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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと聖女が王子に粉をかけていたから ──後日談

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/18

本編読了後推奨です。

あの夜から十年。

終わったはずの人たちが、それぞれの場所でちゃんと生きている――そんな再会と今を描いた後日談です。

少し肩の力を抜いて、お付き合いいただければ嬉しいです。

 十年という歳月は、長いようでいて、振り返れば驚くほど早い。


 モルヴェン公爵領の空は、その日よく晴れていた。春の終わりに近い陽の高さで、風は強くない。館へ続く石畳の脇では、刈り込まれた低木の上を白い蝶がふらつくように飛んでいる。


 門前に止まった馬車から先に降りたのは、ザルクだった。歳を取ったぶんだけ肩や首回りに厚みは出たが、動きはまだ鈍くない。続いて降りたイレーネは、旅の埃をまとっていても妙に崩れず、昔より少し落ち着いた色の衣を着ている。最後に、小さな手が馬車の縁に乗った。


「降りるー」


「待ちなさい。飛ぶな」


「飛んでないもん」


 ザルクが脇へ手を伸ばす前に、その子はひょいと飛び降りた。膝を少し曲げて衝撃を逃がすあたりが、王宮育ちの姫ではない。六つにしては体幹が妙にしっかりしている。


 イレーネがため息をつく。


「ほら見なさい。そういう降り方を覚えるのよ、アンタが甘いから」


「俺のせいか?」


「九割そうね」


 ザルクは納得していない顔をしたが、反論はしなかった。その代わり、娘の頭へ無造作に手を乗せる。


「ルティア、走るなよ」


「まだ走ってないー」


 第2王女ルティア・ゼルバートは、父を見上げてそう言ったあと、きらきらした目で館を見た。王宮の白い石とは違う、地に足のついた重い館だ。背後には訓練場の土の匂いがある。正面玄関の脇には、花壇より先に剣の鍛錬用に使う木製人形が見えていた。


「ここが義姉さまの家?」


 そう問われて、イレーネが口元を緩める。


「そうよ。正確には義姉さまの領地、かしらね」


「つよそう」


「強いわよ」


 イレーネはさらりと言った。その響きに、少しだけ愉快そうなものが混じる。ザルクも鼻を鳴らした。


「お前、失礼言うなよ」


「まだ言ってないもん」


「思っただろ」


「ちょっとだけ」


「思ってんじゃねえか」


 そんなやり取りをしているうちに、玄関が開いた。


 最初に出てきたのは、館の使用人ではない。モルヴェン公爵、ヴァルメラ・モルヴェンその人だった。


 十年前と比べても、印象は大きく変わらない。背は高くない。151ほどの身丈に、柔らかな丸みと剣を振るうための芯が同居した身体が乗っている。胸元は豊かで、腰は締まり、立った姿は小柄という言葉だけでは収まらない圧を持つ。目元は笑っているのに、その足の開き方と肩の置き方には隙がない。


「いらっしゃいませ、義父様、義母様」


 まず二人へそう呼びかけてから、ヴァルメラはルティアを見た。


「その子が第2王女?」


「そうよ」


 イレーネが答えると、ルティアは一歩前へ出た。緊張はしていない。だが、無遠慮でもない。ちゃんと相手の空気を測っている。


「あ、義姉さま、こんちわー」


 イレーネがすぐに目を細める。


「挨拶」


「してるもん」


「雑」


「……こんにちは、義姉さま」


 言い直したルティアに、ヴァルメラはふっと笑った。


「こんにちは、第2王女殿下」


「ルティアでいいよ」


「じゃあルティア。私はヴァルメラでいい」


「怒られない?」


「怒られたら私が怒り返すわ」


 ザルクが吹いた。イレーネは案の定、その脇腹を軽く小突く。


「義娘に変なこと教えない」


「別に変じゃないでしょ」


「変よ」


 やり取りを聞いていたルティアが、もう笑っている。人見知りより先に面白がるあたりも、王宮育ちではない。


 ヴァルメラはそこで、ザルクとイレーネの後ろを見た。


「アストル呼ぶ?」


「先に顔だけ見せろ。どうせ館のどっかで働いてんだろ」


「ええ。さっきまで訓練場でルカと木剣振ってた」


 その返答に、ザルクの口元がにやりとした。


「はは。板についてきたな」


「ええ、だいぶ」


 ヴァルメラがそう言ったところで、館の中から足音が近づいてきた。先に現れたのは子どもたちだった。


 長女がまず出てくる。九つ。母より背はまだ高くないが、姿勢に妙なきちんと感がある。髪はまとめられ、視線は落ち着いている。

 その後ろに次女、三女と続き、最後に少し遅れて長男が顔を出した。五つの男の子は、さっきまで外にいたらしく頬にうっすら土がついている。


 ヴァルメラが振り返る。


「挨拶」


 すると長女が一歩前へ出た。


「初めまして。イザベラ・モルヴェンです」


 次女が続く。


「マリーナ・モルヴェンです」


 三女は少しだけ元気よく頭を下げた。


「セシリア・モルヴェンです」


 最後に長男が、母と姉の顔をちらちら見てから胸を張る。


「ルカ・モルヴェン!」


「名字まで言えて偉い」


 ヴァルメラがそう言うと、ルカは満更でもない顔をした。


 ルティアは四人を見回してから、すぐに目を丸くした。


「いっぱい居る」


「いるわよ」


 ヴァルメラは当然のように言う。


「すご」


「そう?」


「うん。すご」


 イザベラはそのやり取りを見て、少しだけ笑った。長女らしい落ち着きがある。マリーナは好奇心を隠さずルティアを見ている。セシリアはもう半歩近づきかけていて、ルカは「誰だろう」という目でじっと見ていた。


 その時、館の中からもう一つ足音がした。


「父上、母上」


 アストル・ゼルバートが出てきた。


 十年は彼にもきちんと積もっていた。背は175ほどまで伸び、肩も以前より明らかに厚い。顔立ちそのものは若い頃のままだが、そこに乗る表情が違う。己を選ぶ側だと疑わなかった甘さはもう薄く、代わりに、毎日やるべきことをやってきた者の癖が滲んでいる。


 鍛えられたのだろう。

 身体だけでなく、生活も、役目も。


 ザルクは息子の姿を見るなり、楽しそうに目を細めた。


「おう。育ったな」


「……それ、会って最初に言う言葉か」


「他に何がある」


「普通は久しぶりだろ」


「元気そうじゃん」


「元気だから何だ」


「じゃあいいだろ」


 その会話に、ヴァルメラが笑う。

 イレーネは息子の顔をじっと見ていたが、やがて静かに頷いた。


「ちゃんと食べて、ちゃんと寝てる顔ね」


「それは母上に言われるとちょっと複雑だな」


「何でよ」


「昔の俺、そこ出来てなかったから」


「だから今できてるならいいじゃない」


 イレーネの返しはあくまで平然としている。だが、その平然さが、アストルをもう「失敗した王子」ではなく「家を持って立っている息子」として見ていることを物語っていた。


 アストルはそこで、ルティアへ目をやる。


「その子が……」


「ルティア」


 本人が先に名乗る。


「兄さま?」


「兄さまだな」


「ふうん」


 ルティアはそう言ったあと、少し近づいてアストルを見上げた。


「ほんとにいた」


「いたけど」


「なんか、思ったより普通」


 ザルクが大声で笑った。イレーネは肩を震わせながら扇もないのに口元を押さえ、ヴァルメラは遠慮なく吹く。アストルだけが眉を寄せた。


「普通で悪かったな」


「悪くないよ。普通の兄さまなんだなって」


 その言い方に毒はない。本当にそう思っただけなのだろう。だから余計に返しづらい。


 ルカがそこで、ようやくアストルの脚へ手をかけた。


「父」


「何だ」


「この子、叔母?」


「そうだ」


「ちっちゃい」


 今度はルティアがむっとした。


「そっちもまだちっちゃいじゃん」


「おれ五さい」


「わたし六さい」


「じゃあおねえさんか」


「そう」


 そこでルティアは胸を張った。マリーナとセシリアが顔を見合わせて笑い、イザベラはもう少しきちんと礼をし直した。


「叔母様、どうぞよろしくお願いいたします」


 ちゃんとした言い方に、ルティアは一瞬だけ目をぱちぱちさせた。自分の雑さに比べて、ずいぶんきれいな言葉だったからだろう。それでもすぐに頷く。


「うん、よろしく」


 ヴァルメラが、そのやり取りを見ながら肩をすくめる。


「王宮育ちじゃないから、その辺は緩いわよ」


「見れば分かる」


 アストルがそう返すと、ルティアはすぐにそちらを見た。


「でも剣ふれるよ」


「そうか」


「あと木登りできる」


「姫が自慢することじゃないな」


「でもできる」


 言い切る顔が妙に誇らしげで、アストルはとうとう苦笑した。


「……まあ、それは別にいい」


 ザルクが息子の横顔を見て、にやっとする。


「余裕出たじゃねえか」


「父上は黙ってろ」


「反抗期か?」


「今さら来るわけないだろ」


「遅れて来るのもあるぞ」


 イレーネがまたザルクを小突いた。


「何でも茶化さない」


「茶化してねえよ」


「茶化してるわ」


 いつものやり取りだ。

 けれど、その“いつもの”の中へアストルが入って返していること自体が、以前とは違った。


 ヴァルメラはそこで少しだけ胸を張るようにして、しかし得意げすぎない声で言った。


「鍛えた甲斐がありましたわよ」


 ザルクが見る。


「どの辺が?」


「夜、私を倒すくらいですもの」


 沈黙は、一瞬だけだった。


 次の瞬間、ザルクが腹を抱えて笑い出す。イレーネもさすがに吹いた。ルティアは意味が分からずきょとんとしている。イザベラは分からないふりをし、マリーナは半分分からず、セシリアは完全に分かっておらず、ルカだけが「父すごいの?」という顔をしてアストルを見る。


 アストルは耳まで赤くした。


「お前それ今言う!?」


「言うわよ」


「子どもの前だぞ!」


「今さら何よ。どうやって出来たと思ってるの」


「せめて言い方を選べ!」


「選んだわよ。だいぶ」


 その言い分に、ザルクがまた笑い、イレーネは「ほんとに貴女は」と言いながらも目元を緩めている。


 ルティアは周囲を見回してから、ひそひそ声でルカに聞いた。


「何がすごいの?」


「わかんない」


「じゃああとで聞こう」


「だれに」


「兄さま?」


「やめといたほうがいいとおもう」


 その小声に、イザベラがとうとう堪えきれず顔を背けた。しっかり者の長女も、そこはまだ九つである。


 笑いが一段落すると、ザルクはようやく息を整えながらアストルを見た。


「まあでも、悪くねえ顔になった」


 今度は茶化しではない。

 王でも父でもない、もっと単純な男の目で見た言葉だった。


 アストルはそれを聞き、少しだけ視線を逸らす。昔ならここで不機嫌になっていたかもしれない。だが今は違う。


「そういうのはもう少し早く言えよ」


「早く言ってもお前に届かなかっただろ」


「……それはそうかもな」


 否定しなかった。そのこと自体が、十年だった。


 ヴァルメラがそこで、館の中を顎で示す。


「立ち話も何だし、中へどうぞ。義父様、義母様。あとルティアも」


「おう」


「入るー」


 ルティアはすぐに返事をしたが、その前にルカの袖を引いた。


「ね、あそぶ?」


 ルカは父と母を見た。

 ヴァルメラはもう笑っている。


「後でね。まず挨拶とお茶」


「はーい」


 その返事は揃っていた。

 ルカだけでなく、マリーナもセシリアも、いつの間にかルティアの近くへ寄っている。イザベラは一歩引いて見守る位置を取る。


 その光景を見て、イレーネが小さく息をついた。


「賑やかね」


「四人いるからな」


 ザルクが当たり前のように言う。


「王宮もそのうちこうなるわよ」


 ヴァルメラのその一言に、ザルクとイレーネが顔を見合わせる。

 まだ会っていない。

 けれど、王宮の方にも五人いる。


「……先にこっち見といて正解だったかもな」


 ザルクがそう呟くと、イレーネが呆れ半分に返した。


「何よそれ」


「心構え」


「今さら?」


「今さらだよ」


 そして一行は館の中へ入っていく。


 石壁の内側には、女公爵の家らしい整い方があった。飾りすぎず、だが粗くない。剣も帳簿も子どもの声も、全部が同じ家の中にある空気だ。


 グレイシアはいない。

 けれど、その姉が立ち、その元婚約者が夫としてそこにいて、四人の子どもが走り回っている。

 あの断罪劇の夜から流れ着いた先としては、ずいぶんまともで、ずいぶん幸せな景色だった。


 モルヴェン公爵領を発ったあと、馬車は南西へ向かった。


 王都へまっすぐ戻る道ではない。途中で聖女庁の別院へ寄るためだ。セルディア・ゼルバートは王宮にはおらず、正聖女としてその地に拠点を置いていた。王族の娘でありながら、王城の華やかさより、祈りと実務の場を選んだ女だった。


 ザルクは道中、珍しくあまり喋らなかった。

 疲れているわけではない。むしろ考えている時の顔だ。窓の外を眺めながら、時折だけルティアへ視線をやり、落ち着いて座っているかだけは確認する。イレーネはその様子を見ても何も言わない。長く連れ添った夫婦らしい沈黙だった。


 別院は高い塀と白い壁に囲まれていた。王宮のように飾り立てられてはいないが、隙がない。門前には花より薬草が多く、出入りする者の足取りも軽くはない。祈る場所であると同時に、何かを預かり、何かを戻す場所でもあるのだろうと分かる。


 馬車が止まると、白を基調とした衣の女官がすぐに迎えに出た。


「ようこそお越しくださいました、陛下、王妃殿下」


 まだそう呼ばれるのか、とルティアが父を見上げる。ザルクは小さく肩をすくめた。


「場所が場所だからな」


 女官はその横のルティアを見て、少しだけ目を細めた。


「第2王女殿下も」


「こんにちはー」


 ルティアはここでは一応きちんとした。イレーネが横から余計なことを言わなかったので、たぶんこれが本来の最低限なのだろう。


 通された先は、客を迎えるための広間ではなく、陽の入る長い部屋だった。壁際には書棚、中央には長机、その奥に祈祷用の台がある。香は焚かれているが強すぎず、薬草の乾いた匂いが混じっている。王女の部屋というより、働く女の部屋だ。


 先に姿を見せたのはセルディアだった。


 王家の娘らしい整った顔立ちはザルクにもイレーネにも通じるものがある。だが印象は二人とは違う。熱を外へ噴かず、内側へきちんと畳んでいる顔だ。笑えば柔らかいのだろうが、今は静かな目で両親を見る。肩口から裾へ落ちる衣は重くない。動きやすさを損なわない形に整えられている。


「父上、母上」


 その呼び方に、ザルクの肩が少しだけ落ちる。

 王ではなく父として呼ばれる時の、あの男特有の緩みだった。


「来たぞ」


「見れば分かります」


 セルディアはそう返しながらも、目元だけはわずかに和らいでいる。

 イレーネは娘の顔をひとつ見て、すぐに頷いた。


「元気そうね」


「ええ。そちらも」


 それからセルディアの視線がルティアへ落ちる。

 まだ会う回数は多くない。王宮ではなく旅の道中で育った末の妹だ。距離はあっても、薄くはない。


「大きくなったわね」


 ルティアは胸を張った。


「六さい」


「知ってる」


「じゃあ言わなくてもよかった?」


「言ってもよかった」


 そのやり取りを聞いて、イレーネが小さく笑う。ザルクは口の端だけで笑っていた。


 セルディアはそこで、父の手元にある細長い布包みを見た。


「それは?」


「土産」


 ザルクは簡潔に言って、包みを長机へ置いた。

 乱暴に見えて、置き方だけは妙に丁寧だ。中身が軽くないものだと分かる。


 セルディアが目で促すと、ザルクが布を解く。現れたのは、古い意匠の指輪だった。


 石は大きくない。だが台座の細工が異様に緻密で、輪の内側にごく薄く古い文字が走っている。祭礼用の飾りではない。もっと実務的な、何かの機能を持った道具の顔だった。


 セルディアは指輪を見たまま、少しだけ目を細める。


「どこで」


「第五階層の奥」


 ザルクが答える。


「石棺の横に転がってた」


「転がってた、で済ませる物ではないでしょう」


 セルディアの返しはいつも通りだった。

 たしなめるが、怒ってはいない。


 イレーネが横から補う。


「祈りか結界に使う型ですわね。王宮に置いておくより、アンタのところの方が生きると思って持ってきたの」


「……そう」


 セルディアはそこで初めて、少しだけ素直に嬉しそうな顔をした。

 父の持ち帰る物は、剣か酒のどちらかだと思っていたのかもしれない。あるいは、そういう顔をしている両親のくせに、ちゃんと自分の役目に合う物を選んでくることを知っているからこその反応か。


「ありがとうございます」


「おう」


「礼はちゃんと言えるんだな」


 イレーネが小さくザルクを見る。

 ザルクは咳払い一つで流した。


 その時、部屋の奥の扉が静かに開いた。


 白い衣を着た女が一人、書板を抱えて入ってくる。

 足音が軽い。けれど浮ついてはいない。

 目元の線は以前より締まり、姿勢も変わっている。身体つきも少し絞られていた。だが、小柄なままの柔らかさはまだ消えていない。胸元の線は布越しにも丸い。かつて男たちがそこばかり見ていた名残が、今も身体にはある。けれど、その置き方が違っていた。


 フェミナ・ユールだった。


 彼女は部屋へ入ってすぐ、ザルクとイレーネの姿を認めて足を止めた。驚きは一瞬だけだ。次にはもう、ちゃんと礼を取っている。


「ご無沙汰しております」


 かつてのような甘えた響きはない。

 声はまだ柔らかいが、他人へ預けるための揺らぎではなく、自分で立つための柔らかさになっている。


 セルディアは何も言わない。ただ、彼女がここへ入ることを当然のように受けている。その距離がもう出来ている。


 フェミナはまずセルディアの机脇へ書板を置いた。そこまでしてから、あらためてザルクとイレーネへ向き直る。


「その節は、至らないわたくしで申し訳ありませんでした」


 短い謝罪だった。

 どこにも逃がさない。

 昔なら、ここに「でも」や「怖かった」が挟まっただろう。今はない。


 ザルクはその言葉を聞いて、少しだけ眉を動かした。だが引きずらない。


「あ? なんだそんなの、もういいぞ」


 軽く流す。

 責めるつもりは最初からなかったのだろう。今の姿を見て、そこへ戻る気もない。


 そしてザルクはセルディアを見る。


「怖かったろ、こいつ?」


 セルディアは父を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「何年経っても雑な父親だわ……」


 その一言に、イレーネの口元が緩む。ザルクも、むしろ満足そうだった。娘にそう言われる位置に、自分がいることが分かっている。


 フェミナはそこで小さく息を吐いた。

 緊張が解けた、というより、ちゃんと受け取られたことで肩の力が抜けたのだろう。


 セルディアは机の上の指輪を指で転がしながら、何でもないことのように言った。


「そろそろ誰かとつけばいいのに」


 フェミナが瞬く。


「私が身を固めるまでは傍に、と言って離れないのよ」


 イレーネがそこで初めて、少しだけ目を上げた。

 事情を知っている顔ではない。だが、娘の言い方から何かを読む程度には、親として付き合いが長い。


 セルディアはさらに続ける。


「もうこの子娶ればいいのかしらね?」


 フェミナの肩がぴくりと揺れた。

 けれど否定はしない。

 セルディアの言葉を遮らず、きちんとそのまま受けている。


 ザルクがそこで短く息を吐く。


「矯正してくれとは思ったが、落とせとは言ってないんだがな……」


 その言い方には呆れもあるが、拒絶はない。

 イレーネが横で、まるで当然のように言う。


「アンタの娘よ」


 それだけで十分だった。

 セルディアがどういう女かを、一言で片づけるには足りる。


 ザルクは小さく肩をすくめる。


「まーいい」


 そこで一度、フェミナとセルディアを見比べた。


「博愛に満ちた結論だわ」


 セルディアは即座に返す。


「その言い方が一番軽いのよ」


「軽く言わんと面倒だろ」


「面倒にしてるのはたいてい父上です」


「それは否定できん」


 ザルクはそのまま机上の指輪へ顎をしゃくった。


「その指輪で交換しとけ」


 セルディアが一瞬だけ止まる。

 ザルクは続けた。


「子はどーするか知らんが、いなくてもそれはそれ。貰うなり、誰かから種貰ってもいい。何とかしろ」


 その言い方に、フェミナは少しだけ目を伏せた。驚いてはいる。だが、この国の価値観から完全に外れた話ではない。セルディアもそこでは動じない。


「ほんと雑……」


 呆れたように言ってから、セルディアはフェミナを見る。


「ま、どうするの? 貴女」


 問われたフェミナは、少しも取り繕わなかった。

 昔のように、誰かの顔色をうかがって有利な答えを探す目ではない。静かに、まっすぐセルディアを見る。


「はい、ずっとお傍に」


 その返事は短い。

 だが、迷いがなかった。


 セルディアは頷く。


「そう。ならそれでいいわ」


 それから、ごく自然な調子で言葉を継ぐ。


「種は、貴女の兄弟に頼みましょうか」


 フェミナは一瞬だけ目を見開いた。

 けれど、それも予想の外というだけで、拒絶の表情ではない。


「元々、王子へ向いていたでしょう。なら構わないわね」


 その言い方に、かつての打算を責める棘はない。

 ただ、事実としてそうだったから、そこを使うだけという整理の仕方だ。


 ザルクがそこで口を挟む。


「お前、あの女説得できんのか?」


 “あの女”が誰を指すかは明白だった。

 グレイシアである。


 セルディアは平然としている。


「ま、弟は元サヤですもの。義姉はそれくらい大したことでは無いでしょ」


 言いながら、少しだけ笑った。


「大きくて広い器だもの」


 イレーネが、その言い方にほんの少しだけ目を細める。

 母として聞けば、意味は一つではない。だが、別に咎めるほどでもないらしい。


 ザルクは「そういうの見てても悪くないわ」とでも言いたげな顔をしたが、イレーネが先に軽く肘を入れた。


「やめなさい」


「まだ何も言ってねえだろ」


「顔が言ってる」


 フェミナは、少しだけ困ったように、それでも以前のようには揺れずに立っていた。

 セルディアがその横顔を見て、最後に柔らかく言う。


「じゃ、これからもよろしくね。フェミナ」


「はい」


 返す声は静かだ。

 けれど、その静けさの中に以前のような空洞はもうない。


 ルティアはその一連のやり取りを、半分も分からないまま見ていた。

 それでも空気だけは読むのか、途中で余計な声は出さない。最後になってから、ようやくイレーネの袖を引いた。


「母」


「なに」


「セルディア姉さま、強いね」


「ええ」


 イレーネは短く答えた。


「娘ですもの」


 その言い方に、セルディアは小さく息だけで笑った。

 ザルクは娘の横顔を一度だけ見て、それから指輪の入っていた布を適当にたたむ。


「ま、いいや。孫は楽しみにしとくけど」


 セルディアが額に手を当てる。


「だから父上は」


「いいだろ別に」


「よくないわよ」


 いつものような言い合いだった。

 けれど、そのいつものの中へフェミナも立っている。

 かつて王子の隣へ上がろうとした小柄な聖女は、今は正聖女の娘の傍で、自分の場所を持っていた。


 ザルクはそこで立ち上がる。


「よし、顔見たし次行くか」


「次、って」


 イレーネが呆れ混じりに見る。


「王宮だろ」


「ええ、そうね」


 セルディアはそこで、父母と、それから末の妹へ視線を巡らせた。


「グレイシアにもよろしく」


「言われなくても言うわ」


 イレーネが返す。

 ザルクはもう踵を返している。こういう時だけ無駄がない。


 ルティアは去り際に、フェミナへ向かって手を振った。


「またねー」


 フェミナは少しだけ驚いてから、ちゃんと手を振り返した。


「ええ。また」


 その“また”が自然に出ること自体が、たぶん一つの答えなのだろう。


 別院を出る時、ザルクは空を見上げた。日が少し傾き始めている。王宮へ戻るには、ちょうどいい頃合いだった。


「さて」


 その一言だけで、次へ向かう気配が馬車の周りへ広がる。


 イレーネはルティアを先に乗せながら、静かに言った。


「王宮ね」


「おう」


「賑やかでしょうね」


「五人いるからな」


 ザルクの返事に、イレーネがわずかに笑う。


 そうして一行は、王宮へ向かう。


 王宮へ着いたのは、陽が少し傾き始めた頃だった。


 石造りの正門は、ルティアが知っているどの門よりも高かった。旅の途中で泊まった砦も、山あいの古城も、それぞれに大きかったが、王宮の門は“高い”というより“人を通して選ぶ”顔をしている。白い石が夕方の光を受けて淡く色づき、その前へ整列した近衛たちは、一歩も崩さない。


 馬車が止まると、ザルクが先に降りた。続いてイレーネが裾を整えながら降り、最後にルティアが顔を出す。


「ここ?」


「ここよ」


 イレーネがそう答えると、ルティアは門の向こうを覗き込んだ。


「でっか」


「そうね」


「兄さまと義姉さま、ここに住んでんの?」


「ええ」


 その返事を聞いても、まだ現実味がないらしい。ルティアはふうん、とだけ言ってから飛び降りようとし、ザルクに襟元を軽く引かれた。


「だから飛ぶな」


「もう着いたじゃん」


「着いた直後が一番見られてんだよ」


「見られてるの?」


「見られてる」


 ルティアはそこでようやく周囲を見た。門前の近衛だけではない。少し離れた位置に控える侍従たち、奥の回廊へ立つ女官、二階の窓からちらりと動いた人影。たしかに見られている。


「……ふーん」


 分かったのか、分からないのか微妙な返事をして、今度はきちんと降りた。イレーネがその肩を整えながら言う。


「挨拶はきちんと」


「はいはい」


「返事」


「はい」


「語尾を抜かない」


「はい」


 そこまでやって、ようやく通された。


 王宮の中は、別院ともモルヴェン公爵領とも違った。整っている。だが、ただ静かなのではない。遠くで子どもの笑い声がして、近くでは書類を運ぶ足音がして、その上に香が薄く重なっている。よく研がれた刃のような場所ではなく、大きな家そのものがそのまま機能している匂いだった。


「うるさくない」


 ルティアが小さく言う。


 ザルクが聞き返す。


「何がだ」


「もっと、しーんってしてるかと思った」


「そりゃ夜中なら静かだろうよ」


「そうじゃなくて」


 ルティアは言葉を探して、結局こう言った。


「ちゃんと人がいる音する」


 イレーネが少しだけ目を細めた。

 その感じ方は悪くない、とでも思ったのだろう。


 案内された先は、表の謁見室ではなかった。王族の私的な応接間に近い、だがそれでも広く、光の入る部屋だ。壁際には書棚と地図、奥には低い机、手前には客を迎える長椅子。形式だけの部屋ではなく、実際に人が出入りしている場所だと分かる。


 部屋へ通される前に、侍従が一度だけ立ち止まった。


「女王陛下と王配殿下へお取り次ぎいたします」


 その言い方に、ルティアが一瞬だけ固まる。


「女王陛下」


 小さく繰り返す。

 義姉さま、で頭の中に置いていた相手へ、いきなりそれが重なるのだ。六つには少し大きい。


 ザルクがその頭を軽く撫でた。


「ビビんな。増えてるだけで中身はそんな変わらん」


「父上、その言い方はだいぶ雑よ」


 イレーネが即座に言い直した。

 だが、ルティアの肩から力が少し抜けたのはたしかだった。


 扉が開く。


 先に視界へ入ったのは、グレイシア・モルヴェンだった。


 ルティアは思わず足を止めた。


 強い、と思う。

 それは怖いとは少し違う。背筋の伸び方、顎の角度、視線の置き方。そのどれもが静かなのに、部屋の中心がそこにあると分かる。長い手足と均整の取れた身体が立つだけで絵になっている。装いは華美ではない。だが削りすぎてもいない。見せるためではなく、受け止めるための姿だ。


 その横に立つ男へ、ルティアは次に目をやった。


 リオネル・モルヴェン。

 兄だ、と頭では知っていたが、目の前に立つと少し意外だった。もっと柔らかい顔を想像していたのに、思っていたより肩が広く、立ち方が外向きだ。けれど、目元だけがまだ少し若い。強くなったのに、嫌な硬さがない顔だった。


 その二人が、同じ部屋の中で無理なく並んで立っている。


 ルティアはその光景を見て、しばらく何も言えなかった。


 最初に口を開いたのはグレイシアだった。


「あら義父様?」


 視線が、ザルクではなくルティアへ一度落ちる。

 その一目で全部見たのだろう。年頃も、旅の匂いも、王宮育ちではない足の運びも。


「全て丸投げしておいて精が出ますこと」


 ザルクが鼻を鳴らす。


「いや、冒険中はな。襲って来るんだわ、こいつがよ」


 イレーネがすぐ横から返す。


「暴れ足りない分ぶつけてるだけだし……ですわ」


 グレイシアはそのやり取りの間も、視線をルティアから外さない。観察しているのに、値踏みというほど冷たくはない。その絶妙な目に、ルティアは少しだけ居心地が悪くなった。


 だが、次の瞬間にはもっと別の緊張が来る。


 ――挨拶。


 イレーネに言われたことが遅れて胸へ来たらしい。ルティアは一歩前へ出た。背筋を伸ばしたつもりだったが、たぶん少しだけ肩が上がっている。


「あ、義姉さまこんちわー」


 言ってから、しまった、と思った。

 横でイレーネの気配が変わったのが分かる。


 だがルティアは止まれず、そのままリオネルも見た。


「あと兄さまも」


 ほんの一拍、部屋が止まった。


 次に聞こえたのは、グレイシアの声だった。


「緩いですわね義父様?」


 責めるというより、確認に近い声音だ。

 ザルクはまるで待っていたように肩をすくめる。


「荒くれの中で育ててんだ。仕方ないだろよ」


 イレーネが軽く息を吐いた。


「ま、この子もいるししばらくここにいるわ」


 そこでようやく、グレイシアの口元がわずかに動いた。笑った、とまでは言えない。けれど完全な無表情でもない。


「うちの次男と同い年くらいですわね」


 ルティアを見たまま言う。


「まーいいでしょう」


 その一言で、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。


 リオネルはそこで初めて、兄としてルティアへ向き直った。


「こんにちは」


 その言い方が意外に普通で、ルティアはぱちぱちと瞬いた。

 王配だとか王の兄だとか、そういうものを一旦全部置いて、ただ兄として声をかけてきたからだ。


「……こんにちは」


「長旅だったろ」


「うん」


「疲れてる?」


「まだへーき」


「そう」


 リオネルはそれ以上、子ども扱いしすぎることもしなかった。

 その距離の取り方が、ルティアには少しだけ楽だった。


 グレイシアはすでに別の方へ意識を向けている。部屋の奥へ視線を送ると、扉の向こうで控えていた気配が動いた。


「呼びなさい」


 短い指示だった。


 ほどなくして、ぱたぱたと軽い足音が重なる。

 ルティアが振り向くより少し早く、子どもたちが部屋へ入ってきた。


 先頭は長女だった。八つ。母に似た整った立ち方をしている。まだ幼いのに、すでに部屋の空気を見て、自分が先に出るべき位置だと分かっている顔だった。

 その後ろに長男、次男と続き、最後に手をつないだ双子の娘が揃って顔を出す。


 五人。

 さっき公爵領で四人を見たばかりなのに、また増える。

 ルティアはもうそれだけで少し笑ってしまいそうだった。


 グレイシアが子どもたちを見る。


「挨拶なさい」


 長女が一歩前へ出る。


「初めまして。エレノア・モルヴェンでございます」


 落ち着いた声だ。

 続いて長男が胸を張る。


「ヴィクトル・モルヴェンです」


 次男は少しだけ前のめりに出た。


「レオ・モルヴェン!」


 双子はぴたりと揃って礼をした。


「リュナです」

「ミレイアです」


 ルティアは五人を見回して、それから思わず口に出した。


「いっぱい居る」


 双子がすぐに顔を見合わせる。

 その反応があまりにも早くて、リオネルが小さく笑った。


「そこはもう二回目だな」


「だってほんとにいるし」


 ルティアがそう言うと、次男のレオが一歩前へ出てきた。六つ。自分と同じ年頃。目がよく動き、じっとしていないが、落ち着きがないわけでもない。たぶん一番捕まりやすい子だと、ルティアは本能で思った。


「叔母さま?」


 ルティアは頷く。


「そう」


「へえ」


「なに」


「思ったよりちっちゃい」


 今度はルティアがむっとする番だった。


「そっちも同じくらいじゃん」


「僕、六つ」


「わたしも六つ」


「じゃあ同い年か」


「そう」


「ふうん」


 そのやり取りを、双子は面白そうに見ている。エレノアは少し困ったように弟を見たが、止めない。ヴィクトルは黙ってルティアを観察していた。年長の男の子らしい、少し引いた目だ。


 グレイシアはその一連を見て、こめかみへ指先を当てるでもなく、ただ淡々と告げる。


「レオ」


「はい」


「叔母様に向かって“ちっちゃい”から入らない」


「でもほんとだし」


「事実でも、最初に言うことではありません」


 言葉そのものはきつくない。

 だが、そこで終わる。

 レオはすぐに姿勢を正した。


「……失礼しました、叔母様」


 ルティアは少しだけ胸を張り直す。


「うん、いいよ」


 その返しに、今度はヴィクトルが吹きかけた。

 リオネルが肩を震わせる。

 イレーネは口元を押さえ、ザルクは露骨に笑いそうになっている。


 グレイシアだけが、ひとつだけため息を飲み込んだ顔をした。


「まあよろしいですわ」


 その言い方で、もう全部許したと分かる。


 ルティアはそこで、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 王宮。

 義姉さま。

 王配の兄さま。

 五人の甥姪。

 全部が一気に来たわりには、思っていたより息がしやすい。


 たぶん、ちゃんと人がいる音がするからだ。

 公爵領でも思ったことと同じだった。


 双子がそろそろ限界らしく、ルティアの左右へ寄ってきた。


「いっしょに遊ぶ?」

「外行く?」


 ルティアはすぐにそちらを見る。


「行く」


「早いですわね」


 グレイシアが言う。

 だが声は止めるものではない。


 レオも前へ出る。


「僕も」


「だろうと思いましたわ」


 グレイシアのその返しに、リオネルがとうとう笑った。


「最初に捕まるの、やっぱりレオか」


「捕まるって何」


 本人だけが分かっていない顔をしている。

 ザルクはそれを見て楽しそうに目を細めた。


「まあいいじゃねえか」


「父上は黙っていてくださいまし」


 グレイシアの視線が飛ぶ。

 ザルクは肩をすくめたが、口元はまだ笑っていた。


 イレーネはそこでようやく長椅子へ腰を下ろす。


「ま、この子もいるししばらくここにいるわ」


 グレイシアは頷く。


「ええ。そう伺いました」


 そして、子どもたちを一度見渡したあと、最後にルティアへ目を戻す。


「よろしくてよ、第2王女殿下」


 ルティアは一瞬だけ姿勢を正した。

 さっきの「こんちわー」とは違う返事をしなければならないと、今度は分かったらしい。


「はい」


 短いが、ちゃんとした返事だった。


 それを聞いて、グレイシアはほんの少しだけ目元を和らげた。


 その瞬間、ルティアは思う。

 ああ、この人が義姉さまで、女王なんだな、と。

 強い。

 でも、ただ怖いわけではない。

 ちゃんと見て、ちゃんと置く人なのだと、六つなりに何となく分かった。


 その夜、王宮の灯りはいつもより少しだけ遅くまで落ちなかった。


 大広間ではなく、奥の家族用の食堂に人が集まり、長い卓の上には皿が並び、子どもたちの声が行き交う。エレノアが双子の皿を見てやり、ヴィクトルは黙って肉を切り分け、レオは落ち着きなくルティアへ話しかけ続ける。ルティアはそれに全部返しながら、時々グレイシアの方を盗み見た。女王は卓の端で静かに食事をしているのに、部屋のどこが崩れてもすぐ分かる顔をしている。だが、崩れる前にリオネルが先に拾い、双子は笑い、イレーネは呆れたように見守り、ザルクは満足そうに酒を口へ運ぶ。


 それは昔、断罪劇の夜に誰かが夢見ていた華やかな勝利の図ではなかった。もっと地に足がついていて、もっと騒がしく、もっと面倒で、だからこそずっと確かな景色だった。


 食後、子どもたちが先に奥へ引き上げ、レオだけが最後までルティアと何か言い合っていた。結局はエレノアに連れて行かれ、双子の笑い声も遠ざかる。ようやく部屋が少し静かになった頃、ザルクが椅子の背に体重を預けて息を吐いた。


「ま、悪くねえな」


 誰に向けたとも知れない一言だった。

 イレーネが横目で見る。


「何が」


「全部だよ」


 短い返しに、それ以上の説明は要らなかった。


 ヴァルメラのいる公爵領にも、セルディアのいる別院にも、そしてこの王宮にも、それぞれ違う音があった。けれどどこも止まってはいなかった。置き直された者たちは、それぞれの場所で生きていた。王には向かなかった息子も、浅かった聖女も、正しすぎて怖いと言われた令嬢も、みな別の形で立っていた。


 グレイシアは杯に少しだけ口をつけてから、義父を見る。


「丸投げの割には、満足そうですわね」


 ザルクは笑うでもなく答えた。


「回ってりゃいいんだわ」


 その言い方に、グレイシアはほんの少しだけ目を細めた。

 きっと最初から、この男はそこしか見ていなかったのだろう。誰が可愛いか、誰が正しいかではなく、最後に何が回るかだけを見ていた。荒くて、けれど要るところだけは外さないまま。


 リオネルがその横で、静かにグレイシアを見る。


「どうした」


「いえ」


 グレイシアは首を振る。

 そして、窓の外へ目をやる。夜の王宮は静かだ。だが静かなだけではない。灯りの向こうに、人の暮らしと仕事の気配が重なっている。


 あの夜会で終わらせなくてよかったと、今は素直に思えた。

 断罪で切って、破滅で閉じる方が簡単だったかもしれない。だがこの景色は、その簡単さの先にはない。


 王は退き、女王が立ち、王配が隣にいて、子どもたちが走り、元王夫妻はまたどこかへ行く。公爵領には女公爵とその夫がいて、別院には正聖女と最側近がいる。

 全部が少しずつ騒がしく、少しずつ不格好で、でもきちんと前へ進んでいる。


 それで十分だった。


 グレイシアは最後に杯を置き、静かに言う。


「では、明日も忙しいですわね」


 リオネルが笑う。


「終わらないね」


「終わりませんわ」


 そう返した声は、もう硬くなかった。


 王宮の夜は、そうして静かに更けていく。

 断罪劇のあとに残ったのは、破滅ではなく再配置だった。

 そして再配置された者たちは、それぞれの場所で、ちゃんと生きていた。


 それならきっと、この結末は悪くない。

もちろん。がっつりめで、そのまま貼れる形で置きます。


あとがき


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


本編の断罪劇を書いていた時から、この話は「断罪して終わり」ではなく、そのあとにどう置き直されるかまで見届けてこそだと思っていました。誰かが破滅して溜飲が下がる、という形ではなく、あの夜に露呈した歪みがそれぞれの場所で整理され、立つべき場所へ立ち直っていく。その先にある景色を書きたくて、この後日談を書きました。


本編で描いたのは、表向きには「聖女が王子に粉をかけていたから」というタイトル通りの構図です。けれど実際には、それだけで全部が壊れたわけではありません。王子の未熟さも、聖女の軽さも、周囲の見誤りも、そして悪役令嬢と呼ばれる側に押しつけられていた“正しさ”も、全部が噛み合って断罪劇になったのだと思っています。だからこそ、後日談では誰か一人を悪として吊るすのではなく、崩れたあとにどう生きるかを見たかったのです。


グレイシアは、断罪の場で勝ったから女王になったのではなく、元々そこに立てるだけの器があった人です。でも、器がある人間が必ずしも幸福になるとは限らないし、正しい人間がそのまま報われるとも限らない。そこは本編でも意識していました。だからこそ後日談では、彼女がただ「強い女王」で終わるのではなく、家族を持ち、騒がしい日常の中にいて、それでもなお芯を失わず立っている姿を書けたのは、自分としてもかなり好きなところです。強さがようやく孤独だけを意味しなくなった、そんな地点まで連れてこられたかなと思っています。


リオネルも同じです。本編時点では、見えている側でありながら年齢も立場も足りず、全部を止め切れる位置にはいませんでした。それでもちゃんと見ていたし、ちゃんと分かっていた。そういう子が十年を経て、グレイシアの隣に違和感なく立てる男になっているのは、この作品に必要な時間の積み重ねでした。派手に変わったというより、必要なものを吸い上げて、余計なものを削いで、ようやく並べるところまで来た、という感じです。こういう“育った男”を書くのはとても好きです。


一方で、アストルの十年も外せません。彼は本編で、王になる器としては足りませんでした。たぶん、あのまま玉座に近い場所へ置き続けたら、本人も周囲も不幸にしていたと思います。でも、だからといって人間として終わっているわけではない。立つ場所を間違えた男が、違う場所ではちゃんと夫になり、父になり、家を支えられるようになる。その再配置の象徴として、ヴァルメラとアストルの夫婦はこの話の中でとても大事な位置にいます。


ヴァルメラは本編からずっと書いていて楽しい人でした。小柄で、柔らかい丸みを持ちながら、立つと誰より隙がない。可愛らしさと圧が同居している女です。ああいう女が、自分より未熟だった男をきちんと鍛え、しかし見下すのではなく夫として横へ置いている関係が好きで、この後日談でもそこはかなり意識して書きました。アストルに対して遠慮なく言うのに、夫婦としてはちゃんと熱もあり、家としては回っている。その感じが出ていたら嬉しいです。


セルディアは、本編でも後ろに控えていたけれど、実はかなり強い女です。グレイシアが「表の裁定を下す強さ」だとすれば、セルディアは「自分の役目を引き受けて静かに運用する強さ」を持っています。王族でありながら王宮の中心にとどまらず、正聖女として別の場所に立っているのも、彼女の強さの形だと思っています。そして、そんな彼女の傍にフェミナがいる、というのが今回どうしても書きたかった一つでした。


フェミナは本編では軽く、浅く、見えているようで見えていない子でした。けれどあの子は、ただ悪辣なわけでも、ただ計算高いわけでもなく、弱さや未熟さのまま人の近くへ行ってしまう子だったと思っています。だからこそ、後日談では“誰かに許される”ではなく、“自分で立てるようになった上で、それでも誰かの傍を選ぶ”ところまで行かせたかった。セルディアの横にいるフェミナは、もう昔のフェミナではありません。そこが少しでも伝わっていたら嬉しいです。


そして何より、ザルクとイレーネです。


この二人は、本編でも相当好き勝手やっていましたが、後日談ではさらに楽しそうでした。王位を退いて身軽になったあと、またダンジョンへ潜って、土産を持って、娘を連れ回して、各地を見て回る。元王と元王妃としてはだいぶ自由ですが、この二人はたぶん、王である前からこういう人間だったのでしょう。豪快で、雑で、でも見るべきところだけは外さないザルクと、それを呆れながらもきちんと並んで支えるイレーネ。この二人が親世代としてまだ生きていて、各家の今を見に来るという構図は、後日談としてかなりしっくり来ました。


ルティアを入れたのも、そのためです。断罪劇の当事者たちだけで世界を閉じず、その先に生まれた子どもが、何も知らない目で今の景色を見る。その視点が入ることで、「もう全部終わった出来事」ではなく、「この国は続いていくのだ」という感覚が出る気がしました。六つの子どもに全部を理解させる必要はなくて、でも空気は分かる。強い人、優しい人、賑やかな家、ちゃんと人がいる音。その感覚だけで十分なのだと思います。


今回の後日談で自分が一番書きたかったのは、たぶん「幸福は静かに再配置された先にもある」ということです。断罪劇の物語は、どうしても切る場面が派手になります。誰を断じるか、誰が選ばれるか、誰が見限られるか。そこは確かに面白い。でも、そのあと本当に見たいのは、切られたあと、残されたあと、選び直されたあとに、人がどう生きるのかでした。この話はそこまで行けたので、自分の中ではかなり満足しています。


もちろん、本編の時点で感じ方はそれぞれだったと思います。グレイシアに肩入れしてくださった方もいれば、アストルの未熟さに呆れた方も、フェミナの軽さにいら立った方もいたはずです。その上で、この後日談を読んで、「ああ、ちゃんと皆それぞれの場所に落ち着いたんだな」と少しでも思っていただけたなら、とても嬉しいです。ざまぁの快感を強く押し出した話ではないぶん、最後にこの景色へ着地できたこと自体が、この作品の答えかなと思っています。


書いていて楽しかったのは、やはり各家で子どもたちがわちゃわちゃしているところでした。王宮も、公爵領も、別院も、それぞれ音が違う。でもどこも止まっていない。その違いを書くのはかなり楽しかったです。特にグレイシアの王宮が「冷たい宮殿」ではなく、「ちゃんと人がいる音のする場所」になっていたのは、自分でも好きな着地です。厳しさはあるけれど、それだけでは国は続かない。秩序の中に生活があり、生活の中に次代がある。その感じが出せていたら何よりです。


もしこの話を気に入っていただけたなら、本編と合わせて、断罪の夜から十年後までひと続きの物語として楽しんでいただければ幸いです。断罪劇は終わりではなく、あくまで分岐点でした。そして分岐の先で、誰がどこへ立つのかを見るのが、この作品の本当の面白さだったのだと思います。


改めまして、ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。 少し騒がしくて、不格好で、それでもちゃんと前へ進んでいる彼らのその後を、楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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