第十六話 競合他社の影
結界強度が70%を超えてから、宿の運営はさらに順調になっていた。
客は毎日のように訪れ、スタッフたちも成長している。増築のための資金も、着実に貯まっていた。
しかし、順風満帆な日々は、長くは続かなかった。
ある日の午後。
一人の商人が、宿を訪れた。
「いらっしゃいませ」
エミリアが出迎えた。
「ああ、泊まりたいんだが」
商人は、五十代くらいの男だった。高価そうな服を着て、金の指輪をいくつもはめている。裕福そうな風貌だ。
「かしこまりました。本日は、どのようなお部屋をご希望でしょうか」
「一番いい部屋だ。金は気にしない」
「承知いたしました。では、二階の一号室をご用意いたします」
一号室は、この宿で最も広い部屋だ。窓が二つあり、眺めも良い。
商人は、部屋に案内されると、じろじろと周囲を見回した。
「ふむ……なるほど」
「何かお気づきの点がございましたら、お申し付けください」
「いや、何でもない。下がっていい」
エミリアは頭を下げ、部屋を出た。
その後も、商人は宿のあちこちを見て回っていた。食堂、厨房、裏庭のテント泊エリア。まるで、何かを調べているかのようだった。
「リョウ様」
エミリアが、遼太郎のところに来た。
「あのお客様、少し変な感じがします」
「変な感じ……?」
「何か、探っているような……」
遼太郎は、商人の様子を遠くから観察した。
確かに、普通の客とは違う雰囲気がある。宿泊を楽しむというよりは、何かの目的を持って来ているような。
「注意して見ていましょう」
遼太郎は言った。
夕食の時間。
商人は、食堂で一人、料理を食べていた。
遼太郎は、さりげなく近づいた。
「お食事は、お口に合いましたでしょうか」
「ああ、美味い。思ったよりも、レベルが高いな」
商人は、品定めするような目で遼太郎を見た。
「お前がここの支配人か」
「はい。リョウと申します」
「俺はヴィクター。隣国で商売をしている」
「隣国……エルディアではない国ですか」
「ああ。虚無帝国だ」
遼太郎の背筋に、冷たいものが走った。
虚無帝国。
それは、黒須……いや、クロノスが支配する国だ。
「虚無帝国の商人が、なぜこの辺境に?」
「商売のためだ。この街道は、最近また人通りが増えてきたと聞いた。ビジネスチャンスがあると思ってな」
「そうですか」
遼太郎は、表情を変えずに答えた。しかし、内心では警戒を強めていた。
「で、この宿だが」
ヴィクターは、周囲を見回した。
「なかなか繁盛しているようだな。秘訣は何だ?」
「お客様に、心を込めたサービスを提供しているだけです」
「心を込めたサービス、か。抽象的だな」
「具体的なことは、企業秘密です」
遼太郎は、にこりと笑った。
ヴィクターの目が、一瞬だけ鋭くなった。
「……なるほど。頭の回る奴だな」
「恐縮です」
「いや、褒めてるんだ。俺は、そういう奴が好きだ」
ヴィクターは、料理の最後の一口を食べ終えた。
「また来るかもしれん。その時は、よろしく頼む」
「いつでもお越しください」
遼太郎は頭を下げた。
ヴィクターは、部屋に戻っていった。
その夜。
遼太郎は、セレスティアとゴブ爺を集めた。
「あの商人、虚無帝国から来たそうです」
「虚無帝国……!」
セレスティアの顔が、強張った。
「間者かもしれません」
「間者……」
「この宿の情報を集めて、本国に報告する。そういう目的で来ている可能性があります」
「どうするの」
「今のところ、何もできません。彼が宿泊客である以上、追い出すわけにはいきません」
遼太郎は言った。
「ただ、注意は必要です。重要な情報を漏らさないように、スタッフにも伝えておきましょう」
「分かったわ」
セレスティアが頷いた。
「リョウ様」
ゴブ爺が、深刻な顔で言った。
「虚無帝国が、この宿に興味を持っているとすれば、良い兆候ではございません」
「分かっています」
「クロノスは、この世界を滅ぼそうとしている男でございます。彼がこの宿を知れば……」
「何か、仕掛けてくるかもしれませんね」
遼太郎は、窓の外を見た。
夜空に、星が輝いている。しかし、その美しさの裏で、暗い影が迫っているような気がした。
「警戒を怠らないようにしましょう」
彼は言った。
「何が起きても、対応できるように」
翌朝。
ヴィクターは、チェックアウトした。
「世話になった」
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
エミリアが、丁寧に送り出した。
ヴィクターは、一度だけ振り返り、宿全体を見回した。そして、何も言わずに去っていった。
「行きましたね……」
エミリアが、ほっとした様子で言った。
「ええ。でも、油断はできません」
遼太郎は、ヴィクターの去った方向を見つめていた。
虚無帝国の影。
それは、確実に、この宿に迫っていた。




