第十三話 お辞儀の角度
スタッフが増えてから、二週間が経った。
宿の運営は、順調だった。客は毎日のように訪れ、結界強度も着実に上昇している。しかし、遼太郎にはまだ満足できない点があった。
接客の質だ。
スタッフたちは真面目に働いているが、サービスのレベルにはバラつきがあった。特に、挨拶の仕方や言葉遣いは、人によって差が大きい。
「統一されたサービスを提供するには、もっと体系的な教育が必要ですね」
朝のミーティングで、遼太郎は宣言した。
「今日から、接客の特別訓練を行います」
スタッフたちが、緊張した面持ちで顔を見合わせた。
「特別訓練……ですか」
エミリアが尋ねた。
「はい。お辞儀の角度、言葉遣い、立ち居振る舞い。ホテルマンとして必要な基本を、徹底的に身につけてもらいます」
「ホテルマン……」
「ホテルで働く人のことです。私がいた世界では、そう呼ばれていました」
遼太郎は立ち上がった。
「では、始めましょう」
最初に教えたのは、お辞儀の角度だった。
「お辞儀には、三種類あります」
遼太郎は、スタッフたちの前に立って説明した。
「会釈、敬礼、最敬礼。それぞれ、使う場面が異なります」
彼は実演を始めた。
「まず、会釈。角度は十五度」
軽く頭を下げる。視線は相手の足元あたりに落ちる程度だ。
「会釈は、廊下ですれ違う時や、遠くからお客様を認識した時に使います。軽い挨拶ですね」
スタッフたちは、真剣に見ている。
「次に、敬礼。角度は三十度」
少し深く頭を下げる。背筋は伸ばしたまま、腰から折る。
「敬礼は、お出迎えやお見送り、感謝を伝える時に使います。最も頻繁に使うお辞儀です」
「三十度……」
マルクスが、メモを取りながら呟いた。
「最後に、最敬礼。角度は四十五度」
深く頭を下げる。視線は完全に床に落ちる。
「最敬礼は、謝罪の時や、特別なお客様への敬意を表す時に使います。最も丁寧なお辞儀です」
遼太郎は顔を上げた。
「この三種類を、状況に応じて使い分けることが大切です。では、皆さんもやってみましょう」
「は、はい!」
スタッフたちが立ち上がった。
「まず、会釈から。十五度です」
「十五度……」
エミリアが、おそるおそる頭を下げた。しかし、角度が浅すぎる。
「もう少し深く。背筋は伸ばしたまま、首だけでなく腰から曲げてください」
「こ、こうですか……?」
「そうです。いい感じです」
次に、敬礼。三十度。
ソフィアは、角度は良かったが、背中が丸まっていた。
「背筋を伸ばしてください。猫背になると、だらしなく見えます」
「は、はい……」
最敬礼。四十五度。
トマスは、角度が深すぎて、ほとんど九十度に近くなっていた。
「深すぎます。四十五度で止めてください」
「四十五度って、どのくらいだ?」
「こうです」
遼太郎が見本を見せた。
「自分の視線が、床から一メートルくらいの位置に落ちるイメージです」
「なるほど……」
何度も何度も、繰り返し練習した。
一時間後。スタッフたちは、汗だくになりながら、ようやく正しい角度を身につけ始めていた。
「よくできました。今日は、ここまでにしましょう」
「は、はい……」
「疲れたわね……」
スタッフたちは、疲労の色を浮かべていた。しかし、その目には、達成感も見えた。
「明日も、続けます。今日の復習を、忘れないでください」
「はい!」
翌日からも、訓練は続いた。
お辞儀の次は、言葉遣いを教えた。
「接客で使う基本的な言葉を覚えてもらいます」
遼太郎は、黒板に文字を書いた。
【接客基本用語】
・いらっしゃいませ(お出迎え)
・ありがとうございます(感謝)
・申し訳ございません(謝罪)
・かしこまりました(了承)
・少々お待ちください(依頼)
・お待たせいたしました(お詫び)
・恐れ入りますが(お願い)
・いかがなさいますか(確認)
「これらの言葉を、適切な場面で使えるようになってください」
「適切な場面……」
「はい。例えば、お客様が到着した時は『いらっしゃいませ』。何かをしてもらった時は『ありがとうございます』。ミスをした時は『申し訳ございません』」
遼太郎は説明を続けた。
「大切なのは、心を込めて言うことです。ただ言葉を発するだけでは、お客様には伝わりません」
「心を込めて……」
エミリアが、真剣な顔で復唱した。
「では、ロールプレイをしましょう。私がお客様役をやります」
遼太郎は食堂の入り口に立った。
「エミリアさん、お出迎えをしてください」
「は、はい!」
エミリアが受付カウンターの後ろに立った。
遼太郎は、客のふりをして食堂に入った。
「いらっしゃいませ!」
エミリアが声を上げた。そして、三十度の敬礼。
「よくできました。しかし、もう少し柔らかい声で言えるといいですね。大きな声は良いですが、圧迫感を与えないように」
「は、はい……いらっしゃいませ……」
「今度は小さすぎます。ちょうど良い中間を探してください」
何度も繰り返し、練習した。
他のスタッフも、一人ずつロールプレイを行った。それぞれに課題があり、それぞれに改善点を指摘した。
「ソフィアさんは、笑顔が素晴らしいです。でも、言葉が早すぎます。もっとゆっくり話してください」
「マルクスさんは、声が大きくて良いです。でも、表情が硬い。もう少しリラックスしてください」
「トマスさんは、落ち着いていて良いです。でも、目線がお客様に向いていません。相手の目を見て話しましょう」
一人一人に、丁寧にフィードバックを伝えた。
訓練は、三日間続いた。
最終日には、実践テストを行った。
「今日は、実際のお客様に対応してもらいます」
遼太郎が宣言した。
「私が横で見ていますから、困ったら助けます。でも、できるだけ自分の力でやってみてください」
「は、はい……」
スタッフたちは、緊張した面持ちだった。
その日の午後。
冒険者の一行が、宿を訪れた。三人組のパーティだ。
「いらっしゃいませ」
最初に対応したのは、エミリアだった。
声は適度な大きさで、お辞儀の角度も完璧。言葉遣いも丁寧だ。
「本日は、ご宿泊でしょうか」
「ああ、そうだ。部屋は空いてるか?」
「はい、ございます。少々お待ちください」
エミリアは、予約台帳を確認した。
「本日は、二階の三号室と四号室が空いております。いかがなさいますか」
「じゃあ、三号室を二人で使う。もう一人は四号室で」
「かしこまりました」
エミリアは、手際よく手続きを進めた。
遼太郎は、少し離れた場所から見守っていた。
「上手くやっている……」
彼は、心の中で頷いた。
訓練の成果が、出ている。
対応が終わった後、冒険者たちは満足そうな顔をしていた。
「いい宿だな。スタッフが丁寧だ」
「ああ。また来たいな」
その言葉を聞いて、エミリアの顔がパッと明るくなった。
「ありがとうございます! またのお越しをお待ちしております」
三十度の敬礼。
完璧だった。
夕方。
訓練の成果を確認した遼太郎は、スタッフ全員を集めた。
「皆さん、よく頑張りました」
彼は、一人一人の顔を見回した。
「今日の実践テストは、全員合格です」
「本当ですか!」
エミリアが喜びの声を上げた。
「はい。もちろん、まだ改善の余地はあります。でも、基本はできています。あとは、実践を重ねて、経験を積んでください」
「はい!」
スタッフたちの顔には、達成感と自信が浮かんでいた。
「これからも、毎日少しずつ訓練を続けます。接客は、一生勉強です。私も、まだまだ学ぶことがあります」
「リョウ様でも、学ぶことがあるのですか……」
ソフィアが、驚いた顔で言った。
「もちろんです。完璧な人間など、存在しません。だからこそ、常に向上心を持って、努力し続けることが大切なのです」
遼太郎は微笑んだ。
「皆さんは、私の自慢のスタッフです。これからも、一緒に頑張りましょう」
「はい!」
スタッフたちの声が、食堂に響いた。
星降り亭の接客レベルは、確実に向上していた。
その夜。
遼太郎は、一人で帳簿をつけていた。
「結界強度、45%に到達……」
順調だ。このペースなら、あと二ヶ月で100%に戻せるかもしれない。
「リョウ」
声がして、顔を上げた。
セレスティアが、階段を降りてきていた。
「まだ起きてたの?」
「はい。帳簿をつけていました」
「相変わらず、働き者ね」
セレスティアは、遼太郎の向かいに座った。
「スタッフの訓練、見てたわ。すごかった」
「すごかった……ですか」
「ええ。みんな、見違えるように上手くなってた。あなたの教え方が、いいんでしょうね」
「いえ、彼らが真面目だからです」
「謙遜しないで。あなたの功績よ」
セレスティアは、真っ直ぐに遼太郎を見つめた。
「お辞儀の角度なんて、考えたこともなかった。でも、それを教えてもらって、初めて分かった。接客って、奥が深いのね」
「はい。接客は、科学であり、芸術でもあります」
「科学と芸術……」
「数字で測れる部分と、測れない部分がある。両方を高めていくことが、最高のサービスにつながります」
遼太郎は言った。
「お辞儀の角度は、数字で測れます。でも、心を込めて言葉を発することは、数字では測れない。両方が揃って、初めて本物のサービスになります」
セレスティアは、黙って聞いていた。
「あなた、本当にすごい人ね」
「いいえ、私は……」
「謙遜しないで」
セレスティアが、遼太郎の言葉を遮った。
「あなたは、この宿を変えてくれた。私一人では、絶対にできなかったこと」
「セレスさん……」
「ありがとう、リョウ。本当に」
セレスティアは、微かに笑った。
その笑顔を見て、遼太郎の胸が、わずかに高鳴った。
「……いえ、こちらこそ。一緒に働けて、光栄です」
「そう? なら、よかった」
セレスティアは立ち上がった。
「おやすみ、リョウ」
「おやすみなさい」
彼女が去った後、遼太郎は一人、帳簿を見つめていた。
「……何だったんだろう」
胸の高鳴りの正体は、分からなかった。
しかし、それは決して、不快なものではなかった。




