ニューギニアの冬
「やっぱり、人が多いわね」
雅楽京子は人波を避けながら、仲見世通りを歩いていた。木枯らしが吹いているはずなのに、観光客の熱気で冬の寒さを感じない。
通りにあふれた外国人、聞きなれない言葉、外国語が併記されたメニュー、どこか別の国に迷い込んだように錯覚する。雷門で記念写真を撮る団体客の笑い声、スマートフォンで写真を撮るシャッター音、話し声が幾重にも重なり、仲見世通りに反響していた。
「ソーリー」
スイーツを手に、店から飛び出してきた東南アジアからの観光客とぶつかった。
浮かれる気持ちはわかるけれど、前を見て歩いてほしい。そう思いながらも、「ノープロブレム」と愛想笑いを浮かべた。日本を訪れた外国人には、楽しい思い出を作ってほしい。
足首を捻らないよう慎重に、石畳の凹凸を紺色のパンプスで踏んで歩いた。
五重塔を横目に演芸ホールに抜ける道に入ると、人通りが少なくなった。空いた道を早足で歩くと、喧騒は遠のいていった。観光地の華やかさが薄れ、景色は下町の静かな住宅街に移っていく。どこからか煮物の匂いがした。
雅楽はバッグから電報を取り出し、訪問先の住所を確かめた。宛先は「春夏冬 信子」と書いてある。春夏秋冬を「ひととせ(一つの年)」と読むことは知っていた。けれど、この名字には秋がない。秋がない……アキナシ?
スマートフォンを取り出して「春夏冬 名字」と検索すると、読み方は「あきなし あきない」だった。「やっぱりね」と雅楽の口元がゆるんだ。難読名字を正解すると嬉しいものだ。
自らが難読名字の雅楽は、春夏冬家を前にして、目が輝いた。
“カシャ”
表札と一緒に記念撮影した。難読名字のコラボレーション。いい写真が撮れた。
さて、長時間家の玄関先に止まっていたら、不審者だと怪しまれる。雅楽は用件を済ませることにした。
“ピンポーン”
インターフォンを押してしばらく待つと、年季の入った玄関扉がきしむ音を立てながら開いた。しわの深く刻まれた白い手が見えると、背筋をぴんと張った割烹着の高齢女性が出てきた。女性はまぶしそうに目を細めると、「はい、なにか?」と雅楽を見た。
「電報です。アキナシ ノブコさんですか?」
「そうです。よく読めましたね」と女性の頬がゆるんだ。
雅楽は「間違えなくて、よかったです」と弾むように言うと、電報を信子に渡した。
信子は「そろそろ、お迎えですかね」と電報の差出人「春夏冬 勝」を見つめた。
「故人からのメッセージです。信子さんの寿命とは関係ありません」
雅楽が苦笑いすると、信子は玄関の引き戸に片手を添えたまま、庭に視線を向けた。ツツジの葉が風に揺れていた。
「夫が亡くなったのは80年前よ。きっと、まだ来ないのか、と催促しているんだわ」
80年前に夫と死別したのなら、信子の年齢は100歳を超えている?
背筋が伸びて、はっきりと言葉を発する信子は、実年齢より20歳以上は若く見える。
「それはありません」
「どうして?」
「死を促すメッセージを送ることは禁止されています。どうしても気になるなら、中をご覧になってはいかがですか?」
信子は「そうね」と雑に封筒を開けた。
電報はあの世から雅楽の実家の神社に送られてくる。故人のメッセージを代書人がタイプして電報を作っているらしい。長いメッセージだと、代書人がタイプミスする可能性があるから、メッセージは100文字以内だ。10秒もあれば読み終わる。
信子は眉間にしわを寄せると、「本当だわ」と首をすくめた。
風が吹き込んできた。よく見ると、粉雪が舞っている。初雪だ。厚手のコートを着ているけれど、無意識に指先を擦り合わせてしまう。
「寒いわよね。あなたに渡したいものがあるの。中に入ってもらえるかしら」
信子は雅楽に玄関の中で待つように促すと、奥の部屋に入っていった。玄関棚の上には、奇妙な人形が飾ってあった。アフリカの部族が儀式に使うような、恐ろしい顔の人形だった。
「ベナンの留学生のお土産よ」
振り返ると、信子がカップを2つ持っていた。10年前まで、信子はホストファミリーをしており、多くの外国人留学生がホームステイしていた。浅草という場所柄、外国人留学生に人気だったそうだ。
「外は寒いでしょう。これを飲むと温まるわよ」
「ありがとうございます」と雅楽はカップを受取った。温かいほうじ茶が冷え固まった体を緩める。
「その恰好だと寒いでしょう。私が編んだものだけど、よかったら使って」
信子は毛糸のマフラーを差し出した。複数の色糸を使った縄編みのマフラー。素人が編めるマフラーではない。
「いいんですか?」
「ええ。あげる人もいないしね」
信子が笑うと、目尻の皺が深くなった。
**
夫の勝は信子と同じ町内に住む幼馴染だった。一つ年上の面倒見がよい勝は、よく信子と遊んでくれた。信子は「カッチャン」と呼びながら、勝の後ろをついて歩いた。「カッチャン」と呼ぶのは信子だけだったけれど、勝は嫌がる素振りは見せなかった。案外、気に入っていたのかもしれない。
小学校に入ると、勝は同級生と遊ぶことが増えたけれど、三社祭、花火大会には必ず信子を誘ってくれた。嬉しかった。
「信子は手先が器用なんだな」
庭先で信子が手袋を編んでいたら、勝の声がした。
そのころ、高等女学校で編み物が流行っていた。一番上手に編めた女生徒は幸せになれる、そんな根も葉もない噂が立った。信子は噂を信じたわけではなかったけれど、編み物をするのが楽しかった。
「カッチャンにも編んであげようか?」
編みかけの手袋を見せたら、「内地で手袋をしていたら、兵隊さんに申し訳が立たん」と勝はため息をついた。
出征した兵士の防寒具として、毛糸製品の供出が始まり、新品の毛糸を手に入れるのが難しくなっていた。だから、古着をほどいた編み直しか代替品を利用するのが一般的だった。このとき信子が編んでいたものは、古着から編み直した毛糸だ。
口をとがらせた信子に気を使ったのか、「戦争が終わったら編んでもらおうかな」と勝は頭をかいた。勝はいつも優しかった。
「うん」信子は照れたように頷いた。
しかし、戦争は終わらなかった。勝が高等学校を卒業して、家業の菓子屋に働き始めたら召集令状が届いた。徴兵検査で甲種だった勝は、五日後に入隊するように書かれていた。行先は書かれていなかったが、満州が濃厚だった。
南方のフィリピンやニューギニアでなくてよかった。信子は胸をなでおろした。それでも、勝が無事に帰ってくる保証はない。
「ねえ、カッチャン。私と逃げない?」
勝が、また始まった、とでも言いたげに顔をしかめた。以前は徴兵逃れする者がいたそうだが、軍部の統制が強化されて、ほぼ不可能となっていた。
「家に迷惑がかかる。それに、逃げてもすぐに捕まる。無理だよ」
「それなら、入営前に私と結婚して」
勝は目を大きく見開いた。無事に還ってきたら、勝は信子に結婚を申し込むつもりだった。まさか、出征前に信子から結婚を申し込まれるとは考えてもいなかった。
「満州から無事に還ってくる兵士は多いらしい。結婚は還ってきてからでも、いいんじゃないか」
「だめ。今すぐに結婚して」
ぎゅっと拳を握りしめた信子に、「わかったよ」と勝は苦笑いした。
その日のうちに両家への挨拶を済ませ、信子と勝は祝言を挙げた。両家は、お互いによく知った仲だ。信子の父は「そうか」と言っただけだった。祝言を挙げてから五日後、勝は入営した。
信子は出征中の勝に毎月手紙を書いた。勝からの手紙は、日付、場所などが墨で塗りつぶされていたけれど、定期的に信子に届いた。
満州が冬になる前に、勝に手袋を送ろう。中秋の名月を眺めながら、古着をほどいて手袋を編んだ。編み終えた手袋は慰問袋に入れた。
春先に届いた手紙には『桜は綺麗ですか?』、『元気です』、『安心してください』と書かれていた。満州には桜がないらしい。
勝が満州に発ってから一年が過ぎたころ、『ニューギニアに出立します』、『冬に備えて手袋を送ってください』と書かれた手紙を受け取った。行先は極秘情報のはず。なのに、墨で塗りつぶされていなかった。
ニューギニアは暑いから、手袋はいらない。信子は不思議に思いながら、手袋を編んだ。編み終えた手袋は、石鹸やキャラメルと合わせて慰問袋に入れた。遅れながらであったが、勝からの手紙は信子に届いた。『手袋、ありがとう』、『元気です』、『安心してください』と書いてあった。
信子がニューギニアから三通目を受取ったのを最後に、勝から手紙が返ってくることはなかった。
**
「実はね。私、80年前にも電報を受取ったの」
信子はじっと電報を見つめた。雅楽は同じ故人から二度も電報を受取った人を見たことがなかった。
「80年前の電報は、旦那さまからですか?」
「ええ、そうよ。あなたに似た、きれいな女の人が電報をもってきたわ」
信子の頬がゆるんだ。80年前の電報は、祖母が届けたものだ。
「きっと、私の祖母ですね」
「あの方は元気かしら?」
「ええ」
雅楽は深く頷いた。祖母は10年前に他界し、雅楽が配達人の仕事を引き継いだ。祖母は現世にはいないけれど、定期的に連絡がある。あの世でも元気だ。
「これが80年前の電報なのだけど」
信子はシミの付いた紙を開いた。
『手袋はニューギニアでも温かかった。ありがとう』
タイプされた手紙ではなく、手書きの字が紙に書いてあった。祖母の字だ。
「私が送った手袋を、ニューギニアでも着けていたみたいね。暑くなかったのかしら?」
信子の声が明るくなった。激戦地のニューギニアにおいて、信子の手袋が勝の心の支えになっていたのだ。
「あの……今回の電報には何と書いてあったのですか?」
配達人は電報の中身を知るべきではない。しかし、二度目に受取った電報に何が書いてあるのか、雅楽は気になってしかたなかった。
「これよ」と信子は新しい紙を差し出した。
『新しい手袋を編んでほしい』
勝にとって、毛糸の手袋は和子との唯一の繋がりであった。あれから80年。ボロボロになっても、勝は身に着けていたに違いない。
「あっちは、寒いのかしら?」
信子は首をすくめた。
「いえ、死後の世界に温度はありません。信子さんとの絆がほしいんですよ」
「じゃあ、カッチャンに新しい手袋を編もうかね。もうすぐお迎えがくるころだし」
「そんなこと言わないでください。長生きしてから、旦那さまと再会してください」
「こんなお婆ちゃんに会って、嬉しいものかね?」
「それは、もう。飛び上がるほどですよ!」
信子は「そうかい」と照れたように頷いた。
―了―




