第三十六話 裏切りの夜
改革を始めてから、二週間が経った。
その夜、遼太郎は皇城内の自室で、一人で過ごしていた。
窓の外には、黒い塔がそびえ立っている。クロノスの居城だ。
「そろそろ、動きがあるかもしれない……」
遼太郎は、呟いた。
ホテルの改革は、順調に進んでいる。スタッフは活気を取り戻し、客からの評判も上々だ。
しかし、それはクロノスの方針に反することでもあった。恐怖による支配を、遼太郎は真っ向から否定している。いつ、クロノスが介入してきてもおかしくない。
コンコン。
扉をノックする音がした。
「どうぞ」
入ってきたのは、バルドスだった。
「リョウ。話がある」
「何でしょうか」
バルドスは、扉を閉め、声を潜めた。
「皇帝陛下が、お前に会いたいと言っている」
遼太郎の心臓が、跳ねた。
「皇帝陛下が……」
「ホテルの改革のことを聞いたらしい。どういうつもりか、直接聞きたいと」
「……分かりました」
「怖くないのか」
「怖いですよ。でも、避けられることではありません」
遼太郎は立ち上がった。
「案内してください」
「待て。その前に、話がある」
バルドスは、遼太郎を真っ直ぐに見つめた。
「俺は、お前の味方だ」
「え……」
「この二週間、お前のやることを見てきた。スタッフが変わっていく様子を、見てきた。そして、俺自身も……変わった気がする」
バルドスの目には、強い決意が宿っていた。
「お前は、この国を変えられるかもしれない。俺は、それに賭ける」
「バルドスさん……」
「だから、俺はお前を守る。何があっても」
遼太郎は、その言葉に胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
「礼は、全部終わってからだ。行くぞ」
二人は、皇城の奥へと向かった。
長い廊下を歩き、いくつもの扉を通り抜けていく。
やがて、巨大な扉の前に着いた。
「ここだ。皇帝陛下の謁見の間」
バルドスが、扉を開けた。
中に入ると、そこは広大な空間だった。
高い天井、金の装飾、大理石の床。正面には、一つの玉座がある。
そして、その玉座に——
「来たか」
クロノス。いや、黒須剛志が、座っていた。
遼太郎は、五年ぶりに元上司の顔を見た。
黒い髪、鋭い目、冷たい表情。しかし、その顔には、以前はなかった疲労の色が見えた。目の下には隈があり、肌は青白い。
「久しぶりだな、佐伯」
クロノスが言った。
「はい。お久しぶりです、黒須……いえ、皇帝陛下」
「堅苦しいな。ここでは、二人きりだ。昔の呼び方でいい」
「……黒須さん」
クロノスは、玉座から立ち上がった。
「お前のホテルでの活動、聞いた。スタッフを焚きつけて、俺のやり方を否定している、と」
「否定しているつもりは、ありません」
「じゃあ、何だ」
「改善です。よりよいサービスを提供するために」
「サービス、か」
クロノスの口元が、歪んだ。
「お前は、昔からそればかり言っていたな。『お客様のために』『サービスの心』……くだらない」
「くだらなくはありません」
「くだらないさ。サービスなんて、奴隷の仕事だ。客は金を払う。俺たちは、その金を受け取る。それだけの関係だ」
「違います」
遼太郎の声が、強くなった。
「サービスは、人を幸せにする仕事です。お客様の笑顔を見るために、私たちは働いている」
「甘いな」
クロノスは、嘲笑した。
「そんなことを言っているから、お前はいつまで経っても底辺なんだ」
「底辺でも構いません。私は、自分の仕事に誇りを持っています」
「誇り……」
クロノスの目が、わずかに揺らいだ。
「お前は、何も分かっていない。この世界は、弱肉強食だ。強い者が勝ち、弱い者は踏みにじられる。それが、真理だ」
「それは、真理ではありません」
「黙れ!」
クロノスが叫んだ。
その瞬間、彼の体から黒い靄が立ち上った。
「お前みたいな奴が、俺に説教するな!」
黒い靄が、遼太郎に向かって襲いかかる。
「リョウ!」
バルドスが、遼太郎の前に飛び出した。
「バルドスさん!」
「逃げろ! 俺が時間を稼ぐ!」
「でも……」
「いいから! お前は、まだやることがある!」
バルドスは、剣を抜いて構えた。
「皇帝陛下。俺は、あなたに仕えてきました。しかし、今日……俺は、この男の側につきます」
「バルドス……お前もか」
「はい。この男は、俺に教えてくれました。笑顔の大切さを、人を幸せにする喜びを」
バルドスの目には、涙が浮かんでいた。
「俺は、もうあなたの駒にはなりません。自分の意志で、生きていきます」
「……愚かな」
クロノスの目が、虚ろになった。
「ならば、消えろ」
黒い靄が、バルドスに向かって放たれる。
「やめろ!」
遼太郎が叫んだ。
その瞬間、彼の体から光が溢れた。
ウォーキングの力だ。
光が、黒い靄を弾き返した。
「なっ……」
クロノスが、目を見開いた。
「お前、その力は……」
「私は、諦めません」
遼太郎は、クロノスを真っ直ぐに見つめた。
「あなたを、救います」
「俺を、救う……?」
「はい。あなたは、虚無に支配されている。でも、本当のあなたは、そうじゃないはずです」
「何を言っている……」
クロノスの顔が、歪んだ。
「俺は、誰にも支配されていない。俺が、支配する側だ」
「違います。あなたは、苦しんでいる」
遼太郎は、一歩近づいた。
「私には、見えます。あなたの心の中で、何かが暴れている。それを、抑えるのに必死になっている」
「黙れ……」
「黒須さん。あなたは、なぜあんなに冷たい人間になったのですか」
「……」
「元の世界で、何があったのですか」
クロノスの表情が、一瞬だけ揺らいだ。
「そんなこと……お前に関係ない」
「関係あります。私は、あなたの部下でした。そして、あなたに苦しめられました」
「……」
「でも、今は違います。私は、あなたを許したいと思っています。そして、あなたを救いたいと思っています」
「許す……?」
クロノスは、遼太郎を睨みつけた。
「お前に、俺を許す資格なんてない」
「資格は関係ありません。私は、宿屋の主人です。全ての客を受け入れる。それが、私の仕事です」
「客だと……?」
「はい。あなたも、私の客の一人です。嫌いな客も、苦手な客も、私は全員を迎え入れます」
遼太郎は、手を差し伸べた。
「黒須さん。一緒に、やり直しませんか」
クロノスは、その手を見つめていた。
長い沈黙が流れた。
「……くだらない」
クロノスは、遼太郎の手を払いのけた。
「お前の甘言に、騙されるものか」
「黒須さん……」
「俺は、自分の道を行く。お前も、好きにしろ」
クロノスは、謁見の間を去っていった。
残されたのは、遼太郎とバルドスだけだった。
「……行ってしまった」
バルドスが、呟いた。
「はい。でも、まだ終わりではありません」
遼太郎は、クロノスが去った方向を見つめた。
「彼の心には、まだ何かが残っている。諦めません」
「お前は、本当に……」
「宿屋の主人ですから」
遼太郎は、微かに笑った。
「全ての客を、幸せにする。それが、私の仕事です」




