ゴール規制
1月28日 茨城県 朝6時くらい
今日、テレビがダウンした。放送は続いている局があと2つあるけれど、そのどちらもが放送試験をしていて使い物にならなくなった。
いよいよ世界の終わりである。ネットにはもう楽しくてしょうがない映像が溢れ、皆イキイキとしていた。東京、千葉、神奈川、茨城ではすでに停電も始まっているらしく、パソコンを使えているのは、その状況でもライフラインからパソコンのために電力を持ってこられる猛者だけになり、そのなかにはもちろん、我が家も入っているのだった。嬉しかった。なんかめちゃくちゃ難しいテストに合格した気分だ。
なんで停電しても電気があるかと言えば、我が家は農家である。当然畑には電源設備がないので、畑で電気を使うためには発電機を持っていなくちゃいけなかった。コンセントは土に埋まっていないのである。だから125ccのバカデカイエンジンを積んだ、どう見ても業務用の発電機が車庫に鎮座していた。これはガソリンエンジンで動く、4サイクルの代物だ。
当然長く使っていれば壊れもするから、俺は発電機のキャブレターからシリンダーにいたるまですべて分解清掃ができる。業者に持っていって修理だとその日から一週間はかかるので仕事にならない。だから自分で直すのだった。怖いなんていってられない。これをやらないと生きられない。だから整備士でもあるのだ。
それを見た玲子と言う女は、便利人間かよ……。と引いていた。うるせぇな。油臭い手で触るぞ。
5分もあればキャブレータの分解清掃なんて御手の物よ。良い世界になったものだ。
良い世界と書くが、俺が感じている良さっていうのは、ありのままでいることが実に良いと感じられることだった。
この日本には死んだ方がいい人が沢山いた。弱い人を食い物にして自分は悠々と暮らす人間、人を虐めておいて、虐められた人が社会から外れていくのに、自分だけは普通に生きている人。そんなのが許されていたなんてどうかしている。彼らはやっていることになんの罪の意識も感じていない。
この世界で死んでくれと願っている。そういった人が生きていたら、人から搾取して生きている事に他ならず、まるで寄生虫のように養分を吸って生きているということだ。いったい何人が気がついただろう。この世界の現実に。
その現実とは物資の量だ。
全員を生かすための余力は日本にはないのだ。
この日本の食料自給率は僅か2割に満たない。山がいっぱいある地形で、平地には民家が立ち並んでいるために畑に向いた土地が少ないのだ。足りない食料は海外からの輸入に頼っており、国内の農業は金にならず衰退し始めていた。その状況でこの感染症のために港が封鎖され、当然食い物は入ってこない。
つまり、2割だ。10人中2人しか食べられない世界で、そんな使えない人間を生かしておけるほど、この世界は甘くなかった。
だから言ったでしょう。俺は元々ゴールに立ってこのレースをスタートした。しかもそのゴールには入場規制がある。
それはいかに早くたどり着いたかではない。いかに自分の価値を持っているかによるのだった。
ペットボトル入りの飲料水が今1本1000円で売られている。1.5リッターではない。500ミリリットルでこの値段。我が家はまだ水道も井戸もある。実質飲み放題の水の値段は0円だ。1日生きるのにも大きな差がある。
しかし、残念ながら米の値段が分からなかった。
そうだよね。誰もこの状況で主食を売りに出す訳がない。
以前、空からダイヤなんて表現を使ったけれど、ダイヤと同じくらいの価値になっても可笑しくないんじゃないか、と冗談半分で言ってみた。玲子さんは何言ってるんだろうこの人、という目で見てくるだけである。