第二話 最果ての宿で目覚めて
星降り亭は、思っていたよりも大きな建物だった。
木造二階建て。一階には受付カウンターと食堂、二階には客室が八部屋。裏手には厩舎と倉庫があり、敷地全体を低い石垣が囲んでいる。
しかし、その規模に見合った「賑わい」は、どこにも感じられなかった。
「かつては、旅人で溢れかえっておりました」
ゴブ爺が、遼太郎を館内に案内しながら語った。
「この宿は、王都から辺境へ向かう街道の最後の休息地でしたから。商人、冒険者、巡礼者……様々な方々がお泊まりになりました」
「かつては、ということは……」
「今は、ほとんどお客様がいらっしゃいません」
一階の食堂を見回す。テーブルは八卓。椅子は三十二脚。しかし、そのすべてに薄く埃が積もっていた。暖炉には火が入っておらず、窓から差し込む光だけが、がらんとした空間を照らしている。
「理由を、伺ってもいいですか」
「いくつかございます」とゴブ爺は答えた。「まず、街道の整備が進まなくなりました。王国の財政が悪化し、辺境への投資が打ち切られたのです」
「なるほど」
「次に、この地域一帯に、魔物が増えました。旅人が襲われる事件が相次ぎ、誰もこの道を通らなくなりました」
「魔物……」
遼太郎は窓の外を見た。穏やかな草原が広がっている。魔物がいるようには、とても見えない。
「そして最後に」とゴブ爺は声を落とした。「『滅びの予言』でございます」
「滅びの予言?」
「はい。この世界は、やがて滅びる。漆黒の王が現れ、すべてを虚無に帰す。そう予言されているのです」
遼太郎は黙った。
滅びの予言。漆黒の王。いかにもファンタジー小説に出てきそうな言葉だった。しかし、ゴブ爺の表情は真剣そのものだった。
「予言がなされてから、人々は希望を失いました。どうせ滅びるなら、危険を冒して旅などする必要はない。そう考える者が増えたのです」
「それで、客が来なくなった」
「左様でございます」
ゴブ爺は深いため息をついた。
「正直に申し上げますと、この宿はもう長くはもちません。食料の蓄えも底をつきかけております。あと一月もすれば……」
言葉が途切れた。老ゴブリンの目に、うっすらと涙が滲んでいるように見えた。
「この宿には、長い歴史がございます。千年以上も前から、旅人を迎え続けてきました。しかし、その歴史も、私の代で終わりを迎えるかもしれません」
遼太郎は、何も言えなかった。
館内の案内は続いた。
二階に上がると、客室が並んでいた。どの部屋も同じような造りで、木製のベッドと小さなテーブル、衣装棚が置かれている。窓からは、草原と森が見渡せる。
「こちらが一番良いお部屋です」
ゴブ爺が、廊下の突き当たりの扉を開けた。他の部屋より一回り広く、窓が二つある。ベッドも大きく、テーブルの上には花瓶が置かれていた。もっとも、花瓶は空で、テーブルにも埃が積もっていたが。
「かつては、王族の方もお泊まりになりました」
「王族が?」
「はい。この宿は、『星降り亭』という名の通り、星の加護を受けた場所でございます。夜になると、屋根の上に無数の星が降り注ぐように見える。その光景を目当てに、高貴な方々もいらっしゃいました」
遼太郎は窓から空を見上げた。今は昼間なので、星は見えない。しかし、二つの月がかすかに浮かんでいる。
「ゴブ爺さん」
「はい」
「この宿のオーナーは、誰なんですか」
ゴブ爺は少し間を置いて答えた。
「正式には、王国の所有でございます。しかし、実質的な管理は……私と、もう一人の者が行っております」
「もう一人?」
「はい。今は買い出しに出ておりますが、じきに戻るかと……」
その時、階下から物音がした。
重い扉が開く音。そして、軽い足音が近づいてくる。
「ゴブ爺! 帰ったわよ!」
若い女性の声だった。澄んだ、よく通る声。
ゴブ爺の表情が、わずかに緊張した。
「お嬢様、お客様がいらっしゃいます」
「お客様?」
足音が止まった。そして、ゆっくりと階段を上がってくる気配。
廊下の向こうに、人影が現れた。
遼太郎は息を呑んだ。
銀色の髪。空色の瞳。白い肌に、すらりとした体躯。年齢は十代後半から二十代前半といったところだろうか。質素な服を着ているが、その立ち居振る舞いには、どこか気品が漂っている。
美しい、と遼太郎は思った。
こんなに美しい人間を、彼は見たことがなかった。いや、人間なのだろうか。この世界には、エルフや妖精のような種族もいるのかもしれない。
「……あなたが、例の倒れていた人?」
女性が、遼太郎を見つめながら言った。その目には、警戒と好奇心が入り混じっている。
「はい。佐伯遼太郎と申します」
遼太郎は自然と頭を下げていた。三年間の習慣で、体が勝手に動いた。
「サエキ、リョウタロウ……?」
女性は首を傾げた。
「変わった名前ね。この辺りの人じゃないでしょう」
「ええ、遠くから来ました」
「どれくらい遠く?」
「とても遠くです。説明するのが難しいくらい」
女性は眉をひそめた。しかし、それ以上は追及しなかった。
「まあいいわ。私はセレスティア。この宿を手伝っているの」
「セレスティアさん、ですか」
「『さん』はいらないわ。セレスで構わない」
「では、セレスさん」
「だから『さん』は……まあ、いいけど」
セレスティアは肩をすくめた。そして、ゴブ爺に向き直った。
「村の市場で、少しだけ食料を手に入れてきたわ。でも、やっぱりお金が足りなくて……」
「お気になさらず。お嬢様がご無事で、何よりでございます」
「ゴブ爺、その『お嬢様』っていうの、やめてって言ったでしょ」
「失礼いたしました」
ゴブ爺は恭しく頭を下げた。しかし、その態度は明らかに、単なる雇い主と使用人の関係ではなかった。
遼太郎は二人のやり取りを見ながら、考えた。
「お嬢様」という呼称。気品のある立ち居振る舞い。そして、王国の所有する宿を「手伝っている」という曖昧な立場。
セレスティアは、もしかすると、かなり高い身分の人間なのかもしれない。
「それで」とセレスティアが遼太郎に向き直った。「あなた、これからどうするの?」
「これから、ですか」
「体調が回復したなら、出て行ってもらわないと困るわ。見ての通り、うちには余裕がないの」
「セレスティア様」とゴブ爺がたしなめた。「この方は、まだ回復したばかりでございます」
「分かってるわ。でも、いつまでも養える余裕はないでしょう」
セレスティアの言葉は厳しかったが、その目には悪意はなかった。むしろ、現実を直視しているからこその厳しさだった。
「おっしゃる通りです」と遼太郎は言った。「ご迷惑をおかけしました。できるだけ早く、出て行きます」
「そう。じゃあ、体調が戻ったら……」
「ただ、一つお願いがあります」
セレスティアの言葉を遮って、遼太郎は続けた。
「この宿で働かせていただけませんか」
セレスティアとゴブ爺が、同時に目を丸くした。
「働く?」
「はい。私には、宿の運営に関する知識があります。少しでもお役に立てるかもしれません」
「宿の運営って……あなた、何者なの?」
「以前は、宿泊施設で働いていました。ナイトオーディター……夜間の経理と監査を担当していました」
「ナイト……何?」
「簡単に言うと、夜の番人です。宿の帳簿を管理し、お金の流れを把握し、問題が起きれば対処する。そういう仕事をしていました」
セレスティアは怪訝な顔をした。
「帳簿? うちに帳簿なんてないわ」
「であれば、作ります」
「作る?」
「お金の出入りを記録し、在庫を管理し、収支を把握する。経営の基本です。それができていないと、宿はいずれ潰れます」
言ってから、遼太郎は自分の言葉に驚いた。
こんなことを言うつもりはなかった。目の前の二人に、説教するつもりなど毛頭なかった。しかし、「宿」という言葉を聞いた瞬間、体が勝手に動いてしまった。三年間の習慣が、骨の髄まで染み付いている。
「……生意気ね」
セレスティアの声に、怒気が混じった。
「見ず知らずの人間が、いきなりやってきて、うちの経営にケチをつけるわけ?」
「いえ、そういうつもりでは……」
「じゃあ、どういうつもり? あなた、自分が何を言ってるか分かってる?」
「申し訳ございません」
遼太郎は深く頭を下げた。角度にして四十五度。最敬礼。謝罪の時に用いる、最も深いお辞儀。
「出過ぎたことを申しました。私のような者が、偉そうなことを言う資格はありません」
セレスティアは黙った。
ゴブ爺も黙った。
沈黙が、廊下に満ちた。
「……セレスティア様」
やがて、ゴブ爺が口を開いた。
「この方の提案を、検討してみてはいかがでしょうか」
「ゴブ爺?」
「正直に申し上げますと、私もこの宿の経営については、ほとんど分かっておりません。かつてはお嬢様のお父上が……いえ、先代が全てを取り仕切っておられました。私はただ、言われた通りに動いていただけでございます」
「それは……」
「この方が本当に宿の運営に詳しいのであれば、力をお借りする価値はあるかと存じます。もちろん、最終的な判断はセレスティア様に委ねますが」
セレスティアは遼太郎を見つめた。
遼太郎は頭を下げたまま、動かなかった。
「……顔を上げなさい」
言われて、遼太郎は顔を上げた。
セレスティアの空色の瞳が、真っ直ぐに遼太郎を捉えていた。
「一つ聞くわ。あなた、なんでそこまでして、この宿に関わりたいの?」
難しい質問だった。
なぜ、と聞かれても、遼太郎自身にも分からない。ただ、「宿」という言葉を聞いた瞬間、心が動いた。三年間、地獄のような日々を送りながらも、最後まで捨てられなかった「何か」が、胸の奥で疼いた。
「……分かりません」
正直に、遼太郎は答えた。
「理由は、分かりません。ただ、私はこれまで、宿泊施設で働いてきました。お客様をお迎えし、快適な滞在を提供し、笑顔で送り出す。それが、私の仕事でした」
「それで?」
「ここに来て、この宿を見て……何かできるかもしれない、と思いました。根拠はありません。ただの直感です。でも、この直感に従いたいと思いました」
セレスティアは黙って聞いていた。
「もし邪魔になるようでしたら、すぐに出て行きます。でも、一週間だけ。一週間だけ、時間をいただけませんか。それで何も変わらなければ、黙って去ります」
一週間。
その期間に、特に意味はなかった。ただ、何となく口から出た数字だった。
セレスティアは長い沈黙の後、ため息をついた。
「……三日」
「え?」
「三日よ。三日で結果を見せなさい。それで何も変わらなかったら、出て行ってもらうわ」
「三日、ですか」
「不満?」
「いいえ。ありがとうございます」
遼太郎は再び頭を下げた。今度は三十度。敬礼。感謝を表すお辞儀。
「変な人」とセレスティアは呟いた。「お辞儀の角度が、いちいち違う」
「職業病です」
「職業病?」
「会釈は十五度、敬礼は三十度、最敬礼は四十五度。そう叩き込まれました」
セレスティアは呆れたような顔をした。
「本当に変な人。でも……嫌いじゃないわ、そういうの」
それだけ言って、彼女は階段を降りていった。
廊下に、遼太郎とゴブ爺だけが残された。
「佐伯様」とゴブ爺が言った。「よろしければ、私にも教えていただけませんか」
「何をですか」
「宿の運営、というものを」
老ゴブリンの目には、真剣な光があった。
遼太郎は頷いた。
「もちろんです。ただ、その前に」
「はい」
「この宿のこと、もっと詳しく教えてください。建物の状態、設備、在庫、客層、競合、周辺環境……すべてを把握しないと、何も始められません」
「承知いたしました」
ゴブ爺は深々と一礼した。
「では、最初から、ご説明いたしましょう」
その夜。
遼太郎は、宿の二階にある客室の一つで、一人でいた。
窓から、星空が見えた。ゴブ爺が言っていた通り、まるで星が降り注いでくるような錯覚を覚える。無数の光の粒が、漆黒の空を埋め尽くしている。
「綺麗だな」
思わず、声に出していた。
東京では、こんな星空は見られなかった。光害と大気汚染で、星などほとんど見えない。いつの間にか、夜空を見上げることすら忘れていた。
ふと、視界の端に、半透明の文字が浮かんだ。
【スキル確認】
・宿屋管理者Lv.1
→ 宿泊施設の運営に関する全般的な能力が向上します。
→ 施設の状態、在庫、収支などを直感的に把握できます。
・ウォーキング Lv.1
→ 宿泊客を他の場所へ案内する能力です。
→ 詳細は未解放です。
遼太郎は、その文字をじっと見つめた。
「宿屋管理者」は、何となく分かる。自分の前職と関係しているのだろう。しかし、「ウォーキング」は謎だった。
ホテル業界における「ウォーキング」とは、オーバーブッキングの際に、予約客を他のホテルへ案内することを指す。最も避けたい事態であり、絶対に起こしてはならないミスとされている。
なぜ、そんなものがスキルになっているのか。
「詳細は未解放」とは、どういう意味なのか。
分からないことだらけだった。
しかし、分からないなりに、やるべきことはある。
遼太郎は窓辺に腰かけ、今日一日で聞いた情報を整理した。
【星降り亭の現状】
・建物:築100年以上。木造二階建て。一階に受付と食堂、二階に客室8室。
・設備:老朽化が進んでいる。特に屋根と床の傷みが激しい。
・在庫:食料はほぼ底をついている。消耗品も不足。
・資金:ほぼゼロ。セレスティアの個人資産で何とか回している状態。
・客層:以前は商人や冒険者が多かったが、現在はほぼゼロ。
・競合:周辺に宿泊施設はない。最寄りの宿は、馬で半日の距離。
・周辺環境:街道沿いだが、交通量は激減。魔物の出没報告あり。
絶望的な状況だった。
普通に考えれば、この宿に未来はない。客は来ない、金もない、設備も老朽化している。閉業して、都会に出た方がまだマシかもしれない。
しかし、遼太郎は諦める気にはなれなかった。
なぜか。
それは、自分でも分からなかった。
ただ、この宿には「何か」がある。千年以上の歴史、星降りの伝説、そしてセレスティアとゴブ爺という二人の存在。彼らがこの場所を守り続けている理由が、きっとあるはずだ。
三日間。
その間に、何ができるか。
遼太郎は目を閉じ、考え始めた。
翌朝。
日が昇ると同時に、遼太郎は行動を開始した。
まず、宿の隅々を点検した。壁の傷み、床の軋み、窓の立て付け。設備の状態を一つ一つ確認し、頭の中で優先順位をつけていく。
次に、在庫を確認した。食料庫、物置、倉庫。何がどれだけあるのか、全てを把握する。
そして、帳簿を作り始めた。
紙とペンはゴブ爺から借りた。インクは自家製で、羽根ペンで書く。慣れない道具だったが、文字を書くこと自体は問題なかった。この世界の言語は、不思議と理解できた。
「何をしているの?」
昼過ぎ、セレスティアが食堂にやってきた。遼太郎はテーブルに向かい、紙に何かを書き込んでいる。
「帳簿を作っています」
「帳簿?」
「お金の出入りを記録するものです。今月の支出、来月の予測、必要な資金……すべてを数字にします」
セレスティアは遼太郎の肩越しに、紙を覗き込んだ。
「……何これ。数字だらけ」
「経営の基本です。数字は嘘をつきません。現状を正確に把握すれば、何をすべきかが見えてきます」
「見えてくる?」
「はい。例えば」
遼太郎は紙の一点を指さした。
「この宿の最大の問題は、客がいないことです。しかし、なぜ客が来ないのか。理由は三つあります」
「三つ?」
「街道の整備不足、魔物の出没、そして滅びの予言。この三つが、旅人の足を止めています」
「それは知ってるわ」
「はい。しかし、この三つのうち、私たちの力で解決できるものが一つあります」
「……一つ?」
「魔物です」
セレスティアは眉をひそめた。
「魔物を、私たちで?」
「正確には、魔物から宿を守ることです。この宿が安全であると証明できれば、旅人は戻ってくるかもしれません」
「でも、どうやって……」
「それを、これから考えます」
遼太郎は紙をめくり、新しいページを開いた。
「セレスさん。この世界の『宿』には、何か特別な力があるのですか?」
「特別な力?」
「ゴブ爺さんから聞きました。この世界では、宿は聖域とされていると」
セレスティアの表情が、わずかに変わった。
「……それは、古い伝説よ」
「伝説?」
「千年以上前、この世界には『創世の宿屋』という場所があったと言われているの。そこから、全ての種族が生まれた。だから、宿は神聖な場所。宿の中では、争いは禁じられている」
「それは、今でも有効なのですか?」
「……昔は、そうだったらしいわ。でも、今は……」
セレスティアは言葉を濁した。
遼太郎は考え込んだ。
聖域としての宿。争いの禁止。それが今でも有効であれば、魔物から身を守る手段になるかもしれない。
しかし、「昔は」有効だった、ということは、今は効力が弱まっているのかもしれない。
「ゴブ爺さん」
遼太郎は、食堂の隅で静かに佇んでいた老ゴブリンに声をかけた。
「はい」
「この宿の『聖域としての力』について、詳しく教えていただけませんか」
ゴブ爺は少し間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「……この宿には、かつて強力な結界が張られておりました。宿の敷地内に入った者は、一切の暴力行為ができなくなる。それが、『星降り亭』の守りでございました」
「かつて、ということは……」
「今は、ほとんど機能しておりません。結界を維持するためには、『宿主』の力が必要なのです。しかし、今の私には……」
ゴブ爺の声が、小さくなった。
「待ってください」と遼太郎は言った。「『宿主』とは、誰のことですか?」
「この宿を管理する者でございます。正式には、『インキーパー』と呼ばれます」
インキーパー。
その言葉を聞いた瞬間、遼太郎の視界に、再び半透明の文字が浮かんだ。
【スキル発動条件を満たしました】
・宿屋管理者の効果が、この施設に適用されます。
遼太郎は目を見開いた。
「……何が起きたの?」
セレスティアが、不審そうに遼太郎を見ている。
「いえ、何でもありません」
遼太郎は首を振った。しかし、彼の心臓は早鐘のように打っていた。
スキルが発動した。この宿に、自分のスキルが適用された。
それが何を意味するのか、まだ分からない。しかし、何かが変わろうとしている。
三日間。
その間に、この宿を変えてみせる。
遼太郎は、静かに決意を固めた。




