第四話 花のかんばせ
バレンタインデー当日、食堂で休憩中だった私の元にやって来た北川さんが人目も憚らずかなり大きな声で叫んだ。
――こんなところにいた! 探したよ、田中さん、今日バレンタインデーだよね。な、チョコくれよ。チョコ!
やめて! しかも、ねだり方が雑! 三十過ぎて何言ってんの、この人。おかげで周囲から注目を浴びてしまった。これでも会社では目立たずに生きていこうとしていてだな! ……恥ずかしい。
――課の皆さんに配るものしか持って来なかったんです。それも配り終えてしまいました。ごめんなさい。
――じゃあ、村上も貰ったの? ずるいなあ。
北川さんはそう言う割に一人で面白そうにしてケラケラ笑っている。
私の隣の席に座っていた同じ課の村上君も北川さんの軽さに戸惑っている。
私は村上君に先に営業部に戻るように伝えた。村上君は基本的に私の言いなり。大学時代アメフト部だったとかで岩のような体格の村上君だが、気が小さいから言う事を聞かせ易い。それは逆に、私の指図がないと動かないと言う話でもある。あれ? 彼をこうしたのは誰? 私!? 若い子って難しいな?
その後、私は一人で自販機に向かうつもりだった。が、案の定、北川さんはついてきた。
――三浦には渡した?
――……。
おかしい。三浦君本人にすら伝えていない私の気持ちが何故周囲には知られまくっているのか。私は動揺して、
――あ。
――どうしたの?
――間違えてホットココアを押してしまいました……。
――何が飲みたかったの?
――コーヒーを。
――うん。それならココアは僕が貰うよ。頂戴。
――良いんですか?
――いいよ? 甘いものが飲みたい気分なんだ。田中さんがチョコをくれなかったから。
言葉では私を責めるのに北川さんは頬にエクボを作りニコニコしていた。
北川さんは何を考えているのか。何も応えられない私に何を求めているのか……。
多分、私から聞く事はないのだ。
春田さんの運転する車の中で、私は北川さんとのやり取りを反芻していた。
「雪乃さん。余り連絡出来なくてごめんね」
「謝らないでください。大丈夫ですよ。お仕事優先にしてください」
私は物分かりが良い女。
「来月は少し遠いところに行きたいね」
「そうですね」
「泊まりでも」
家の前に着いたので車を降りようとしたところ、春田さんに何やらモジモジされた。
この人はハッキリしないところがある。
レストランではコートを脱ぐのを手伝ってくれたりと女慣れした紳士的な行動を取るのに、そのコートを脱いだ後の私の胸を見て、バツの悪い顔をしてあからさまに目を逸らしていた。
「雪乃さん、あの」
――来年は忘れないでね。絶対だよ。
北川さんはやけに偉そうに言って、モジャモジャ頭を揺らして笑っていた。
ココアの甘い香りがしていた。どうしてこんなときに彼を思い出すのか。あんな訳の分からない男を延々と気にしてしまうなんて私らしくない。男はどうせみんな一緒だ。甘言を垂れ流した挙句に最後は冷酷になる。
あの人以外に期待がない。
私は伸びてきた春田さんの手を反射的に振り払ってしまった。間違えた。
*
「有り得なくないですかぁ? 営業の三浦さん」
「見た、見た。総務の槇さんでしょ。あんな趣味だったんだ。意外過ぎ」
別フロアに寄った時に聞こえた、給湯室で女の噂話。お茶汲みは廃止されたが、結局そこで駄弁って屯している。
「あんな暗い地味な人と付き合うなんて信じらんないですよぉ。アタシも頑張れば良かったぁ。槇さんになら勝てそう」
「あら、田中さん。また山本さんに用事ですかぁ? 好きですねぇ。ねぇ、田中さんて三浦さんと同じ課ですよねぇ?」
「ええ」
海中をそよぐ昆布のようにクネクネしながら話す広報部員。
「槇さんと三浦さんて似合ってなくないですかぁ? どっちが告ったんだろ? 三浦さん、もしかして槇さんで遊んでるのかなぁ? 槇さんていつも一人でいて、なんか可哀想な感じしますよねぇ?」
「……」
槇薫は無表情が売りの事務の鬼だ。細かい仕事が大好きなんだろう、書類不備だと言って大量の注釈を貼り付けて返してきたり、何でも総務に回してくれるなと自作の問い合わせ一覧を送ってくるような、失敬極まりない頭の固い女である。
ネイルとマスカラチェックに余念ない二人の女子を見ていたら私の中で何かが切れた。
「槇さんの、仕事中に無駄口を叩かないところが良いんでしょうね」
「……」
うるさい二人を黙らせる事が出来てスッキリした。
はっきり言って私も言いたい。槇薫の悪口を。がしかし、人が言うのを聞いていると、彼女を選んだ三浦君まで見下されているような気がして腹が立つ。という事が今分かった。
私は空気の凍った給湯室を後にして、エレベーターに乗りフロアに戻った。
その三浦君は最近調子が悪そうだ。少し痩せたように思うし、よく咳込んでいる。癒してあげたいが私はその立場にない。槇薫、おまえ一体何をしているんだ。私が彼女ならこんな時こそ尽くして尽くして尽くしまくるのに。
と言いたいところだが。
営業見習いとなって外出が増え、高いヒールの靴が履けなくなってからの私は我ながら実に不甲斐ない。更に木村さんから服装に駄目出しを喰らい、若干のストレスに浸されている。
しかし自分で選んだ道。
案の定、帰宅時間が遅くなってきた。
それで残業の後、若手営業である三浦君や清水君の夜食兼用の晩御飯について行ったとて。カロリー優先でアラサーの私には受け入れ難い。未だ三浦君に望みをかけている身としてはここでブースターをつけたいところだが、このぐらいで勘弁しておくか……。
*
私は真夜中の静かな病院にいた。
待合を歩いていた時、正面から歩いてきた男性に声をかけられた。
「久しぶりだなあ、雪乃」
その人は二年ぶりに会った幼馴染だった。
「相変わらずイイ女だなあ、おまえ」
「そりゃそうよ、元アイドルのお母さん似ですから。まあ、私の方がイイ女だけど」
「図々しい奴だ」
カッカッカと彼は笑う。
「ボランティアでも来てるんだってな。お母さんから聞いてたよ。俺に連絡くれれば良かったのに」
「何で。関係ないでしょ。暇じゃないでしょ」
「なくないだろ。おまえの為なら時間を割くよ」
「全然嬉しくないわ」
「おまえ吃驚するぐらい可愛くないな!」
彼は私の最初で最後の相手だ。彼はとにかく下手だった。何を隠そう、セックスが。私をセックス嫌いにしたのは紛れもなくこの男だ。
キスは苦しいわ、噛むわ、濡れる前に強引に挿入されて激痛しかないわ、挙げ句速攻で一人果てるわ。
性の不一致って本当にあるんだと思いながら、何度目かのセックスの後にはっきり言った。
――別れよう。
自覚があったらしい。彼からは食い気味に頷かれた。彼のプライドをへし折った私もまた自信を喪失したまま、この年になってしまった。
「相変わらず下手なの?」
彼を前にすると言わずにおれない。
「何なの、それ。会う度に挨拶みたいに」
「ちゃんと彼女に聞いてる? どうですかって。気持ち良いですかって」
「おまえバカなの?」
「心配してやってんのよ」
「俺はどこで名誉を取り戻せるんだ」
そんな低俗な会話をした後で、少し近付いてしまい引いてしまったら彼に言われた。
「立派に意識してるじゃん」
「してないよ」
耳に息を吹きかけられた。
「あっ」
「ほら、感じた。俺の勝ち」
笑い顔は子供の頃から変わっていないように思う。私達は近過ぎなのだ、昔から。互いに恋人がいようがいまいが。この年でこれは問題だ。
「またゆっくり話そう」
他には誰もいない待合に元彼の懐かしい声が響く。いい声だ。
付き合っていた頃は色々と自信がなさげだったのに。良くも悪くも変わってしまった。
「もう遅いけど、大丈夫か。タクシーで帰るのか」
「ええ」
「気を付けてな」
彼は夜勤らしい。去り際は小走りだった。常勤の整形外科医だと聞いている。見た目も美しい男になった。大きな魚を逃したかな……。
つい最近、母との会話で彼の話になった。母はしんみりしていた。
――彼、今は婚約者がいるんだって。
――それは良かった。小さい頃から知ってるからね。
――寂しいわ。
そう。男の子が欲しかったのよね、母は。
人には言えないような理由で私と彼は別れてしまったが、彼は母にとっていつまでも特別な男の子だった。
*
病院から出てタクシーを待っている間、春田さんからメールが来ていた事に気付いた。二時間前にここに来ていたようだ。またガン無視してしまった。
春田さんは母へ律儀な連絡をした後、改めて私にもメールをくれていた。今は期末。私はデートの約束を保留にしていた。
最後に会った別れ際、春田さんの手を叩き落としてしまった私であったが、その時の春田さんは私を見て哀しげな顔をするばかりだった。
――ごめんね。
謝るのは私の方だ。
こんな私に言われたくないと思うが、春田さんは丁寧が過ぎる。バツイチだからと一歩引いてる? それとも。
女はなんだかんだ言って強引な方が好きなのよ、たぶん。春田さんに教えてあげたいわ……。