第三十三話 帝都潜入
虚無帝国への潜入計画は、慎重に立てられた。
「正面から入るのは、自殺行為です」
遼太郎は、地図を広げながら言った。
「国境は厳重に警備されています。冒険者や商人として偽装しても、すぐに怪しまれるでしょう」
「じゃあ、どうするの」
セレスティアが尋ねた。
「私たちの強みを活かします」
「強み……」
「宿屋です」
遼太郎は微笑んだ。
「虚無帝国にも、旅人はいます。そして、旅人には宿が必要です。私たちは、宿屋の視察団として入国します」
「視察団……」
「王国の宿泊業協会から派遣された、業界視察団。帝国の宿泊事情を調査し、友好関係を築くため、というのが表向きの理由です」
「でも、そんな偽の書類、用意できるの」
「アレクサンダー王子に頼みました。王家の紋章入りの正式な書類を、用意してもらっています」
セレスティアは感心した。
「あなた、本当に用意周到ね」
「ナイトオーディターは、緊急事態への対応が仕事ですから。常に、複数のプランを用意しておく癖がついています」
視察団の構成は、五人に決まった。
遼太郎、セレスティア、そしてアレクサンダー王子が選んだ三人の護衛。護衛は全員、冒険者ギルドの精鋭で、戦闘能力だけでなく、潜入任務の経験も豊富だった。
「出発は、三日後です」
遼太郎は言った。
「それまでに、帝国の情報を集めておきます」
「私も手伝うわ」
「ありがとうございます」
三日間は、情報収集に費やされた。
虚無帝国の政治体制、軍事力、主要都市、交通網。そして、皇帝クロノスについての情報。
「クロノスは、五年前に突然現れたと言われています」
ギルドの情報屋が語った。
「出自は不明。しかし、圧倒的な力で当時の皇帝を倒し、玉座を奪いました」
「五年前……」
遼太郎は考え込んだ。
自分がこの世界に来たのは、数ヶ月前。黒須は、それよりもずっと前に転生していたことになる。
「彼の能力は、『ノーショー』と呼ばれています。魂を消滅させる力。逆らう者は、例外なく消されてきました」
「恐ろしい力ですね」
「はい。しかし、最近は少し様子が変わってきたという噂もあります」
「様子が変わった……?」
「皇帝が、時々、苦しそうにしているのを見たという証言があります。頭を抱えて、一人で何かと戦っているような」
遼太郎の脳裏に、セレスティアの予言が蘇った。
『漆黒の王は、滅びの化身にあらず。彼は、滅びに支配された者なり』
「虚無に、支配されている……」
「何か言いましたか」
「いえ、何でもありません。情報、ありがとうございました」
出発の朝。
五人は、王都の城門を出た。
「行くわよ」
セレスティアが言った。
「ええ。行きましょう」
彼らは、虚無帝国へと向かった。
国境に到着したのは、五日後だった。
「止まれ!」
帝国側の検問で、兵士たちに止められた。
「何者だ」
「エルディア王国の宿泊業協会から派遣された視察団です」
遼太郎は、書類を差し出した。
「視察団……?」
兵士は、書類を確認した。王家の紋章、協会の印、そして入国許可の署名。全て本物だった。
「……通れ」
兵士は、渋々といった様子で道を開けた。
「ありがとうございます」
遼太郎は深く頭を下げ、一行は帝国領内に入った。
「上手くいったわね」
セレスティアが、小声で言った。
「まだ油断はできません。帝都に入るまで、そして任務を終えるまで」
「分かってるわ」
帝国の領内は、エルディア王国とは異なる雰囲気だった。
道行く人々の表情は暗く、街並みは灰色に沈んでいる。笑顔を見かけることは、ほとんどなかった。
「なんだか、重苦しい空気ね」
セレスティアが呟いた。
「はい。人々が、希望を失っているような」
遼太郎は、周囲を観察しながら言った。
「これが、虚無帝国の現実か……」
彼は、魔王の手記の言葉を思い出した。
『人々が絶望すれば、世界も絶望する。虚無の波は、その絶望が形を取ったものだ』
この国には、絶望が満ちている。それが、虚無の波を強めているのかもしれない。
数日後、一行は帝都に到着した。
帝都は、巨大な城壁に囲まれた都市だった。中心には、黒い塔を持つ皇城がそびえ立っている。
「あれが、クロノスの城か……」
遼太郎は、塔を見上げた。
「禍々しい雰囲気ね」
「はい。虚無の力が、あそこに集中しているような」
一行は、帝都内の宿屋に入った。
「いらっしゃい」
出迎えたのは、疲れ切った顔の中年女性だった。笑顔はなく、声も抑揚がない。
「部屋を、五つお願いします」
「五つね。一泊、銀貨二枚。前払いで」
「分かりました」
遼太郎は、料金を支払った。
部屋に案内されると、セレスティアが顔をしかめた。
「汚いわね……」
「確かに。掃除が行き届いていません」
ベッドには埃が積もり、窓は曇っている。テーブルの上には、前の客が残したと思われるゴミが放置されていた。
「これが、帝国の宿泊事情か……」
遼太郎は、部屋を見回しながら呟いた。
「サービスという概念が、存在していないようですね」
その夜。
遼太郎は、宿の女将に話を聞いた。
「この宿は、いつから営業しているのですか」
「二十年くらいかね。夫と一緒に始めたんだけど、夫は五年前に……」
女将の声が、途切れた。
「五年前に……?」
「皇帝様に、逆らったの。税金が高すぎるって、文句を言っただけなのに」
女将の目に、涙が浮かんだ。
「消されたわ。跡形もなく」
「……」
「それ以来、私は黙って従うだけ。何も言わない、何も考えない。そうしないと、生きていけないから」
遼太郎は、胸が締め付けられる思いだった。
この国の人々は、恐怖に支配されている。逆らえば消される。だから、誰も何も言わない。笑顔すら、見せることができない。
「女将さん」
遼太郎は、静かに言った。
「明日、この宿の掃除を手伝わせてください」
「掃除……?」
「はい。私は、宿屋を営んでいます。少しでもお役に立てれば」
女将は、不思議そうな顔をした。
「なんで、そんなことを……」
「お客様に、快適な空間を提供したいからです。それが、宿屋の仕事ですから」
女将は、しばらく遼太郎を見つめていた。
そして、目に涙を浮かべながら、微かに笑った。
「あんた、変わった人ね」
「よく言われます」
翌日から、遼太郎は宿の改善に取りかかった。
部屋の掃除、シーツの交換、窓の拭き掃除。基本的なことを、一つ一つ丁寧に行っていく。
「何をしているんだ、あんたは」
他の宿泊客が、不思議そうに見ていた。
「掃除です。部屋が綺麗だと、気持ちいいでしょう」
「……変な奴だな」
しかし、掃除された部屋を見た客は、わずかに表情を和らげた。
「確かに、綺麗だ」
「気持ちいいな」
遼太郎は、次に食事の改善を提案した。
「女将さん。朝食に、温かいスープを出してはいかがですか」
「スープ? そんな手間をかける余裕なんて……」
「私が作ります。材料費は、私が持ちます」
女将は目を丸くした。
「なんで、そこまで……」
「お客様に、笑顔になってほしいからです」
翌朝、遼太郎が作ったスープが、宿泊客に提供された。
温かく、優しい味。野菜と肉がたっぷり入った、心のこもった一品。
「……美味い」
客の一人が、呟いた。
「久しぶりに、こんな美味いものを食べた」
「ああ。なんか、涙が出てきた」
「なんでだろうな。ただのスープなのに」
客たちの表情が、少しずつ変わっていった。
暗く沈んでいた顔に、わずかに光が戻っていく。
「これが……」
遼太郎は、その様子を見ながら思った。
「これが、サービスの力か」
小さなことの積み重ね。温かいスープ一杯。清潔な部屋。心のこもった挨拶。
それだけで、人は変わる。希望を取り戻す。
「リョウ」
セレスティアが、隣に来た。
「あなた、すごいわね」
「いいえ。ただ、できることをしているだけです」
「でも、その『できること』が、人を変えている」
セレスティアは、微笑んだ。
「あなたのやり方で、この国を変えられるかもしれないわね」
「一人ずつ、少しずつ。でも、確実に」
遼太郎は、窓の外を見た。
黒い塔が、空を刺すようにそびえ立っている。
「クロノスにも、届くといいのですが」
「届くわ。きっと」
セレスティアが、遼太郎の手を握った。
「私は、あなたを信じてる」




