第三十一話 魔王の遺産
王都での覚醒から、一週間が経っていた。
遼太郎が放った光は、虚無帝国軍の夜襲を食い止めた。しかし、それは一時的な勝利に過ぎなかった。クロノス率いる本隊は、まだ国境の向こうで待機している。いつ本格的な侵攻が始まってもおかしくない状況だった。
「結界強度、98%に到達しました」
星降り亭に戻った遼太郎は、地下の聖室で星核を確認していた。
あの夜、彼が発動した「ウォーキング」の力は、想像を超えるものだった。街全体を覆う光。敵兵の侵攻を止める結界。そして、無数の人々から集めた力。
その反動で、星核のエネルギーは大幅に消費された。しかし、王都での避難民支援と、覚醒したウォーキングの力によって、結界強度は急速に回復していた。
「あと2%で、100%でございますな」
ゴブ爺が、隣で言った。
「はい。しかし、100%になったところで、クロノスの軍勢を止められるかどうか……」
「リョウ様」
ゴブ爺の声が、少し改まった。
「お話ししなければならないことがございます」
「何ですか」
「魔王様の遺産について、でございます」
遼太郎は、ゴブ爺を見た。
老ゴブリンの目には、深い決意が宿っていた。
「場所を変えましょう。長い話になります」
二人は、聖室を出て食堂に向かった。
深夜の食堂は、静まり返っていた。暖炉には、小さな火が燃えている。その揺らめく光の中で、ゴブ爺は語り始めた。
「私が魔王様にお仕えし始めたのは、今から約九百年前のことでございます」
「九百年……」
「当時、私はまだ若いゴブリンでした。種族の中では最下層の存在で、誰からも見向きもされませんでした」
ゴブ爺の目が、遠くを見つめていた。
「ある日、一人の男が現れました。黒い髪、黒い瞳。この世界の者とは、明らかに違う雰囲気を持った男でした」
「魔王様……」
「はい。後に魔王と呼ばれることになる方でございます。しかし、当時はただの旅人でした」
ゴブ爺は、微かに笑った。
「最初に会った時のことを、今でも覚えております。私は道端で倒れておりました。飢えと疲労で、動くこともできず、死を待つだけの状態でした」
「……」
「そこに、魔王様が通りかかったのです。見知らぬゴブリンが倒れているのを見て、彼は立ち止まりました」
「普通なら、無視するでしょうね。ゴブリンは、この世界では下等な種族として扱われていると聞きました」
「はい。しかし、魔王様は違いました。彼は私を抱え上げ、近くの宿へ連れて行ってくれたのです」
ゴブ爺の声が、わずかに震えた。
「『大丈夫か』と、彼は言いました。『腹が減っているんだろう。何か食べるか』と」
「……」
「私は驚きました。人間が、ゴブリンに優しくするなど、聞いたこともなかったからです」
「魔王様は、種族の違いを気にしなかったのですね」
「はい。彼は言いました。『種族なんて関係ない。困っている者を助けるのは、当たり前のことだ』と」
ゴブ爺は、窓の外を見た。
「その言葉が、私の人生を変えました。私は魔王様についていくことを決め、彼の執事となったのです」
「それから、九百年……」
「はい。魔王様と共に、世界中を旅しました。各地に宿を建て、旅人を迎え、困っている者を助けました」
ゴブ爺の目に、懐かしさが浮かんだ。
「楽しい日々でした。魔王様は、いつも笑っておられました。お客様が喜ぶ顔を見るのが、何よりの幸せだと」
「宿屋を営むことが、魔王様の夢だったのですね」
「はい。彼は言いました。『俺は、世界中の人を幸せにしたい。そのために、宿屋を作るんだ』と」
しかし、ゴブ爺の表情が曇った。
「しかし、平和な日々は長くは続きませんでした」
「虚無の波……ですか」
「はい。千年前、この世界に虚無の波が押し寄せました。全てを飲み込み、消滅させる力」
ゴブ爺は、暖炉の炎を見つめた。
「最初は、辺境の村々が消えていきました。何の前触れもなく、一夜にして、跡形もなく」
「恐ろしい……」
「人々はパニックに陥りました。逃げ惑い、争い合い、絶望に飲み込まれていきました」
「魔王様は、どうされたのですか」
「彼は、虚無の波の正体を探りました。各地を巡り、情報を集め、古い文献を調べ……そして、一つの結論に辿り着いたのです」
「結論……」
「虚無の波は、この世界そのものの『滅びへの意志』だと」
遼太郎は、言葉を失った。
「世界の……滅びへの意志……?」
「はい。この世界は、生まれた時から、いつか滅びる運命にあったのです。虚無の波は、その運命が顕在化したもの」
「つまり、世界が自ら滅びようとしている……」
「左様でございます」
ゴブ爺の声が、低くなった。
「魔王様は、その事実に衝撃を受けました。敵がいるなら、戦えばいい。しかし、世界そのものが敵だとしたら、どうすればいいのか」
「……」
「しかし、魔王様は諦めませんでした。彼は言いました。『世界が滅びたいと言うなら、新しい世界に生まれ変わらせればいい』と」
「新しい世界に……」
「はい。それが、ウォーキングの究極の使い方でした」
遼太郎は、自分の手を見つめた。
「ウォーキングは、魂を次の世界へ送る力。それを、世界全体に適用する……」
「左様でございます。魔王様は、滅びゆく世界を『次の世界』へとウォーキングさせることで、新生させたのです」
「世界を、丸ごと……」
「はい。その時、魔王様は全ての力を使い果たしました。そして……」
ゴブ爺の目に、涙が浮かんだ。
「消滅しました。自らの存在を、世界に捧げて」
沈黙が、食堂を満たした。
暖炉の火が、パチパチと音を立てている。
「魔王様が消滅する前、彼は私に言いました」
ゴブ爺は、涙を拭いながら続けた。
「『ゴブ爺、頼みがある。俺がいなくなっても、この宿を守ってくれ』と」
「……」
「『いつか、俺と同じ力を持つ者が現れる。その者が現れるまで、この宿を守り続けてくれ』と」
遼太郎は、ゴブ爺を見つめた。
「私を、待っていたのですか……」
「はい。九百年間、ずっと。魔王様の言葉を信じて」
ゴブ爺は、遼太郎に向き直った。
「そして、あなたが現れました。ウォーキングの力を持ち、魔王様と同じように『外』から来た者」
「……」
「リョウ様。あなたこそが、魔王様の後継者でございます」
「後継者……」
遼太郎は、首を振った。
「私は、そんな大それた者ではありません。ただの……」
「ナイトオーディターでございますか」
ゴブ爺が、微かに笑った。
「魔王様も、同じことを仰っておりました。『俺は英雄じゃない。ただの宿屋の主人だ』と」
「……」
「しかし、彼は世界を救いました。自分を英雄だと思っていなくても、結果的に英雄になったのです」
ゴブ爺は、遼太郎の肩に手を置いた。
「リョウ様。あなたも、同じ道を歩んでおられます。気づいておられないかもしれませんが、あなたは既に、多くの人を救っております」
「私が……」
「この宿を立て直し、スタッフを育て、避難民を受け入れ、そして王都を守った。それは、英雄の所業でございます」
遼太郎は黙った。
自分が英雄だなど、考えたこともなかった。ただ、目の前の仕事をこなしてきただけだ。お客様に最高のサービスを提供する。それだけを考えて、走り続けてきた。
「ゴブ爺さん」
「はい」
「魔王様の遺産とは、何ですか」
「二つございます」
ゴブ爺は、立ち上がった。
「一つは、この宿そのもの。星降り亭は、魔王様が最後に建てた宿でございます。星核も、魔王様が遺されたものです」
「この宿が……」
「そして、もう一つ」
ゴブ爺は、食堂の奥へ歩いていった。壁に掛けられた一枚の絵の前で立ち止まる。
「これは……」
絵には、一人の男が描かれていた。黒い髪、黒い瞳。優しそうな笑顔を浮かべている。
「魔王様の肖像画でございます。私が、記憶を頼りに描いたものです」
遼太郎は、絵を見つめた。
その男は、どこか自分に似ているような気がした。顔立ちではなく、雰囲気が。
「魔王様は、これを遺しました」
ゴブ爺が、絵の裏から何かを取り出した。
古びた書物だった。革の表紙に、複雑な紋様が刻まれている。
「これは……」
「魔王様の手記でございます。ウォーキングの極意、世界の秘密、そして……虚無の波を止める方法が、記されております」
遼太郎は、書物を受け取った。
ずしりと重い。九百年の時を経た重みが、手のひらに伝わってくる。
「これを、私に……」
「はい。あなたこそが、これを受け継ぐべき者でございます」
遼太郎は、表紙をそっと開いた。
最初のページには、こう書かれていた。
『この書を手に取る者へ。
俺は、佐藤健一。元の世界では、しがないサラリーマンだった。
お前がこれを読んでいるということは、俺と同じように、この世界に来たんだろう。そして、ウォーキングの力を持っているんだろう。
まず言っておく。お前は、一人じゃない。俺も、同じ道を歩いた。迷い、悩み、それでも前に進んだ。
この書には、俺が九百年かけて学んだことが全て書いてある。ウォーキングの使い方、世界の仕組み、そして……虚無を止める方法。
全てを読んで、自分で考えろ。答えは、お前の中にある。
最後に一つだけ。
サービスの本質を、忘れるな。
俺たちの力は、人を幸せにするためにある。それだけを忘れなければ、お前は必ず正しい道を歩める。
頑張れ。俺は、お前を信じている。
佐藤健一』
遼太郎は、その言葉を何度も読み返した。
「佐藤健一……」
この世界に来た、もう一人の転生者。そして、世界を救った英雄。
「魔王様も、元の世界では普通の人間だったのですね」
「はい。しがないサラリーマンだったと、よく仰っておりました」
「サラリーマン……」
遼太郎は、書物を胸に抱いた。
「ゴブ爺さん。この書物、読ませていただきます」
「もちろんでございます。それは、あなたのものでございます」
「そして……」
遼太郎は、顔を上げた。
「クロノスを、止めます。この世界を、守ります」
「リョウ様……」
「私は、魔王様のようになれるか分かりません。でも、やれることはやります。全力で」
ゴブ爺の目に、涙が溢れた。
「ありがとうございます、リョウ様。魔王様も、きっと喜んでおられます」
「いえ、こちらこそ。九百年間、この宿を守り続けてくれて、ありがとうございます」
遼太郎は、深く頭を下げた。
「これからも、よろしくお願いします。ゴブ爺さん」
「こちらこそ。最後まで、お供いたします」
老ゴブリンと若き宿主は、固く手を握り合った。
窓の外では、夜が明け始めていた。
新しい一日が、始まろうとしていた。




