第三十五話 サービスの本質
皇城に入ったのは、翌日のことだった。
近衛兵の男——彼の名はバルドスと言った——の案内で、遼太郎は城内に足を踏み入れた。セレスティアと他の仲間たちは、宿に残っている。一人で行くことを、遼太郎は選んだ。
「ここが、皇帝陛下のお抱えの宿だ」
バルドスが指し示した建物は、豪華な外観をしていた。金の装飾、大理石の柱、精緻な彫刻。しかし、その豪華さとは裏腹に、どこか冷たい印象を受けた。
「『絶対帝国ホテル』と呼ばれている」
「絶対帝国ホテル……」
遼太郎は、その名前に顔をしかめた。
「皇帝陛下が直接、設計と運営を監督されている。しかし、最近は客からの不満が多くてな」
「不満……」
「スタッフの態度が悪い、部屋が汚い、食事がまずい。そんな声が上がっている」
「なるほど」
建物の中に入ると、遼太郎の予感は確信に変わった。
確かに、設備は豪華だ。調度品は高価で、装飾は見事。しかし、それだけだった。
スタッフの表情は硬く、目は虚ろ。客を迎える声には、温かみがない。館内は、どこか埃っぽく、手入れが行き届いていない。
「いらっしゃいませ」
受付のスタッフが、機械的な声で言った。笑顔はなく、目を合わせることもない。
「これは……」
遼太郎は、心の中で呟いた。
「サービスの心が、完全に失われている」
バルドスが、支配人を呼んできた。
支配人は、五十代くらいの痩せた男だった。神経質そうな顔で、常に周囲を警戒するような目をしている。
「バルドス殿、この者は?」
「宿屋の専門家だ。このホテルの改善のために、協力してもらおうと思ってな」
「改善……?」
支配人の目が、疑わしげに遼太郎を見た。
「失礼ですが、皇帝陛下の許可は……」
「俺が責任を持つ。問題ないだろう」
「しかし……」
「いいから、案内してやれ」
バルドスの一言で、支配人は渋々と従った。
館内を案内されながら、遼太郎は様々な問題点を発見した。
スタッフの動きに統一性がない。清掃が行き届いていない。備品の補充が遅れている。そして、何より——スタッフ全員が、恐怖に支配されている。
「皇帝陛下は、ミスを許さない」
支配人がぼそりと言った。
「少しでも問題があれば、罰せられる。だから、みんな萎縮している」
「萎縮……」
「怒られないように、目立たないように。それだけを考えて働いている」
遼太郎は、その言葉に胸が痛んだ。
これは、まさに黒須のやり方だった。
恐怖で人を支配し、萎縮させ、自発性を奪う。結果として、形だけのサービスしか提供できなくなる。
「支配人さん」
遼太郎は言った。
「一つ、お願いがあります」
「何でしょうか」
「スタッフの皆さんを、集めていただけますか。少し、お話をしたいのです」
支配人は困惑した顔をしたが、バルドスの目配せを受けて、スタッフを集めた。
二十人ほどのスタッフが、ホールに集まった。
全員、不安そうな顔をしている。何を言われるのか、怯えている。
「皆さん、初めまして」
遼太郎は、穏やかな声で言った。
「私はリョウと申します。宿屋を経営しています」
スタッフたちは、黙って遼太郎を見ていた。
「今日は、一つだけお伝えしたいことがあります」
遼太郎は、一人一人の顔を見回した。
「それは、『サービスの本質』についてです」
「サービスの本質……?」
誰かが、小さく呟いた。
「サービスとは、お客様を幸せにすることです。それ以上でも、それ以下でもありません」
遼太郎の声は、静かだが力強かった。
「豪華な設備があっても、お客様が幸せにならなければ意味がない。完璧なマニュアルがあっても、心がこもっていなければ伝わらない」
「……」
「皆さんは、今、何を考えて働いていますか」
スタッフたちは、黙っていた。
「怒られないように、ミスをしないように。そう考えていませんか」
誰かが、目を伏せた。
「それは、間違いです」
遼太郎の声が、少し強くなった。
「サービスは、怒られないためにするものではありません。お客様を幸せにするためにするものです」
「でも……皇帝陛下が……」
一人のスタッフが、おそるおそる声を上げた。
「皇帝陛下のことは、私に任せてください」
遼太郎は、きっぱりと言った。
「今日から、皆さんは自分の心に従って働いてください。お客様の笑顔を見るために、何ができるか。それだけを考えてください」
「そんなこと言われても……」
「分からないなら、私が教えます。一緒に、お客様を幸せにしましょう」
遼太郎は、微笑んだ。
「大丈夫です。皆さんには、できます」
スタッフたちの表情が、わずかに変わった。
戸惑い、疑い、そして……微かな希望。
その日から、遼太郎は「絶対帝国ホテル」の改革に着手した。
まず、スタッフ一人一人と面談を行った。彼らの悩みを聞き、不安を和らげ、可能性を信じていることを伝えた。
「私なんかに、できるでしょうか」
若いメイドが、不安そうに言った。
「できます。私も、最初は何もできませんでした。でも、少しずつ成長しました。あなたも、きっと成長できます」
「本当ですか……」
「本当です。私を信じてください」
次に、基本的なサービスの訓練を行った。
お辞儀の角度、言葉遣い、笑顔の作り方。星降り亭で教えたことを、このスタッフたちにも伝えていく。
「いらっしゃいませ」
「もう一度。もっと心を込めて」
「いらっしゃいませ!」
「よくなりました。その調子です」
スタッフたちは、最初は戸惑っていた。しかし、繰り返すうちに、少しずつ変化が現れ始めた。
表情が柔らかくなった。声に温かみが出てきた。そして、何より——目に光が戻ってきた。
「リョウさん」
ある日、一人のスタッフが遼太郎に声をかけた。
「何でしょうか」
「今日、お客様から『ありがとう』と言われました」
「そうですか。それは良かったですね」
「今まで、一度もなかったんです。お客様から感謝されることなんて」
スタッフの目に、涙が浮かんでいた。
「なんか……嬉しくて」
「それが、サービスの喜びです。お客様の笑顔が、私たちの幸せになる」
遼太郎は微笑んだ。
「これからも、その気持ちを大切にしてください」
「はい!」
スタッフの顔が、輝いていた。
改革の噂は、少しずつ広がっていった。
「絶対帝国ホテルが、変わったらしい」
「スタッフが、笑顔で迎えてくれる」
「部屋も綺麗だし、料理も美味い」
客からの評判は、急速に上昇した。
そして、その噂は——皇帝クロノスの耳にも、届いていた。




