第六話 最初の客
依頼書を街に届けてから三日後。
その日は、朝から曇り空だった。
遼太郎は、いつものように夜明け前に起き、宿の点検と清掃を済ませていた。壁の修繕は順調に進み、食堂は見違えるほど綺麗になっている。
「今日は、来るかもしれないな」
彼は独り言を呟いた。
依頼書を見た冒険者が、いつ来るか分からない。今日かもしれないし、明日かもしれない。あるいは、誰も来ないかもしれない。
しかし、準備は整えておかなければならない。
「おはようございます、リョウ様」
ゴブ爺が、厨房から顔を出した。
「おはようございます。朝食の準備は?」
「整っております。パンと卵料理、そして野菜のスープ。シンプルですが、心を込めて作りました」
「ありがとうございます」
遼太郎は食堂を見回した。
テーブルには、白い布がかけられている。窓辺には、野花が飾られている。暖炉には、静かに火が燃えている。
「いい雰囲気ですね」
「お客様をお迎えする準備は、万端でございます」
ゴブ爺の言葉に、遼太郎は頷いた。
あとは、客が来るのを待つだけだ。
正午過ぎ。
遼太郎は、受付カウンターで帳簿をつけていた。
客が来なくても、やるべき仕事はある。在庫の管理、修繕の進捗確認、村との連絡。ナイトオーディターとして培った習慣が、彼の手を動かしていた。
「リョウ」
セレスティアが、階段を降りてきた。
「何ですか」
「誰か来たわ」
遼太郎は顔を上げた。
「来た?」
「外に、人影が見える」
遼太郎は立ち上がり、窓に駆け寄った。
確かに、草原の向こうに人影が見える。一人ではない。二人、いや三人か。ゆっくりと、こちらに向かって歩いてきている。
「冒険者だ」
セレスティアが言った。
「あの装備は、間違いない。剣と盾を持ってる」
遼太郎の心臓が、高鳴った。
来た。
本当に、来た。
「準備を」と彼は言った。「ゴブ爺さんを呼んでください。セレスさんは、部屋の最終確認を」
「分かったわ」
セレスティアは素早く動いた。遼太郎も、受付カウンターに戻り、身だしなみを整えた。
深呼吸する。
これが、最初の客だ。この客を満足させることができなければ、すべての計画は水の泡になる。
「リョウ様」
ゴブ爺が、厨房から出てきた。
「来ました」
「承知しております。お迎えの準備は整っております」
「ありがとうございます」
遼太郎は正面の扉を見つめた。
足音が近づいてくる。
扉が開いた。
「こんにちは。ここが、星降り亭ですか」
入ってきたのは、三人の若者だった。
先頭に立っているのは、赤い髪の女性。革鎧を身につけ、腰には短剣を下げている。その後ろに、金髪の男性と、黒髪の女性が続く。男性は大きな盾を背負い、女性は杖を持っている。
典型的な冒険者パーティだった。
「いらっしゃいませ」
遼太郎は、自然と笑顔を浮かべた。
「星降り亭へようこそ。ご予約のお客様でしょうか」
「ああ、いや」と赤い髪の女性が答えた。「予約はしてない。街のギルドで、護衛依頼の話を聞いてきたんだ」
「護衛依頼……ああ、あの依頼ですか」
「そうそう。報酬が宿泊券ってやつ。ちょうど辺境に用事があったから、ついでに寄ってみた」
「ありがとうございます。お待ちしておりました」
遼太郎は深く頭を下げた。三十度。敬礼。
赤い髪の女性は、怪訝な顔をした。
「変な奴だな。ただの宿屋なのに、そんなに丁寧にしなくてもいいぞ」
「いえ、お客様は大切です。どのような方であれ、最高のサービスを提供するのが、私たちの務めです」
女性は肩をすくめた。
「まあ、いいけど。で、部屋は空いてるのか」
「はい、ございます。本日は、どのようなお部屋をお求めですか」
「普通の部屋でいい。三人だから、できれば隣同士がいいな」
「承知いたしました。では、二階の三号室と四号室をご用意いたします」
遼太郎は受付カウンターの後ろにある鍵を取り、三人に差し出した。
「お食事は、夕方六時からご用意できます。ご希望があれば、お申し付けください」
「食事もつくのか。ありがたいな」
「はい。護衛依頼の報酬には、一泊二食が含まれております」
女性は満足そうに頷いた。
「じゃあ、部屋に案内してくれ」
「かしこまりました。どうぞ、こちらへ」
部屋に案内すると、三人は荷物を下ろして、さっそくくつろぎ始めた。
「いい部屋だな」と赤い髪の女性が言った。「思ったより、ちゃんとしてる」
「ありがとうございます」
「正直、もっとボロい宿を想像してたんだ。辺境の最果てって聞いてたから」
「以前は、少し傷んでおりました。最近、修繕を進めております」
「へえ。経営者が変わったのか?」
「いえ、私は……」
遼太郎は言葉を選んだ。
「新しく雇われた従業員です。宿の立て直しを任されています」
「へえ、大変だな」
女性は窓辺に立ち、外の景色を見つめた。
「確かに、いい眺めだ。草原が一望できる」
「夜になると、星がとても綺麗に見えます。『星降り亭』という名前の由来です」
「星か。楽しみだな」
女性は振り返り、遼太郎を見つめた。
「俺はカイラ。こっちが盾役のベン、こっちが魔法使いのミラ」
「お名前、頂戴いたしました。私はリョウと申します」
「リョウ……変わった名前だな。この辺の人間じゃないだろ」
「遠くから来ました」
「どこから?」
「とても遠くです」
カイラは肩をすくめた。それ以上は追及しなかった。
「まあいい。で、護衛の仕事は何だ? 依頼書には詳しく書いてなかったが」
「正直に申し上げますと、今は特に具体的な護衛任務はありません」
「は?」
カイラの眉がつり上がった。
「どういうことだ。仕事がないのに、依頼を出したのか」
「いいえ、仕事はあります。ただ、それは『来ていただくこと』自体が仕事なのです」
「意味が分からん」
遼太郎は正直に説明した。
「この宿は、客が来なくて困っています。旅人を呼び戻すために、冒険者の皆様に来ていただきたかったのです」
「つまり、俺たちに広告塔になれってことか」
「そう言っていただけると、ありがたいです」
カイラは呆れたような顔をした。
「変わった宿だな。そんな理由で依頼を出すとは」
「申し訳ございません。もし不快でしたら、別の宿をご紹介いたします」
「いや、そこまでは言ってない」
カイラは手を振った。
「正直、面白いと思った。こんな変わった依頼は初めてだ」
「ありがとうございます」
「で、俺たちに何をしてほしい? 広告塔って言われても、具体的に何をすればいいんだ」
「まず、ゆっくりお休みください」と遼太郎は言った。「そして、この宿のサービスを体験してください。食事、部屋、接客。すべてに、私たちは心を込めています」
「心を込めて……」
「はい。お客様に満足していただくことが、私たちの仕事です。満足していただければ、自然と噂は広がります」
カイラは遼太郎を見つめた。
「お前、変な奴だな」
「よく言われます」
「でも、嫌いじゃない」
カイラは笑った。
「分かった。お前のサービスとやらを、試してやる。期待してるぞ」
「ありがとうございます。ご期待に沿えるよう、精一杯努めます」
遼太郎は深く頭を下げた。
三十度。敬礼。
最初の客を迎えた。あとは、彼らを満足させるだけだ。
夕食の時間。
食堂には、カイラたち三人の冒険者が座っていた。
テーブルには、ゴブ爺が作った料理が並んでいる。焼きたてのパン、野菜のスープ、ローストした肉、そして季節の果物。
「これは……美味いな」
カイラが、驚いたように言った。
「ありがとうございます」とゴブ爺が答えた。「心を込めて、お作りいたしました」
「心を込めて……お前、さっきも言ってたな」
「はい。料理は、心でございます。素材の良し悪しよりも、作り手の心が、味を決めるのです」
カイラは首を傾げた。しかし、料理を口に運ぶたびに、その表情は柔らかくなっていった。
「確かに、美味い。こんな辺境の宿で、こんな料理が食べられるとは思わなかった」
「恐縮でございます」
隣に座っていたベンとミラも、黙々と料理を平らげていた。
「ベン、お前どう思う?」
「美味い。文句なしだ」
「ミラは?」
「同意。特にこのスープ、絶品よ」
カイラは満足そうに頷いた。
「よし。これなら、宣伝する価値はある」
遼太郎は、少し離れた場所から、そのやり取りを見守っていた。
「上手くいきそうですね」
隣に立っていたセレスティアが、小声で言った。
「まだ分かりません。大切なのは、最後まで気を抜かないことです」
「最後まで?」
「チェックアウトの瞬間まで、サービスは続きます。最後に不快な思いをさせれば、すべてが台無しになります」
セレスティアは、遼太郎の横顔を見つめた。
「あなた、本当に真面目ね」
「真面目というか……これが普通です。少なくとも、私がいた世界では」
「あなたがいた世界……」
セレスティアは何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
遼太郎は食堂に戻り、客たちの様子を確認した。
「お食事は、お口に合いましたでしょうか」
「ああ、最高だった」とカイラが答えた。「この宿、本気で良いな」
「ありがとうございます。お食事の後は、屋上にご案内いたします」
「屋上?」
「はい。今夜は晴れております。星が、とても綺麗に見えるはずです」
カイラの目が輝いた。
「星か。楽しみだ」
夜。
屋上に上がると、満天の星空が広がっていた。
「うわ……」
カイラが、思わず声を上げた。
「すごい。こんなに星が見えるなんて」
無数の星が、空を埋め尽くしている。天の川が、白い帯となって夜空を横切っている。二つの月が、青白い光を放っている。
「『星降り亭』という名の由来が、お分かりいただけましたか」
遼太郎が言った。
「ああ、分かる。これは……星が降ってくるみたいだ」
カイラは空を見上げたまま、しばらく動かなかった。
ベンとミラも、同様に空を見つめていた。
「私、こんな星空、初めて見た」
ミラが呟いた。
「王都じゃ、こんなに星は見えない。光が多すぎて」
「そうですね」と遼太郎は言った。「都会では、星は見えません。でも、ここなら」
「ここなら、見える……」
三人の冒険者は、長い間、星空を眺めていた。
遼太郎は静かに、その様子を見守った。
翌朝。
チェックアウトの時間が来た。
「お世話になった」
カイラが、受付カウンターの前に立った。
「ありがとうございました。ご満足いただけましたでしょうか」
「ああ、十分だ。正直、ここまでいい宿だとは思わなかった」
「恐縮です」
「約束通り、宣伝してやる。街に戻ったら、ギルドの仲間に話す」
「ありがとうございます」
遼太郎は深く頭を下げた。三十度。敬礼。
カイラは笑った。
「お前、本当に変な奴だな。でも、嫌いじゃない」
「ありがとうございます」
「また来るよ。次は、仲間を連れて」
「お待ちしております」
カイラたちは宿を出て、草原の向こうへと去っていった。
遼太郎は、その背中を見送りながら、ふと視界の端に浮かぶ文字に気づいた。
【通知】
・星核にエネルギーが補給されました。
・結界強度:3% → 5%
たった2%。
しかし、ゼロからの一歩だった。
「やりましたね、リョウ様」
ゴブ爺が、隣に立っていた。
「まだ始まったばかりです」
遼太郎は言った。
「でも、方向性は間違っていなかった。客を呼び、満足させ、感謝を得る。そのサイクルを回し続ければ、この宿は蘇ります」
「はい。私も、そう信じております」
セレスティアが、階段を降りてきた。
「どうだった?」
「上手くいきました」と遼太郎は答えた。「結界の強度が、少し上がりました」
「本当に?」
「はい。たった2%ですが……」
セレスティアの目が、わずかに潤んだ。
「2%……でも、それは……」
「ゼロよりは、マシです」
遼太郎は微笑んだ。
「さあ、次の客を迎える準備をしましょう。やることは、まだまだ山ほどあります」
彼は、受付カウンターに戻った。
帳簿を開き、数字を確認する。
新しい一日が、始まった。




