第十一話 リノベーション
滅びの予言。漆黒の王クロノス。そして、黒須剛志という男の影。
それらの重い情報を知ってから、一週間が経っていた。
遼太郎は、あえてその問題を深く考えないようにしていた。考えたところで、今の自分にできることは限られている。世界を救うなど、途方もない話だ。それよりも、目の前の仕事に集中すべきだと、彼は自分に言い聞かせていた。
「結界強度、32%に到達しました」
朝の巡回を終えた遼太郎は、帳簿を確認しながら呟いた。
客は着実に増えている。一日平均三組から四組。満室になる日も珍しくなくなった。口コミの力は、思った以上に大きかった。カイラをはじめとする冒険者たちが、各地で「星降り亭」の評判を広めてくれているのだ。
しかし、問題もあった。
「部屋が足りない」
遼太郎は窓の外を見た。
客室は八部屋。現在の稼働率から考えると、これでは需要に追いつかない。断らざるを得ない客も出始めていた。
「リョウ様」
ゴブ爺が、朝食の準備を終えて食堂に入ってきた。
「おはようございます。今日の予約状況は?」
「満室でございます。さらに、飛び込みの問い合わせが三件ありました」
「三件……全部、断ったのですか」
「はい。申し訳ございません」
ゴブ爺の表情が、わずかに曇っていた。客を断ることは、宿屋にとって最も辛いことの一つだ。
「いえ、ゴブ爺さんのせいではありません。部屋が足りないのが問題です」
遼太郎は立ち上がり、食堂を見回した。
この建物は、千年以上の歴史を持つ。しかし、その構造は当時のままだ。八部屋という規模は、かつての交通量には十分だったのかもしれない。しかし、今の需要には追いつかない。
「増築が必要ですね」
彼は言った。
「増築……でございますか」
「はい。部屋を増やさなければ、これ以上の成長は望めません」
「しかし、資金が……」
「今は、少しずつですが、収益が出始めています。そのお金を投資に回せば、増築は可能です」
遼太郎は帳簿を開いた。
この一週間の収支を確認する。宿泊収入、食事収入、そして村との取引による収入。合計すると、銀貨で約五十枚。日本円に換算すると、約五万円相当だろうか。
「銀貨五十枚あれば、小規模な増築は可能でしょうか」
「正直なところ、厳しいかと存じます」とゴブ爺が答えた。「職人の手間賃、材料費、その他諸々を考えると、最低でも銀貨二百枚は必要かと」
「二百枚……」
四倍の資金が必要だ。今のペースでは、数ヶ月かかる。
「他に方法はないでしょうか」
遼太郎は考え込んだ。
増築以外の方法。部屋を増やさずに、収容人数を増やす方法。
「……待てよ」
彼は何かを思いついた。
「ゴブ爺さん。この宿の敷地は、どれくらいありますか」
「敷地でございますか。建物の周囲に、草原が広がっております。正確な面積は分かりませんが、かなりの広さかと」
「その土地は、自由に使えますか」
「はい。この宿に付随する土地ですので、問題はないかと」
遼太郎の目が輝いた。
「テントを張りましょう」
「テント……でございますか」
「はい。建物の増築には時間とお金がかかります。でも、テントなら、すぐに設営できます」
ゴブ爺は首を傾げた。
「しかし、テントでは、客室のようなサービスは……」
「もちろん、通常の客室と同じレベルは無理です。でも、野営よりは遥かに快適な環境を提供できます」
遼太郎は説明を続けた。
「この世界の冒険者は、普段どこで寝ていますか」
「野営が多いかと。森の中や、洞窟の入り口などで」
「つまり、彼らにとって、テントでの宿泊は決して珍しいことではない」
「なるほど……」
「清潔なテント、温かい寝具、そして宿の食事やお風呂を利用できる権利。これらをセットにして、通常の客室より安い価格で提供する。それが、『テント泊プラン』です」
ゴブ爺の目が、わずかに輝いた。
「面白いアイデアでございますな」
「問題は、テントがあるかどうかですが……」
「倉庫に、いくつかございます。以前、大規模なパーティを受け入れた際に使用したものが残っております」
「では、それを使いましょう」
遼太郎は立ち上がった。
「今日から、準備を始めます。テントの設営場所を決め、必要な備品を揃え、価格を設定する。一週間後には、サービスを開始できるようにしましょう」
「承知いたしました」
ゴブ爺は深く頭を下げた。
「リョウ様。私は、あなたの発想力に感服いたします」
「発想力というほどのものではありません。ただ、現状の制約の中で、できることを探しているだけです」
遼太郎は微笑んだ。
「ホテル業界では、これを『プロダクト・ミックス』と呼びます。異なるタイプの商品を組み合わせて、多様な顧客ニーズに応える戦略です」
「プロダクト・ミックス……」
「高級な客室を求める客には、既存の部屋を。安さを重視する客には、テント泊プランを。そうやって、客層を広げるのです」
ゴブ爺は感心したように頷いた。
「商売の才がおありですな、リョウ様は」
「才能ではありません。経験です」
遼太郎は苦笑した。
「さて、仕事を始めましょう。やることは山ほどあります」
テント泊プランの準備は、予想以上にスムーズに進んだ。
倉庫から見つかったテントは五張り。どれも頑丈な作りで、多少の雨風なら問題なさそうだった。遼太郎はそれを宿の裏手、草原に面した場所に設営することにした。
「ここなら、夜は星がよく見えますね」
彼はテントの設営場所を決めながら言った。
「はい。このあたりは、特に星降りが美しい場所でございます」
「星降り……それを売りにしましょう。『星空テント泊プラン』とでも名付けて」
「素敵な名前でございますな」
テントの中には、厚手の毛布と枕を用意した。地面には、敷物を敷いて冷気を防ぐ。ランプも一つずつ配置した。
「これで、最低限の快適さは確保できました」
遼太郎はテントの中を見回した。
「あとは、共用のスペースを作りましょう。テント泊の客が集まれる場所を」
「共用のスペース……」
「焚き火を囲んで、食事をしたり、話をしたりできる場所です。冒険者同士の交流の場になります」
ゴブ爺は目を丸くした。
「それは……面白いアイデアでございますな。宿の中ではなく、外で食事をする、ということでございますか」
「はい。もちろん、食堂での食事も選べるようにします。でも、野外で焚き火を囲んで食べる料理にも、独自の魅力があります」
遼太郎は空を見上げた。
「都会では、こういう体験はできません。だからこそ、価値があるのです」
「都会……リョウ様の故郷のことでございますか」
「ええ。私がいた世界では、星空を見ることすら難しかった。光が多すぎて」
「光が多すぎて、星が見えない……」
ゴブ爺は首を傾げた。その概念が、彼には理解しがたいようだった。
「とにかく、この宿の最大の武器は、星空です。それを最大限に活かしましょう」
テント泊プランの準備を進める中で、遼太郎はもう一つの問題に直面していた。
人手の不足だ。
現在、星降り亭のスタッフは三人。遼太郎、セレスティア、ゴブ爺。村から時々手伝いに来てくれる大工のトマスとルークを入れても、五人だ。
しかし、客が増えれば、それに比例して仕事も増える。掃除、食事の準備、接客、備品の管理……。三人では、とても回らなくなってきていた。
「スタッフを増やす必要がありますね」
夕食後、遼太郎は食堂でセレスティアとゴブ爺に相談した。
「スタッフを……」
セレスティアが眉をひそめた。
「でも、給料を払う余裕はないわ」
「今の収益なら、一人か二人は雇えます。問題は、誰を雇うかです」
遼太郎は帳簿を見ながら言った。
「村の人に、声をかけてみてはいかがでしょうか」とゴブ爺が提案した。「若い者の中には、仕事を求めている者もおります」
「村の人……」
遼太郎は考え込んだ。
村との関係は、以前より良くなっている。宿が繁盛し始めたことで、村にも恩恵が及んでいた。野菜や肉などの食材を買い取っているし、大工仕事の依頼も出している。
「明日、村長さんに相談してみましょう」
「分かったわ」
セレスティアが頷いた。
「私も一緒に行く」
「いいんですか?」
「当然でしょ。この宿の共同経営者なんだから」
セレスティアは腕を組んで言った。その表情には、以前はなかった自信が見えた。
「……分かりました。では、明日、一緒に村へ行きましょう」
翌日。
遼太郎とセレスティアは、村を訪れた。
村長の家に通されると、すでに何人かの村人が集まっていた。遼太郎たちの来訪を聞きつけて、集まってきたらしい。
「星降り亭の者が来たぞ」
「何の用だ?」
「また何か依頼があるのか?」
ざわざわと、声が上がる。その中には、好意的なものと、警戒するものが混じっていた。
「静かにしろ」
村長が一喝した。
「お前たち、話を聞いてからにしろ」
村人たちが静まった。村長は遼太郎に向き直った。
「で、今日は何の用だ?」
「スタッフを探しています」
遼太郎は単刀直入に言った。
「スタッフ……?」
「はい。宿で働いてくれる人を、二人ほど雇いたいのです」
村長の表情が変わった。
「働く……給料が出るのか」
「もちろんです。月給制で、銀貨十枚。食事と宿泊は宿で提供します」
「銀貨十枚……」
村人たちがざわめいた。
この地域では、銀貨十枚はかなりの額だ。農作業だけでは、なかなか稼げない金額である。
「どんな仕事だ?」
村長が尋ねた。
「主に、清掃と接客です。客室の掃除、食堂の準備、お客様のご案内など」
「特別な技術は必要か?」
「いいえ。必要な技術は、私が教えます」
遼太郎は言った。
「ただし、条件があります」
「条件?」
「真面目に働ける人。お客様に対して、常に礼儀正しく接することができる人。そういう人を探しています」
村長は考え込んだ。
「……俺の娘はどうだ」
「娘さん?」
「エミリアという。十七歳だ。真面目な子で、よく働く」
「お会いしたいですね」
「今、呼んでくる」
村長は立ち上がり、奥の部屋へ向かった。しばらくして、一人の少女を連れて戻ってきた。
茶色い髪を一つに結んだ、素朴な印象の少女だった。緊張した面持ちで、遼太郎とセレスティアを見ている。
「エミリアです」
村長が紹介した。
「お、お会いできて光栄です……」
エミリアは、ぎこちなく頭を下げた。
遼太郎は彼女を観察した。目は真っ直ぐで、誠実そうだ。手は荒れているが、それは農作業で鍛えられた証拠だろう。
「エミリアさん。宿で働くことに、興味はありますか?」
「は、はい!」
エミリアの声が、わずかに大きくなった。
「でも、私、宿の仕事なんてしたことなくて……」
「大丈夫です。必要なことは、全て教えます」
遼太郎は微笑んだ。
「大切なのは、やる気と素直さです。エミリアさんには、それがあるように見えます」
エミリアの顔が、わずかに赤くなった。
「あ、ありがとうございます……」
「では、採用ということで。明日から、宿に来てください」
「は、はい! ありがとうございます!」
エミリアは深く頭を下げた。
遼太郎は頷き、村長に向き直った。
「もう一人、できれば男性を探しているのですが……」
「男か……」
村長は周囲を見回した。
「俺がやる」
一人の若者が、手を挙げた。
二十代前半くらいだろうか。日に焼けた肌と、がっしりとした体格。農作業で鍛えられた体つきだ。
「お前は……」
「マルクスだ。村長、俺を推薦してくれ」
「マルクス……お前、畑の仕事はどうするんだ」
「弟に任せる。俺は、もっと別のことがしたい」
マルクスは遼太郎を真っ直ぐに見た。
「あんたの宿の噂は聞いてる。いい宿だって。俺も、そこで働いてみたい」
遼太郎は彼を観察した。目には、強い意志が宿っている。体力もありそうだ。
「マルクスさん。一つ聞いていいですか」
「何だ」
「なぜ、宿で働きたいのですか」
マルクスは少し考え込んだ。
「……正直に言う。俺は、この村から出たい」
「出たい……?」
「ああ。生まれてからずっと、この村にいる。外の世界を、何も知らない。宿で働けば、いろんな人に会える。いろんな話が聞ける。それが、俺にとっては宝物だ」
遼太郎は黙って聞いていた。
「甘い考えかもしれない。でも、俺は本気だ。使ってくれ」
マルクスは頭を下げた。
遼太郎は、セレスティアに目を向けた。
「どう思いますか」
「……いいんじゃない。やる気はありそうだし」
セレスティアが肩をすくめて言った。
「では、マルクスさんも採用です。明日から、宿に来てください」
「本当か! ありがとう!」
マルクスの顔が、パッと明るくなった。
「ありがとうございます! 絶対に、役に立ってみせます!」
宿に戻った遼太郎は、新しいスタッフを迎える準備を始めた。
「まず、彼らに宿の基本を教える必要がありますね」
「基本……でございますか」
ゴブ爺が尋ねた。
「はい。接客の作法、清掃の手順、備品の管理。ホテルマンとして必要な知識を、一から教えます」
遼太郎は紙とペンを取り出した。
「マニュアルを作りましょう。誰が読んでも、同じサービスを提供できるように」
「マニュアル……」
「手順書です。『こういう時は、こうする』というルールを、全て文書化します」
遼太郎は書き始めた。
【星降り亭・接客マニュアル(第一版)】
■ 基本理念
・お客様は、私たちにとって最も大切な存在です。
・全てのお客様に、最高のサービスを提供します。
・笑顔と礼儀を忘れずに。
■ 挨拶の基本
・会釈(15度):廊下ですれ違う時、遠くからお客様を認識した時
・敬礼(30度):お出迎え、お見送り、感謝を伝える時
・最敬礼(45度):謝罪の時、特別なお客様への敬意を表す時
■ 言葉遣い
・「いらっしゃいませ」(お出迎え)
・「ありがとうございます」(感謝)
・「申し訳ございません」(謝罪)
・「かしこまりました」(了承)
・「少々お待ちください」(依頼)
「これは……素晴らしいでございますな」
ゴブ爺が、書きかけのマニュアルを覗き込んで言った。
「これで、誰でも同じレベルのサービスが提供できます」
「しかし、リョウ様。このような細かいルールを、彼らが覚えられるでしょうか」
「一度には無理です。少しずつ、繰り返し教えていきます」
遼太郎は言った。
「教育は、一日にしてならず。でも、正しい方法で教えれば、必ず身につきます」
「リョウ様は、教育にも詳しいのでございますな」
「いいえ、詳しくはありません。ただ、私自身がそうやって教わってきたので」
遼太郎は窓の外を見た。
かつての職場。地獄のような日々。しかし、そこで学んだことは、今も自分の中に残っている。
接客の基本。お辞儀の角度。言葉遣い。数字の管理。
黒須に叩き込まれた知識が、今、この世界で役に立とうとしている。
「皮肉なものですね」
彼は小さく笑った。
「リョウ様?」
「いえ、何でもありません。マニュアルの続きを書きましょう」
翌日。
エミリアとマルクスが、宿にやってきた。
「お、おはようございます!」
エミリアは緊張した面持ちで頭を下げた。
「おはよう。今日から、よろしくな」
マルクスは少しぎこちなく言った。
「おはようございます。二人とも、よく来てくれました」
遼太郎は彼らを出迎えた。
「今日から、皆さんは『星降り亭』のスタッフです。最初は分からないことだらけだと思いますが、一つずつ覚えていきましょう」
「はい!」
二人が声を揃えて答えた。
「では、まず宿の中を案内します。ついてきてください」
遼太郎は歩き出した。
一階のロビー、受付カウンター、食堂、厨房。二階の客室。地下の聖室(ここは簡単な説明のみ)。そして、裏庭のテント泊エリア。
「広いですね……」
エミリアが、目を丸くして言った。
「ああ、思ったより大きいな」
マルクスも感心した様子だった。
「この宿を、これから一緒に運営していきます。皆さんの力が必要です」
遼太郎は二人を見た。
「分からないことがあれば、何でも聞いてください。馬鹿な質問というものはありません。分からないままにしておくことの方が、よほど問題です」
「は、はい!」
「よし、では早速、仕事を始めましょう。最初は、清掃からです」
清掃の指導は、遼太郎自身が行った。
「客室の清掃は、宿の基本です。お客様が最も長い時間を過ごす場所ですから、ここが汚れていては話になりません」
彼は空き部屋の一つに、二人を連れて入った。
「まず、窓を開けて換気をします。次に、シーツと枕カバーを交換します。そして、床を掃き、テーブルを拭き、最後に備品を補充します」
「備品……ですか」
「はい。ランプの油、タオル、水差し。お客様が使うものが、常に揃っているか確認します」
遼太郎は実演しながら説明した。
シーツの外し方、畳み方、新しいシーツの敷き方。床の掃き方、テーブルの拭き方。一つ一つの動作を、丁寧に見せていく。
「重要なのは、『お客様の目線』で確認することです」
彼はベッドの端に立ち、部屋全体を見回した。
「もし自分が客だったら、この部屋に満足できるか。常にそう考えながら、清掃を行います」
エミリアとマルクスは、真剣な顔で聞いていた。
「では、実際にやってみましょう。私が見ていますから、分からないことがあれば聞いてください」
「は、はい!」
二人は、おそるおそる作業を始めた。
最初は、ぎこちなかった。シーツの角がうまく合わなかったり、テーブルの拭き残しがあったり。しかし、遼太郎の指導を受けながら、少しずつ上達していった。
「よくできました。最初にしては、上出来です」
「本当ですか……?」
エミリアの顔が、嬉しそうに輝いた。
「ただし、まだ改善の余地はあります。続けて練習しましょう」
「はい!」
午後からは、接客の訓練を行った。
「接客で最も大切なのは、『第一印象』です」
遼太郎は食堂に二人を集めて言った。
「お客様が宿に入ってきた瞬間。その時の印象が、滞在全体の評価を左右します」
「第一印象……」
「はい。だから、お出迎えは特に重要です」
遼太郎は立ち上がり、実演を始めた。
「お客様が玄関に入ってきたら、すぐに気づくこと。そして、笑顔で『いらっしゃいませ』と声をかけます」
彼は食堂の入り口に立った。
「この時、大切なのは『語先後礼』です」
「ごせんごれい……?」
「言葉を先に、お辞儀は後に、という意味です。『いらっしゃいませ』と言いながらお辞儀をするのではなく、まず言葉を言い、それから頭を下げる」
遼太郎は実演した。
「いらっしゃいませ」
言葉を発してから、三十度の角度で頭を下げる。
「こうすることで、言葉がお客様にしっかり届きます。お辞儀をしながら話すと、声が床に向かってしまいますから」
「なるほど……」
マルクスが感心したように頷いた。
「では、二人もやってみましょう」
「は、はい!」
エミリアが前に出た。
「い、いらっしゃいませ……」
声が小さい。お辞儀も、角度が浅い。
「もう一度。もっと大きな声で、はっきりと」
「いらっしゃいませ!」
今度は声が出た。しかし、言葉とお辞儀が同時になってしまった。
「惜しい。言葉を言い終わってから、頭を下げてください」
「は、はい……」
何度も何度も、繰り返し練習した。
「いらっしゃいませ」
言葉を発する。
一拍置いて、頭を下げる。
「よくなってきました。その調子です」
「ありがとうございます!」
エミリアの顔に、少しずつ自信が芽生え始めていた。
夕方。
訓練を終えた二人は、疲れた顔で食堂に座っていた。
「大変だったでしょう」
遼太郎が、温かいスープを運んできた。
「は、はい……でも、楽しかったです」
エミリアが答えた。
「俺も、いい経験になった」
マルクスが頷いた。
「明日からも、続けていきます。少しずつ、覚えていってください」
「はい!」
「リョウ様」
ゴブ爺が近づいてきた。
「二人の様子は、いかがでございましたか」
「素直で、真面目です。いい人材を見つけました」
遼太郎は微笑んだ。
「彼らがいれば、宿の運営はもっと楽になります。そして、もっと多くの客を受け入れられるようになります」
「リノベーションの第一歩、でございますな」
「はい。建物を変えるだけがリノベーションではありません。人を育てることも、大切なリノベーションです」
遼太郎は窓の外を見た。
夕日が、草原を黄金色に染めている。
「この宿は、変わり始めています。良い方向に」
「はい。私も、そう感じております」
ゴブ爺の目に、喜びの光が浮かんでいた。
「リョウ様が来てから、この宿は生き返りました。本当に、感謝しております」
「いえ、私一人の力ではありません。セレスさん、ゴブ爺さん、村の人々、そしてエミリアさんとマルクスさん。みんなの力です」
遼太郎は言った。
「これからも、一緒に頑張りましょう」
「はい。喜んで」
ゴブ爺は深く頭を下げた。
星降り亭のリノベーション。
それは、建物だけでなく、人々の心も変えていく、長い旅の始まりだった。




