むかしむかしの春
知り合いからお題を頂き、それにそってショートストーリーを書くっていうもので書かせて頂いた作品です。
お題は「むかしむかしの春、不思議な存在に出会ったことがあった」です。
主人公は地元民も滅多に寄り付かない山に登ることにしました。その山は昔から「荒神」が住んでいると言われている山で…。
ショートショートです。
楽しんでいただけると幸いです。
昔、ふと思い立ったことがあり、地元民も滅多に寄り付かない山に登ることにした。
その山は古くから荒神が住まう、なんて昔話があり、あまり信じていなかったのだが、遭難者も多いことで有名な山だった。
何故この山に登ったのか。単純な理由としては山頂の景色が気になったからだ。
写真の一枚でも収めて、油絵に描き起こそうなんて考えて万が一のことも想定し、準備をして登山に挑んだ。
だが、登山開始から一時間もしないで私はこの山に登ろうとした事を後悔しだした。
人が滅多に寄り付かないのだから、人が通った道はない。
だが、獣道がないのは誤算だった。
この山は獣も寄り付かないのか?そう言えば、さっきから葉の擦れる音や風の音はすれど、虫の声や動物の気配などまるで感じられない。
とんでもないところに足を踏み入れてしまったかもしれない…。
だが、すでに来た道はどちらか分からず、引き返すこともできない。
どうする…。この場で救助を待つか…それとも山頂まで登るか…。
思案する私の前を美しい絹の衣が通り過ぎて行った。
驚いて顔を上げると、木の枝に純白の絹の衣が引っかかっていたのだ。
衣を破かないように慎重に枝から外すと、鈴を鳴らすような中性的な声が響いたのだ。
「その衣を持って山頂においでなさい」
頭の中に響いた声に導かれるように、わたしの足は自然と山頂へ向いていた。
闇雲に足を動かして、ただひたすら山を登る。
不思議なことに疲れなどは微塵も感じなかった。
山頂に登ると、寂れ傾いて苔むした鳥居が現れた。
その鳥居の向こう側に誰かがいる。背の高い、しかし顔を面布で隠した、平安時代の貴族が身につけているような着物(確か狩衣といったか)を着た人物がいた。
着物の人物はゆるくわたしの方へ腕を伸ばす。すると、わたしが片腕に持っていた絹の衣が着物の人物の手にふわりと舞って渡っていったのだ。
「感謝する、人の子よ。礼にそなたの望みを叶えよう」
男か女か判別のつかない声が頭に響き、気づいた時にはわたしは山の麓にいた。
あれから50年。わたしもすっかり老いさらばえたものだ。
しかし、50年経って本当の意味で貴方に会うことができてよかった。
わたしを、喰らいに来たのですね。荒神様。
…知っておりますとも。あれから時間は山のようにありましたから…。
貴方の事を調べ、貴方の山を買取り、あの鳥居を直し、祠を修繕しました。
貴方が私に衣を拾わせたのも、私を贄とする為だったのでしょう。
どうぞ喰らってください、荒神さま。
貴方を一目見た時からわたしの心は貴方に囚われておりました。
この老いて醜くなったわたしでもよいのなら、どうぞ、ご随意に。
ああ。あなたに会えて本当によかった。