第八話 死にゆく者
増築の計画を立て始めてから、三日が経った夜のことだった。
遼太郎は、いつものように深夜の巡回をしていた。ナイトオーディターの習慣は、この世界でも変わらない。宿の隅々を確認し、異常がないかをチェックする。
「静かな夜だ」
彼は廊下の窓から、星空を見上げた。
二つの月が、青白い光を放っている。星々が、宝石のように輝いている。
その時だった。
「……助けを……」
かすかな声が、聞こえた。
遼太郎は耳を澄ませた。
「……誰か……」
声は、宿の外から聞こえてくる。弱々しい、今にも消えそうな声。
遼太郎は階段を駆け下り、玄関の扉を開けた。
夜の草原が、月明かりに照らされている。そして、その中に……
「人が倒れている」
遼太郎は走り出した。
玄関から数十メートル離れた場所に、一人の人間が倒れていた。男性だ。老人らしい。白髪が、風に揺れている。
「大丈夫ですか!」
遼太郎は膝をつき、老人を抱き起こした。
「……ありがとう……」
老人の声は、かすれていた。目は半ば閉じられ、呼吸は浅い。
「宿に運びます。待っていてください」
「いや……もう、いい……」
「何を言っているんですか。早く手当てを……」
「間に合わん……」
老人の手が、遼太郎の腕を握った。驚くほど弱い力だった。
「お前は……宿屋の者か……」
「はい。星降り亭の者です」
「星降り……ああ、そうか……」
老人の顔に、微かな笑みが浮かんだ。
「良かった……最期に……宿に辿り着けた……」
「最期なんて言わないでください。助けを……」
「聞いてくれ……」
老人の声が、さらに弱くなった。
「わしは……騎士だった……王国の……」
「騎士……?」
「戦で……傷を負った……もう、治らん……分かっておる……」
老人の目が、遼太郎を見つめた。
「わしは……ずっと……探しておった……」
「何を……」
「安らかに……眠れる場所を……」
遼太郎は言葉を失った。
「宿は……聖域だ……争いのない……安らぎの場所……わしは……そこで……眠りたかった……」
老人の声が、途切れ途切れになっていく。
「お前に……頼みがある……」
「何でもします」
「わしを……送ってくれ……次の場所へ……」
「次の場所……?」
老人の目が、静かに閉じられていく。
「頼む……」
そして、老人の手から、力が抜けた。
遼太郎は、老人を抱きしめたまま、動けなかった。
「……亡くなった」
彼は、声に出して呟いた。
自分の腕の中で、人が死んだ。それは、遼太郎にとって初めての経験だった。
「どうすれば……」
途方に暮れた、その時だった。
視界に、半透明の文字が浮かんだ。
【スキル発動確認】
・ウォーキング Lv.1 を発動しますか?
・対象:亡くなった騎士の魂
・効果:魂を「次の場所」へ安らかに送り届けます
【はい / いいえ】
遼太郎は、その文字を見つめた。
ウォーキング。
ホテル業界では、オーバーブッキングの際に客を他のホテルへ送ることを指す言葉。しかし、この世界では……
「次の場所へ、送る」
それは、魂を送ることを意味していた。
遼太郎は、心の中で「はい」を選択した。
その瞬間、彼の体が、淡い光に包まれた。
光は、遼太郎から老人へと流れていった。老人の体を包み込み、そしてゆっくりと天へと昇っていく。
遼太郎には、見えた。
老人の魂が、体から離れていく様子が。
それは、光の粒子となって、夜空へと溶けていった。まるで、星の一つになるかのように。
そして、遼太郎の耳に、声が聞こえた。
「……ありがとう……」
老人の声だった。
「……安らかに……眠れる……」
光は、完全に消えた。
後には、老人の体だけが残された。しかし、その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。苦しみも、悲しみも、全てが消え去ったような、安らかな表情。
遼太郎は、しばらくその顔を見つめていた。
「……これが、ウォーキングの本当の意味」
彼は、静かに呟いた。
客を「次の場所」へ送る。
それは、この世から去る者を、安らかに来世へと導くこと。
「ウォーキング」は、死者の魂を送り届ける力だったのだ。
「リョウ様!」
声がして、遼太郎は顔を上げた。
ゴブ爺が、ランプを持って走ってきた。セレスティアも、後に続いている。
「何があったのですか。光が見えて……」
ゴブ爺は、遼太郎と、その腕の中の老人を見た。
「この方は……」
「亡くなりました」と遼太郎は答えた。「宿の前で倒れていて……」
「そうでしたか……」
ゴブ爺の表情が、悲しみに曇った。
「しかし、その光は……まさか……」
「ウォーキングです」
遼太郎は言った。
「この方の魂を、次の場所へ送りました」
ゴブ爺が、息を呑んだ。
「ウォーキングを……本当に、使えるのでございますか……」
「はい。さっき、初めて」
ゴブ爺は、老人の顔を見つめた。
「穏やかなお顔でございます。苦しまずに、旅立てたのでしょう」
「そう願いたいです」
セレスティアが、遼太郎の隣に立った。
「リョウ……あなた、ウォーキングって……」
「分かりません。ただ、スキルの表示に従っただけです」
「スキルの表示……」
セレスティアは首を傾げた。しかし、それ以上は追及しなかった。
「とにかく、この方をお部屋に運びましょう」とゴブ爺が言った。「丁重に弔わなければなりません」
「はい」
三人は、老人の遺体を宿へと運んだ。
翌朝。
老人は、宿の裏庭に埋葬された。
村から何人かの人々が来て、簡素だが心のこもった葬儀が行われた。老人の名前は、アルバート。かつて王国の近衛騎士団に所属し、数々の戦いで武功を挙げた英雄だったという。
「アルバート卿は、有名な方でした」
葬儀に参列した村人の一人が言った。
「三年前の虚無帝国との戦いで、重傷を負って引退されたと聞いています。その後、どこで何をされていたのか、誰も知りませんでしたが……」
「この宿を、探していたのですね」
遼太郎が言った。
「星降り亭が、聖域であることを知っていたのでしょう。最期に、安らかに眠れる場所を求めて……」
村人は頷いた。
「騎士として、立派な最期だったと思います。宿に辿り着けて、良かった」
遼太郎は、墓標を見つめた。
木製の簡素なものだが、ゴブ爺が心を込めて作ったものだ。
「アルバート卿。安らかにお眠りください」
彼は深く頭を下げた。
四十五度。最敬礼。
葬儀が終わった後。
遼太郎は、食堂でゴブ爺と向き合っていた。
「ゴブ爺さん。ウォーキングについて、教えてください」
「はい」
ゴブ爺は深く頷いた。
「昨夜、リョウ様がお使いになったウォーキング。それは、この世界で最も神聖な力の一つでございます」
「神聖な力……」
「魂を、次の世界へと送り届ける力。それは、『創世の宿屋』の管理者だけが持つ特別な能力でございます」
遼太郎は黙って聞いていた。
「この世界では、死は終わりではありません。魂は、肉体を離れた後、『次の世界』へと旅立ちます。輪廻と呼ばれるものでございます」
「輪廻……」
「しかし、全ての魂が、スムーズに旅立てるわけではありません。未練を残した者、苦しみの中で死んだ者、暴力によって命を絶たれた者……彼らの魂は、しばしば迷い、苦しみます」
ゴブ爺の声が、低くなった。
「そのような魂を、安らかに次の世界へと導く。それが、ウォーキングの真の意味でございます」
遼太郎は、自分の手を見つめた。
「私は、そんな力を……」
「はい、お持ちでございます。そして、それは非常に稀有な力でございます」
「稀有……」
「この力を持つ者は、千年に一度現れるかどうかと言われています。最後にこの力を持っていたのは……」
ゴブ爺は言葉を切った。
「魔王様でございます」
遼太郎は顔を上げた。
「魔王……?」
「はい。千年前、この世界を救った偉大なる魔王様。彼もまた、ウォーキングの力を持っておりました」
遼太郎の頭の中で、様々な情報が繋がり始めた。
魔王。外の世界から来た者。ウォーキングの力。そして、世界を救った英雄。
「ゴブ爺さん。魔王は、このウォーキングの力で、何をしたのですか」
「千年前、この世界には『虚無の波』と呼ばれる災厄が訪れました」
ゴブ爺の目が、遠くを見つめていた。
「全てを飲み込み、消滅させる力。それに対抗できる者は、誰もいませんでした」
「誰も……」
「しかし、魔王様は立ち向かいました。そして、ウォーキングの力を使って、虚無の波を退けたのです」
「どうやって」
「分かりません。私にも、詳しいことは……」
ゴブ爺は首を振った。
「ただ、魔王様は言いました。『ウォーキングとは、終わりを始まりに変える力だ』と」
終わりを、始まりに変える。
遼太郎は、その言葉を心の中で繰り返した。
「魔王様が去った後、ウォーキングの力を持つ者は現れませんでした。千年の間、ずっと」
「千年……」
「そして今、リョウ様がその力を持って現れた。これは、偶然ではないと思います」
ゴブ爺の目が、遼太郎を真っ直ぐに見つめた。
「リョウ様。あなたは、この世界に何かを為すために来たのではないでしょうか」
遼太郎は答えられなかった。
自分が、何のためにこの世界に来たのか。それは、彼自身にも分からない。
「……分かりません」
彼は正直に言った。
「私は、ただの元ナイトオーディターです。世界を救うような力は……」
「力は、既にお持ちでございます」
ゴブ爺が言った。
「問題は、それをどう使うか、でございます」
遼太郎は黙った。
どう使うか。
その答えは、まだ見つからなかった。




