第三話 たった一人の従業員
三日間の猶予を与えられた翌日、遼太郎は夜明け前に目を覚ました。
体内時計は、まだ前の世界のリズムを覚えている。午後十一時から翌朝七時まで働くナイトオーディターの習慣が、骨の髄まで染み付いていた。深夜に最も覚醒し、夜明けとともに眠気が襲ってくる。
しかし、今日は眠っている場合ではなかった。
遼太郎は静かにベッドを出て、窓を開けた。
冷たい空気が、肺を満たす。二つの月が、地平線の向こうに沈もうとしている。東の空が、わずかに白み始めていた。
「さて」
彼は昨夜作成した帳簿を手に取り、一階の食堂へと向かった。
食堂は暗かった。暖炉には火が入っておらず、窓から差し込む薄明かりだけが、がらんとした空間を照らしている。テーブルは八卓、椅子は三十二脚。そのすべてに、薄く埃が積もっている。
遼太郎は帳簿を開き、数字を確認した。
【星降り亭・現状分析】
■ 資産
・建物:評価額不明(推定・大幅な減価償却後)
・土地:王国所有(使用権のみ)
・什器備品:テーブル8、椅子32、ベッド8、その他
■ 負債
・未払い金:なし(支払う金がないため)
・借入金:なし(貸してくれる相手がいないため)
■ 運転資金
・現金:銀貨3枚(約3,000円相当)
・食料在庫:パン2斤、干し肉少々、野菜若干
・消耗品:ランプ油1週間分、薪3日分
■ 収入見込み
・宿泊収入:0(客がいないため)
・食事収入:0(同上)
・その他:0
■ 支出見込み(1週間)
・食料:銀貨5枚以上
・消耗品:銀貨2枚以上
・緊急修繕費:不明(発生すれば破綻)
数字は、残酷なまでに現実を映し出していた。
この宿は、あと一週間で資金が尽きる。食料も、燃料も、底をつく。そうなれば、セレスティアとゴブ爺は、この場所を捨てて出ていくしかない。
「三日で結果を見せろ」とセレスティアは言った。
しかし、三日で何ができるというのか。
客を呼ぶには、まず宿の状態を改善しなければならない。しかし、改善するための資金がない。資金を得るには、客を呼ばなければならない。しかし、客を呼ぶには……。
典型的な「鶏と卵」の問題だった。
遼太郎はため息をついた。
「考えても、答えは出ない」
彼は立ち上がり、食堂を見回した。
埃を払おう。それが、今できる最初の一歩だ。
二時間後。
食堂は、見違えるほど綺麗になっていた。
テーブルの埃は払われ、椅子は整然と並べられ、床は雑巾がけされている。暖炉の灰は掻き出され、窓ガラスは磨かれて、朝日が部屋いっぱいに差し込んでいた。
「何これ……」
階段を降りてきたセレスティアが、目を丸くした。
「おはようございます」
遼太郎は雑巾を絞りながら言った。汗が額を流れている。
「あなた、いつからやってたの?」
「夜明け前からです」
「夜明け前って……」
セレスティアは食堂を見回した。テーブルの上には、野花が飾られている。庭に咲いていたものを摘んできたのだろう。
「……なんで、こんなことしたの?」
「宿の基本は、清潔さです」
遼太郎は答えた。
「お客様が来るかどうかは分かりません。でも、来た時に汚い宿では、二度と来ていただけません。だから、まず掃除をしました」
「お客様なんて、来ないわよ」
「かもしれません。でも、来ないと決めつけてはいけません」
セレスティアは黙った。
遼太郎は雑巾を桶に戻し、手を洗った。そして、セレスティアに向き直った。
「セレスさん。一つ、お願いがあります」
「何?」
「この宿の歴史について、もっと詳しく教えていただけませんか」
「歴史?」
「はい。この宿が、なぜ『星降り亭』と呼ばれるのか。なぜ、千年以上も続いてきたのか。その物語を知りたいのです」
セレスティアの表情が、わずかに曇った。
「……なんで、そんなことが知りたいの?」
「マーケティングのためです」
「マーケ……何?」
「宣伝、と言えば分かりやすいでしょうか。人を集めるためには、その場所の魅力を伝えなければなりません。魅力を伝えるためには、まず自分たちが魅力を理解しなければなりません」
セレスティアは首を傾げた。
「この宿に、魅力なんてないわ。見ての通り、ボロボロだもの」
「設備は確かに古い。でも、それだけではありません」
遼太郎は窓の外を指さした。
「見てください。この景色を」
窓の外には、朝日に照らされた草原が広がっていた。緑の絨毯が、どこまでも続いている。遠くには、青い山脈が霞んでいる。
「素晴らしい眺めです。都会では、絶対に見られない」
「でも、景色だけじゃ……」
「夜は、星が見えるんですよね。ゴブ爺さんが言っていました。『星降り亭』という名の通り、無数の星が降り注ぐように見えると」
セレスティアは黙った。
「この宿には、物語がある」と遼太郎は続けた。「千年以上の歴史。聖域としての伝説。星降りの絶景。それは、他の宿にはない価値です」
「価値……」
「はい。価値を正しく伝えることができれば、客は来ます。少なくとも、試す価値はあります」
セレスティアは長い沈黙の後、ため息をついた。
「……分かったわ。ゴブ爺、聞いてた?」
「はい、お嬢様」
いつの間にか、ゴブ爺が階段の上に立っていた。
「この人に、宿の歴史を教えてあげて」
「承知いたしました」
ゴブ爺は階段を降りてきた。そして、遼太郎に向かって深々と一礼した。
「佐伯様。では、お話しいたしましょう。この宿の、長い長い物語を」
ゴブ爺の話は、千年以上前に遡った。
「この世界が生まれたばかりの頃、神々は旅人でした」
老ゴブリンは、食堂のテーブルに座り、ゆっくりと語り始めた。
「神々は、終わりのない旅を続けていました。行く先々で命を生み、世界を形作り、そしてまた旅立つ。しかし、旅は孤独なものでございます。神々もまた、疲れを知り、休息を求めました」
「休息を……」
「そこで神々は、一つの場所を作りました。旅人が足を休め、体を癒し、再び旅立つための場所。それが『創世の宿屋』でございます」
ゴブ爺の目が、遠くを見つめていた。
「『創世の宿屋』では、全ての存在が平等でした。神も、人も、魔も、獣も。誰もが客として迎えられ、誰もが主として仕えました。争いは禁じられ、憎しみは消え、全ての者が安らぎを得ることができました」
「そこから、全ての種族が生まれたと……」
「左様でございます。宿で休んだ神々は、やがて眷属を生みました。それが、人間であり、エルフであり、ドワーフであり、そして私のようなゴブリンでございます」
ゴブ爺は自嘲的に笑った。
「もっとも、今ではゴブリンは下等な種族として蔑まれておりますが……」
「それで、『創世の宿屋』は今どこに?」
「失われました」とゴブ爺は答えた。「神々が去り、世界が混乱に陥った時、『創世の宿屋』は消滅したと言われています。しかし、その理念は残りました。世界中に散らばった宿が、『創世の宿屋』の意志を継いでいるのです」
「この宿も、その一つ……」
「はい。『星降り亭』は、『創世の宿屋』の分家のようなものでございます。千年以上前、この地に落ちた一つの星が、宿の礎となりました。その星には、神々の祝福が宿っていたと言われています」
「星……」
遼太郎は窓の外を見た。朝日は既に高く昇り、空は青く澄み渡っている。
「その星は、今もこの宿にあるのですか?」
「あります」とゴブ爺は頷いた。「地下の聖室に、今も眠っております」
「地下?」
「この建物には、地下室がございます。普段は封印されておりますが……」
ゴブ爺は言葉を濁した。セレスティアの顔を見て、何かを確認するように。
セレスティアは小さく頷いた。
「……見せてあげて、ゴブ爺」
「よろしいのですか?」
「この人は、何かを変えようとしている。変えるためには、全てを知る必要があるわ」
ゴブ爺は深々と頭を下げた。
「承知いたしました。佐伯様、こちらへどうぞ」
食堂の奥に、目立たない扉があった。
普通に見れば、ただの倉庫の扉に見える。しかし、ゴブ爺が手をかざすと、扉の表面に複雑な紋様が浮かび上がった。
「封印の印でございます」とゴブ爺は言った。「この宿の正式な関係者でなければ、開けることはできません」
紋様が輝き、重い音とともに扉が開いた。
その向こうには、石造りの階段が続いていた。
遼太郎は、ゴブ爺に続いて階段を降りた。壁には、等間隔でランプが設置されている。しかし、火は灯っていない。代わりに、壁自体がうっすらと光を放っていた。
「この光は……」
「聖室の力でございます」とゴブ爺は答えた。「星の祝福が、今もわずかに残っている証です」
階段を降りきると、広い空間に出た。
天井は高く、壁は滑らかな石で覆われている。部屋の中央には、一つの台座があった。
そして、その上に……。
「これが……」
遼太郎は息を呑んだ。
台座の上には、拳大の石が置かれていた。
石は、淡い光を放っていた。青白い、星のような光。しかし、その光は弱々しく、今にも消えそうだった。
「これが、この宿の心臓でございます」とゴブ爺は言った。「『星核』と呼ばれています」
「星核……」
「かつては、この石一つで、宿全体に強力な結界を張ることができました。しかし、今は……」
ゴブ爺の声が、沈んだ。
「力が、弱まっている」
「はい。星核の力は、『宿主』の力と連動しています。正式な宿主がいなければ、星核は力を発揮できません」
「正式な宿主……」
「以前は、お嬢様のお父上……いえ、セレスティア様のお父上が、この宿の正式な宿主でございました。しかし、三年前にお亡くなりになり……」
「三年前?」
遼太郎は振り返った。
セレスティアが、聖室の入り口に立っていた。その表情は、暗く沈んでいた。
「……父は、戦争で死んだの」
セレスティアの声は、静かだった。
「三年前、虚無帝国との戦いで。この宿を守るために」
「セレスさん……」
「父が死んでから、結界は弱まった。魔物が出るようになった。客が来なくなった。街道の整備も止まった。全部、繋がってるの」
セレスティアは星核を見つめた。
「私は、王女よ。正確には、元王女。王位継承権を放棄して、この宿を継いだ」
「王女……」
「でも、私には父のような力がない。結界を維持することも、星核を輝かせることも、できない」
彼女の目に、涙が滲んでいた。
「だから、この宿は死にかけてる。私のせいで」
遼太郎は黙っていた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
王女。戦争。父の死。結界の崩壊。
セレスティアが背負っているものの重さを、彼は初めて理解した。
「……セレスさん」
遼太郎は、ゆっくりと言った。
「私に、力を貸してください」
「え?」
「私には、【宿屋管理者】というスキルがあります。このスキルが、どれだけの力を持っているのか、まだ分かりません。でも、何かできるかもしれない」
セレスティアは怪訝な顔をした。
「スキル……? あなた、スキルを持っているの?」
「はい。この世界に来た時に、与えられました」
「与えられた? 誰に?」
「分かりません。気がついたら、持っていました」
セレスティアはゴブ爺を見た。ゴブ爺は静かに頷いた。
「稀に、そのような者がおります」と老ゴブリンは言った。「世界の外から来て、特別な力を持つ者。かつての魔王も、そのような存在でした」
「魔王……?」
「はい。千年前、この世界を救った偉大なる魔王も、『外』から来た者だったと言われています」
遼太郎は、自分のステータスを確認した。
【宿屋管理者】のスキル。そして、もう一つ。
【ウォーキング】。
「試してみていいですか」と遼太郎は言った。
「何を?」
「このスキルを。星核に対して」
セレスティアは迷っていた。しかし、ゴブ爺が静かに言った。
「試す価値はあるかと存じます、お嬢様」
「……分かったわ。でも、何かあったら……」
「責任は、私が取ります」
遼太郎は台座に近づいた。
星核が、目の前にある。弱々しい光を放つ、拳大の石。
彼は手を伸ばした。
指先が、星核に触れる。
その瞬間。
【スキル発動】
・宿屋管理者が星核と接続しました。
・施設の状態を同期中……
・同期完了。
【星降り亭】
・結界強度:3%(危険)
・エネルギー残量:7%(危険)
・推奨措置:即時の補給が必要です
遼太郎の視界に、大量の情報が流れ込んできた。
宿の全ての状態が、数値として可視化されている。建物の傷み具合、各部屋の状況、在庫の残量、そして結界の強度。
「これは……」
「どうしたの?」
セレスティアが心配そうに尋ねた。
「見えます」と遼太郎は答えた。「この宿の全てが、数字として」
「数字?」
「結界の強度は3%。エネルギー残量は7%。このままでは、あと数日で完全に機能停止します」
セレスティアとゴブ爺が、息を呑んだ。
「しかし」と遼太郎は続けた。「補給する方法があるはずです。星核にエネルギーを与える方法が」
「エネルギー……」
「この世界で、エネルギーとは何ですか。魔力ですか。それとも……」
「『感謝』でございます」
ゴブ爺が、静かに言った。
「創世の宿屋から続く伝統でございます。宿のエネルギーは、客の感謝によって満たされます」
「客の感謝……」
「はい。客が満足し、感謝の念を抱いた時、その力が星核に還元されます。それが、宿の力の源でございます」
遼太郎は理解した。
客がいないから、エネルギーがない。
エネルギーがないから、結界が弱まる。
結界が弱まるから、魔物が出る。
魔物が出るから、客が来ない。
「負のスパイラルだ」
遼太郎は呟いた。
「どこかで、この循環を断ち切らなければならない」
「でも、どうやって……」
「客を呼びます」
遼太郎は振り返った。
「たった一人でいい。一人の客を呼んで、最高のサービスを提供する。その感謝が、星核に力を与える」
「たった一人で、何が変わるの?」
「分かりません。でも、ゼロよりはマシです」
遼太郎はセレスティアの目を、真っ直ぐに見つめた。
「私を信じてください。三日間。三日で、必ず客を呼んでみせます」
セレスティアは黙っていた。
長い沈黙の後、彼女は小さく頷いた。
「……分かったわ。あなたを信じる」
「ありがとうございます」
遼太郎は深く頭を下げた。
三十度。敬礼。感謝のお辞儀。
そして、彼は階段を駆け上がった。
やるべきことが、山ほどある。
三日間。
その間に、この宿を蘇らせる。




