第三十七話 最終決戦前夜
クロノスとの対面から、三日が経った。
帝国内では、異変が起きていた。
「黒い霧が、広がっている……」
遼太郎は、窓の外を見つめながら呟いた。
皇城を中心に、黒い霧が帝都を覆い始めていた。虚無の力が、具現化しているのだ。
「虚無の波が、近づいている」
セレスティアが、遼太郎の隣に立った。彼女は、帝都に潜入し、遼太郎と合流していた。
「クロノスとの対話が、虚無を刺激したのかもしれません」
「どういうこと?」
「クロノスの心が揺らいだ。そのせいで、虚無の支配が不安定になっている。虚無は、それを抑えるために、力を増しているのだと思います」
「つまり、状況は悪くなっている……」
「短期的には、そうです。でも、長期的には……」
遼太郎は、セレスティアを見た。
「彼を救うチャンスが、生まれたということです」
「チャンス……」
「クロノスの心が揺らいでいるなら、そこに働きかけることができます。虚無の支配を、断ち切ることができるかもしれません」
「でも、どうやって」
「ウォーキングです」
遼太郎は、自分の手を見つめた。
「虚無に支配された魂を、解放する。それが、私のやるべきことです」
その夜。
遼太郎は、一人で皇城に向かった。
黒い霧の中を歩いていく。霧は、肌を刺すような冷たさだった。しかし、遼太郎は怯まなかった。
「クロノス……いや、黒須さん」
彼は、心の中で呼びかけた。
「もう一度、話をさせてください」
皇城の前に着くと、門は開いていた。
まるで、待っていたかのように。
遼太郎は、城内に入った。
謁見の間に向かう途中、誰にも会わなかった。近衛兵も、使用人も、誰も姿を見せない。
やがて、謁見の間に着いた。
扉を開けると、そこには——
「来たか、佐伯」
クロノスが、玉座に座っていた。
しかし、その姿は、三日前とは違っていた。
体から、黒い靄が絶え間なく立ち上っている。目は、虚ろに光っている。顔色は、死人のように青白い。
「黒須さん……」
「見ての通りだ。俺は、もう長くない」
クロノスの声は、掠れていた。
「虚無が、俺を飲み込もうとしている。あと数日で、俺は完全に消える」
「消える……」
「そうなれば、虚無は暴走する。世界は、滅びる」
遼太郎は、クロノスに近づいた。
「だから、私が来ました。あなたを救うために」
「救う、か。まだ言うのか」
「言います。何度でも」
遼太郎は、玉座の前に立った。
「黒須さん。一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「あなたは、なぜこうなったのですか」
クロノスは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……俺は、元の世界で、誰にも必要とされなかった」
「え……」
「優秀だったんだ。学校でも、会社でも。でも、誰も俺を見てくれなかった。結果だけを評価されて、人間として見てもらえなかった」
クロノスの目に、遠い光が宿った。
「だから、俺は人を道具として見るようになった。俺を道具として見る世界に、復讐するつもりで」
「復讐……」
「お前には、悪いと思っている。俺は、お前を使って、自分の鬱憤を晴らしていた」
「黒須さん……」
「この世界に来た時、俺は決めたんだ。今度こそ、俺が支配する側になる、と。誰にも、見下されない存在になる、と」
クロノスの声が、震えていた。
「でも、分かったんだ。支配すればするほど、俺は孤独になっていった。誰も、俺を見てくれない。誰も、俺を必要としてくれない。元の世界と、同じだった」
「……」
「そして、虚無に目をつけられた。俺の絶望を、虚無は喜んで飲み込んだ。俺は、虚無の器になった」
クロノスは、自嘲的に笑った。
「結局、俺は何も変われなかった。どこにいても、俺は孤独だ」
遼太郎は、クロノスの言葉を聞いていた。
彼は、怒りを感じなかった。代わりに、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「黒須さん」
遼太郎は、静かに言った。
「あなたは、間違っています」
「何がだ」
「あなたは、必要とされていなかったわけではありません」
「何を言っている……」
「私は、あなたを必要としていました」
クロノスが、目を見開いた。
「元の世界で、あなたは私の上司でした。確かに、厳しかった。時には、理不尽だと思うこともあった」
「……」
「でも、あなたから学んだことも、たくさんありました。数字の管理、危機対応、そして……仕事への姿勢」
遼太郎の目に、涙が浮かんだ。
「あなたは、誰よりも仕事に真剣でした。結果を求めるのは、それだけ真剣だったから。私は、それを尊敬していました」
「尊敬……?」
「はい。方法は間違っていたかもしれません。でも、あなたの情熱は、本物でした」
遼太郎は、手を差し伸べた。
「黒須さん。あなたは、一人じゃありません」
「……」
「私が、ここにいます。あなたを必要としている人間が、ここにいます」
クロノスの目から、涙が溢れた。
「なんで……なんで、お前は……」
「私は、宿屋の主人だからです。全ての客を受け入れる。それが、私の仕事です」
「俺みたいな人間も、か……」
「はい。あなたも、私の大切な客です」
遼太郎は、クロノスの手を取った。
「一緒に、やり直しましょう。この世界で」
クロノスは、遼太郎の手を見つめていた。
長い沈黙が流れた。
「……佐伯」
「はい」
「俺は……変われるだろうか」
「変われます。必ず」
「虚無を、止められるだろうか」
「止めましょう。一緒に」
クロノスの顔に、微かな笑みが浮かんだ。
「お前は、昔から変な奴だったな」
「よく言われます」
「でも……嫌いじゃなかった」
「私もです」
二人は、手を握り合った。
その瞬間、クロノスの体から、黒い靄が吹き上がった。
「ぐっ……」
「黒須さん!」
「虚無が……暴れている……」
クロノスの顔が、苦悶に歪んだ。
「お前を、飲み込もうとしている……!」
「させません」
遼太郎は、クロノスの手を強く握った。
「ウォーキングを、使います」
「ウォーキング……?」
「魂を救う力です。あなたの中から、虚無を追い出します」
「そんなことが……」
「できます。いえ、やります」
遼太郎の体が、光に包まれた。
「黒須さん。私を、信じてください」
「佐伯……」
「一緒に、戦いましょう」
光が、クロノスの体に流れ込んでいく。
最終決戦が、始まろうとしていた。




