃より、よっぽど楽しい。自分で自分を縛って、血を流して、それでも勝ち筋を削り出していく、この瀬戸際の感覚。


 俺は笑っていた。口の端が裂けるみたいに吊り上がって、瞬きすら惜しんで黒いのを見据える。


 黒いのが苦しげに呻いた。首の付け根の、七つの瘤が、ぐぐ、と脈打ち始める。


 ……ん。まだ隠し玉があるのか。


 いいぞ。出し惜しみは、なしだ。


 七つの瘤が、ぶちりと裂けた。


 中から、未完成の頭がずるりと覗く。目と口と牙だけの、出来損ない。本物の八首にはなりきれなかった、失敗作の頭が七つ。


 そいつらが、てんでばらばらに口を開けた。


 水圧。腐食。幻覚。雷。重圧。音波。それから、魔力を吸い上げる嫌な引き。七つの違うブレスが、いっぺんにこっちへ殺到してくる。


 ……うわ、欲張ったなコイツ。


 でも、制御が追いついてないだろそれ。


 七つ同時なんて、完成した大蛇でもなけりゃ捌ききれない。案の定、ブレスの軌道が互いにぶつかって乱れている。水圧が雷を逸らし、音波が幻覚を掻き消す。半分、自滅してる。


 その隙間を縫う。


 動体視力にだけ、戦気をぎりぎりまで寄せた。躱して、潜って、抜ける。掠ったブレスで、また肌が焼けた。構わない。前へ。


 と、頭上で。


 天井の七つの星が、順番に沈み始めた。


 一つ沈むごとに、空気がずんと重くなる。身体が沼に引きずり込まれる。二つ目で魔力の巡りが鈍り、三つ目で膝が黒い水へ沈み込んだ。


 ……なるほど。時間制限ってわけか。


 七つ全部沈んだらたぶん、まとめてこの黒淵の底行きだ。


 魔気を解禁すれば、楽に終わる。危なくなったら使うと、決めてた。今がそれかもしれない。


 ……でも。


 まだ、いける。


 四つ目の星が沈む。重圧が肩にのしかかった。それでも足を前へ。五つ目。六つ目で、武器が急に重くなる。


 関係ない。重けりゃ、重い分だけ、振り下ろす勢いに乗せればいいだけだ。


 虚空から長棒を引き抜いた。


 最後の力で、黒いのが七つの口をこっちへ向ける。


 その、ど真ん中。出来損ないの頭が束になった、首の付け根へ。


 沈む重力を丸ごと味方につけて、体重と回転と技術の全部を、一点に乗せる。


 振り下ろした。


 戦気の底上げはなし。それでも。


 棒の先端が、首の付け根を叩き割った。


 ぐしゃり、と潰れる音。七つの頭がいっせいに痙攣して、垂れる。巨体がぐらりと傾いだ。


 七つ目の星が、沈む寸前。


 黒いのの首が、完全に落ちた。


 濁った金色の眼から、ぷつ、と光が消える。三十メートルの巨体が、黒い水の中へ、ゆっくり崩れ落ちていった。


 星の沈降も、止まる。重力が、ふっと軽くなった。


 ……ふぅ。


 肩で息をする。左腕はまだ血が垂れてるし、肩は焼けてるし、魔力も結構削れた。久しぶりに、ちゃんと消耗した。


 でも。


 口の端は、まだ上がったままだった。


 あー、楽しかった。


 んぅ~、と両手を突き上げて勢いよく伸びをした。


 固まった背中がぱきぱきと鳴る。縛ったまま戦うと普段使わない筋を使うから、変なところに力が入るんだよなぁ。



「……はぁ。この縛り、楽しいぃ」



 力を抜いて楽な姿勢に崩れる。


 と、胸のあたりがぐっと突っ張って息苦しかった。動き回ったせいで布が変なふうに食い込んでいる。俺は首元を指でつまんで軽く引っ張り、隙間を作った。ふー、と息が抜ける。


 ……ほんと、これ邪魔だよなぁ。でかいのも考えものだ。


 まあ、それはそれとして。


 さっきの戦いは、さすがに前世の最後に殴り合ったあのバケモンには落ちる。世界の規格を書き換えてくる、別格のやつだった。


 けど、いつものただ強いだけの相手をいたぶる戦いより、よっぽど楽しかった。自分で縛って、足りない手札で瀬戸際を削る感覚。


 にんまりと口の端がまた上がった。



「……うん。悪くなかった」



 ふと、自分の身体に目を落とす。


 左腕の抉れた傷。肩口の火傷。あちこちに散った細かい掠り傷。治癒を切ってるから、どれも塞がらないまま血を滲ませている。


 ……どんな感じか、ちゃんと見ておくか。


 戦気の格納庫から引き抜いたのは、身の丈ほどもある馬鹿でかい大剣。刃の幅が広くて、磨いた面が鏡みたいによく映る。べつに武器として使うわけじゃない。これは姿見だ。


 地面にどんと突き立てた。


 黒く光る刃の面に、俺の全身が映る。


 血で汚れた小柄な身体。あちこちに走る生々しい傷。それを上から下まで、舐め回すみたいにじっくり眺めた。



「……確かに、意外と」



 ぽつりとこぼれた。


 前世で、似たようなことを言われたのを思い出す。俺が姫さんと呼んでいた女だ。


 まともな感性も常識も死に絶えたあの世界で、珍しくちゃんとした倫理観を持っていた変わり者だった。強さも相当なもので、俺には及ばないが、あの世界で姫さんに勝てる人間は片手で数えられるくらいしかいなかった。



 ──体中に傷があったほうが、歴戦の猛者みたいで愛おしいです。



 そんなことを言ってきた。当時は、何を言ってるんだこいつ、くらいに聞き流していた。傷なんてただの戦いの結果でしかないし、愛おしいも何もないだろう、と。


 でも。


 今こうして鏡の中の自分を見ると。


 ……なるほどな。姫さんの言う通り、かもしれない。


 傷だらけで血を流している自分は、いつもの整いすぎた可愛さとは、また違った。どこか妖艶で危なっかしくて、見る者をぞくりとさせる。そういう別種の色気をまとった美少女になっていた。



「ほう……どんな姿でも可愛くて綺麗だな、俺」



 うっとりと刃に映る自分を見つめる。


 傷ありも、これはこれでいい。汚れた頬も血の絡んだ髪も、全部絵になる。こんなのが街中を堂々と歩いたら、きっとすれ違うやつ全員が振り返る。蟻の行列みたいに、ぞろぞろ後ろへ群がってくるんじゃないか。


 うん。間違いない。俺は可愛い。


 と。


 刃の面の端っこ。俺の顔のすぐ横に、ぬっと何かが映り込んだ。


 宙に浮いている、目玉みたいな丸い黒の球。


 ……あ。


 そういえば、こいつ。


 配信を始めたとき、端末の魔法が勝手に生成した配信用のカメラだった。


 ずっと浮いてた。戦いの間も。さっきの独り言の間も。傷を舐め回すように眺めてた間も。鏡の前でうっとりしてた間も。


 ……なるほど。完全に夢中で忘れてた。


 戦いに集中して、そのあと自分に見惚れて、配信のことなんて頭から綺麗に抜け落ちてた。


 まあ、別にいいか。むしろ好都合だ。可愛い俺を、最初から世界に見せつけてた、ってことになる。減るもんじゃないしな。


 俺は端末を取り出した。ウィンドウを指で上へスワイプする。


 すると空中に、半透明のコメント欄が、ふわりと浮かび上がった。


 俺は軽く咳払いをした。それから宙に浮いた目玉みたいなカメラに、まっすぐ視線を向ける。



「で、どうよ?」



 最高だっただろ、という意味をたっぷり込めて首を傾げた。


 すると、流れていたコメントが一気に加速した。



 "いやいや"

 "どうよって…えぇ?"

 "とりあえず、だ"

 "期待の新人どころか期待の英雄ですやん。強すぎ"

 "最強で可愛いはもう役満ですわ"

 "え、この子特級じゃないの????"

 "ドヤ顔可愛いから許す"

 "初見だけど何これ何の配信"

 "は??? 今の表示80階て出てたよな"

 "ソロだぞ。誰も連れてねえぞこの子"

 "待て千葉の人類到達記録74階のはずなんだわ"

 "前人未到の階層ソロ討伐とかいう字面の暴力

 "おっぱいすごかたです"

 "さっきのデカい蛇、図鑑にも載ってねえんだが"

 "事故配信どころか歴史の事故では?"

 "確かにおっぱいはすごかった。なんならお尻の短パン? の部分ちょっと破けてて拝めてました"

 "ちくわ大明神"

 "同接やば 桁見間違えたかと思った"

 "大剣を鏡にして自分の傷うっとり眺める女の子、性癖の見本市すぎる"

 "自分に惚れてて草。ナルシストが過ぎる"

 "俺っ娘でこんな美少女とか、癖の塊みたいな存在で最高すぎんか?"

 "ケガしてうっとりしてるのは引くが、こんな美少女だったら話別ですわぁ"

 "『俺は可愛い』じゃないのよ。いやまあ可愛いんだけども"

 "強い、可愛い、ヤバい。情報量で殴ってくるな"

 "かわいいかわいいかわいいかわいい"

 "おい誰ださっきの"



 ……ふむ。


 なんか戸惑ってるやつが多いな。素直に、可愛かった、強かった、でいいだろ。事実だし。まあ英雄だの役満だの、褒めてはいるみたいだ。うん。よろしい。なんか途中変な奴いたけど。


 ……ズボン確認しとくか。


 八十階層がどうとか、人類がどうとか。そればっかり言ってるやつらもいる。よく分からんが、わりと珍しい場所だったのかもしれない。へぇ。最高階層どこなんだろ。


 で、肝心の俺の可愛さについては……うん。みんな分かってるじゃないか。俺っ娘で、美少女で、癖の塊。最高。俺っ娘……やっぱり私のほうがいいのか? だけどちゃんと可愛さも伝わったそうだ。そう、それでいい。傷があっても話は別ってのも、よく分かってる。さっき俺も同じこと思ったしな。


 満足げに頷いた。


 よし。みんな、俺の可愛さは、ちゃんと分かってる。いいカモ……視聴者だな。


 ついでだ。少し相手をしてやるか。俺はカメラに向かって口を開いた。



「ま、こんなもんでいいだろ。八十階層だっけ? 別に、大したことなかった」



 言った瞬間、コメントがぶわっと弾けた。



 "大したことなくはない"

 "前人未到を『大したことない』で片付けるな"

 "特級でもビビる階層なんだが"

 "この子どっかの山奥で暮らしてたのか?w"

 "この国家機密をなんで誰も知らなかったんだ"



「そうか? ま、強いやつ探して、もぐってただけだしなぁ」



 "探してただけでこの深さは草"

 "散歩感覚で人類記録更新すなや"



 ふぅん。みんな、ノリがいいな。悪くない。感情豊かで無機質じゃないのはこちらとしても返しやすい。


 そういえば、さっき、特級がどうとか聞かれてた気がする。



「ランクは……よく分かんねぇや。ん~……ーになってるし」



 ……しん、と。


 一瞬、コメントが止まった。


 あれ。変なこと言ったか?



 "は?????"

 "ランク無し!? 査定依頼まだ受けてないのこの子!?"

 "いや未登録でもAランク級はゴロゴロいるけどさあ"

 "それにしたって前人未到80階をランク無しは規格外すぎる"

 "てか高ランクなら配信収入もっと増えるのに勿体な"

 "運営今すぐ来い。この子に査定依頼叩きつけろ"

 "人間の物差しで測れる気がしない"



「お、おう。なんか、すごい食いつきだな」



 まあ、登録なんておいおいでいい。今はそれより、大事なことがある。


 俺にはな、配信を始めた、ちゃんとした目的があるんだ。


 俺はむふーという表情で、宣伝? をする。



「あのな。俺、可愛い服が欲しくて、配信始めたんだ。だから、いっぱい見てお金ちょうだい」



 どや、と胸を張る。


 すると。



 "動機が天使すぎて成仏する"

 "前人未到ソロ討伐の動機が『可愛い服』"

 "スパチャ強要すんのマジで草。送るけど"

 "こっちから課金させてくれって頼むぜい"

 "可愛い服のためならいくらでも貢ぐが?"

 "なんなら服の布面積減らしたら稼げます!"



 ん? 布面積を、減らす?



「……本当なのか? それくらいなら、別に」



 たかが布を減らすだけで金が増えるなら、安いものだ。俺は上に着ていた服の裾に手をかけて、まくり上げようと──



 "やめときなさい!?"

 "普通に過激な故意のR18はBAN対象です!"

 "なんで脱ごうとしてんだこの痴女!? 変態さんなのか!? この見た目で?! 最高ですありがとうございました"

 "あれだ、ダンジョン規約見ない子なんだ多分"

 "普通にBANされて二度と配信でお金稼げなくなります"



 すごい勢いで止められた。



「む。ちょっと裸になるだけで配信できなくなるのか。世知辛い世の中だな」



 脱ごうとした手を止める。危うく、稼ぎ口を一つ潰すところだった。



 "世知辛いという常識というか…"

 "さてはコイツお嬢様か?"

 "お嬢様があんなバチボコに強いのか…? 驚天動地、世の中進んでるんだなぁ…"

 "コロッと騙されて気づいたときには自慢のパワーでひねりつぶされそう"



 ふぅん。よく分からんが、脱ぐのはダメで、着たまま可愛くするのは、いいらしい。なるほど。可愛い服を着て可愛くすれば、金がもらえて、その金で、もっと可愛くなれる。

 完璧な仕組みだな、やっぱ世の中上手く回ってるのか。


 うん。配信、いいな。気に入った。続けよう。


 すっかり機嫌が良くなって、流れ続けるコメントを眺める。みんな、俺のことで、こんなに騒いでくれている。


 悪くない、気分だ。


 視界の端で、崩れ落ちたあのデカい蛇の死骸が、黒い水の中で、ぼこり、と泡を立てた。


 ……あ。そうだ。


 倒したやつの素材って、どうなるんだったかな。


 金になるなら、ちゃんと回収しておかないと。可愛い服のためにも。


 俺はコメント欄を浮かべたまま、のそりと死骸のほうへ歩き出した。

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