第二十一話 王都の宿事情
セレスティアと別れてから、三週間が経っていた。
遼太郎は、星降り亭での日常を取り戻しながらも、王都への進出準備を着々と進めていた。アレクサンダー王子からの投資、銀貨二千枚は既に届いており、それを元手に王都での物件探しを開始する段階に入っていた。
「リョウ様、王都から手紙が届いております」
ゴブ爺が、朝食の準備を終えて食堂にやってきた。その手には、王家の紋章が押された封書が握られている。
「ありがとうございます」
遼太郎は封を開け、中身を確認した。
手紙の差出人は、アレクサンダー王子の執事だった。内容は、王都での物件候補のリストと、現地視察の招待状だった。
「王都への視察……」
遼太郎は、窓の外を見つめた。
草原には、朝霧が立ち込めている。二つの月は既に地平線の向こうに沈み、東の空が白み始めていた。
「ゴブ爺さん。私は再び王都に行くことになりそうです」
「かしこまりました。留守中のことは、お任せください」
「ありがとうございます。ただ、今回は少し長くなるかもしれません」
「どれくらいでございましょうか」
「一ヶ月……いえ、もっと長くなる可能性もあります」
ゴブ爺の表情が、わずかに曇った。
「王都での支店開設には、相当な時間がかかるでしょう。物件の選定、改装、スタッフの採用、許認可の取得……やることは山ほどあります」
「リョウ様がお留守の間、この宿は……」
「ゴブ爺さんに全てを任せます。私が不在でも、宿の運営ができるように、システムを整えておきます」
遼太郎は立ち上がった。
「今日から、引き継ぎを始めましょう。私がいなくても、宿が回るように」
引き継ぎの準備には、一週間を費やした。
遼太郎は、これまで自分の頭の中だけにあった知識を、全て文書化した。日々の業務フロー、緊急時の対応マニュアル、仕入れ先のリスト、経理の手順。あらゆることを、誰が読んでも分かるように書き出していく。
「これが、業務マニュアルの完成版です」
遼太郎は、分厚い冊子をスタッフ全員に配った。
「私がいない間は、これを参考にしてください。分からないことがあれば、ゴブ爺さんに相談してください」
「リョウ様……」
エミリアが、不安そうな顔をしていた。
「本当に、大丈夫でしょうか。リョウ様がいないと……」
「大丈夫です。皆さんは、十分に成長しました。私がいなくても、やっていけます」
遼太郎は、スタッフ一人一人の顔を見回した。
エミリア、マルクス、ソフィア、トマス。そして、ゴブ爺。彼らは、この数ヶ月で見違えるほど成長した。
「私を信じてください。そして、自分たちを信じてください」
「はい……」
「分かりました」
「頑張ります」
スタッフたちは、それぞれに頷いた。
出発の朝。
遼太郎は、宿の前に立っていた。
「行ってきます」
「お気をつけて、リョウ様」
ゴブ爺が、深く頭を下げた。
「セレスティア様に、よろしくお伝えください」
「はい。必ず」
遼太郎は、草原の向こうへと歩き出した。
今回の旅は、前回とは違う。単なる投資の交渉ではない。王都に新しい宿を開く。それは、星降り亭の未来を切り開く、大きな一歩だ。
五日間の旅を経て、遼太郎は再び王都に到着した。
城門を通り、繁華街を歩く。前回来た時よりも、街は騒がしいように感じた。
「何かあったのか……」
彼は、通りすがりの商人に声をかけた。
「すみません。何か、騒がしいようですが……」
「ああ、知らないのか? 虚無帝国が、国境の砦を攻撃したんだ」
「攻撃……」
「まだ本格的な戦争じゃないが、いつ始まってもおかしくない状況だ。みんな、戦争の準備をしてるんだよ」
商人は、足早に去っていった。
遼太郎の表情が、険しくなった。
「戦争が、近づいている……」
まず、王宮に向かった。
アレクサンダー王子の執事に案内され、謁見の間に通される。しかし、今回はアレクサンダー本人ではなく、別の人物が待っていた。
「お待たせしました」
そこにいたのは、セレスティアだった。
「セレスさん……」
「久しぶりね、リョウ」
セレスティアは、王宮にふさわしい正装をしていた。白いドレスに、銀色の装飾。髪は結い上げられ、王族らしい気品を漂わせている。
しかし、その目には、疲労の色が見えた。
「お元気そうで、何よりです」
「元気……そう見える?」
セレスティアは苦笑した。
「正直、大変よ。毎日、会議と交渉の連続。予言の巫女として、いろいろな期待をかけられていて……」
「予言の巫女……」
「虚無帝国との戦争が近いから、みんな私の予言を聞きたがるの。でも、予言はそう簡単に見えるものじゃない」
セレスティアの声に、疲労が滲んでいた。
「大変でしたね」
「でも、あなたが来てくれて嬉しいわ。兄上からの手紙、読んだでしょう?」
「はい。物件候補のリストを」
「そう。今日から、一緒に視察しましょう。案内するわ」
「セレスさんが?」
「当然でしょ。私も、この事業に関わっているのだから」
セレスティアは立ち上がった。
「それに、王宮から少し離れたいの。息が詰まりそうだから」
王都の宿泊業界は、遼太郎が想像していたよりも複雑な状況にあった。
「この街には、三つの大きな宿屋ギルドがあるの」
セレスティアが、馬車の中で説明した。
「『金の獅子亭』を率いるロスチャイルド家、『銀の月亭』を率いるアルドリッジ家、そして『青銅の盾亭』を率いるクレイトン家。この三家が、王都の宿泊市場を支配しているわ」
「三大家……」
「彼らは、互いに競争しながらも、新規参入者を排除するために協力することもある。既得権益を守るためにね」
「つまり、私たちは彼らの敵になる可能性がある」
「そういうこと。だから、慎重に進める必要があるわ」
馬車が、最初の物件候補に到着した。
それは、繁華街の外れにある、中規模の建物だった。かつては宿屋だったようだが、今は廃業して空き家になっている。
「ここが、候補の一つね」
二人は馬車を降り、建物の中に入った。
埃が積もり、蜘蛛の巣が張っている。壁は剥がれ、床は軋む。かなり傷んでいた。
「状態は悪いですね」
遼太郎は、建物の隅々を確認しながら言った。
「改装には、かなりの費用がかかりそうです」
「でも、立地はいいわ。王宮からも近いし、商人の往来も多い場所よ」
「確かに……」
遼太郎は、窓から外を眺めた。
通りには、多くの人々が行き交っている。商人、職人、兵士、旅人。多様な人々が、この街を形作っている。
「立地は申し分ありません。問題は、改装費と……」
「と?」
「三大家の反応です。彼らが、私たちの参入を黙って見ているとは思えません」
「そうね……」
セレスティアの表情が、曇った。
二つ目の物件は、市場の近くにあった。
こちらは、現在も営業中の小さな宿屋だった。オーナーが引退を考えており、売却を希望しているという。
「いらっしゃい」
オーナーは、六十代くらいの老婦人だった。白髪を結い上げ、穏やかな笑顔を浮かべている。
「私はマーガレット。この宿を、五十年間やってきたわ」
「五十年……」
「夫と一緒に始めたの。でも、夫は十年前に亡くなって、それからは一人でやってきた」
マーガレットは、建物の中を案内してくれた。
こちらは、最初の物件よりも状態が良かった。小さいが、清潔に保たれている。壁には、歴代の宿泊客からの感謝状が飾られていた。
「素敵な宿ですね」
遼太郎が言うと、マーガレットは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。私の人生そのものよ。でも、もう体が言うことを聞かなくてね……」
「お体が……」
「腰を悪くしてしまって。一人で切り盛りするのは、もう限界なの」
マーガレットは、窓の外を見つめた。
「だから、この宿を引き継いでくれる人を探していたの。売ってしまうのは寂しいけれど、でも、いい人に引き継いでもらえるなら……」
「マーガレットさん」
遼太郎は、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「この宿を、私に売っていただけますか」
「あなたに……?」
「はい。私は、この宿を大切にします。マーガレットさんが育てた伝統を、引き継ぎます」
マーガレットは、遼太郎の目をじっと見つめた。
「……あなた、いい目をしているわね」
「え?」
「宿屋の主人に必要なのは、技術でも資金でもない。お客様を大切に思う心よ。あなたには、それがある」
マーガレットは微笑んだ。
「いいわ。あなたに売るわ」
交渉は、その場で成立した。
価格は、銀貨三百枚。投資資金の一部を使えば、十分に支払える額だ。
「ありがとうございます、マーガレットさん」
「こちらこそ。この宿を、よろしくね」
宿を出た後、セレスティアが言った。
「決断が早いわね」
「この宿には、歴史がある。そして、マーガレットさんの心がこもっている。そういう宿を引き継げるなら、これ以上の物件はありません」
「でも、規模が小さいわ。部屋は六室しかない」
「最初は、それで十分です。まず小さく始めて、実績を積む。それから、拡大を考えます」
遼太郎は言った。
「大切なのは、最初から完璧を目指さないこと。一歩一歩、確実に進むことです」
「……あなた、本当に計画的ね」
「計画なしに、ビジネスは成り立ちません」
その夜。
遼太郎は、王宮の客室で、セレスティアと向かい合っていた。
「さて、これからが本番です」
彼は、紙とペンを取り出した。
「王都支店の開業計画を、立てましょう」
「開業計画……」
「はい。物件は決まりました。次は、改装、スタッフの採用、オペレーションの設計……やることは山ほどあります」
遼太郎は、紙に書き始めた。
【王都支店開業計画】
■ 物件
・マーガレットの宿(仮称)
・部屋数:6室
・立地:市場近く、中心部から徒歩10分
■ 改装
・期間:2週間
・内容:内装の刷新、設備の更新、看板の変更
・費用:銀貨200枚
■ スタッフ
・必要人数:4名(フロント1名、清掃2名、厨房1名)
・採用方法:現地での募集
■ ブランディング
・名称:「星降り亭・王都別邸」(仮)
・コンセプト:星降り亭のサービスを、王都で提供する
「二週間で改装……できるかしら」
「できます。大規模な工事は必要ありません。内装を整え、設備を更新するだけです」
「スタッフの採用は?」
「王都には、仕事を求めている人が多いはずです。私たちのコンセプトに共感してくれる人を、見つけます」
遼太郎の目には、確かな光が宿っていた。
「この計画を、一つ一つ実行していきます。そうすれば、一ヶ月後には、王都支店がオープンできます」
「一ヶ月後……」
セレスティアは、遼太郎の顔を見つめた。
「あなた、本当にすごいわね」
「すごくはありません。ただ、やるべきことを、やるだけです」
「それができることが、すごいのよ」
セレスティアは微笑んだ。
「私も、手伝うわ。王宮の仕事もあるけど、できる限り」
「ありがとうございます。セレスさんの力が必要です」
二人は、夜遅くまで計画を練り続けた。
王都の夜空には、星が瞬いていた。
しかし、その輝きの向こうには、暗い雲が迫っていた。
虚無帝国との戦争。そして、クロノス……黒須の影。
遼太郎は、それを意識しながらも、目の前の仕事に集中することを選んだ。
今、自分にできることは、この宿を成功させること。それが、この世界で生きていくための、唯一の道だった。




