事故車両
その日、その後の記憶がない。嘘だ。めっちゃあった。
手には空になった草刈機用のガソリン缶が握られていて、地面は黒くすすけていた。
バイオだと遺体を放置しておくと後々、レッドになって襲ってくる。だから動線は必ずクリアにしておくのが常識で、縛りプレイ以外では遺体を燃やすのだ。無益な危険を抱えることなど、弁当に入っているレタスと同じくらい意味がなく、当然俺も慎重になった。この世界では死んだらそれきりで復活はない。
俺の家で起きたことと、同じことが日本全国で起きている可能性を考えながら、日課のランニングに向かった。
ランニングといってもたかだか五キロだ。それでも毎日続けると体型が変わってくる。
ゾンビの溢れた世界で、生き残るには健康な体を持つ必要があった。
少なくともそのお陰でおとなりさんに襲われても大丈夫だった。だから、体力を維持しつつ、健全で悠々自適な引きこもりライフを続けるためにはトレーニングが欠かせないというのが今のところの結論。
少なくとも、家に籠って怯えているよりも、周辺をパトロールをしてどうなっているか知る方が生き残る可能性は高いように思えたのだ。あと単純に楽しまないと損だし。
額に浮かんだ汗をぬぐい、上着を脱いで腰に巻く。いつもよりもペースが早い。世界が良い具合に壊れたから、という理由の他に、アドレナリンがまだ出ていることも関係していそうだった。
息を整えるためにゆっくりと歩きながら深呼吸をする。朝方なので水っぽく呼吸しづらい気体が胸を膨らませる。
放置された車両に手を付きながら周りを見渡す。昨日のうち避難して来た車はパニックになった運転手がミスって国道で交通事故を引き起こしていた。彼らはゴールに気がついて一目散に向かってきた人々だ。
「……皆どこにいったんだ?」
何か使えるものでも集めておこうか、と思った。少なくとも経済が破綻すれば石油が動かなくなる。石油はガソリンになり、俺たちの服になり、医薬品をつくるプラントまでもが油で動く。我々は石油文明のなせる技で生きている。それが枯渇しただけで、同じ生活はできなくなると思った方がいい。
「……うわ」
事故を起こした車の近くにはマネキンのような物体が転がっていて、手足が蜘蛛のように別個に変な方向に曲がっていた。うん。救急車が来ないのだ。事故を起こして体が骨折した人間が自力で這い出てきたが、ここで力尽きたらしい。
車の中には生活感があった。何かしらの書類や、ボブルヘッドや、可愛らしいピンクのバッグがあったりして、まるでそれらが持ち主の思い出みたいだった。フロントガラスが割れ、運転手の髪の毛が内側にめり込み、真っ赤で不気味なアート作品になっていることを除いて。
そして生き残りがいた。額から流れた血は乾いて粉を吹いている。その女は、俺をじっと見ていた。
外の世界に怯え、ケージから出てこない保護犬みたいに怯えたその女は、震えた唇を笑顔に歪めながら小さく呟いた。
「あの、やつらはもういないんですか……?」
銃を持っていれば真っ先に女のこめかみに当てるところだ。彼女はゾンビの徘徊する世界で血を流している。当然それは噛まれた跡かもしれない。ここでは女性も男性も全く平等に扱われるし、俺だってそうする。そして彼女は絶対次に助けてって言うぞ。
「……たすけて」ほらな。なぜなら、俺が180センチの身長があって体重100キロの農業用筋肉で固められた男だからだ。初めて会った人や医者には必ず格闘技をやっているのか?と聞かれる。もっとも、自分を守れるか自信がないときに他人を助けられるのかと聞かれればノーだ。俺はヒーローじゃない。なるつもりもない。
「早く助けてよ!」と女は叫んだ。
「今どうするか考えている」
ある意味、ゾンビ映画では大変に面白いシーンでもあった。でも多くの場合、助けようとした登場人物が噛まれて感染する流れなのだ。ほぼ確実に。でも知り合いじゃないから、もしかしたら外の情報を持っているかもしれない。長期的に見て利益があるっちゃあるのだ。余計にたちが悪い。
「大丈夫かな……」
暑くて脱いだ上着を、噛まれないように女の頭に巻き付けて固結びをしたことで、不格好な案山子みたいな風体になった女を抱き上げた。その瞬間、我が人生で一番気を使った。
そのまま米袋を運ぶ要領で家まで運び玄関に横たえる。手足は怯えたように縮こまり、ちょんと指先でつつけば大声をあげて逃げそうな感じがした。
本当に感染しているかも知れないので、口の部分の拘束は解かず頭だけをすっぽりと上着から抜いてやった。
女は目をぱちくりしてからキョロキョロと家の中を見た。階段の上からぎんさんの威嚇音がする。