美しく甘き世界よ
部屋の中でねっころがっていると、足の上をぎんさんが跨いだ。俺は、僅かに足をあげてふわふわとしたお腹の毛に足が当たるようにした。
マイプリチーボーイ。ぎんさんこと同居人は、猫だ。
普通の猫と違って、彼は目も開いていないような幼いときに瀕死で拾われ、人間に育てられた。その結果、自分を人間だと思い込むようになっていった。
俺は猫好きなのだが、彼は俺を好きではない。なので抱き上げられた彼は大変ご立腹で足をピンと油圧ジャッキみたいに伸ばして絶賛抗議中。
その彼が固まっていた。
石みたいに。あるいは、木製のドールみたいに固まっている。目線は窓の外に。
そこにはおとなりさんがいる。正確には『何か』に感染し、自我を失ったおとなりさんが、血塗れの歯を剥き出しにしてガラスを舐めていた。
ゾンビだった。
俺のことを食べようとしているみたいだ。動きは遅く、血だらけで、耕運機に巻き込まれた人にそっくりだった。
手が、無いのである。腕がない。肘からもげて、残った皮がゴムみたいにのびていた。
最初は助けを求めているのかと思った。しかし、窓を開けて手を差し伸べると噛みつこうとしたので蹴り飛ばした。空き缶みたいに転がった。でもまた立ち上がってきたのだ。
昨今主流となったVFXも真っ青の完成度で(そりゃそうだ。本物なんだから)夢に見そうだった。むしろ悪夢だったらいいなと思って横になったが、夢から覚めることもなく、ただ時間だけが贅沢にすぎた。
そして窓を叩くようになった。
両手でドドドドドー!!って叩くのだ。息を飲む。普通じゃない。
うっやだなあ。窓が割れちゃう。早くなんとかしないと。警察は一時間前からずっとかけてるけどいっこうに繋がらなかった。
仕方なく玄関を出て、おとなりさんと対峙する。
そしたら笑ったのだ。それがもう恐ろしくて恐ろしくて寒気がした。にやっと笑った歯の隙間に、髪の毛が挟まっていた。誰かの頭を噛んだのだ。理解ができなかった。それは嬉しそうに笑っているのだ。
「家に帰ってください。もうやめましょうよ。まだ大丈夫ですから」と俺は告げた。
チラッとおとなりさんが、俺の横を見た。そこには玄関があった。
すすすーと歩いてきて、ガチャガチャ!とドアを押した。
そしてその老婆は開けられないと分かると今度は俺にぐるりと体をねじるようにして向かってきた。
「警告します!近づかないでください!命の危険を感じています!」
これが最後の警告だった。右手に握った鉈を振り上げ、袈裟懸けにふり下ろすと、吸い込まれるようにして、一瞬のうちに老婆は倒れた。
あっけなかった。パンクしそうなほど早鐘を打つ心臓を抱えて俺はままだ生きている。
「いつも見下しやがって!!影で悪口いってるんじゃねぇよ!報いを受けろ!!糞ババア!」
柄にもなく何度もふり下ろして、なんか、笑っちゃった。世界は壊れちゃったんだよ。とんでもない糞野郎にも平等にあった人権というものが、失効した。被害者が泣き寝入りする時代は終わった。ああ、美しく甘き世界よ。
俺はゴールで悠々自適に生活よ。