第十四話 語先後礼
接客訓練が一段落した頃、遼太郎は次のステップを考え始めていた。
スタッフの基本的なスキルは向上した。お辞儀の角度、言葉遣い、立ち居振る舞い。どれも、一定のレベルに達している。
しかし、まだ足りないものがあった。
「接客の『心』です」
朝のミーティングで、遼太郎は言った。
「技術は身についてきました。でも、心がこもっていなければ、本当のサービスにはなりません」
スタッフたちは、真剣な顔で聞いていた。
「心……ですか」
エミリアが尋ねた。
「はい。お客様に対する敬意、感謝、思いやり。それらを、言葉や動作に込めることが大切です」
「具体的には、どうすればいいのですか……」
「まず、『語先後礼』を徹底しましょう」
「ごせんごれい……前に教えていただいた、言葉を先に言って、後からお辞儀をする、というやつですよね」
「その通りです。しかし、今日はもう一歩踏み込みます」
遼太郎は立ち上がった。
「語先後礼の『先』には、もう一つの意味があります。それは、『心を先に込める』ということです」
「心を先に込める……」
「はい。言葉を発する前に、まず心の中で『ありがとう』や『いらっしゃいませ』という気持ちを作る。そして、その気持ちを込めて言葉を発する」
遼太郎は実演した。
彼は目を閉じ、一呼吸置いた。そして、目を開けて言った。
「いらっしゃいませ」
その声には、不思議な温かみがあった。ただ言葉を発しただけなのに、心がこもっているのが伝わってきた。
「すごい……」
ソフィアが、感嘆の声を漏らした。
「これが、心を込めるということです。技術だけでは、この温かみは出せません」
遼太郎は説明した。
「お客様は、言葉の内容だけでなく、その裏にある気持ちを感じ取ります。心がこもっていれば、それは必ず伝わります」
「でも、どうやって心を込めるのですか……」
マルクスが困惑した顔で尋ねた。
「お客様のことを、本当に大切に思うことです」
遼太郎は答えた。
「お客様は、わざわざこの宿を選んで来てくださった。遠い道のりを歩いて、お金を払って。そのことに、感謝の気持ちを持つ」
「感謝の気持ち……」
「はい。その気持ちがあれば、自然と言葉に心がこもります。逆に、形だけの挨拶は、どこか冷たく感じられてしまいます」
スタッフたちは、考え込んでいるようだった。
「今日から、実践してみてください。お客様を迎える時、まず心の中で『来てくださってありがとう』と思う。そして、その気持ちを込めて『いらっしゃいませ』と言う」
「分かりました……」
「最初は難しいかもしれません。でも、続けていれば、必ずできるようになります」
その日から、スタッフたちは「心を込める」練習を始めた。
最初は、ぎこちなかった。言葉と心がうまく連動せず、かえって不自然になることもあった。
しかし、一週間ほど経つと、変化が現れ始めた。
「いらっしゃいませ」
エミリアの挨拶が、以前より温かくなっていた。言葉の端々に、柔らかさが感じられる。
「エミリアさん、いい感じですね」
「あ、ありがとうございます……」
「心を込めること、できていますか?」
「はい。お客様が来るたびに、『来てくださってありがとう』って、心の中で思うようにしています」
「素晴らしい。その調子で続けてください」
他のスタッフも、少しずつ上達していった。
特に、ソフィアの変化は顕著だった。彼女は元々、明るい笑顔が特徴だったが、それに加えて、言葉に温かみが加わった。
「お待たせいたしました。お食事をお持ちいたしました」
彼女がお皿を運ぶたびに、客の表情が和らいでいく。
「この宿のスタッフは、みんな親切だな」
「ああ。接客が丁寧で、気持ちがいい」
客からの評判は、どんどん上がっていった。
ある日の午後。
一組の老夫婦が、宿を訪れた。
彼らは、長い旅をしてきたようで、疲れ切った様子だった。服は埃まみれで、足取りは重い。
「いらっしゃいませ」
エミリアが、心を込めて出迎えた。
「あ、ああ……部屋を頼む」
老人が、かすれた声で言った。
「かしこまりました。お疲れのところ、遠方よりお越しいただきありがとうございます」
エミリアは、深々と頭を下げた。
老人夫婦は、少し驚いた顔をした。
「丁寧だな……」
「ありがとう、お嬢さん」
老婦人が、微かに微笑んだ。
「お部屋にご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
エミリアは、ゆっくりとした歩調で、二人を客室へ案内した。彼らの疲れを考慮して、急がせないようにしたのだ。
「こちらが、お部屋でございます。お食事は、六時からご用意できますが、もしお疲れでしたら、お部屋にお持ちすることもできます」
「そうか……ありがたいな。部屋で食べさせてもらおうか」
「かしこまりました。六時に、お部屋にお持ちいたします」
エミリアは再び頭を下げ、部屋を後にした。
その夜。
老夫婦の部屋に、夕食を運んだのはゴブ爺だった。
「お待たせいたしました。本日の夕食でございます」
ゴブ爺は、丁寧にお膳を並べた。温かいスープ、焼きたてのパン、野菜の炒め物、そして肉料理。
「おお、美味そうだな」
老人が、目を輝かせた。
「ありがとう。こんなに丁寧にしてもらえるなんて……」
老婦人の目に、涙が浮かんでいた。
「お婆様、どうかなさいましたか」
ゴブ爺が、心配そうに尋ねた。
「いえ、いえ……ただ、嬉しくて」
老婦人は、涙を拭いた。
「私たち、息子を訪ねる旅の途中なんです。でも、道中、あまり良い宿がなくて……」
「ここに来て、ほっとしました。スタッフの皆さんが、本当に親切で」
老人が言った。
「息子は、王都で商人をしているんです。でも、ここ数年、会えていなくて……」
「王都まで、まだ長い道のりがございますな」
「ええ。でも、この宿で元気をもらいました。明日からも、頑張れそうです」
老夫婦は、笑顔で言った。
ゴブ爺は、深く頭を下げた。
「良いご旅行を、お祈りしております」
翌朝。
老夫婦が、チェックアウトに訪れた。
「お世話になりました」
老人が、受付カウンターで言った。
「こちらこそ、ご宿泊いただきありがとうございました」
対応したのは、遼太郎だった。
「本当に、いい宿でした。スタッフの皆さんが、心からおもてなしをしてくれて……」
老婦人が言った。
「息子に会ったら、この宿のことを話します。きっと、彼も来たいと思うわ」
「ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」
遼太郎は、深々と頭を下げた。三十度の敬礼。
老夫婦は、笑顔で宿を後にした。
その背中を見送りながら、遼太郎は思った。
「これが、サービスの本当の価値だ」
技術だけではない。心がこもったサービスは、お客様の心に残る。そして、それが口コミとなって広がっていく。
「リョウ様」
ゴブ爺が、隣に来ていた。
「あのご夫婦、とても喜んでおられました」
「はい。エミリアさんの対応が、素晴らしかったです」
「語先後礼……心を先に込める。リョウ様の教えが、実を結んでおります」
ゴブ爺の目に、喜びの光が宿っていた。
「いえ、私の教えではありません。スタッフ一人一人が、自分で考えて行動した結果です」
遼太郎は言った。
「私は、きっかけを与えただけ。本当の功労者は、彼らです」
「ご謙遜を」
「謙遜ではありません。事実です」
遼太郎は微笑んだ。
「さあ、今日も一日、頑張りましょう」
その日の夕方。
スタッフ全員を集めて、遼太郎はある発表を行った。
「皆さんに、嬉しいお知らせがあります」
「嬉しいお知らせ……ですか」
エミリアが、首を傾げた。
「はい。結界強度が、50%に到達しました」
スタッフたちから、歓声が上がった。
「50%! すごい!」
「半分まで回復したのね!」
「皆さんの努力のおかげです」
遼太郎は言った。
「一ヶ月前、結界強度はたったの3%でした。それが、今では50%。これは、皆さんがお客様に心を込めたサービスを提供してきた結果です」
「私たちの……サービスが……」
ソフィアが、感動した様子で呟いた。
「はい。この宿の結界は、お客様の感謝によって強化されます。皆さんが心を込めて接客するから、お客様は感謝の気持ちを持って帰っていく。その気持ちが、この宿を守る力になるのです」
「すごい……」
「そういう仕組みだったのか……」
スタッフたちは、それぞれ感慨深げな表情を浮かべていた。
「これからも、この調子で頑張りましょう。目標は、結界強度100%です」
「はい!」
スタッフたちの声が、食堂に響いた。
星降り亭は、着実に再生への道を歩んでいた。




