ダンゴムシ
生き残ることは簡単なことじゃない。とりわけ、感染者が歩き回る世界でそれは贅沢なことだ。
生き残るためにまず、歩き続けなければならない。生きるために必要な新鮮な水、高カロリーな食料を得るため、時には複数の店を回り、1日のほとんどをたった一枚のビスケットや、ボトル1本の水をめぐる争いで失うこともあるのだ。
「喉乾いた……」
上ずった高い声が、誰もいない国道の上に響いた。
どこまでも続く地平線。その見捨てられたような大地に人影がポツンと歩いていた。
そこにいたのは、全身を野球の防具で固めた男。身長は150センチほど小柄だが、服の隙間からのぞく肌は小麦色に焼け、長い部活動生活が身体を作ったことを思わせる。
防具の表面には無数の傷が刻まれており、固いはずのポリ塩化ビニルが削げて紐のように垂れ下がっている。各部を繋ぐ紐は白く塩がういている。彼が生き残った非感染者であることは明白だった。
腰に下げたサーモスの1.5リッター水筒は既に底をついている。
それを分かっていながらふたを開けて口に飲み口を近づけるのは渇き故の無駄な行為。分かっていてもやってしまう。その他、腰に下げられた黒い塊は、血抜きまでされた黒いカラスで、ここでは貴重な食料であったが、僅かに腐った匂いを放っていた。
国道、246号線は、長い総距離からして民家などが少ない田園地帯を延々と延びているのだった。元々は重要な物資輸送網の一つであったが、感染初期に発生した交通事故により、その都市機能が崩壊。陸の孤島となったことで、水などのインフラはとうに尽き果てていた。
「水!!水!!!!」
近くを流れる川には死体が浮いているのだった。あれは飲めない。当然、川の水には感染者の血が混じる。長く歩き続けた疲労もあって、大事に持っていた水筒すらも重さに耐えかねて地面に捨て去った。
「あら、珍しい。お散歩ですか?」
ふと、声がかかる。
「何言ってんすか。歩かないと死ぬだけっす」
「生きた人間に外で会うのは久しぶりです。どこから来たのですか?」
「うるさいっすよ!ぼくは今から死ぬっす!」
四肢を地面に投げ出し、もう嫌だとばかりにゴロゴロと転がった。歩けない。ここで死のうという感じである。
ふう、と息を整える音が少し聞こえた。
ほんの少しの時間をおいてデカイ男が帰ってくると手には今しがた捨てた水筒が握られていた。身体のでかさもさることながら、何か違和感を覚えるその立ち居振舞いに一瞬戸惑ったが
「水、水を少し分けてもらえないすかね? もう一昨日から水を言ってきも飲んでなくて」
見上げると男はただ笑っていた。
年はいくつだろうか。他の生き残りに比べ年上に見える。彫刻のように深い切れ込みが上腕部に浮かんで脈打つように動いている。分厚い筋肉の腕だ。
「水、持ち合わせがあまり無いですが」
根本はハッとして目に涙を滲ませる。
「いただけるんすか?……水を?」
水、それも直接飲める水を手に入れる事の大変さを根本は理解していた。
人が生きる上で必要なそれ、はとても価値が高く、二次利用水すら金で買うことは出来ない代物となっていた。二次利用水とはおしっこのことである。
そのような経緯があり、根本にはなんの見返りも求めずに水を差し出そうとするその男が神のように見えた。
そのような人がまだ日本にいたと思うと考え深い。何かの罠だとしても、すがりたい。罠でも良い。罠でも良いんだ。
目の前に青いホースが差し出される。そして口に突っ込まれると、ひりついた喉ナイフで刺すような感触があった。
驚くべきことに、それは良く冷えた水だった。なんの臭みもない。今、冷蔵庫から取り出したばかりと言われても疑いようの無い水。
「おいしい……」
根本は飲み込むのを止められなかった。初めて乳にむしゃぶりついた小鹿のように懸命に吸い付く。
男は少しビックリしたようにその様子を見た。
「俺は……農家といいます。その、農家的な仕事をしてますので、良かったら……休んできますか」
根本はまだ飲むのを止められなかった。枯れていた涙が狂ったように頬を塗らす。ハイドレーションの容量は3リットル。農家が事前に500ml飲んだため、残りは2.5リットルあったが、それを一息に、飲んでしまった。
それは農家にとって驚きだったし、根本からすれば、砂漠のオアシス、地獄に落ちてきた蜘蛛の糸だ。
「君はあれですね、ダンゴムシみたいな見た目をされている。ダンゴムシ君と読んでも良いですか? 我が家だと皆本名は内緒なので」
根本はこれから農家の仲間になる。そして彼はこれからダンゴムシ君と呼ばれるようになる。
「はい。もちろんス……」




