第十八話 インスペクション
間者の訪問から、一週間が経った。
幸い、虚無帝国からの直接的な動きはなかった。遼太郎は、警戒を続けながらも、通常通りの宿の運営を行っていた。
そんなある日。
予想外の来客があった。
「王国の監査官だ」
受付に現れたのは、背の高い中年の男だった。厳格な表情で、書類を抱えている。
「監査官……でございますか」
対応したのは、遼太郎だった。
「そうだ。私はレオナルド。王国財務省から派遣された」
「財務省……」
「この宿の運営状況を査察するために来た。協力してもらいたい」
遼太郎は、少し驚いた。
王国の監査官が、なぜこんな辺境の宿に?
「もちろん、ご協力いたします。どうぞ、お入りください」
レオナルドは、遼太郎に案内されて食堂に入った。
「まず、帳簿を見せてもらいたい」
「かしこまりました」
遼太郎は、帳簿を取りに行った。
査察は、午前中いっぱいかかった。
レオナルドは、帳簿を一ページずつ、丁寧に確認していった。収入、支出、在庫、人件費。全ての数字を、厳しい目でチェックしている。
「……なるほど」
帳簿を閉じながら、レオナルドは呟いた。
「完璧だな」
「え?」
「帳簿の管理が、完璧だと言ったんだ」
レオナルドは、遼太郎を見つめた。
「正直、驚いた。こんな辺境の宿で、これほど精密な帳簿管理をしているとは」
「ありがとうございます」
「誰がつけている?」
「私です」
「お前が……」
レオナルドの目が、わずかに細くなった。
「お前、どこで会計を学んだ」
「以前、宿泊施設で働いていました。そこで、帳簿管理の基本を学びました」
「以前の職場か……どこだ」
「遠くの、この国とは違う場所です」
遼太郎は、曖昧に答えた。
レオナルドは、それ以上追及しなかった。
「次は、施設を見せてもらおう」
「かしこまりました」
施設の査察も、細かいところまでチェックされた。
客室の状態、食堂の衛生管理、厨房の設備、従業員の勤務状況。レオナルドは、全てを見逃さない目で見ていた。
「客室は清潔だな」
「ありがとうございます」
「食堂も、よく管理されている」
「スタッフが、毎日丁寧に掃除しています」
「スタッフか……彼らの接客を見たい」
「かしこまりました」
ちょうどその時、新しい客が到着した。
「いらっしゃいませ」
対応したのは、エミリアだった。
「本日は、ご宿泊でしょうか」
「ああ、そうだ。部屋を頼む」
「かしこまりました。どのようなお部屋をご希望でしょうか」
エミリアは、笑顔で、丁寧に対応していた。言葉遣いも、お辞儀の角度も、完璧だ。
レオナルドは、その様子をじっと見ていた。
「……見事だな」
彼は呟いた。
「スタッフの教育が、行き届いている」
「ありがとうございます」
「誰が教えた」
「私です」
「お前か……」
レオナルドは、腕を組んだ。
「お前、いったい何者だ」
「ただの宿屋の主人です」
「ただの宿屋の主人が、こんな完璧な運営をするとは思えない」
「光栄です」
遼太郎は、にこりと笑った。
レオナルドは、しばらく遼太郎を見つめていた。そして、ため息をついた。
「……まあいい。結果が全てだ」
「結果……でございますか」
「ああ。この宿は、合格だ」
「合格……」
「査察の結果、問題なしと報告する。むしろ、模範的な運営だ」
レオナルドは、書類に何かを書き込んだ。
「王都に戻ったら、上に報告する。この宿を、優良宿泊施設として認定する提案をするつもりだ」
「ありがとうございます」
遼太郎は、深く頭を下げた。
「感謝は不要だ。お前たちが努力した結果だ」
レオナルドは立ち上がった。
「ところで、一つ聞きたい」
「何でしょうか」
「王都に支店を出す気はないか」
「支店……でございますか」
「ああ。お前のような人間が運営する宿があれば、王都の宿泊業界も変わるだろう」
遼太郎は、考え込んだ。
王都への進出。それは、以前から考えていたことだった。しかし、資金も、人材も、まだ十分ではない。
「……考えておきます」
「そうか。期待している」
レオナルドは、宿を後にした。
監査官が去った後、遼太郎はスタッフを集めた。
「査察の結果は、合格でした」
「本当ですか!」
エミリアが、喜びの声を上げた。
「はい。むしろ、模範的な運営だと褒められました」
「やったー!」
「すごい!」
スタッフたちが、歓声を上げた。
「これは、皆さんの努力の成果です。本当に、ありがとうございます」
「いえ、リョウ様のおかげです」
「リョウ様が教えてくださったから、ここまで来られました」
スタッフたちの目に、感謝の光が宿っていた。
「これからも、この調子で頑張りましょう」
「はい!」
その夜。
遼太郎は、セレスティアと二人で話していた。
「王都に支店を出す話が出ました」
「支店……」
「監査官から、提案されました」
セレスティアは、考え込んでいた。
「王都に支店を出せば、もっと多くの人に、この宿のサービスを届けられます」
「でも、資金は……」
「まだ足りません。でも、増築の資金も合わせて、計画を立てる価値はあります」
遼太郎は言った。
「王都は、この国の中心です。そこに足がかりを作れば、この宿の未来は、もっと広がります」
「未来……」
セレスティアは、窓の外を見た。
「父は、この宿を守るために死んだ。でも、あなたは違う。この宿を、成長させようとしている」
「成長することが、守ることだと思います」
遼太郎は言った。
「現状維持は、衰退と同じです。常に前に進まなければ、いつか追いつかれ、追い越されます」
「……あなた、本当に変わってるわね」
「よく言われます」
遼太郎は微笑んだ。
「でも、嫌いじゃないわ」
セレスティアも、微かに笑った。
「王都への進出……考えてみる価値はあるかもしれないわね」
「はい。一緒に考えましょう」
二人は、夜遅くまで話し合った。
星降り亭の未来について。王都への進出について。そして、この宿を、どう成長させていくかについて。
新しい挑戦の種が、静かに芽吹き始めていた。




