第一話 不器用なマーメイド
おとぎ話の人魚姫は、失恋の物語だ。
子供の頃、叔母から貰った綺麗な挿絵の本を気に入って、何度も繰り返し無心で読んだ。
愛した人が他の女と幸せになるの受け入れて、悲しみにくれながら天に上る人魚姫の心根の美しさに子供心に感動した。人魚姫の優しさに心打たれた。
恋を実らせる手立てがない以上、諦める他ない。
今読むと信じられないほど身につまされる。
まさに今日、失恋したからだ。私が。三十半ばのこの私が!
話変わって。
私は週に一度、病院で子供向け読み聞かせボランティアをしている。
その日、私は世界で最も有名な童話の一つ、邦題は『人魚姫』を披露。
途中までは我ながら朗々と、また意気揚々とページを捲っていた。
ふと何かが胸にチクリと突き刺さった気がした。それから少しだけ呼吸がしづらくなった。
読み終わり、本を閉じ、気が付いたら目から涙が溢れて止まらなくなっていた。
まさかこの年で子供向け童話に心抉られるとは思いも寄らなかった。
幼い子供達に読ませるにはこれぐらいのインパクトが丁度良いと思って、病院のプレイルームの本棚から安易に選んだ一冊だった。
止めどなく溢れる涙は借り物の絵本を濡らした。
LEDに照らされた室内は私を中心にして沈黙に沈んだ。まるで葬式のようだった。
その後、ボランティア仲間によって速やかに回収された私は、事情を聞きに来た病院の担当者に泣きながら洗いざらい話した。
そんな事があって、即刻クビになるかと思いきや、翌週また指名を受けた。
おそるおそる行けば、私はま・せ・た・子供達の餌食とされた。
全て聞いたよと、親御さん達は順繰りに私の肩に手を置いてくる。
看護部長までやって来た。
「まだ若いんだから。諦めないで」
囲われての叱咤激励に涙が出そうになった。
「頑張って、田中さん」
「泣くのは早いわ」
ん?
色々と違う。そうじゃない!
まだ何も始まってないし、だから当然終わってもない。
*
現実を突きつけられていた。
「君はこのクラゲみたいだね」
その水槽の中には発光したクラゲがユラユラ漂っていた。私とクラゲを見比べながら、私の隣を歩く男性はぼやくようにそう言ったのだった。
そうか。私はヒトではなく、オワンクラゲだったのか。んなわけないだろうがっ。
この男性は二十人目からは数えるのをやめた私の仮初の恋人だ。マリンスポーツが趣味と言うだけあって肌が浅黒く、また引き締まった体が健康的に見えてかなり好感が持てた。
が、だいぶ余計なことを言う人らしい。手を繋ぐまでは許容するが私達に未来はないし次はないとたった今決まった。そのクラゲ評は受け入れがたい。
しかも水族館デートはデートの定番であって理想的だが、今は一月だ。イルカのショーで最前列なんて嬉しくない。
私は控えめに異を唱えた。
「後ろの方に座りませんか。ここにいると濡れてしまいそうです」
「大丈夫。ポンチョを買っておいたんだよ」
「ポンチョ」
先を見越しての予めの準備。デートに分刻みのスケジュールを立てるタイプだったか? 私はそれ以上何も言えず、素直に渡されたポンチョを着た。
ポンチョをまとった私はますますクラゲ化した。
もうどうでもいっかと思いながら。
回想する。
クビを回避した例のボランティアでは、まとわりついてきた子供達に乞われて、もう一度読み聞かせた。
そして今度こそ私は泣かずに読み切った。子供達に揶揄われている間に失恋が昇華されていったのだ。
人魚姫が王子様と愛を交わし合うことは叶わなかった。だが、自分の想いを貫けたという点で恐らくは達成感に満たされていたはずだ。知らんけど。
人魚は架空の生物。
失恋した以外、私と何処も重ならない人魚姫。だが、思いの外共感した。特に黙って身を引くところに。一度は愛した男にナイフを突き立てようと心に決めたところにも。
私が大海原で見つけた彼もまた、私に振り向く事なく、他に女を見つけたようだ。これからは目一杯冷たくしてやるからな!
恋が終わるなんて一瞬だ。そして私は海の藻屑となり――。
今は飛び散る水を避けようがない。
ばしゃあ。
上手いこといかないのが人生なのだから。
ばしゃあ。
降りかかる水。呆然として心ここに在らずでイルカが跳ねるのに見惚れていたところ、私の耳元で仮初の恋人が囁いた。
「この間は電話ばかりしてしまって悪かったね。今日は夜までいられる?」
「クラゲもどきの私で宜しければご一緒します」
「あれ? 結構君は根に持つ方だね」
「お食事までなら」
「良かった。有難う。僕にチャンスをくれて」
「とんでもないです。私の方こそ」
先だっての初対面で、私達は互いに釣書以上の印象を残せなかった。しかし見合いは継続されている。
それで今日は初めて会った日から二週間経っての待望の再会となった。
たぶん彼はだいぶ気負っていらっしゃる。私の為にポンチョまで用意して。一言余計だったけれど。クラゲ呼ばわりしてきて、バカにしてんのかと内心ちょっと不愉快千万だったけれど。
再び、バケツをひっくり返したような水が降りかかってきた。
ばしゃあ。
さっきから何なんだ。滝行か。
イルカショーが終わり、ノロノロ歩くカップルの群れに紛れて出口を目指した。
いつぞやの私も周りに見せつけるように恋人の腕にしがみついていた。今は全くその気になれない。
が、手は繋がれている。イルカショーの間もずっと。
その後の食事の最中も話題を広げて、波に乗り切れない私との会話を盛り上げてくれようとする仮初の恋人は必死にクラゲ発言を挽回しようとしているように見えた。
対して私は客観的に見てどうだろう。媚びもせず可愛げがないのではないだろうか。そもそも身長はこの国の女性の平均身長より十センチ高い、大柄。どう思われているのか。
帰りは車で送ってくれ、なんて紳士的な人と思いきや、別れ際は何やらモジモジしている。アラフォーだろが、ちゃんと言え。
これは次に繋がるのか?
*
「雪乃ちゃん、大丈夫だよ。新しい恋は直ぐに始まるよ」
気付けばパジャマ姿の子供に慰められている。
「有難う。頑張るね」
週一ボランティアは続けている。病院には見舞いのついでもあった。
「お姉さぁん。早くこっち来てぇ、新しい本読んでぇ」
「哀しいやつにしようよぅ。また泣いて良いんだよぅ。慰めてあげるからぁ」
子供達の親の方は哀れみの目で私を見ている。いやいや、私まだ現役ですからね!? やってやりますからね!?
と虚勢を張ってみたものの。
私もいつかはなんて思っていたが、もうケセラセラ状態。相手を選んでいられないのに、その相手からはモジモジされるだけ。
恋をしてからゆっくり愛を育んでなんてやっていられない。そろそろ誰でも良いから私を娶っていただきたい。
モジモジしていた彼はその日、最後まで煮え切らずだった。
私は一体何処に向かっているのか。
悶々としていた矢先の出来事だった。
田中雪乃、三十四歳。転職して三年目。
「今晩、食事どうかな」
壁ドンされてのお誘いに、心の底から動揺した。
続きます。